第15話 謎解き一

第九章


二〇一六年九月三十日


 旅立ちから三日後、矢永がふらりと帰ってきた。

 旅館の玄関口で、矢永の姿をいち早く見付けた美香は、「矢永さん!」と叫びながら、矢永に駆け寄る。そのまま無邪気に抱き付くと、親と再会したディズニーランドの迷子のように、目を細めて邂逅を喜んだ。

「いったい、どこに行っていたんだ。別に心配していたわけではないが」

 私は、美香の逆セクハラ攻撃に必死で耐えている矢永に事情を尋ねた。

「心配してくれて有り難う」

 矢永は、私が掛けた言葉とは矛盾する返事をした。

 一頻り再会を喜んだ美香は、矢永からようやく離れると、クラス委員長目線で嗜めた。

「スマートフォンぐらい通じる状態にしておいてください」

 嗜めながらも、美香の顔には明らかな安堵の表情が浮かんでいた。

 矢永は、上がり框に腰を掛けて靴を脱ぎながら、ぽつりと結果報告をした。

「髪の毛の件だが、正体がわかったよ。まさに、予想通りだった」

 意味がわからなかった私は、思わず間の抜けた声で「髪の毛?」と矢永の言葉をオウムのように返す。

「貞夫氏の鞄の中から見つかった髪の毛だよ。まさか、覚えていないのか。健忘症の山際なら、まあ忘れても致し方ないが」

 矢永は、心の底から驚いた様子で、私の顔を見詰め返した。

 忘れてはいない。ただ、あの髪の毛を矢永が所持していた理由が理解できなかっただけだ。私は、矢永の誤解を解くとともに、髪の毛の入手方法を知るために言葉を続けた。

「貞夫氏の鞄の中から、髪の毛が見つかった事実は覚えているさ。でも、あの髪の毛は澤田さんが鞄と一緒に警察に渡したはずだろう。いったいいつの間に、どうやって入手したんだ」

 矢永は、靴を脱ぎながら私たちの顔を交互に見る。「何、ちょっとサンプルを拝借していただけだ」と、澄ました顔で口にした。

 矢永の言葉に驚愕した私は、数㎝ばかり飛び上がると、腰椎損傷も厭わぬ勢いで上がり框に尻餅をついた。

 矢永は、発見から警察に渡すまでのほんの数十分の間に、髪の毛の一部を抜き取っていた。

 貞夫の鞄からビニール袋に入った髪の毛を発見した時、すでに髪の毛が事件に関係していると考えていたのか。いや、そんな深謀遠慮があるはずがない。矢永は単に手癖が悪いだけだ。

 思考の混乱によって、目線が定まらない私の横で、矢永は解説する。

「熊本まで足を伸ばして、ちょっとした知り合いに、あの髪の毛のDNA鑑定を依頼した。郵送でやり取りするよりも、会って依頼したほうが、話が早いと思ってね。なかなかの骨折り仕事だったよ。何しろ髪の毛を用いた鑑定は、口内粘膜や唾液による鑑定よりも難しいからな」

 鑑定した人物は知り合いの先生であって、矢永ではない。矢永はしかし、それを承知の上で「骨折り仕事」と、自らの努力のように図々しく語る。

 そんな矢永の態度に納得できない気持ちを感じながら、私は問い掛ける。

「で、鑑定の結果はどうだったんだ。いったい、誰の髪の毛だったんだ」

 聞こえなかったのだろうか。それとも、聞こえないふりをしたのだろうか。矢永は靴を脱いで廊下に上がると、私たちを振り返った。

「髪の毛だけではない。なぜカンタリジンなのか、今回の一連の事件が誰によって、何のために引き起こされたのか。すべてのピースがぴったりと符合した」

 矢永は階段を二歩三歩、ゆっくりと上る。再び振り返ると、何かを決断した強い口調で、言葉を発した。

「二人とも、藤の間に来てくれ。君たちには、他の人々に先立って事件の全貌を説明しておかなければならない」

 私と美香は顔を見合わせて深く頷くと、矢永の後を追う。そのまま、藤の間へと足を踏み入れた。

 部屋の中で、矢永が私たち二人に説明した事件の全貌は、俄かには信じ難いほどの驚くべき内容だった。全てを聞き終わった私は手にじっとりと汗を掻き、手と足が細かく震えていた。斜め向かいに正座をしている美香を見ると、美香もほぼ同じ状態にあるらしかった。

