マーレファ奇譚

蒼井七海

第一幕 砂塵とともに

第1話 噂

 ひとつの戦争が終わった。

 砂漠だらけの小国と肥沃な大国が争って、小国が勝った。

 大陸各所にもたらされた一報は、人々をざわつかせた。

 戦争は日常だ。弱き方が強き方に勝つことは、まれではあったが、皆無ではない。言うなれば、海の中にさざ波が立つ程度の、ささやかな変化である。それでも人々は、驚愕した。信じられぬと目をむいた。

 戦を終わらせ、弱き方に勝利をもたらしたのが分厚い雨雲で、その雨雲がひと振りの剣を掲げたときに呼び起された――と聞けば、人々が自分の耳を疑うのも、しかたのないことだろう。



     ※



 戦争が日常ならば、戦の弊害たる諸々の出来事も、また日常になってゆく。例えば、侵略行為によって人が住む場所を失うこと。その人々がよその国へとのがれること。のがれた先でも食うに困って、盗賊と化す者がいること。運悪く、彼らの縄張りを通りかかった人が、彼らに襲われることも、またしかり。

 急な山道が終わりを告げて、細い街道が遠くに見えはじめる、岩だらけの小道で、賊となってしまった三人の男たちは、比較的身なりのよさげな若者二人を見かけるなり、さっそく彼らを獲物と定めた。取り囲み、武器をつきつけ恫喝する。今まで散々繰り返された一連の動きは、いっそ感嘆するほど鮮やかであった。

 街道の先に織物を売りに行こうとしていた若者二人は、蒼ざめた顔で賊たち一人ひとりを見やる。狭い場所で前後も完全にふさがれて、逃げることなどできそうになかった。あいつらの言うとおりにしよう、死ぬよりましだ、と一人がもう一方にささやきかける。もう一人がうなずきかけた、そのとき、はりつめた沈黙が破られた。

「そこを通してもらえないかねえ」

 のんびりとした声が響く。その瞬間、お互いの関係すらを一時忘れて、誰もが声の方を振り返った。

 盗賊の背後をとる形で、一人の青年が立っている。飾り気のない帽子をかぶり、これまた飾り気のないマントをはおっているが、相貌そうぼうは同性の彼らですら息をのむほど整っている。世の女性をのぼせさせそうな瞳はしかし、今はどこか気だるげな光を漂わせていた。

「ただでさえ狭苦しいところに、むさい男ばかりが集まってごちゃごちゃと……暑苦しいったらありゃしない」

 青年は突然、だるそうに呟いた。あまりにひどい言い草に、その場の全員が言葉を失う。だが、すぐに、盗賊たちが顔を赤黒く歪めた。「いきなり現れてその態度はなんだ、てめえ!」と、背後をとられた男が怒鳴って、体ごと振り向いた。言い分はもっともだが、今の彼の立場と、この青年がまったく悪びれなかったことが、彼に災いした。若者たちに突きつけていた剣をそのまま振り抜こうとした男はしかし、その直前でびくんと震えて、固まった。硬直した体はすぐに、糸が切れたかのように力を失い、崩れ落ちる。赤い線が、宙にその軌跡を描いた。

 残る二人の盗賊は、慌てふためきその一人に駆け寄った。胸から血が流れていることに気づいた彼らは、唖然として青年を見上げる。青年は、顔色ひとつ変えず、マントの下に隠していた剣を抜いていた。刃先はすでに赤い。

 盗賊たちの顔がひきつっても、青年はやはり余裕を崩さない。かわりに、身を寄せ合って震える若者たちを一瞥し、音を出さずに唇だけを動かした。

「さっさと行け」という言葉をくみ取ったかはわからない。ただ、若者たちが転がるように道を駆けていったことは、確かな事実である。その背を見送るより先に、青年は盗賊たちをにらみすえた。

