第12話 双牙
混乱し、慌てふためく本陣をよそに戦場ではアルサークの強兵が猛威を振るっているようだった。前線から離れていても、死をまき散らす戦いの音と、それを象徴する臭気は漂ってくる。しかし、みずからが命の危機にさらされている状況ではそれすらも気にならないように、シャハーブには思えた。もっとも、この男は端から危機感を覚えることじたいが少ない。今も、つわものと名高いアルサーク兵の追手を身軽にかわし、物陰に逃げ込んだところだった。
「体がでかいというのは、こういうとき不便だな」自分に言っているのか、隣の男に言っているのかわからない台詞を音のない声で吐き捨てる。荒々しい足音が去るのをじっと待つつもりだった。だが、兵士の一人の小さな黒眼が彼らの方を見る。癖の強いアルサーク語でなにかを叫んだ。
ビザンが顔をしかめ、シャハーブは舌打ちする。
兵士たちの視線が一方向に集中し、彼らの剣が高く鳴った。――その瞬間、どこからか飛来した一本の矢が、一人の胸に刺さった。急所から外れているものの、無事では済むまい。一人が倒れたことで兵士たちの間に動揺が広がる。その隙に、シャハーブたちは彼らの意識の外に逃げ出した。それを目ざとく見つけた兵士が彼らを追うも、その背を鈍く輝く
今度こそひとけのないところまで逃げて、男二人は残る味方を振り返る。
「なかなかやるじゃないか、モナ」
「そりゃどうも。あんたこそ、騒ぎを起こすのがうまいね。感心したよ」
「褒め言葉として受け取っておこう」
弓を背負いなおした少女に、シャハーブはいつもの笑顔で応じる。その隣では、戦士二人が拳を合わせて健闘を称えていた。四人の無事とこれまでの成果を確認したところで、モナがあたりを見回しはじめる。
「ごちゃごちゃしてる今のうちに、あめつちの剣だっけ、あれ壊さないとね。フーリは逃げられたかな?」
「――僕ならここだ」
突然、頭上から澄んだ声が降ってきた。四人とも、ぎょっとしてわずかに飛びのいた。そうしてできた隙間に、ふわふわと白い光が舞いおりて、見る間に子どもの形をとる。あまりにも現実離れした天上人の登場の仕方に、人間たちは度肝を抜かれてしばし呆けた。一番に我を取り戻したのは、シャハーブだった。
「あー、フーリ?」
「うん」
喜怒哀楽の見えない、澄んだ水のような瞳が男を見上げる。良くも悪くも透明な目は、このときいっそう、人間離れして見えた。だが、軽く首を傾けるしぐさは幼子の気配を持っている。いつものフーリだった。調子を狂わされたシャハーブは頭をかく。
「おまえ……あまり驚かすなよ。なんなんだ、今のは」
「あの双子から逃げるついでに、君たちのところに来ようと思って。そうなると今のが一番手っ取り早い。僕らなら誰にでもできることだから、驚くことはないよ」
「俺たちはそういう芸当ができないからな。驚くんだ。オーランには指摘されなかったのか」
「そういえば、言われたような気もする」子どもの頭がますます傾く。奇妙なやり取りのおかげで驚愕も畏怖の念も薄れたのか、モナとファラーズが小さく吹き出した。ビザンは、いつもの表情に戻っている。シャハーブは彼らの様子をさりげなくながめて、安堵した。改めて〈
「さて、それじゃあ仕事に行くか。正確な場所はわかっているのか?」
「うん。あっち――」
フーリが、遠くの天幕の方を指さした。だがシャハーブは、その言葉を最後まで聞かなかった。抜剣して、とっさに体をひねる。同時に空気がうなりを上げた。獣じみた気配が迫る――肌が粟立った次の瞬間、耳障りな金属音が響いて、異様な振動が男の腕をしびれさせた。
「ちっ!」
「シャハーブ!」
モナが悲鳴を上げてとっさに弓を構えた。視界の隅でそれを見取ったシャハーブは「やめろ!」ととっさに叫んだ。彼女がどう動いたのか確かめるひまもなく、後退して姿勢を立てなおす。思わず、いまだにしびれの残る腕をにらみつけていた。
今まで受けとめたことのない力だった。あと一瞬気づくのが遅れていたら、首を折られていたかもしれない。いったい何者だ、と胸中で毒づく一方、その正体を彼はほとんど確信していた。
剣を構えたままのシャハーブの前に、一人の男が姿を現す。日に焼けて黒々とした体躯を色鮮やかな上衣と質素なズボンで覆う彼は、闇に限りなく近い茶色の瞳で眼前の男をにらみつけた。その後ろに、似た顔の女がついてきているのを見、シャハーブは察した。
