第13話 鳴動
フーリの案内に従って走っているうち、ともなっている少女が落ちついてきたのをシャハーブは感じていた。おそらく、〈
目的の天幕に少しずつ近づいていく。クルク族の足止めに残った二人のことを考えると、一刻も早く仕事を終わらせたい。そのためにも二人の人間は、こみあげる感情をひたすらに殺して、兵士の目をやり過ごしながら進んでいた。人の気配を感じるたび小柄な二人を物陰に引きこむという、子守のような役割をこなしていたシャハーブは天幕の周囲に人の
彼は、案内に立っていたフーリがうなずくのを確かめ、モナを振り返る。最初こそ泣きそうな顔をしていた少女も、今はふだんどおりの力強いまなざしを返してきた。二人が小さくうなずきあうと、フーリを先頭に一行はまた進んだ。
喧騒は遠く、二人の靴が砂を踏む音だけが響く。天幕の前に立った〈
狭い天幕の中は静まり返っていた。アルサーク兵の姿はない。シャハーブは軽く周囲を探ってみたが、武器と人の気配も感じられなかった。がらんとしているそこには、長い箱が置いてあり、色鮮やかな布がかぶせられている。
「ねえ、これって」
モナが指をさすと同時、フーリが箱の前に立った。
「地の呪物だ。気配がするよ」
表情には一片の揺らぎもなかったが、声には珍しく苦みが混ざっている。
「開けた方がいいか」
シャハーブが問うと、首肯が返ったので、彼はモナに見張りを頼んでから慎重に布をひきはがした。何でできているのかわからない箱は、見た目こそ軽そうだが手をかけてみると存外に重い。幸い、手の込んだ鍵などはかかっておらず、少し力を加えただけで上蓋が開いた。
中に収まっていたのは、装飾の施された剣。しかし切れ味は悪そうで、どちらかというと儀式のときに飾りとして持つ剣のようだった。シャハーブはつまらなそうに唇を歪める。
「剣というより鈍器だな、これは」
「でも、これが『あめつちの剣』だ。間違いない」
フーリが隣で呟いた。当の〈
「二人とも、誰か来――」
声がとぎれ、代わりに金属の音が鳴り響く。シャハーブは抜剣して振り返った。思わず舌打ちしてしまったのは、天幕の入口に、モナ以外の見覚えのある人間がいたからである。刃幅の広い剣を構えるその人物はシャハーブの姿を認めるなり、太い怒声を飛ばした。
「そこまでだ、賊ども! 陣営に忍び込んだだけにとどまらず、『叡智の館』の館主を
意外にも流暢なペルグ語を正面から受け止めて、シャハーブは目を細める。
「誑かした、ね……。ふんっ、そろそろ館主殿にいい顔をするのはやめたらどうだ。彼には冗談も世辞も通じないぜ」
「なんだと?」
「彼の本当の狙いにうすうす気づいていたんだろう。おまえたちは邪魔者を黙らすために、『あめつちの剣』を使って彼をおびき出した。違うかね、マフディとやら」
マフディは目をみはる。それは、見知らぬ男に名を呼ばれたためか、図星を突かれたためか。どちらであるかは本人しか知らないところであり、シャハーブとしても別にどちらでもよい。今すべきことは、ただひとつ。
「フーリ」小声で名を呼ぶ。いらえはなかったが、澄んだ水のような瞳が彼を見た。
「ここは俺とモナで時間を稼ぐ。だから」
「わかった。その間に呪物を壊す。けれど、危なくなったら逃げてね」
「……さすがに、
「大丈夫。彼らに僕を殺すことはできない」
言いきる声に波はない。むろん、偽りの気配も。おそらくそれは自信というより事実なのだろう。いったい何が根拠となっているのかわからないが、今は彼のその言葉をお守りにするしかなかった。フーリから視線をそらす。彼が手をかかげたその瞬間、シャハーブは思いきって踏み込んだ。