「さて、ここで死ぬのと後から死ぬのはどちらがいい? 一度だけ選ばせてやるから、早く決めろ」

――結果として、生き残った二人は、涙目で逃げだした。青年は今度こそ、とがった岩の先に消えてゆく背中を見送って、ため息をつく。

「俺だってなあ、恨まれたいわけじゃないんだぜ。だが今回は、邪魔をしていたおまえらが悪い」

 彼らに届くはずもないのに、大声で言う。それから少しの間、重い空気にひたっていた青年だが、すぐに気を取り直すと、街道の方へ歩いていった。

 彼は、旅をしながら何者にもなる。時には用心棒、時には詩人。場合によっては彼自身が、盗賊のまねごとをすることさえもある。彼を彼たらしめるのは、意志と自信と、シャハーブという名前だけだった。


「なんだ、おまえたち。逃げていなかったのか」

 街道に出た途端、見覚えのある若者二人に呼びとめられ、シャハーブは目を丸くした。彼らは困ったように顔を見合わせ、はにかみながらも笑みを浮かべた。

「お礼も言わず立ち去るのはどうかと思いまして……助けていただき、ありがとうございます」

「それを言うためだけに危険地帯に残るとは。律儀な男どもだ」シャハーブは小声で呟き、肩をすくめる。目の前で人を殺した相手にお礼を述べられる者も珍しい。呆れはしたが、悪い気はしなかった。

「何かお礼がしたいのですが……」と言う二人は、けれどばつが悪そうだ。顔色から、彼らの懐事情を読みとったシャハーブは、あくまで愛想よく手を振る。

「ああ、気にしてくれるな。どうしてもというのなら、屋台の飯でもおごってくれればいい。エルデクは、青空市場バザールが盛んだと聞くし」

 若者たちは、互いの驚いた顔を見合ったあと、嬉しそうにうなずいた。シャハーブも満面の笑みで応える。何しろ一食分のお金が浮くのだ、嬉しくないわけがなかった。

 ほどなくして三人は、エルデクという街についた。ペルグ王国西のマーレファ地方、海をのぞむ街道の途中に広がる町である。緑はとぼしく人口もさほど多くない町だが、時に新鮮な魚介類も並ぶ青空市場バザールは有名で、これを目当てにわざわざ訪れる者も多かったという――少し前までは。

「近頃は、アルサークとの戦でどこもかしこも大変ですから。いつ、ここにも奴らが攻めてくるかわかりませんし」

 若者のぼやきに、シャハーブは首をひねる。約束どおり、彼は青空市場で食事をおごってもらっていた。彼が目をつけたのは、串にさして焼いた魚に、香辛料をきかせたものだ。

「戦争で大変なのは確かだが、エルデクはそれほど危険じゃないだろう。戦場からはかなり遠いぞ」

 魚を器用にかじりながら、シャハーブは若者たちをうかがう。彼らは、表情を引き締めた。

「仰る通り、なのですが。今、ある噂が立っているのです」

「噂? いったいなんだ」

「アルサークが、『えいの館』を狙っていると……」

「――ほう」

 退屈に沈むばかりであったシャハーブの声が、唐突に、喜色を帯びた。

「まるで、はかったかのようだな。ちょうど俺は、その『叡智の館』を見にきたのだが」

 魚をかじってからそう言えば、二人は目を丸くする。


 エルデクのさらに西、ペルグ屈指の広さと深さを誇る森の中に、その館はあるという。いつの時代の物かはわからぬが、かなり古い館。そのなかには、首都の図書館にも負けぬ数の本があり、大陸の数々の伝説に登場する大賢者の著書も、含まれているらしい――そのようないわれから、館は、『叡智の館』と呼ばれるようになった。実際、そこを訪ねた人々が館の蔵書らしきものを持って帰ってきた、という話もある。


 道中でそんな噂を偶然聞きつけたシャハーブは、たまには探検も悪くないと、軽い気持ちでエルデクまで足を運んだのである。

「しかし、なぜ、アルサークの連中がそんなところに目をつけた? 貴重な館かもしれんが、奪ってもうまみはないだろう。せいぜい、森とその周辺地域を押さえられるくらいだ」

