第2話 邂逅

 夏の盛りも近いこの時期、ペルグ全土が焼けつくような熱気に包まれる。だが、森の中に入ったとたん、その熱気がふとやわらいだ。シャハーブは、精霊に騙されたかのような感覚にひとときとらわれて、それからこみあげた楽しさに笑みをこぼした。――暑さがやわらいだのは、おそらく木々のせいだけではない。それにしては唐突で急激な変化だった。

 ペルグにおいて――もっといえば、この大陸東部において――貴重な生命の苗床であるはずの森は、奇妙なほどに静かであった。鳥の一羽、鼠の一匹はいそうなのだが、そういった生き物たちもまったく姿を現さない。人間を警戒しているにしては、気配がなさすぎた。先ほどの急激な変化といい、この静けさといい、『叡智の館』が本物かどうかは別にして、この森はどうも、普通ではないらしい。

「まあ、そうでなくてはおもしろくない。こんなご時世にわざわざ足をのばした甲斐がある、というものだな」

 誰にともなく呟いて、シャハーブは森を行く。

 森が静かであるからか、それとも何かのまじないでもかかっているのか、進んでゆくうちに、時の流れがわからなくなってくる。シャハーブは、時折空を見上げてみるも、黒々として伸びた木々に空が覆い隠されてしまっていて、時も方角も知ることは叶わない。代わり映えのしない森の小径で、青年はついに足を止めた。

「ふむ。『叡智の館』らしきものも見えんし、これはいったん引き返すべきかな?」

 シャハーブは自問した。その声がしぼむほど、彼の中には暗雲が立ち込めている。彼の勘はこれ以上進むなとうるさく警鐘を鳴らしている。だが、同時に、この森には何かある、とささやいてもいるのだ。この場合どちらの勘に従えばよいのか、さすがのシャハーブにもわからない。

 少しだけ悩んで、一度、森の入口まで引き返すことに決めた。踵を返そうとしたそのとき、しかしシャハーブは剣に手をかける。抜くことはせずに木立の薄闇をにらんでいると、草が揺れ、小枝の折れる音がした。それ以上の響きはなく、影がぬっとにじみ出してくる。三つの影が、ゆるやかに青年を囲んで立ちのぼった。

「それ」は獣の形をしているようだった。狼のように見えるが、口腔の隙間からは長い牙がぎろりと二本、のぞいている。まなこは蛇のように細く、そしてやはりうなり声のひとつもなく、目前の人間を見つめていた。

 六つの目に見つめられた青年は、とうとう抜剣して静かに構える。

 今まで見たこともない動物を前にして、豪胆な彼もさすがに警戒した。

 そもそも――これは本当に、ただの動物だろうか。

 脳裏に瞬いた疑問をシャハーブはすぐに打ち消した。動物だろうと怪物だろうと、襲いかかってくる以上はこちらも立ち向かうのみである。やはりひとつの音もなく足をたわめた獣たちを、鋭さをちらつかせた瞳がにらんだ。

 刃と牙が、戦意と敵意が、交わろうとしたそのとき。

 突然、日が落ちたかのように、あたりがふっと暗くなる。獣たちは警戒態勢のまま動きを止め、シャハーブは静かに目をむいた。

「お待ちよ、君たち」

 どこからか、声が響いてくる。流暢なペルグ語をつむぐ音は、甘やかで高い、子どものそれだ。シャハーブはますます困惑したが、さらなる追い打ちをかけるかのように、森の奥から人が姿を現した。

 白い子どもだった。

 肌は日焼けも汚れも知らぬとばかりに透き通っていた。肩口で切りそろえられた髪の毛は、白髪よりもさらに白い。まとう長衣も、また純白。

 人形のように顔立ちが整った子どもは、少年か少女か判断がつかない。「彼」は静かに歩いてくると、獣たちの前で足を止めた。

「大丈夫。退いていい。彼からは、この森への敵意を感じない」

 獣たちは、一瞬、全身を震わせる。それからは、シャハーブへの一切の興味を失ったかのように、森の先、草木の中へと姿を消した。すっかり言葉を失ってしまったシャハーブは、再び草木が沈黙すると、佇んでいる子どもを、体ごと振り返った。

「……おまえ、何者だ」

 子ども相手というのに、問う声は低くなった。だが、シャハーブは、まずいと欠片も思わなかった。この子もまた、ただの子どもではないかもしれないのだ。警戒はしておかねばならない。万が一彼が魔物か何かだった場合、ただの人間であるシャハーブが対抗するには限度がある。

 青年の、そんな憂慮と警戒をよそに――あるいは、見すかしていてなお――子どもは、無垢な表情のまま、一歩を踏み出しだした。

「僕? 僕は――」

 考えるように沈黙した後、子どもはつぶらな瞳でシャハーブを見上げる。

「僕は、この先の館の管理人だよ。今は」

「館? それは、まさか『叡智の館』か」

「外の人間たちはそう呼んでいるらしいね」

 子どもの声はよどみない。それどころか、感情による揺らぎもない。ただ、決まった文章を読み上げるだけのような声音に、男はうすら寒さをおぼえた。ただ、実際はどうかわからぬが、相手は子ども。内心を表情には出さず、ただ「これは驚いた」と肩をすくめた。そんなシャハーブを見、子どもは唐突に口の端を持ち上げた。心はこもっていないが、一応、笑ったようだった。

