第3話 館
大賢者のことは、多少学のある者なら知っている。何百年も前、まだ大陸が争いの
そして、大賢者の数少ない情報のひとつが、名前。
古き時代に現れては消え、それを繰り返した彼の名は、オーランといった。
その大賢者を友人と呼んでいるらしい子どもを前にして、けれどシャハーブは、自分でも奇妙に思うほど冷静だった。驚きすぎて、逆に頭が冷えたのかもしれない。顎に手を当て、考えこんでから、控えめに挙手をした。
「おまえ……何歳だ?」
大賢者が生きたのは、シャハーブの祖父すら生まれていたかという時代だ。いや、下手をするともっと前かもしれない。眼前の子どもが、そんな年月を生きているとは到底思えなかった。子どもは軽く首を傾ける。
「年齢、生きている時間のこと? それは、わからないよ」
「わからない、とは」
「わからないんだ。でも確か、前に来た学者さんが、オーランが生まれてもうすぐ七百年になると言っていたから、それよりは生きている。『むこう』には時間なんてあってないようなものだから、気にしていなかった」
温かみのない解説が終わる頃には、シャハーブは何を言う気もなくしていた。この子の言う「オーラン」は、大賢者と同名の現代の人間かもしれない、などという淡い想像は粉々に砕かれた。どう切り返すか、と悩む男のかたわらで、子どもは右の人さし指を立て、短く何かを唱える。すると、館の扉が重く軋んで開いた。非現実的な光景に軽く眉を上げつつも、シャハーブはそれ以上反応しなかった。いろいろと真偽のわからぬ情報を叩きこまれている今、さらに驚ける気はしない。
入って、と短くうながされて、シャハーブは館に足を踏み入れた。とたん、鼻孔をくすぐる奇妙なにおいが立ち込めた。埃っぽさと木のぬくもりをはらむそれは、古書の香りだった。
扉をくぐって最初に人が足を踏み入れるのは、ちょっとした広間になっている円形の空間。そこから少し進むともう、その先は書物の世界だ。規則的に並べられた棚の中に、巻き物の書物やひも綴じの本はもちろん、大昔の木版や石板にいたるまで、あらゆる「書」が詰められているように見える。これのどこからどこまでが、大賢者からの預かり物なのか。シャハーブは、ちらとそんなことを思った。
「本は好きに見ていい」
鈴を振るような声に振り向けば、子どもが形だけの笑みを刷いて見上げてきていた。彼は衣の裾をひるがえしながら、男の前を通りすぎる。
「けれど、まずはこっち」
言われるがままに着いていったシャハーブは、館の壁にはりついている、簡素な扉の中に招かれた。最低限の設備がそろった小さな部屋を見せられて、思わず腕をくみ、ほほ笑んだ。
「へえ、こういう部屋もあるのか」
「元は召使の部屋だったんじゃないかな。とりあえず、自由に使っていいよ」
「……そうか。では、ありがたく」
相変わらずの調子の子どもを青年は半眼で見おろした。恐らく、棄てられた館を見つけて勝手に使いだしたのだろう。それならばまだいい。そうだと信じたいものだ、と、男は内心でため息をついた。
気を取り直してもとの場所に戻ると、子どもは広間の端の机に駆け寄り、その上の台帳らしきものをながめはじめた。きっと仕事をしているのだろうと思うことにしたシャハーブは、一度荷物を部屋に置いてくると、棚の低いところから、書物を見はじめた。
放浪者のシャハーブだが、人並み以上に読み書きができる。ざっと目を通したところ、ほとんどが、現代語の学術書のようだった。だが、その中にまぎれていた巻き物を手に取ったとき、彼はこの館の恐ろしさを知った。古く分厚い紙を広げると、見覚えはあるが読めない文字が濁流のように押し寄せてくる。らしくもなく、「おおっ」と声を上げてしまった。
とがった葉を押しつけたような字形は、古代の
「なるほど。これは大賢者からの預かり物か」
「あ、それは彼の日記だ。ここにはじめて来た頃の」
