第15話 脱出

 こちらに来てしまった。

 その言葉がどういう意味かは、うすうすわかっていた。

 それでも、頭の奥でもう一人の自分が「認めたくない」と叫ぶ。

 とうに変質を受け入れたはずであるのに。

「館主殿。この賊と通じていたのか」

 エルハームの声に意識を引きあげられたシャハーブは、ひとまず剣を収めて、下がる。彼女の横顔を見つめるフーリの目は揺るがない。失望を向けられても、怒りをつきつけられても。それらすべてが、他人ひとごとであるかのようだ。

「彼は賊ではない。僕の協力者だ。彼だけでなく、あちらの少女も」

 フーリの目が少し動いて、二人がそれを追った。天幕の入口でモナが唖然として、こちらを見ている。幸い大きなけがはなさそうだが、シャハーブとしては他人の無事を喜んでいられる心境でもなかった。一方のエルハームは憎らしげに目もとをゆがめたが、彼女の暗い感情は〈使者ソルーシュ〉の声に両断された。

「君は僕の狙いに気づいていた。その上であえて王の命を優先し、あるいは自分ならこの子どもを御せると思いあがり、僕を自陣に引き込んだ。そうでしょう」

「くっ……」

「僕はあなたが御せる存在ではないし――あなたたちを御す存在でもない。僕がここにいるのは同胞の負の遺産を消すため。それが済んだ今、僕は僕の役目に戻る。君たちとの取引は終わり」

 淡々と、そして一方的に言いきったフーリは、手を振って、白い針を消しさった。かわりに、もう片方の手もとで浮かせていた球体を掲げてみせる。そのなかで浮いているのが砕けた剣の破片だと、シャハーブはそのときになって気づいた。

「君たち人間は、こんなものがなくても生きていけるはずだ。だから僕は、君たちに『月』を託したんだよ」

「『月』……?」

 くしくも、シャハーブとエルハームが同じ疑問を発する。だが、フーリはうなずくだけで、彼らの疑問に答えを与えてはくれなかった。高く掲げた球体を自分の手もとへ戻した彼は、無表情でそれをにぎりつぶす。球体は、中の破片ごと消えうせてしまい、跡形も残らなかった。――これで本当に『あめつちの剣』は壊されたのだ。その瞬間に立ち会った者たちに、けれどそれらしい感慨はいっさいない。あるのはただ、怒りと悔恨と、そしていいようのないむなしさばかり。

 誰もが呆然自失の状態のなか、フーリは一人だけ平然としている。さも当然のようにシャハーブを振り仰いだ。

「破壊は済んだよ。ここから出よう」

「……ここから出るのはおおいに賛成だが。すなおに出してはくれないだろうよ」

 我に返らざるを得なかったシャハーブは、ぐるりとあたりを見回した。肩に矢を受けたマフディはそれほど厄介な相手ではないだろうが、無傷のエルハームが、今目の前にいる。異様な出来事と〈使者ソルーシュ〉の言動に動揺した後とはいえ、シャハーブたちが少しでも妙な動きをすれば、すぐに斬りかかってくるだろう。入口に目を走らせると、困り顔のモナと目が合った。彼女も動くに動けず、心もとなげに弓をにぎりしめていた。

 だが、彼女が眉をひそめたとき、その横をなにか大きな影が通りすぎた。

「わっ!?」

 モナはほとんど反射で横に跳び、飛来したものを避ける。何にもさえぎられなかったそれは、最終的に天幕の奥にぶち当たる。ちょうど、シャハーブの剣のおかげでできていた裂け目にぶつかったため、そこから布の壁は勢いよく破けてしまった。

 静寂の中、砂煙がもうもうと舞いあがる。周囲が茶色い空気に満たされたとき、シャハーブはフーリの手をとって動いていた。すぐさまモナと合流し、天幕の外へ転がり出る。彼らの背後から怒号と罵声と剣の音が何度か重なった。そして。

「やあ、シャハーブ。仲間を見捨てて先に逃げるとは、いい根性をしているね」

 煙る天幕のむこうから、陽気な声がしたと思ったら、三日月刀シャムシールを携えた若者が歩み出てきた。彼の非難を受けながらも、シャハーブは平然として剣を抜いた。

「俺はおまえたちと協力関係を結んだが、仲間になった覚えはないね」

「なるほど。確かにそのとおりだ」

「ビザンは?」

「スールとやりあってる。そろそろこっちに来るころじゃないかな」

 ファラーズがこともなげに言い放った直後、聞きなれない言葉が怒りをまき散らした。砂を踏み荒らすのは、浅黒い肌の娘。その姿はシャハーブたちにも見覚えがある。雇われクルク族の双子の片割れだ。ファラーズのもとに駆け寄ったモナが、あからさまに顔をしかめた。