モナに武器を向けていたマフディは、シャハーブの動きに気づくと、苦々しげに刃を返した。その隙に軽業師のごとき身のこなしで距離をとった少女が、背中の矢筒に手を伸ばす。一方、マフディの注意をひくことに成功したシャハーブは、押し負けたふりをして一度後ろに下がり、すかさず付け込んできた彼の剣戟を、ひるがえした剣の腹で流した。わずかにうなり声が聞こえる。が、それはすぐ、気合の声に取って代わった。
「そこをどけ!」
「悪いが、丁重にお断りいたす」
涼しい顔で恫喝じみた声を受け流したシャハーブは、己の武器でマフディを牽制しつつ付け足した。
「そう醜い顔をするものではない。そもそも、おまたちが敬う『館主殿』の意向だぞ。彼のなさることをおまえたちが妨げるというのは、ちと矛盾しているのではないかね。それとも、先の俺の推測が真実だと認めるわけか?」
マフディは答えない。代わりに、シャハーブの目を狙って鋭い突きを繰り出した。すんでのところで一撃をかわしたシャハーブは、第二撃を受け流す。そのまま五合ほど打ちあった二人は、最初とほとんど変わらない立ち位置で互いの動きをうかがっていた。
シャハーブの背後から、小さく声が聞こえる。彼にはとうてい理解できぬ、どこの国のものでもない言葉。天上人たちの言葉が、荘厳に
マフディも声には気づいているだろうが、シャハーブから目をそらさない。黒眼に浮かぶのは警戒の色、それもただの臆病ではなく、首を掻っ切る時機を狙っている武人のそれだ。「アルサークの軍人に認めてもらえるとは、光栄だねえ」心の中でうたったシャハーブは、半歩退く。
幾度も、剣が交わった。そのたびにシャハーブは、少しずつ立ち位置を変えていく。砂漠の民の剣に少しずつ圧される男の黒髪を、無慈悲な陽光が撫で上げた。
金属音がひときわ高く響く。剣戟を止めたシャハーブの剣が、しなったように見えた。ここへ来る前にクルク族の男の力にも耐えたばかりである。そろそろ限界かもしれなかった。
「終わりだ」アルサーク人の瞳が黒々と燃え上がる。闘志をむき出しにしてうなる姿はさながら獅子のようだった。獅子に追いつめられた兎はしかし、余裕をなくすどころかふてぶてしい笑みで相貌を彩った。
「勇猛なこと、結構だが。大事なことを忘れてはいまいか」
彼の言葉が終わる前に、風が高く鳴いた。次の瞬間、マフディの太い右腕に矢が勢いよく突き立った。防具と籠手の隙間を狙う、まさしく神業だった。利き腕をやられたマフディは、猛獣のようなうなり声とともに剣を取り落とす。剣と剣が離れたあと、シャハーブはその神技の使い手を振り返った。勝ち誇った少女の瞳が彼を見つめて笑った。『エルデク戦士団一の射手』を自称していた娘は、その名に恥じぬ腕前を見せつけたわけだ。
「お手柄だ、モナ。だが、いったん下がっていろよ」
「言われるまでもない」一瞬で勝者の笑顔を引っ込めたモナが、弓を背に戻し、地を蹴りあげようとする。
そのとき、その地面が大きく鳴動した。
地震と呼ぶには不自然に過ぎる揺れ。シャハーブとモナは困惑が過ぎた後に顔を見合わせ、そして視界の端がまぶしいことに気がついた。光を追いかけた二人は絶句した。そして矢傷の痛みにうなっていたマフディすらも、絶句した。
視線の先に佇む、白い子ども。そのかたわらに、開かれたままの本が浮いている。彼が『太陽の書』と呼んだそれは、紙の一枚一枚からまばゆい光を放っていた。そして今や、本の力を行使する子どもすらも、淡い銀色の光をまとっている。人間たちに背を向けている〈
『天の呪物第八百二十三号、発動準備完了。地の呪物破壊の儀に移る』
それに対する応答があったのかどうか、シャハーブたちにはわからなかった。――否、それ以前に、彼らの言葉の意味を正確にくみ取ることなど不可能である。無力な人間は、ただ不自然な縦揺れに耐え、その時が来ることを祈るしかなかった。
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