 す、と白い手が胸の前に出てきたものだから、シャハーブは目を丸める。子どもが先刻よりも明るい瞳で、見上げてきていた。差しだした手を、そのままに。

「ここへ来るまで、不安だったでしょう。この森は僕の力のせいで、少し特殊な場所になっているから。――館で、休んでいくといい」

 淡々とした誘いに驚いて、シャハーブは白皙の子どもを見つめた。

「いいのか? そんなにあっさり、他者を招き入れて。俺が蔵書を狙う盗賊だったらどうする」

「そうだとしたらすぐにわかる。でも、君は何もたくらんでいない。その感じ、僕の友人に似ている」

「ほう」シャハーブは、わずかに眉を上げた。こんな浮世離れした子どもにも、友と呼べる相手がいたことに、感心する。

「それに、館の蔵書は僕だけのものではない。客人に貸し出すこともある。君がそれを望み、借りたものを返しにくると約束するなら、僕は君に応えよう」

 曇り空のようにも、鋼の色のようにも、雪のようにも見える瞳が、理知的な光を帯びて、男の瞳をのぞきこむ。

 心をこじ開けられるような透徹に、シャハーブは久しく感じていなかった恐怖を思い出した、気がした。

 けれどその恐怖は、子どもの無機質な笑顔に打ち消されてしまう。

「『叡智の館』に来るといい、客人まれびとよ」

――ささやく声は、やはり、恐ろしかった。ひょっとしたら戦争よりも、悪魔の嘲笑よりも、ずっと。


 けれども、シャハーブに行かないという選択肢はなかった。もともとが、『叡智の館』を確かめるための、数か月の旅である。館の主人が招いてくれるのだから遠慮なく、と、シャハーブは子どもについていった。

 華奢で色白で、外になどほとんど出そうにない子どもだが、森を行く足取りはしっかりとしていた。それどころか、遅れて気づいたが裸足である。シャハーブは珍獣を見るような気持ちで子どもの背に問いを投げた。

「おい、そんな足では怪我をするのではないか」

「え?――ああ、これなら大丈夫だよ。僕が『こちら』で怪我をすることは、ないから」

 子どもは、答えてから、ほんのわずか声を弾ませる。

「懐かしいな。昔、オーランにも同じ心配をされた」

「オーラン?」

「僕の友人」

 無感情な問答の終わりに、シャハーブは得心してうなずく。「友人」は幸いにも、まともな感性を持った人間だったらしい。だがそこで、シャハーブは胸を刺した違和感に気づき、目を細める。言葉を続けようと口を開きかけたが、すぐにやめた。森がひらけてきて、場違いに大きな建物が見えてきたからだった。

 ともすれば貴族の館に見えるそれは、けれど庭を持っているわけでもなければ、立派な門があるわけでもない。こんな人の寄りつかぬ森ではそれも不要だろう。しいていえば、この開けた空間が庭で、あたりを囲む木々が門というところだろう。

「それで、こいつらは門番……といったところか?」

 シャハーブは、正体不明の動物の影をにらむ。狼に似た造作の彼らは、いつからいたのか、木々の隙間からシャハーブを見つめていた。警戒はされても、襲われはしない。こいつといるせいだろうと、シャハーブは子どもの白い頭を見おろした。視線に気づいたのか、子どもが振り返り、見上げてくる。

「大丈夫だよ。彼らは君を襲わない。乱暴者が入ってきても、僕はなんとかできるけど、どうしても侮られるから、いつも彼らに見張ってもらっているんだ」

「ふむ。やはりそうか。……って、なんとかできるのか? その細い体で」

 シャハーブが怪訝に思って問うても、子どもは無機質な微笑をたたえるばかり。調子を崩された男が頭をかいていると、子どもは衣の裾を躍らせて、歩きだした。

「僕一人の身を守るなら、どうということはない。ただ、蔵書に手を出されると困るんだ。友人からの預かり物がほとんどだから」

「友人……オーラン……」

「そう」

「おまえ、ひょっとして」シャハーブの声を今度は子どもがさえぎった。館の扉の前で立ち止まった彼は、ほのかな感情だけを瞳にのせて、振り返ったのだ。そのまなざしは、おそらく、半分くらいはここではないどこかに向いている。

「ようこそ、『叡智の館』へ。管理者として君を歓迎しよう。――ただし、中の蔵書の扱いは慎重に。ここはオーランの知を守るための砦でもある。それをゆめゆめ忘れぬよう」

 子どもは、うたった。

『叡智の館』の主として。

 そして――

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