第二幕 天地の呪物

第5話 訪客

 無数の書を収める棚が、無数に並ぶ広い部屋。その戸口に顔を向け、白い子どもは佇んでいた。

 フーリ、という名をもらったばかりの家主は、無粋な客の訪れを静かに待ち続ける。

 目を閉じ、外へと意識を向けた。声のない森。ざわめく木々。そこへはじめて、別の音が割って入った。人の音。そして、警戒を強める『彼ら』の声。フーリは、『彼ら』へ、呼びかけた。

『下がって、大丈夫』

 少しの間のあと、反応があった。森の番をしてくれている幻影の獣たちは、ためらいながらも退き、おそらくは森の中から姿を消した。薄らぐ気配をつかみとり、フーリはほうっと息を吐く。それからはまた、静かに待った。

 待った時間は、そう長くなかっただろう。扉の前に、人の気配。大きいのが、二つ。だが、問題ない。『叡智の館』の主をおびやかすほどのものではない。薄く目を開き、彼は扉に指を向けた。

「どうぞ」

 彼が小さく声を放つと、それに反応した扉がひとりでに開く。その先には、闇を背にした人間が二人、いた。女と、男。どちらも頭に布を巻き、丈の長い服を着ていた。武器は見えない。隠しているだけかもしれないが、少なくとも、最初から刃を向けにきたわけでは、ないだろう。

「ようこそ、招かれざる者よ。ここは、『叡智の館』だ」

 フーリが、朗々とした声で謳うと、二人は瞠目した。そして、男の方が息をのんだ。

「用件をうかがおう」

 緊張をまとった沈黙。その後、女の方が踏み出してきた。顔まで覆っていた布を頭の上できれいにまとめた彼女の顔を、フーリはようやく見られた。太い眉と長いまつ毛、その下の大きな黒い瞳が、ひたとフーリを見上げてきた。意志の強さを感じるまなざしに、けれど人ならぬ子どもはひるまない。

 彼女が強い目をしたのは、わずかな間のことだった。すぐに、恭しく跪いてきたのだ。砂塵に汚れた布が、ほんの少し垂れ下がる。

「突然の無礼をお許しあれ、『叡智の館』の主殿。私はアルサーク王国の戦士、エルハームと申す。此度は、ペルグ王国との戦のため、先発斥候部隊の隊長として参った次第でござる」

 エルハーム、とそう名乗った女は、彼女よりやや遅れて跪いた男を一瞥すると、「こちらは副官のマフディと申す」と、鋭い声を発した。男はどちらに対してか、恐縮したように頭を下げた。フーリは二人を感情のこもらぬ瞳で見おろしながら、太陽がいた時間の、シャハーブとの会話を思い出していた。

 彼に人間のような名前をくれた青年は、ついでのように旅の話を聞かせてくれた。すると、自然に現在の情勢もわかってくる。アルサーク王国が侵略によって領土を広げていること。今はペルグ王国と戦争をしていること。そして、そのアルサークがどういうわけか、『叡智の館』に目をつけていること。

「『全能の書』がどうのと、馬鹿げた噂が流れていたのだがな」

 シャハーブはそう言って首をかしげていた。そのときはなにも教えなかったが、フーリには心当たりがある。

――やはり、彼に隠れていてもらって、よかった。フーリはそうっと息を吐くと、二人を見下ろして言葉を継ぐ。

「戦争のために来た人が、ここになんの用だい。先に言っておくと、僕は戦争に介入する気はない。僕は、人の営みに介入すべき存在ではないんだ」

 今までと違い、いつもの口調で問うと、二人は大きな目をさらに大きく開いた。ややして、エルハームが口を開く。

「主殿の御手をわずらわせるつもりはござらぬ。ただ」

「ただ?」

「『器』をお貸しいただきたい」

 フーリは眉を跳ねあげた。数十年ぶりに剣呑な空気をまとう子どもを、マフディがこわごわと見上げる。エルハームも冷たい汗をかいていたが、一歩も退かず、硝子玉のような瞳をにらんでいた。

 フーリは、静かに目を細める。

「なるほど。『全能の書を探している』という流言を隠れみのにしたのか。――まあ、こちらも『書』の噂を流したのはわざとだから、他者のことは言えないけれどね」

 人間たちから、答えは返らない。フーリは、淡々と続けた。

「君たちにあれを貸すことはできない。それは、僕らの取り決めに反することだ」

「あなた方の……取り決め?」

「君たちが知るべきではない」

 うかがうような女の問いを、フーリは一言で切り捨てる。その上で、さらに問いを重ねた。

「それよりも、君たちはあれの存在をどこで知った? 君たちが『器』と呼んでいるそれは、見つけようと思って見つけられるものではないはずだよ」

 先発隊の副将が、物言いたげに太い眉を寄せる。エルハームが彼を手で制して、フーリを見上げた。

さいを明かすことはできぬが……本国にて、実物を見せられ、教えられた、とだけお答えしておく」

「なんだって?」フーリは今度こそ、瞳に驚きをにじませた。さざ波のような動揺に気づいたのか否か、エルハームは膝を折ってこうべを垂れたまま、それでもどこか高圧的な目で子どもを見上げた。

