第11話 翻弄

 ざらついた風が吹き抜ける平原は、あっという間に血と鉄の臭気に満たされた。アルサーク王国の強大な軍事力は大陸諸国に知られるところだが、そのアルサークにとってもペルグ軍の頑強さは厄介なものだった。彼らが勢力を強める遥か前のこととは言え、大陸の大半を統一する皇帝の軍隊を育んだと言われている国である。馬と弓に長け、勇猛果敢に突き進むペルグ兵たちは、平原のかたい土を踏みならし、果敢な攻撃を繰り返す。それでもやはり、現在の猛者には抗いきれぬのか、少しずつペルグ軍が押されはじめた。

 アルサークの陣営で最初の騒ぎが起きたのは、彼らが勝利の気配を感じはじめた、そのときである。

 最初に異変に気づいたのは、糧食番を任されていた兵士の一人であった。彼は開戦前の偵察任務を終えた後、本陣にて待機していたが、もともと糧食番だった同僚が緊張で倒れてしまったため、代わりに番を引き受けたのだ。

 その親切心が彼自身に災難をもたらすと知らぬまま。

 戦場から遠く、それでも戦局の変化をときどきに感じ取り、周囲に鋭く気を配っていた彼は、すぐ横の天幕の陰で、大きなものが動いたことに気がついた。兵士がいるはずもない場所でのかすかな異変に、彼は敏感に反応した。

「誰だ?」

 それでも仲間がたまたまそこにいた可能性も考え、つとめて穏やかにアルサーク語で問いかけた。剣に手をかけたまま天幕に歩み寄った彼は――影の正体を確かめる前に、背中に強い衝撃を受ける。一瞬後には、何もかもわからなくなっていた。うつぶせに倒れた兵士の背中で、小ぶりな弓矢が異様なほどまっすぐに突き立っている。物陰から歩み出た人の手が、その矢を思いきりよく引き抜いた。

「悪いけど、しばらく寝ててよね」

 若い女の声がささやく。弓を脇にどけた襲撃者、つまりモナは、手早く応急処置を済ませる。そこへ、天幕の陰に隠れていたファラーズがやってきた。

「あれ? 殺したわけじゃないの?」

「まさか。眠り薬さ。とびきり強力な、ね」

「さすがモナはおっかないね。さ、そいつは縛っておこうか」

 笑顔でさらりと言うファラーズも少女のことを言えたたちではない。だが、モナは軽く笑って立ち上がった。

「そうだね。さっさと終わらせちまおう」

――そして、間もなく「糧食が燃えている」という兵士の報が、アルサーク陣営を震撼させることとなった。報告を受けたエルハームと副官のマフディは、否応なく恐怖をかき立てる言葉に顔を見合わせた。

「糧食番の兵士は何をしている?」

 何人か番の兵士を置いていたはずだ、と厳しく問うマフディに、兵士がこわごわと低頭した。

「全員が眠らされ、もしくは気絶させられていました。矢傷のある者もおりまして……」

「誰か内通者がいたか、それとも――」

 言葉が終わるより早く、本陣に野太い声が響き渡る。流暢なアルサーク語は、侵入者の存在を知らせていた。


「驚いたな。おまえ、アルサーク語を話せるのか」

「……前に、アルサーク人の商人に習ったんだ」

 シャハーブの弾んだ称賛の言葉に、ビザンはむっつりと返す。アルサーク軍に「侵入者あり」の報を流した彼らは、悠々と後ろから陣営に侵入していた。二人とも、今はアルサーク兵の格好をしている。もっともいつ偽物と看破されるかわからぬ変装だ。だが、それでいい。

「見咎められる前に中へ行ってしまおう」

 ビザンの言葉に「もちろん」と答えたシャハーブは、石の感触を確かめながら歩きだした。「糧食が燃える」騒ぎのおかげで大わらわな本陣の人々は、自分たちとなんとなく違う歩兵に気を配る余裕がないようだった。モナとファラーズはうまくやったらしい。シャハーブたちは本陣の見張りのふりをして悠々と、あるいは淡々と敵国の陣地を進んでいったが、それにも限界があった。前線の情報を伝えるために戻ってきた兵士の一人が、奇妙な同僚に気づいて呼びかける。その瞬間――ビザンの右手が、目にもとまらぬ速さで動いた。彼の手が元の位置に戻る頃には、兵士は気絶して地面に崩れ落ちていた。シャハーブは、思わず、寡黙な男を見上げる。