 ――こんな事実が、あっていいのだろうか。

 私は自問自答した。自問自答はしてみたものの、私たちが出すべき結論は決まっていた。矢永を信じる。それだけだ。

 もし、誰かが矢永の性格を否定的な物言いで表現するなら、私は全身全霊を傾けてその人物の意見を支持するだろう。それほど、矢永という人物は鼻持ちならない男だ。

 同時に悔しい事実ではあるが、矢永との長い付き合いの中で、矢永の推測の傑出した正確性を、私と美香は嫌というほど思い知らされてきた。

 ――どのような過程を経るにせよ、矢永の推測は最後にはいつも真実に辿り着く。

「で、これから俺たちはどうすればいい」

 私は、深呼吸をして自分を落ち着かせながら、矢永に尋ねた。矢永は、私たちの沈痛な面持ちを気にするでもなく、軽い口調で答えた。

「今から、私が名前を述べる人を集めてくれ。中浦酒造の関係者に辻君、この地区で隠れキリシタンの信仰を独自に受け継いでいる、宗教的組織の関係者を数人だ。場所は工場がいい。あそこは今の季節、人の立ち入りがほとんどないし、広いからな」

「ちょっと待て。いきなり宗教的組織と言われても困る。いったいどんな組織で、どうやって集めるんだ」

 私が困って聞き返すと、矢永は呆れた顔で私に目線を送りながら、具体的な手順を解説した。

「この旅館の老婆は、恐らく組織の関係者の一人と見て間違いないだろう。老婆に事情を説明して、関係者を集めてもらう」

 老婆は先日、私たちに「今回ん事件には、あまり関わらんほうがよか」と口にした。たとえ老婆が宗教的組織とやらの関係者だとしても、積極的に仲間を集めてくれるとは、とても思えない。

「事件に首を突っ込んでいる俺たちは、きっと婆さんに快く思われていない。簡単に相談に応じてくれるとは思えないぞ。他にいい方法はないのか」

 私は、暗に計画の変更を求めて反論するが、矢永は端から聞く耳をもたない。

「心配ない。『貴方方に纏わる、時空を超越した壮大な謎について解説してご覧に入れます』とでも語っておけば、喜んで駆け付けるだろう」

 当然のように言い放つと、長らく未完成のままだったパズルを完成できた事実に、すっかり満足したのだろうか。「一休みしたら、最後の仕上げを始めよう」と伸びをする。

「そうそう、穂高君も呼んであげたほうがいいかな。一応、約束だからな」

 矢永は小さく笑うと、そのまま畳の上にごろんと横になり、目を閉じた。


         *


 矢永の呼び掛けから二時間後、中浦酒造の工場には、矢永が指名した人々が集まっていた。中浦酒造の関係者、辻、隠れキリシタンの信仰を独自に受け継ぐ宗教的組織の関係者が数人、といった面々である。

 人々の中には、間弁護士の告別式で話をした老人の顔も見受けられた。ノーネクタイのシャツの上に、グレーのジャケットを羽織っている。

 穂高もいた。穂高は腕を組み、難しい顔をして部屋の隅に仁王立ちしている。

 人々は皆一様に無口である。奇妙な静けさが空間を支配していた。

 恐らく人々は、これから何が始まるのかを本能的に理解している。理解しながらも、どのような方向に進むのかは想像できていない。想像できない事実を前に、例えようのない緊張感と不安を感じているのだろう。

 出席者は皆、行先がわからない列車に乗り合わせた乗客だ。私も、その一人に他ならなかった。私は誰よりも厳しい、いや、むしろ思い詰めた苦しげな表情をしていたと思う。

 これからの時間が、私にとって吐き気を催すほどの苦しい時間になる事実は間違いない。それでも、私は受け入れなくてはならない。

 しばしの静寂の後だった。

「皆さん、お集まりですね」

 一同の前に立った矢永が、口火を切った。自らの希望通りに舞台が整った事実に、満足げな表情だった。

「皆さん。この度は、ここにいる三流編集者である山際君の呼び掛けに応じ、お忙しい中をお集まり頂きまして、有り難うございます。特に、祥子さんと樹希君には、体調不良を押してご参加頂きましたご厚意に深謝いたします」

 挨拶状の書き出しのように過剰に丁寧な表現ながら、棒読みにも聞こえる平板な口ぶりで、矢永は心にもない言葉を平然と並べ立てる。一通り喋り終えると、一同に向かって深々とわざとらしいお辞儀をした。

「我々三人は、東京の出版社から取材に訪れた一介の編集者に過ぎません。しかしながら、今回、図らずも一連の不幸な事件の関係者となり、全容を解明する立場となりました」

 矢永は、出席者たちの顔に対して順番に視線を送りながら、大根役者の芝居じみた表情で言葉を続ける。

「我々は、絡み合った糸のように複雑怪奇な事件の糸を、一本一本、根気よく解き解し、本日、遂にその真相に辿り着きました。今日、ここに皆さんにお集まり頂いた理由は、他でもない。我々が解き明かした今回の事件の全容を、ご報告しなければならないと考えたからです」

