第三幕 日陰に躍れ

第10話 開戦

 地平線に黒々とした影を描く山のむこうから、ひとすじ、ふたすじ、陽光が差し込む。光が夜を払しょくしてゆく様をフーリは無感情な瞳で見つめていた。乾いた風が純白の髪を撫ぜる。彼がいるのは慣れ親しんだ森ではなく、緑の気配すら乏しい平原だ。まわりを見渡せば、緊張と高揚に身をすくませる人々がいて、天幕が珍しく強い風にはためいている。さらにその先には、朝日を浴びて不思議に輝く人の群。ペルグ王国の領土をかすめ取ろうと挑みかかるアルサーク軍の陣中であった。

 戦の直前、その喧騒を無視してフーリは静かに目を閉じた。彼がここにいるのは戦のためではない。あくまで、彼の役目のため。できるだけ早くこの場での役目を終え、立ち去るに越したことはないのだ。己のためにも、彼に協力してくれる人間たちのためにも。

 視覚を遮断し、たどる、たどる。人々の活力あふれる魂の気をかき分けて。ただひとつの異質だけを探る。乾いた大地、太陽の土地、そのただ中にわだかまる雨の気配はどこにある。命の群をかき分けて、先に、〈使者ソルーシュ〉は求めた異質を探り当てる。この世に反逆する者たちの力。ことわりを打ち壊すほどのそれは確かに、剣の形をしていた。

『あめつちの剣』。もたらされた情報が正しかったことを知る。フーリはそこで、探索を止めた。長衣のそでに手を入れて、そこでそのまま力を操る。一個の石を呼びだした彼は、それに力をこめて思念を飛ばした。同じ石を持っている者に、これで得た情報が届くだろう。彼らは動き方をよく知っている。後は無事を願うのみだ。

「館主殿」

 切れのある女性の声に呼びかけられて、フーリは静かにまぶたを上げた。赤い布で顔全体、目もと以外を隠したエルハームがそこにいた。エルハームには、シャハーブから貰った名も〈使者ソルーシュ〉であることも告げていない。故に彼女はフーリを「館主」と呼ぶ。

 それはともかく、彼女が平服であることにフーリは奇妙な感じを抱いた。ささやかな疑問を〈使者ソルーシュ〉は躊躇せず口に出す。

「あなたは戦いに参加しないの」

 彼女のまわりにいた者たちが、明らかにひきつった顔でフーリを振り返った。しかし、当のエルハームは苦みの混じった笑みを見せるだけだった。

「私が戦場に立つということはすなわち、戦いの終わりか敗北を意味します。時が来るまで、私は力を溜めておかねばならぬのです。……悔しいことではありますが」

 フーリは同情するでも否定するでもなく、ただうなずいた。きっと、彼女もモナと同じなのだ。

「私などのことよりも、重要なのはあなたのことです、館主殿」

「僕?」

 首をひねったフーリはそこで、エルハームの背後に人がいることに気づいた。おそらく男と女。どちらも、若い。といってもモナほど未成熟ではなく――シャハーブや、三日月刀シャムシールの男、ファラーズだったか、彼らと同じ年のほどに思える。どこか無骨な顔と浅黒い肌は、それだけでも獣のような猛々しさを醸す。さらに鍛え抜かれた体と油断のない身さばきが、彼らを尋常ならぬ戦士に仕立てているようだ。その割には、エルハームとよく似た軽装で――その立ち姿に、天上人の記憶が軽くくすぐられる。

 透き通った瞳が、二人を見たことに気づいたのだろう。エルハームは人当たりのよい微笑を浮かべ、体ごと振り返った。彼女が二人になにかを手ぶりで示すと、二人はしぶしぶといった様子で前に出る。