「……アルサークに雇われているというクルク族か?」
「そうだ」
男――スールは、短く答える。彼の瞳はその一瞬、シャハーブの後ろにいる白い子どもに向いた。今にも怒鳴り出しそうなシャンを手で制した彼は、静かに己の剣を構えた。
「そこにいる子どもをこちらに渡していただこう、侵入者よ。彼の護衛が我々の務めなのでな」
「護衛? 監視の間違いだろう。もっとも、それすら満足にできなかったようだが」
こいつと向きあうな、という本能の警告を無視して、シャハーブは嘲りを口に乗せた。アリド氏族の女が両目を怒りに燃やしたが、スールはあくまでもそれを制した。ただし、シャハーブたちを見つめる彼の表情も決して穏やかではない。それどころか、どこか飢えた狼を思わせた。
「そうだな。その子どもの振る舞いしだいでは、おまえたち諸共殺さねばならぬかもしれん。――例えば、そいつが最初からおまえたちと共謀していたのなら、なおさらだ」
「ずいぶんと饒舌だな。それだけ物が言えるなら、余計な説明も芝居もいらないか。手間が省けて助かる」
ヒルカニア人の旅人と、クルク族の傭兵の間で視線が刃のように絡み合う。どちらもがいつ剣を振りかざしてもおかしくない状況下で、けれどシャハーブはフーリに一瞬視線を放った。珍しく、色のない両目に迷いを見る。それでも、彼が白い衣をひるがえそうとしたとき、抜剣の音が沈黙を破った。二人の男がシャハーブの横に立つ。
「ここは任せろ」
「……おまえたち、正気か」
無骨に言い放ったビザンをシャハーブはきつい目で見たが、寡黙な男の表情は少しも揺るがない。そこへ追いうちをかけるように、反対側にいた小柄な男が
「モナ、シャハーブ。君たちはフーリくんと一緒に行け」
「ちょ、ちょっと待ちなよ二人とも――」
「いいな?」身を乗り出した少女に、ファラーズは微笑を向ける。穏やかな笑顔には、有無を言わさぬ圧力があった。言葉に詰まったモナから視線をはがし、彼は再びもう一人を見た。四つの視線を受けたシャハーブは、ため息をつきながら剣を収める。クルク族を警戒して半歩ずつ下がりながらささやいた。
「絶対に死ぬなよ。モナが泣き喚きかねん上に、俺の寝ざめが悪くなるからな」
二人が前を見たままうなずいたのを確かめ、シャハーブは身をひるがえして走った。白い子どもと弓使いの少女の腕を強引にとり、乾いた大地を乱暴に蹴る。震え声で彼の名を呼んだモナの腕をひき、同時にみずから手を離した〈
「フーリ、案内しろ。これ以上邪魔が入る前に、急げ!」
「わかった」
フーリは淡白にうなずいて、シャハーブたちの前に出た。
※
三人の背中はあっという間に見えなくなる。ビザンとファラーズは、クルク族の双子を通すまいと互いに近寄って壁を作った。
「シャハーブがいてくれてよかったよ」
「そうだな。モナを引き離すのはああいう奴が適任だ」
肩をすくめるファラーズに、ビザンが無骨に応じる。そう言い合う一方で、旅の男に憎まれ役を押しつけてしまったことを申し訳なく感じてもいた。だが、実際のところシャハーブは、みずからが泥をかぶることに何も思ってはいないのだろう。少なくとも今回の件に関しては。
妙な確信を抱きながらも、二人のペルグ人はクルク族と向きあう。先ほどまでは兄の後ろにいたシャンも、今では隣に出てきて武器を構えていた。
「妙な奴らだ。俺たちに敵うとでも?」
「いや、まったく思ってない。……わかっているだろう?」
ファラーズの問いかけに、二人のどちらもうなずかなかった。しかし、その殺気立った目つきは何よりもの肯定である。しびれを切らしたようにシャンが吐き捨てた。
「おまえたちごときで、どれほど我々をとどめていられるかな」
「半刻も持てばじゅうぶんだろう。むこうには
砂混じりの風にのり、剣戟の音と怒号が流れてくる。その残響が遠くに消え去ったあと、スールが小さく笑う。
「よかろう。ここ最近、狩りもできずに退屈していたところだ。少しの間、相手になってもらおうか」
「それならば」シャンが、不服そうにしながらも兄の言葉を引きとる。「同じ人に武器を向ける以上、礼は通さねばならんな」