 くだんの森じたいは、なぜか実のなる木がほとんどなく、ゆえに動物も見かけないらしい、と彼は道中で聞いていた。率直に疑問を向けると、若者たちは、さらに声をひそめた。

「奴らが狙っているのは森ではないらしいのです。なんでも、『叡智の館』の中にある、全能の書を手に入れるため、だとか」

「全能の書? 急にうさんくさくなってきたな」

 シャハーブは呆れ、意図せずひっくり返った声を出してしまった。若者たちも自信なさげなので、本気にはしていないのだろう。だが、そんな話を、強国といわれるアルサーク王国の人間が信じこんでいる、というのが、どうにも気にかかった。

 しばらく後、若者たちと別れると、シャハーブは北西方向に町を抜けた。むろん、噂の森に行くためだ。馬を買うだけの金がないのでしばし徒歩だが、森まではそう遠くないはずなので、彼はさして心配していない。今にも鼻歌を歌いだしそうな調子で、歩きだした。

 色にとぼしい道は静かだ。さびしげにたたずむ木々を遠目に見つつ、シャハーブは順調に歩を進めた。太陽の位置がさほど変わらないうちに、地平線の向こうに、これまでの大地からは想像もつかぬこんもりとした緑が見えてくる。目的地を間近にとらえ、気合を入れたシャハーブは、しかしそこで足を止めた。息を殺して耳を澄ます。乾いた風のうなりに混じり、かすかだが、砂を踏む音がした。蹄の、特有の高音が混じっている。視線だけであたりを確かめたシャハーブは、偶然目をとめた木の陰に、さっと身を隠した。しばし息をひそめていると、道の上を人馬の影が通りすぎていく。わずか二騎、荷物もさほど多くない。馬はよくしつけられているようだが、訓練されているわけではなさそうだ。馬蹄の響きが、右から左へ通りすぎてゆく。馬の影を見送ったシャハーブは、姿が消えて音も聞こえなくなると、「やれやれ」と呟いた。

「妙な臭いがすると思ったんだが……気のせいかね」

 わずかに首をかしげたシャハーブは元の道に戻ろうと身を乗り出しかけ、途中でやめた。岩のような木の幹に、ふと視線がとまる。シャハーブが手を触れたその場所に、削った跡があった。よく見てみると、それは、文字。短く何かが書いてある。

「このあたりの文字、ではないな」

 やけに流麗で装飾じみた文字は、西の大国ヒルカニアで使われるファルーサ文字によく似ていた。しかし、すぐに違うと気づく。形や文法はよく似ているが、ところどころ、見慣れぬ字形が混ざっている。右から左へ文字をなぞっていたシャハーブは、目を細めた。

 ファルーサ文字によく似た文字を使う国を彼は知っていた。

「アルサーク語か?」

 アルサーク王国は、ここペルグ王国より南東にある砂漠の国だ。かわいた大地という点では、ぺルグの中央から東も似たようなものだが、かの国はいっそう、岩と砂に覆われていると聞く。シャハーブはまだアルサークに足を運んだことがないが、ここ最近の急激かつ苛烈な侵略行為のおかげか、いけすかない国という印象がぬぐえずにいた。

 そのアルサークは、近年、あちらこちらに戦争を仕掛けて少しずつ領土を広げている。ペルグもその目から逃れることはできなかった。今まさに、断続的に続く戦争の真っ最中だ。ただし、肝心の戦場は、正反対の国境付近。戦場から離れた地に、アルサーク人がいるとすれば、たまたまこの国に住んでいる者か――密かに送りこまれてきた者である可能性が高かった。彼らが『叡智の館』を狙っているというのなら、斥候の一人や二人、いて当然。シャハーブの勘は外れていない。なかなかに、きな臭いことになっているらしい。

 だが、当人は、軽くかぶりを振ると、木の幹の文字を放って、木陰から飛び出した。

「俺が気にしてもどうにもならんからな。ひとまず今は、『叡智の館』だ」

 のん気にうそぶいた彼は、こうして再び、森に向かって歩き出す。見上げた空は、淡くくすんだ青色だった。

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