「ペルグ軍が館主殿に気づくことはないでしょうが、あなたに万一のことがあってはいけない。この二人を護衛につけます」

「護衛」繰り返したフーリは、続けて「ありがとう」とささやいた。

 形だけの礼である。この女性の百倍は生きている彼にはわかっていた。彼らは、護衛という名の監視だ。

 慇懃に礼を示したエルハームは、それから男女を振り返り、「ご挨拶せよ」と鋭い声をかけた。二人はなおも不満そうだったが、それでも口を開いた。

「アリドジャーナの戦士アチャルの息子・スール」

「同じく戦士アチャルの娘・シャン」

 はじめに男が、次に女が名乗る。アリド氏族ジャーナ、その名を聞いて、フーリの頭の中で記憶が弾けた。

「君たち、クルク族だね。アリド氏族はアルサーク南部に集落を構えている」

「……そのとおりだ」スールが軽く目をみはって肯定する。それから、小声が続いた。

「引きこもりの子どもの割にはよく物を知っている。『叡智の館』の主というだけはあるか」

「スール、無礼だぞ!」

 敏感にもスールの独白を聞きつけたエルハームが、叱責する。しかしよく似た顔の男女はそよ風が吹いたほどにも動じない。スールは傲然と女戦士を見おろした。

「言葉が悪かったか。これでも褒めているつもりだがな。おまえたちアルサーク人に比べれば、我々を理解しようという姿勢が見える――という意味で」

 女戦士だけでなく、他のアルサーク兵も一瞬舌打ちしたそうな顔になる。しかし、エルハームは咳払いでそれをごまかした。「ともかく、時が来るまでこの方をお守りするのだ。よいな」と呼びかける。二人は声で応えこそしなかったものの、アルサーク式の敬礼で応じた。

 力強い足音が遠ざかり、たなびく長衣も、やがてくすんだ空気の先に消える。エルハームの気配が完全に遠のくと、若々しい女の声が乱暴にフーリを呼んだ。シャンと名乗った娘が、彼をにらみつけている。

「変な動きをしてみろ。そのときは首を刎ねてやる」

「……君たちの役目はわかっているつもりだ。もっとも、君たちに僕は殺せないだろうけれど」

 フーリは平然と返す。そもそも、彼に心の揺らぎはほとんどない。シャンは憎らしげに顔を歪めたが、それすら一顧だにしなかった。すぐに自分の思考にもぐりこむ。

 彼に心の揺らぎはない。先の言葉も挑発ではなく、明らかな事実だ。地上の人間に天上人は殺せない。人間が彼を殺せる条件はひとつだけ。それを教えるつもりも当然、ない。ただ、彼らの身体能力と五感が侮れないのもまた事実。先のように思念を飛ばすときは、より慎重にならなければいけない。

 周囲の喧騒をよそに、殺意に満ちた沈黙が長く続いた。光と青が天の支配権を完全に奪い取った頃――前方から響く声が、ふいに、熱をはらんだ空気を叩く。

「――偉大なる英霊の魂よ、天地を司りし精霊よ、我らを守りたまえ!」

 軍のちょう、だろうか。聞きなれない男の声に続き、アルサークの兵たちが鬨の声をとどろかす。フーリが聴きとることのできた、それが唯一の開戦の合図だった。


 フーリが「護衛」たちと引き合せられた頃。シャハーブたち四人は、両軍が布陣している平原の西側に位置する岩場で身をひそめていた。高みから戦場の様子を見ることのできるこの場所は、どちらの陣営にも悟られず動かなければならない彼らにとって絶好の隠れ場だった。

 慌ただしく開戦準備の進む平原を岩陰から見おろしたシャハーブは、われ知らず顎をなでる。

「さてさて……まだ出るには早いかねえ」

 彼の呟きに呼応するように、彼の肩越しに少女が顔をのぞかせた。

「『あめつちの剣』は本陣近くにあるんだよね」

「ああ。そこから『動いていない』そうだ」

「誰かが持ってるわけじゃなくて、本陣に置いてあるってこと?」

「そうだろうな」しかつめらしくうなずきながら、彼は剣と一緒に下げている小袋の中をまさぐった。透明な小石を取り出し、ながめる。ただの石より宝石に近い透明感を持つそれは、よく見ると石の中に模様が浮かんでいるのがわかる。フーリが出て行く前にシャハーブたちに手渡したもので、これを持っていると離れていてもフーリの「声」を受け取ることができるという、便利な代物だった。はじめてそれを聞いた時、ビザンが「天上人アセマーニーの力は底が知れぬ」とうなっていたが、四人全員似たような思いだったろう。

「呪物がフーリくんの近くにある……ということは、作戦その二で動くわけだね」

 ファラーズの確認に、シャハーブはうなずいた。

 呪物がどこにあるかでフーリの動き方が変わるため、彼らはあらかじめ複数の作戦を立てていたのである。そのうちのひとつを、シャハーブが頭の中で思いかえしていると、低く落ちついたささやきが広がって、三人の注意を引きつけた。

