第16話 生命

 森に妙な来客があったのは、日照りが続いたある日のことだった。もともと人跡じんせきとうの奥地を目指して踏み込んでくる者は多かったが、そのほとんどは途中であきらめて引き返す。だが、その来訪者はふらふらと奥地までやってきて――誰とも会うつもりのなかった『彼』と、遭遇してしまったのだった。

「おお? こんなところに館があると思ったら、こんなところに子どもがいる」

 来訪者は一人の男だった。旅衣をまとい、やたらと大きな袋を背負った、若い男。日焼けしていたが、もともとは彼のように白い肌だったのだと思う。茶色い瞳をくりくりさせて、男は彼の姿に見入っていた。

「おまえ、こんなオンボロ館に住んでるのか? 親は?」

「僕に親はいないし、ここも僕の住居ではない」

 彼は淡々と返した。男は驚いた様子だったが、構わず彼は館を振り返った。

「ただ、ここにはもう、人が住んでいないようだ。だから僕はここを拠点にするべきだと考えていた」

「……つまり、今からおまえの家にする、ってことだな!」

 男は手を叩いた。彼は答えなかった。彼にほとんど相手にされていないことに気づいていないのか、男は陽気に言葉を続ける。

「なら、今から掃除するんだろ。俺も手伝おう」

 そのとき、はじめて彼は男をまともに見た。

「そうじ」

「ああ、掃除。だって、このままじゃ、とてもじゃないけど住めないだろう。砂をかきだして、屋根と窓も直さなきゃならんし……」

「なるほど、掃除」

 彼は男の言いたいことをくみ取って、言葉を直した。任務の上でさほど重要ではない単語だが、男とのやり取りを円滑に行うには処理が必要だろう。なめらかに話した彼を男はまた不思議そうに見たが、さして気にしたふうでもなく、先んじて館に入っていった。


 男はオーランと名乗った。各地を旅しながら観察や研究を行っているという。この森に来たのはたまたま、らしい。というのも、日差しを避けられる場所を探していたらいつの間にか迷子になっていた、というのだ。偽っている様子ではなかったので、彼はオーランの言葉をそのまま受け入れた。オーランと一緒に掃除をしているうち、二人の間には奇妙な信頼関係が生まれ、館が住める状態になる頃には、彼はオーランに「クチュ」と呼ばれていた。

 彼はオーランに、みずからの素性を明かすことにした。彼ははじめ、驚いていたが、持ち前の頭のよさと順応力で彼の話を受け入れた。名前も性別も寿命もないのだという話をすると、オーランは茶色い瞳をくりくりさせて彼に見入った。好奇心が旺盛になっているときの反応だ。

「寿命がない、かあ。それって変な感じがしないか? みんなクチュより先に死んじまうってことだろう」

「そうだね。でも、僕たちはそういうものだ」

「天上人はみんなそう、ってことか。でも、それさ。故郷にいるときならともかく、今は寂しくないか」

「よくわからない。人と会うのは地の呪物を壊す時だけだから」

「ああ……そーか」

 オーランは、なぜか気まずげに頭をかいた。「なんかなあ。俺もおまえを置いていくってことだろう」と呟く男を見る。見たことのなかった人間の表情を見てしまったからだろうか。彼がこのとき、妙なことを口走ってしまったのは。

「人間が、僕たちに近い存在になることは、不可能ではない」

「へえ? そうなの?」オーランがまた、好奇心旺盛に身を乗り出してくる。だが、彼は珍しく、男を制するように言葉をかぶせた。

「けれど、やめた方がいい。ろくなことにならない」

 彼ら叱らぬ言い草に、オーランは首をかしげた。そしてしばらくうなったあと、むりやり話を変えた。ふだんはなんでも追及したがる男なのだが、彼の様子に思うところがあったのだろう。これ以降、その話題について口を開くことはなかった。



     ※



 草が騒ぎ、枝の折れる音が連鎖する。あちこちから悲鳴とうめき声が上がった。他人事のようにそれらを聞いていたシャハーブ自身も鈍くうめいた。腕や足に痛みをおぼえつつも、それが動けなくなるほどのものではないとわかると、ゆっくり体を起こす。とたん、無表情で彼を見おろしている白い子どもと目があった。

「森の前どころか、森の中じゃないか」

「ごめん。座標がずれた」

 ちっとも「ごめん」と思っていなさそうな顔で彼は言う。いつものことなので、シャハーブはもはや追及しなかった。手荷物が無事かどうかだけを確かめて、立ちあがると、一人ひとりの名前を呼んだ。かろうじて返事があったあと、三人ともが、草や枝を衣服にひっかけたまま歩いてくる。

「びっくりしたよ。なんだったんだ、今の」

「それに、ここはどこだ」

「たぶん、『叡智の館』がある森だよ」

 戸惑っている男たちをよそに、モナだけは森を見渡して冷静に呟いていた。一度、自力で入りこんだことがあるからこその反応だろう。シャハーブは軽く肩をすくめた後、かたわらの白い頭に手をおいた。

「なんとか、戦場を離脱できたみたいだ。おまえたち、どうする?」

 ファラーズとビザンは、まだ困惑が抜けない顔を見合わせている。モナは、フーリを一瞥したあと、真剣に考えこんだ。

「ふつうに考えて戦士団の拠点に帰るべき、なんだけど……ドゥオたち、絶対驚くだろうなあ。戦争が終わってもいないのに、あたしたちが帰ってくるんだもん。質問攻めにされそう」