 矢永は右手の指先で、下唇の下に生えた無精髭を繰り返しつまんだ。いよいよ、矢永劇場の開演である。関係者を乗せたまま、行先不明のミステリートレインは静かに、滑るように動き始める。

「最初に断っておきますが、私は警察の回し者ではありませんし、警察に利用されることも本望ではありません。これからお話しする内容によって犯行の全貌が明らかになったとしても、それはあくまでも私の推理です。警察の捜査などとは、全く無関係ですのでご承知おきください」

 矢永は、もっともらしく注意事項を述べると、一同の顔色を窺った。一同から異存が出ない事実を確認すると、嬉しそうな表情を浮かべながら言葉を続ける。

「当初、事件は貞夫氏による毒殺と、毒殺犯である貞夫氏の自殺だと思われていました。そう思っていたのは、警察だけではありません、我々も、そう考えていたのです。なぜなら、そう考えると、一見して整合性のある説明ができるからです」

「どがん意味たい。整合性があるとなら、『毒殺犯である貞夫氏の自殺』で決まりやろう」

 一人の老人が、問い詰める強い口調で矢永の言葉を遮った。間弁護士の告別式で話をした、件の老人である。

 矢永は右掌をかざし、私語を止めない子供を諭す教諭のような、勿体を付けた仕草で老人を制した。

「貴方は、隠れキリシタンの信仰を独自に受け継いでいる宗教的組織の中でも、中心的な立場の方とお見受けしました。お名前を伺ってもよろしいですか」

 老人は、矢永の突然の要望に驚いた様子だったが、すぐに気を取り直すと「伊東たい」と返答した。

「伊東さんですね。わかりました」

 矢永は確認すると、突然の質問に対する謝罪もなく、再び一同に向き直った。

「さて、『毒殺犯である貞夫氏の自殺』とは、どのような内容でしょうか。中浦酒造の経営権を巡って隆社長と争っていた貞夫氏が、毒物を用いて二人を殺害した。ところが、計画を実行した後で、自分が犯した罪の重さに気が付いた。警察の捜査も着々と進んでいる。貞夫氏は、精神的に追い詰められて自殺を選んだ。およそ、このような流れです」

「いったいどがん話や。やっぱい、毒殺犯の貞夫の自殺ち内容になっとうぞ」

 三十歳代と思しき見知らぬ男性が、苛ついた表情で口を挟んだ。伊東と一緒にいる様子から考えると、男性もやはり宗教的組織の関係者らしかった。

 矢永は男性を睨め付けると、詐欺師のような怪しい笑みを含んだ声で提案する。

「だが、この際です。貞夫氏が毒殺犯で、死因は自殺であるという先入観はさて置いて、全く異なる角度から一連の事件を見直してみようではありませんか」

 男性から目線を逸らさず、薄ら笑いを浮かべながら、矢永は囁くように問い掛けた。

「まず、お披露目会における毒殺犯の動機です。中浦酒造の経営権や、中浦家の財産を管理している立場であるという点の他に、毒殺された隆社長と間弁護士にはもう一つの共通点があります。おわかりになりませんか」

 答えを求められた男性は「何の話たい。さっぱりわからん」と、惚けた。いや、本当にわからなかったのかもしれない。

 矢永は、数秒の間を置いた後、最初から回答を期待していなかったかのように、澄ました表情で語った。

「共通点は二人とも、種子神社近辺を開発して温泉施設を建設する計画の推進派である点です。間弁護士は弁護士であると同時に、間建設の関係者でもありました。間建設は、言わずと知れた開発計画の請負業者。もちろん、社長と同じ開発推進派です。二人の共通点が、開発推進派である事実を考えると、犯人は、何かを開発から守るために、この恐ろしい事件を起こした、とも考えられます。いったい何を守るのか。種子神社を守るため?」

 男性は、はっと驚いた表情になると、傍らにいる伊東の顔を見た。伊東は硬い表情を保ったまま、身動き一つしない。

 矢永は宙を仰ぎ、眉間に皺を寄せて苦しげな表情を作った。一つ一つの仕草が、過剰に芝居掛かっている。

「しかし、種子神社は移転しますし、そもそも殺人を犯さなければならないほどの理由にはなりません。ここで私は、一つのヒントに出会いました。この土地に、古くから伝わる子守唄です」