そう言い、二人は一度構えを解いた。怪訝そうにしている男二人を真っ向から見すえる。
「改めて名乗ろう。俺はアリド
「同じくアチャレンドラの娘、シャンディ」
砂が鳴る。刃がきらめく。地上最強とうたわれる狩猟民族の双子が再び構えを取る。その姿はまさしく戦士のものでありながら獣のような気配を漂わせていた。
「大地と火の精霊に誓って、公平と礼節を。――いざ、参る!」
透明で力強い女の声が戦場の空気を鳴らし、そして彼らは踏み込んだ。
ビザンとスーリヤの武器がぶつかりあって悲鳴を上げる。一方ファラーズは、シャンディことシャンに飛びかかるとみせかけて後ろに跳んだ。娘の剣が空を切ったところで三日月刀を跳ね上げた。剣を弾き飛ばしてやるつもりだったが、クルク族の頑強な腕と手は武器を離さず、しかしシャンは大きくよろめいた。
ファラーズは相方と違い、生粋のエルデク戦士団員だ。つまり、あるていど戦うことはできても本来、それは町の防衛のためだけに鍛えた力にすぎない。クルク族とかち合うなど、想定しているはずもなく。それでも彼は、できる範囲で死なないように立ち回らなければならなかった。
シャンの体勢が崩れた隙に、
心地の悪い沈黙の中、こちらをにらむ黒茶の瞳は戦意を失うどころか、戦う前より激しく燃えていた。押し寄せる圧力に負けそうになる自分を、ファラーズは叱咤する。
これは普通ではない。アルサークの兵士など、彼らに比べたらかわいいものだ。
「やれやれ。小さな
「まったくだな」
近くから低い声が答えたものだから、ファラーズは驚いて振り向いた。全身に汗をかいたビザンが、身構えて正面をにらんでいる。視線の先にいるのはもう一人のクルク族。スーリヤ――否、「通り名」はスールだったか。ビザンが、腕や顔に小さな傷を作っている一方、スールの方は負傷どころか呼吸のひとつも乱れていない。冷徹なまなざしの裏には、双子の妹とよく似た戦意が揺れている。
「こちらは見ての通りだ。おまえはどうだ?」
「どうもこうも。ちょっと打ちあっただけだけど、やばいよ、彼ら」
「……同感だ」
敵から目を離さないままに交わされる言葉は、乾いて響く。そしてそれきり、二人は黙った。
熱された空気が重くのしかかる。沈黙の中、ビザンの手が動き、次の瞬間にスールの姿がかき消えた。金属の衝突とは違う、生々しい音が響く。スールの蹴りを左腕で受けとめたビザンが、強く顔をしかめた。
「止めるか。やるな」
スールの口もとにはじめて笑みらしきものがのぞく。意外さに目をみはったファラーズは、彼の背に視線をやって、はっとした。もう一人、シャンの姿が見えない。
「ビザン、逃げ――」叫びかけるが、すぐに無駄だと悟った。この状況ではビザンは動こうにも動けない。ならば自分が多少無茶をするしかない。ファラーズは、思いきって前方へ飛び出した。ビザンの死角、つまりはスールの後ろから飛び出そうとしていたシャンを
得物を構える。湾曲した刃で、文字どおり首を狙う。ただの悪あがきだ。しかし、何もしないよりましだった。
「わ、なんだ!?」
ファラーズは突然の揺れで大きくよろけた。幸か不幸か、それでシャンとの距離が開いたのだが、今はどうでもよいことだ。
四人ともがぎょっとして動きを止めた。状況を忘れてあたりを見回す。慌てているのは彼らだけではない。アルサークの陣中にも、そしておそらく戦場やペルグ陣営にも、動揺が広がっていた。その間にも、地面は大きく揺れたり静まったりを繰り返している。
地震という現象は、この地域では珍しいが、まったく知られていないわけではない。この揺れは、地震とは全く別物だと、四人とも直感した。「いったい何が」ビザンのうめき声を、高い声がさえぎった。
「兄者、あれを!」
シャンが、遠くを指さす。少し前、天上人を含む三人が走り去った方角だ。
彼女が指し示した方。その空をまっすぐ切り裂くようにして、細く白い光が立ちのぼっている。
なんだあれは、と誰もがそれ以外の言葉を忘れたかのようにどよめく。その中でファラーズとビザンだけが、正解に限りなく近い答えにたどり着いていた。
伝承の中でしか、知らなかったこと。
おとぎ話のように思っていたこと。
天上人が――〈
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