「げっ! ファラーズ、無事だったのはいいけど、なんであいつをひきつれてきたのさ」

「俺だって好きでひきつれてきたわけじゃないよ。逃げ回ってるうちにこっちに来ちゃったんだ」

「もうちょっと上手に逃げてよね」

「そのへんにしておけ」戦士団の若者二人が、そのままけんかを始めかねないので、シャハーブはことさら大きな声を上げた。

「こいつが乱入したおかげで助かった部分もあるだろう。それに、もうフーリの『仕事』は済んでいる。心配しなくても、いつでも逃げ出せるぜ」

「うん。もう一人の彼さえ来れば」

 シャハーブの言葉を裏付けるように、フーリがうなずいた。相変わらずの無表情で、透明な瞳は空をさまよっている。彼にしか見えないなにかを見ているのかもしれない。だが、〈使者ソルーシュ〉の没頭を妨げるような轟音がすぐに響いた。

 爆発のようなものでなく、人どうしがぶつかりあうときの音だ。何が起きたかなど、考えるのも馬鹿らしい。シャハーブがフーリの服をひっぱって、彼の視線を地に戻す。同時にモナが弓を構え――二人の人の影が見えた瞬間、矢を放った。

 風切り音は、地平に吸われて消えていく。相手はうまく矢をようだった。

「ビザン、こっちだよ!」

 少女の叫び声が終わるより早く、人影のうちのひとつが、すさまじい勢いで近づいてくる。それは見る間に色と輪郭を帯びた。体格のいい、日焼けした肌の、寡黙な男。全身傷とあざだらけだが、幸い大きなけがはないらしい。人間たちは思わず顔を見合わせ、ほほ笑んだ。

「逃げるなら急ぐぞ。奴め、足も速い」

 合流するなり、ビザンは後ろを確かめながらそう言った。うなずいたのは、シャハーブでもファラーズでもなく、フーリだった。彼は四人の姿を確かめると、右腕を高く掲げる。

「目的地は森の前にしておくけど、いい?」

「大丈夫。帰り道はあたしが知ってるよ」

「大人数で移動するから、少し座標がずれるかもしれない。衝撃に備えてね」

 もはや、彼の言うことのおかしさを指摘する者はいない。誰もが、天上人はそういうものだと勝手に割り切っていた。

 空にかざされた白い手に、薄い光が集まって、玉のようなものを形づくっていく。それはにぎり拳ひとつぶんにまで膨張すると、勢いよく弾けて、彼ら五人を白い光で覆い尽くした。

 砂だらけの風景が薄らいでゆく。そして、やがては意識が遠くなりはじめた。眠りにつく前のように穏やかな、消失と、落下。

 その終わりにシャハーブは、無機質なささやきを聞いた。


――天に近づく覚悟はあるか。



     ※



 スールは、五人の侵入者がいる場所めがけて、まっさきに走った一人だ。しかし謎の光を見た時点で、己の敗北を悟っていた。案の定、駆けつけた場所には砂があるばかりで、人どころか虫の一匹もいない。さりとてスールは悔しさをあらわにするでもなく、静かに息を吐いた。

「兄者!」

 シャンの声がした。冷静沈着な兄とは対照的に、騒がしく追いついてくる。スールは振り返り、無言でかぶりを振った。彼はてっきり、妹が声を荒げて怒ると思っていたが、意外にも彼女はすなおに歩をゆるめた。

「逃げられたか。また、あのときのように消えたのかな」

「そうかもしれん」

 シャンは、スールの前まで来ると、立ち止まって空をあおぐ。陣地の喧騒をよそに、彼ら兄妹は沈黙を貫いていた。それを破ったのは、静かな女の声である。

「なあ、兄者。天上人アセマーニーが実在すると思うか」

 スールは目をみはった。珍しいことを言い出した妹をまじまじと見る。彼女は真剣なままで、兄を見返してきた。

「マフディが言っておった。あの白い子ども、もしかしたら天上人アセマーニーかもしれぬ、と。先ほどの奴らが本陣でそのようなことを口にしておったらしい」

「ふむ……」

「私はとうてい信じられぬ。だが、あの子どもの振る舞いは確かに、なんというか、人間味がないような気がしたのだ」

 どこか不安げな妹の声を聞きながら、スールはしばし、思案していた。すべてが白い子どもの姿と感情の見えぬ瞳を思い浮かべ――彼はわれ知らず、冷笑を浮かべていた。

天上人アセマーニーなど、ここらの民が勝手に作ったおとぎ話だ――と思っていたが。彼の姿を見せつけられたあとだと、そう断言できるものでもなさそうだ」

 妹はなにも言わない。スールも、それ以上なにを続けてよいかわからなかった。

 何が正しいのか。あるいは、正しいものなどなにもないのか。天上人アセマーニーが実在したとすれば、彼らにとって人間の争いなど、箱庭の中の遊戯でしかないだろう。

 ただひとつ、確かなのは、アルサークはもっとも敵に回してはいけないものを敵に回したということだ。この戦、勝っても負けてもアルサークにとってよいものとはならないだろう。

「最後まで俺たちがつきあってやる義理も、ないしな。さて、どうするか」

 地上最強の狩猟民族の一角を担う男は、ため息まじりに天をあおぐ。

 まっさおな空のまんなかで、一瞬、白い光が瞬いた気がした。

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