 ♪おどんがもった子は 岩屋にゃくるんな

 岩がくずるりゃ 死んでしまう

 おどんがもった子は 種子にゃくるんな

 越えりゃ楽しか 草のある

 おどまかんじんかんじん あん人たちゃよかし

 よかしゃ きりょうよし 姿よし


 矢永は歌うように、独特の節回しで暗唱した。

「この唄は、天草地方で昔から歌われてきた子守唄と同じルーツをもつ、派生バージョンともいえる子守唄だと思われます。どうしても引っ掛かったのは二番の歌詞です」

 矢永は宙を見上げると、今一度「種子にゃくるんな 越えりゃ楽しか 草のある」と、楽しそうに口ずさんだ。

「『楽しか草』というのは薬、恐らくは毒薬を示しているのでしょう。だとすれば、普通に考えれば、歌詞は『越えれば毒薬があるから、種子神社には来るな』となります。だが、何を越えるのかがわからない。私は悩みました。思考が手詰まり状態になるかと思われた時、ある事実に気付きました」

 矢永はいったん言葉を止め、一同の顔をぐるりと見渡した。他人の心の奥底を見透かすような冷徹な目が、工場の入り口から入り込む一筋の光に照らされ、ギラリと冷たく光った。

「皆さんも、よくご存じとは思いますが、この周辺は昔からキリシタンが多い場所でした。領主である有馬晴信がキリシタン大名であった影響から、早くから宣教師の活発な布教がおこなわれていたためです」

 話が随分と飛んだ。伊東の隣に立つ男性が、不快そうな目で矢永を一瞥した。

「ここから近い加津佐にキリスト教の教育機関であるコレジオが置かれるなど、この地方は日本におけるキリスト教布教の一大拠点でした。皆さんは、加津佐の地で亡くなった『ある宣教師』をご存知ですか」

 聴衆の中に、矢永の問いに答える者はいない。回答者の不在を確かめ、矢永は続ける。

「ポルトガル出身のその宣教師は、一五七二年に初めて来日して布教を開始すると、めきめきと頭角を現しました。やがて、布教に関する功績を認められ、一五八一年に日本での布教を統括する役職に就任しました。名を、ガスパール・コエリョと言います」

 矢永は、自分の一挙手一投足に陶酔している様子で、一際大きな声を張り上げた。怪しい薬でも飲んでいるのではないかと疑いたくなるほどの、恍惚とした表情を浮かべている。

「コエリョは、多くの宣教師の中でも特に熱心に活動していましたが、唯一つ致命的な欠点ともいえる資質をもっていました。布教のためには手段を選ばないという、ある種の過激思想をもっていた点でした。コエリョの考えを端的に示す、ある歴史的事実があります」

 先日、矢永から聞かされた。一五八七年、武器弾薬を積み込んだ船を率いて、コエリョが博多湾に向かった事件だ。その地に滞在していた時の関白、豊臣秀吉に対する示威行動だったという。

「コエリョによる一五八七年の示威行動は、後に秀吉がバテレン追放令を出す切っ掛けの一つとなりました。自分たちの優位性を示そうとしたがために遠ざけられてしまった。なんとも皮肉な話です」

 矢永は愉快そうに言うと、一呼吸を置いて小さな咳払いをした。広い工場内に、矢永の下品な咳が木霊する。

「事は、示威行動だけには収まりません。実は、コエリョは布教に武力を用いる計画を立て、密かに日本に武器を運び込もうとしていたのです。残念な事に、その計画は当時の上司であったヴァリニャーノによって阻止され、武器は全て売り払われたとの逸話が残っています」

「しかし」と、矢永は続ける。

「その一部が、すでにコエリョの許に届けられており、コエリョ自身が、武器を日本のどこかに隠していた。その可能性がないと、果たして断言できるでしょうか」

 矢永はここで、両手を腰の後ろに組み、聴衆の前をゆっくりと歩き始める。数m歩いては踵を返し、また数m歩いては、回れ右をする。

 実に楽しそうだ。見ているこちらは失笑を通り越し、ともすれば惚れ惚れとしてしまいそうになる。

「そういえば、種子神社とは不思議な名前だ。ひょっとすると『種子島』から来ている名ではないでしょうか。種子島とは、鹿児島県にある大隅半島南方の洋上に浮かぶ島の名ですが、他ならない火縄銃の別名でもあります」

 矢永の大胆且つ強引な推理が、ますます冴え渡る。最早、矢永を止める芸当は誰にもできない。私は、話を聞きながら、ごくりと唾を飲み込んだ。

「今、お話しした様々な要素を念頭に置いたうえで、『種子にゃくるんな 越えりゃ楽しか 草のある』の意味を紐解いてみましょう。『コエリョの毒があるから、武器が隠されている種子神社には来るな』という意味には取れませんか。あの神社の周辺のどこかに、かつて武器が隠されていたのかもしれない」