「あなたにも立場があろう。明日、もう一度おうかがいするゆえ、そのときに返答をお聞かせ願いたい」

「いいだろう」

 フーリは、一瞬考えてからそう言った。返答を得るなり二人のアルサーク人は立ち上がって、あくまでも礼儀正しく頭を下げたのち、身をひるがえした。フーリは念のため『彼ら』を呼びもどしながら、高慢な来訪者を見送った。

 二人の姿が扉の先に消えたのを確かめて、閉じる。重々しい音が消える前に、小さな背中を陽気な声が叩いた。

「なあるほど。うさんくさい噂を流した張本人だったんだな、フーリ」

 騙された形だというのに、声には怒りも呆れも悲しみもない。ただ、すごく楽しそうだった。フーリはそれを不思議に思いつつ、振り返る。いつの間にか本棚の隙間を縫って、シャハーブがこちらに歩いてきていた。

「怒らないんだね」

「当然だ。怒る理由がない」

「『全能の書がある』という噂を流したのは、正確にはオーランだ。これくらい適当なことを言っておいた方が、本当のことをごまかせる、と」

「ふむ。読めてきたぞ」シャハーブは歌うように言って、形のよい顎をなでた。

「つまり、本来全能の書にあたるのは、さっきのアルサーク人どもが言っていた『器』とやらなのだな。奴らはその力を欲している――戦争に勝つために」

「うん。実際、ものによるけど、あれには相応の力がある。だからこそ、人の世に出してはいけないんだ」

 フーリがわずかに眉をひそめると、シャハーブも顔を引き締める。瞳にいつもの陽気な光はなく、切れ者らしく研ぎ澄まされた知性があった。

「それで、おまえは迷っているようだな」

「そうだね。彼ら、すでに『器』を手に入れているような口ぶりだった。もし、本当にそうなら――見つけて壊さなければいけない」

「……壊す?」とシャハーブが目を丸くしたので、フーリは首肯した。「それが、僕の役目だ。僕の、本来の、役目」ゆっくり答えると、シャハーブは理解と不理解半々の表情で、顎を動かした。

「『叡智の館』にも、いろいろありそうだな」

 彼のささやきは、静かな館によく響く。フーリが口を開くのを陽気な声がさえぎった。

「なら、フーリ。こういうのはどうだ?」

「ん?」

「おまえ、奴らの申し出を受けるといい。そしてアルサークの『器』とやらを見つけ出し、土壇場で手のひら返して破壊しろ。そうすれば、連中を油断させて『器』に近づくことができる」

 フーリは、なるほど、と呟いた後、頭を傾ける。

「それはとても難しいよ。おそらく、アルサークの陣営に入ったら、僕には監視がつく」

「そうだろうな。だから、俺を使え」

 フーリはおよそ百年ぶりに素っ頓狂な声を上げた。そうさせたのが嬉しかったのか、シャハーブはにやりと笑い、おのれの顔を指さした。

「厄介なだけの面倒事は嫌いだが、この案件は何やら楽しそうな香りがする。手伝ってやらんこともないぞ」

 ゆうに千年は生きている存在に対し、上から目線にもほどがある態度。けれど、フーリはそれを不快とは思わない。久方ぶりの、人間との生きたやり取りは、心を軽くしてくれた。それだけでなく彼の「仕事」を手伝う、などと言いだしたのだ。この青年はオーランを上回る不思議な人かもしれない。

 フーリは無表情のまま、心の中でほほ笑んで、シャハーブを見上げた。

「僕がアルサークの陣営に張り付いている間に、君が探してくれるということかい。あの――『器』を」

「そういうことになる。難しいだろうが、まあ、一度忍びこんでしまえばどうにでもなるさ」鼻歌まじりにそう言ってしまうところが、この男のすごいところであり、奇妙なところだ。だが、彼はすぐ、余裕の表情に意地の悪い笑みを上書きして、『叡智の館』の主を見下ろす。

「ただし、探すとなったらそれについていろいろ教えてもらわねばならない。見てくれ、見分け方、触っていいのか、などなど。本来は『器』などという名前でもないのだろう」

 そこで、人ならぬ子どもは気づく。それこそが、シャハーブの狙いだったのだと。もともと彼は、『叡智の館』を探検しに来たと言った。館の裏側にまつわる情報ならば、聞きたくてたまらないだろう。フーリは少し、考える。あまり世間の人々にふいちょうしてよいことではない。だが一方、一昔前まではその存在が広く人に知れ渡っていたことも、また事実。

 数百年の時を経て、また転換点が訪れたのかもしれない。

 フーリは、いつの間にか閉じていた瞼を開くと、首肯した。

「わかった。では、協力してもらっていいかな」

 意外そうにするシャハーブを、フーリは真っ向から見すえる。

「そのかわり、君には話そう。『器』、いや、呪物じゅぶつと僕らのことを」

 時代がまた変わろうとしている。

 きっと、これが『きっかけ』だ。今まで数多あまたの『きっかけ』を見てきた彼は、静かな確信を抱いていた。

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