「どうだろう。彼らにもフーリくんが天上人だということは話してあるし、驚いても納得してくれるんじゃないかな。それに、戦場の情報がエルデクに届くのは何日も先だ。それまでこそこそ隠れているわけにもいかないよ」

「そうなんだけど」ファラーズの指摘に、モナはますます苦い顔をする。だが、ビザンがそっと「ファラーズの言う通りだろう」と同意すると、あきらめたようにため息をついた。そこではじめて、部外の男が口を挟んだ。

「そんなにぐずぐずすることもないだろう。おまえ一人で行くわけじゃあるまいに」

「シャハーブたちも来るの?」

「面倒だが、言いだしっぺだからな。これがいれば、奴らも納得しやすいだろうし」

 言いながら、シャハーブはフーリを見おろした。すると三人とも、腑に落ちたようにうなずく。彼の徹底した無表情と揺らぎのない言葉には、有無を言わさず発言を押しとおす謎の力がある。ここにいる四人全員が、それは嫌というほど実感していたのだ。

「では、いったんエルデクに行くか」

 シャハーブが言うと、何を言われるでもなく、フーリが「ついてきて」と歩きだす。人間たちは、当然のように案内役を買って出た〈使者ソルーシュ〉の後を無言で追った。


 おおかたの予想通り、戦士団の人々は、モナたちを見てひっくり返りそうなほど驚いていた。ただ、彼らが事の顛末てんまつを説明すると、なにも追及せずにうなずいてくれた。ドゥオのしかめっ面からして完全に納得していないことは明らかだが――特に、フーリが一瞬で長距離を移動できてしまうという点について――そのあたりは、人間たちではどうしようもない。さらに詳しい話をモナたちから聞くということで、シャハーブたちは解放された。

 仲間たちと話しこんでいる少女を壁際から見ていたシャハーブは、なんの気なしに隣を見る。無表情の子どもが、あたりまえのようにそこにいた。

「フーリ」

 仮の名を呼ぶと、彼は顔を上げる。信じられないようだが、そのおもてに一瞬、恐れのようなものが浮かんだ気がした。

 それを見て、シャハーブは、ひとつの確信を得た。

「おまえに、訊きたいことがある」

「……『変質』のことだね」

 フーリは首をひねったりせず、そう言った。迷うように目を伏せて、だがすぐにシャハーブを見つめると、彼はいつもどおりの淡々とした口調で語り出す。

天上人アセマーニーと君たちが呼ぶ、僕らの力はとても強い。その強い力は、この世界のあらゆるものに作用する。人間の魂も例外ではない。人間を含めて、生物がすぐ近くにいる状態で僕たちが力をふるうと、近くにいる生物の魂に影響を及ぼすことがある。こういうとき、生物の身に起きる変化は大きく二通りに分かれる。力に肉体を引き裂かれて死ぬか――肉体が力を取り込み、取り込んだ力が魂にまで入り込んで、魂が変質するか」

「俺に起きた変化は、後者だな」

 フーリの言葉を、おそらく半分も理解できていない。理解できていないなりに受け答えすると、フーリは小さくうなずいた。

「その、魂が変質すると、どうなる」

「魂に紐付いている肉体が強化される。傷つきにくくなり、命が弱りにくくなる。そして魂じたいにも変化が起きているから、ふつうの人間には見えないものが見えたり、本来感じ取れない呪物の力を感じ取れるようになったりする。――総合的に見て、僕たちに非常に近い存在になる」

 シャハーブは思わず己の右手を見ていた。

 白い光。斬られても傷ひとつつかなかった背中。時折聞こえる妙な声。散らばったいくつもの点が線でつながり、形をなす。

 エルハームを止めるために光の中へ飛びこんだとき、彼は彼ではなくなった。フーリたち、天上人に限りなく近い存在。それが今のシャハーブだというのなら――これから、フーリの見ている世界を見ることになるのだろうか。

「あくまでも僕たちに近い存在になった、というだけで、人間が天上人アセマーニーになったわけではない。傷つくこともあるし、いつかは死ぬ」

「……だが、その『いつか』はずいぶん遠くなったようだな。時代ひとつ、渡るかな?」

「わからない」

 フーリは、はじめて、苦しげに目を閉じた。

「わからない、けど、僕の力が君という人間を歪めたのは事実だ。僕たちは自分にどういう力があるのか知っている。だから、生物にその影響が出ないように細心の注意を払わなければならない。僕は今回、それをおこたった。君の変質は、僕の罪だ」

「おいおい、冗談じゃないぜ」シャハーブは、おどけるように首をすくめる。だが、その声には厳しい響きがあった。「あのとき、おまえの前に飛び出したのは、俺だ。その決断をしたのは俺だ。俺のやったことが、どうしておまえの罪にならなきゃならんのだ」

 フーリが目を開く。ふたつの視線が交差する。ひととおり話し終えた少女が、彼らの方へ行こうとして、しかし足を止めていることに、彼らは気づいていなかった。

「そういうの嫌いなんだ。勝手に背負われちゃ、こっちの気分が悪いんでな。それに」

「それに?」

「おまえは俺が死ぬまで生きてるだろう。なら、おまえが思うほど退屈な人生にはならんだろうさ」

 透明な目が見開かれる。シャハーブは、彼の驚いた顔から目をそらした。遠くで佇んでいる少女に手を振る。駆けよってきた彼女から、当然「なんの話してたのさ!」と詰め寄られたが、最初から教えるのが面倒だったシャハーブは、適当なことを言ってその場をしのいだ。

 じゃれあう二人の様子を天上人あるいは〈使者ソルーシュ〉と呼ばれる子どもが見守る。

「君は、オーランによく似ているね」

 彼はそっとささやいた。

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