「問題は、天上人アセマーニーの監視につくのが何者か、という点だな」

 ささやきの主は、ビザンである。彼の言葉に一人だけ、首をかしげた者がいた。「どういうこと?」と、投げかけられた少女の声に、シャハーブは戦場から目を離すことなく応じる。

「あのエルハームという奴は、フーリが『あめつちの剣』を狙って陣営に来たことに勘付いている」

「えっ?」

「というより、そもそも奴は『あめつちの剣』を、フーリを引きこむための餌にしたんだ」

『叡智の館』でのやり取りをシャハーブが直接すべて理解することはできなかった。だが、フーリからおおよそは聞いている。エルハームの口ぶりからして、彼らは、彼らが「器」と呼ぶもの――呪物――が『叡智の館』にあると最初から知っていた。そして、館の主であるフーリが「器」に対して強い関心を持っているであろうことも。そして、あの館でのフーリの反応、その後の返答から、フーリが「アルサークが持つ『器』」に食い付いたことを確信した。

「そもそも、連中がおかしな剣を持っていることはペルグ国内ですでに噂になっている。普通なら、馬鹿のひとつ覚えみたいにその剣ばかり使うなんてことはしない。だが、奴らは館の主の協力を得るために、あえて剣を持ってきたんだろう。

……奴らがどこまで知っているかはわからん。だが、少なくとも、フーリが『あめつちの剣』にちょっかいかけようとしていることはわかっている。だとすれば、フーリを野放しにしておくわけがない」

 視線を動かさず、それでも芝居がかった口調で語る。彼の声がとぎれると、モナはようやく小さな妖精のおかれた状況をのみこんだのか、いっそう表情を引き締めた。そんな彼女をファラーズが小突く。

「モナが思い詰めてもしかたないだろ。フーリくんは全部承知で飛びこんだんだから」

「……そう、だね。だから、あたしたちがうまくやんないと」

「そういうこと」ファラーズが笑う。そのとき、宝石のような石が淡く輝きだした。急に熱を帯びた石をとっさににぎりしめたシャハーブは、いったん眼下の光景から視線を引きはがし、石を注視する。

 全員が息を殺した静寂の中――彼らのうちに、幼い声が響いた。

『僕に護衛がついた。情報を知らせておくよ』

 四人は顔を見合わせる。シャハーブが「護衛という名の監視だな」と呟くと「そうだねえ」と、ファラーズが軽くうなずいた。彼らのやり取りを無視して、声は続いた。

『人数は二人。二十代半ばの男性と女性――顔がよく似ているから、双子かもしれない。彼らは、アリドジャーナと名乗った』

 戦士団の男たちの顔に、強い緊張が走った。

「アリド氏族ジャーナ……クルク族か!」

 モナが息をのみ、シャハーブまでも困ったふうに頭をかいた。

『エルハームも彼らも僕を警戒している。僕自身は彼らの目を欺くことは難しくないけれど、君たちには危険な状況だと思う。陽動のときもじゅうぶんに気をつけて』――ささやくような言葉を最後に、声は切れた。気まずい沈黙が少しの間、場を支配した。このような沈黙を誰より嫌う男が、まっさきに口を開く。

「まいったな、本当にクルク族がいるとは。たちの悪い憶測ほど、真実になるから怖いんだ」

「ねえシャハーブ、ビザンを盾にして逃げる気じゃないよね?」

「そうしたいのは山々だが、後からおまえたちに殺されそうなのでやめておこう」

 目をすがめる少女ににらまれて、シャハーブは肩をすくめた。名前を出された男が不思議そうな顔をしたが、二人ともわざわざ不快にさせることを言うつもりはなかった。少々悪質な冗談を砂混じりの風に流す。シャハーブは、再び戦場に目を転じた。陣形は整い、それぞれの軍が開戦近くの緊張感にはりつめている。遠くの岩場にまで伝わる鋭い空気を浴びて、四人は静かに、岩陰を離れた。

「まあ、ここまで来てぐだぐだ言っていても仕方がない」

 小柄な男が、三日月刀シャムシールの鞘を叩く。他の剣と弓も、静かに鳴った。

「〈使者ソルーシュ〉どのは自分の身を自分で守れる。大事なのは俺たちが生き残り、役目を果たすことだ」

 シャハーブの言葉に、誰からともなくうなずいた。開戦前の硬直状態にある平原を見下ろした男は、とどめに不敵な笑みを刻んだ。

「さあ、一丁はでに暴れてやろうじゃないか」

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