「おまえ、本当に郷士か?」

「戦士団に入る前は、傭兵稼業をしていた」

「なるほど」と言いつつ、傭兵だったにしても異様な手さばきだろうと思う。暗殺者と言われた方がまだ納得できた。とはいえそんな論争をしていてもしかたがない。二人は顔を見合わせると――思いきって兜を脱ぎ捨てた。不幸にもその瞬間を目にした兵士一人が、ぎょっと目を丸くする。間抜けなその顔に向かい、シャハーブは憎らしい笑顔を見せた。

「そうら、早くしないと侵入者が暴れちまうぞ」

 言うが早いか、二人はそれぞれに武器を持って駆けだす。新たな騒動に、本陣に残っているわずかな兵士たちの間に動揺が広がる。どちらの騒動に先に対応すべきかと右往左往している一人を剣の柄頭で殴りつけたシャハーブは、細く息を吐いた。

「これでフーリが動いてくれるはずだが」

「どうする?」ビザンの低い声が、隣で問うた。シャハーブは妙に尊大にうなずいた。

「とりあえず役目は果たしたから、適当なところに逃げるぞ。つかまったりしたら、笑い話にもならんからな」

 糧食騒ぎの方も、実際に燃えておらず近くで煙が上がっただけだとそろそろ気づかれているだろう。戦場での優位を保つためにも、ここに残ったわずかな兵力は侵入者排除に集中させられる。作戦的には成功なのだが、そのぶんシャハーブたちにとっては危険になるのだ。男二人はそれ以上余計な会話をせず、逃げることと隠れることに全力を尽くそうと走り出した。


「兄者、あたりが騒がしい。戦場ではなく、こちらに変化があったのかもしれない」

 シャンが、険しい声で兄に話しかける。それはクルク族特有の古い言語であったが、フーリは語調とわずかな表情の変化から、彼女が言ったことを察していた。スールが小さくうなずき、さりげなく周囲に視線を飛ばす。

 潮時だ。間もなく判断したフーリは、その場で小さく指を動かした。小指の先ほどの小さな光が舞いあがり、フーリのまわりをくるくると回る。

『あめつちの剣を捕捉した。――これより、地の呪物の破壊任務を遂行する』

 地上のものには聞きとれぬ声を飛ばす。音のない応答があると同時、光が空に吸い込まれて消えた。その瞬間にスールがこちらを鋭くにらむ。フーリは無表情のまま感心した。クルク族の五感はやはり、常人離れしている。

「シャン! そいつを――」

 彼が妹にすべてを言う前に、彼女は動いていた。足踏みひとつで体を反転させると、いつの間ににぎりしめていたのか、長剣を荒々しく振るった。だが、刃が狙ったところに届く前に、天上人の全身をおぼろに白い光が包む。二人が一瞬にもならない間ひるんだ、そのうちにフーリの姿は立ちのぼる煙のようになって消えた。

 アリド氏族の双子は、つい一瞬前まで子どもがいたところを呆然と見た。今はそこに、足跡さえない。人間が来る前の荒野の土だけが、戦場の風に巻きあげられる。シャンは歯を食いしばると、その地面を荒々しく蹴った。

「あんな子どもに出し抜かれるとは……! 何たる屈辱!」

「追おう、シャン」スールは双子の妹にぽつりと言い、己の剣を持ちあげる。憤然としてそれにならう妹から視線を引きはがした彼は、疑念と不安に目を細めた。

「『叡智の館』の主……あれは本当に、人間か?」

 重く低いささやきに、シャンがはっと目をみはる。

「あんなふうに消える人間がいるわけない。だが、それならあれはなんなのだ、兄者」

「俺にもわからん。ただ、ひとつ言えるのは、アルサーク人はとんでもないものを引きこんで、敵に回したということだ」

 アリド氏族はアルサーク国内に集落を作ってはいるが、国に従属したおぼえはない。よって彼らの不始末のしりぬぐいをする義理もないのだが、この双子に関してはそういうわけにもいかなかった。何しろ、当の国に金で雇われているのだから。それに、たとえ見た目だけであったとしても幼い子どもに不意を突かれた事実は消えない。仕事のため、そして雪辱のため、スールとシャンは戦場に向かう兵士の流れに逆らって走り出した。

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