後ろから聞こえた平坦な声に、シャハーブは飛び上がりそうになった。表情にはそれを出さず、振り返って子どもと短いにらみ合いをしたあと、丸めた巻き物に目を落とす。
「大賢者の日記か……学者が見たら涙を流して喜びそうだな」
「実際すごく喜んでいる人はいたよ。でも、オーランのものは持ち出さないようお願いしているから。それと、書の存在を広め過ぎないように、とも」
「……おまえ、そいつらがなぜ喜んでいたかわかっているか?」
「わからないよ」
「だろうな」
子どもは、身振りもなしに、人形のごとき無表情で否定してみせた。シャハーブはいよいよ呆れてかぶりを振る。だが、予想どおりといえばそのとおりだ。今さら動揺しても仕方あるまい。再び机の方へ戻ってゆく子どもを見ながら、巻き物をもとの棚に突っこんだ。学者にとっては
そうしてしばらく本あさりついでに館の状況を調べていたシャハーブは、子どもがいる机のまわりの棚に取りかかっていた。さりげないふうを装って石板をながめつつ、子どもの様子をうかがっていた彼は、台帳から子どもの視線が離れたときを狙って、口火を切った。
「なあ。おまえの口ぶりからすると、一人で長いこと管理者をやっているかのようだったが……」
「うん、そうだよ。『叡智の館』と呼ばれるここを管理してきたのは、僕一人だ」
「そうか」シャハーブは目を細める。予想の通りではあったが、にわかに信じられない回答を口の中で繰り返す。
伝承によれば、『叡智の館』じたいは千年以上も前から存在する、とさえいわれているのだ。仮にそれが事実であり、先の言葉も
見られていることに気づいたのだろう。子どもが振り向いて、ほほ笑んだ。
その微笑は、今までに見たもののなかで、一番自然だったような気がした。
自分の仕事が終わったのだろう。机のまわりを片付け、シャハーブのもとへやってきた子どもは、最初の部屋に行くよう、彼に言った。何事かと思いつつ待っていると、子どもはグラスが二つ載った盆を持ってきた。グラスの方から漂う
「誰かにお茶を入れるなんて久々だから、お口に合うかわからないけど」
「まあ、構わんさ。それがわかっていてケチをつけるほど、俺は狭量ではないからな」
自分で自分をそう評しつつ、シャハーブは子どもの入れた茶に口をつける。少し渋みはあるが、飲めないほどではない。以前、どこかの安宿で出された、汚れたグラスの汚れた緑茶よりは百倍くらいましだった。
「悪くないぞ」とシャハーブが言えば、子どもは「よかった」と、あまりよいと思っていない声音で返してきた。先ほどの笑顔はなんだったのか、というほどの無表情。しかし男は、すでに気にすることをやめていたので、自分がほかに気にしていたことについて切り出した。
「そういえば、まだ名を言っていなかったな」
「名……名前?」
「ああ。俺は、シャハーブという。これといって決まった職業があるわけではないが、このあたりを放浪している」
グラスを卓上に置いた。まっすぐに子どもの方を見れば、彼は最初のように、きれいに首をかしげている。
「おまえはなんと呼べばいい、『叡智の館』の主よ」
子どもは、さらに頭の角度を急にした。
「僕? 僕は、好きに呼んでくれて構わない」
「……しかしなあ。いつまでも『おまえ』では味気ないだろう」
あるていど想定していたとはいえ、素っ頓狂な返答に、シャハーブは戸惑いを隠せなかった。茶を飲んでごまかしつつ、相手の自己紹介をうながしてみたが、間もなくそれを後悔することになる。『叡智の館』の管理者は、自分の淹れた茶を一口飲んでから、少し眉を寄せて、呟いた。
「そうしてもらうしかないんだ。僕には『名前』というものがないから」
シャハーブは、茶を吹き出しそうになった。
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