 伊東は、腕を組んだまま、目を瞑って矢永の話を聞いていた。顔には、何かに耐えているような、険しい表情を浮かべている。耐えている対象は、矢永の演説の荒唐無稽さか、はたまた的確さか。私には、読み取れなかった。




第十章


天正十八年一月十二日(一五九〇年二月十六日)


 時は安土桃山時代、関白である豊臣秀吉が、天下統一を虎視眈々と狙っていた時代である。

 加津佐の貿易商人である佐川邸の奥座敷では、二人の男が向かい合っていた。一人は有馬家の家臣にして、コエリョとイエズス会を陰ながらに支援する西村光義。そしてもう一人はこの屋敷の主人、名を藤右衛門という。

「これはこれは、わざわざ西村様が直々においでくださいますとは、恐れ多い事でございます。仰っていただければ、こちらからお伺い致しましたものを」

 藤右衛門は、恐れ入った表情で光義をちらりと見ながら、恭しく平伏した。

「うむ。儂も一度は、其方に来てもらおうかと考えたのだがな」

 光義は、恐縮する藤右衛門の前で用心深げに左右を見回すと、不意に身を乗り出した。

 光義の姿勢に只ならぬ気配を感じ取った藤右衛門は、すかさず光義の口元に耳を近付ける。

「最近の耶蘇会は、京での評判もあまりよくない。コエリョ様の周辺でも太閤様の息が掛かった連中が目を光らせておってな。それに、儂らが今進めておる計画は、ヴァリニャーノ様にも知られてはまずい。だからこうして、儂のほうから訪ねて参ったのじゃ」

 比較的温暖な地とはいえ、この時期は一年のうちでもっとも寒い。藤右衛門が言葉を発する度に、吐き出される息が白く曇った。

「それより、其方の商売はなかなか順調のようではないか。コエリョ様も我が事のように喜んでおられるぞ」

 藤右衛門は再び恐縮し、深々と頭を下げた。

「コエリョ様から、そのようなお言葉をいただけるとは有り難く存じます。それもこれも、コエリョ様と西村様のご配慮、そしてぜず様のご加護のおかげでございます」

 ここで、藤右衛門は心配そうに顔を上げる。

「で、コエリョ様のご容態はいかがでございますか」

「うむ、残念ながら、あまりよくない。医者の申すには、もってあと半年かもしれぬという話じゃったが、あと半年というのも怪しくなっておる」

「左様でございますか」

 藤右衛門は、暗い表情で庭に顔を向ける。視線の先で、昨年の夏に植え付けた招(おが)霊木(たまのき)の白く大きな花が、はらりと落ちた。

「ところで、種子神社の件はどうなっておる」

 光義が腕を組みながら、気を取り直したように尋ねた。

「はい、洞はほぼ完成しております。例のものは、次の新月の晩に全て運び込んでしまおうと考えております。神社は、洞を埋め戻した後、地元の名主に命じて、祠を造らせる手はずになっております」

 藤右衛門の言葉を頷きながら聞いていた光義が、ふと厳しい顔になった。

「よいか、太閤様の手の者による監視の目も日に日に厳しくなっておる。くれぐれも外に漏れぬよう、気を付けるのじゃぞ。外に漏らす恐れのある者は、容赦なく切って捨てても構わん」

「はい、承知致しております」

 藤右衛門は、静かに、しかし力強く言葉を返した。藤右衛門の言葉に安心したのか、光義は思い出したように、自らの素襖の胸元に手を入れた。

「そうそう、忘れておった。今日は、これを其方に託そうと思ってな」

 言葉とともに光義が取り出したのは、一通の手紙だった。藤右衛門は、不思議そうに覗き込む。

「これは?」

「コエリョ様からお預かりした文じゃ」

 光義の言葉に、藤右衛門は今一度、手紙をつぶさに観察した。和紙とは明らかに異なる質感の紙である。

 光義は、手紙を藤右衛門の鼻先までさらに近づけると、無言のまま顎をしゃくり、受け取るように促す。藤右衛門は、勧められるままに両手を伸ばし、畏まりながら受け取った。

 手紙を両手の上に載せたまま、上目遣いに光義の表情を観察する藤右衛門。光義が手紙を差し出した意味を計りかねているのか、その表情には戸惑いの色が含まれていた。

「これは、ただの文ではない。開いてみよ」

 藤右衛門の戸惑いを予想していたのだろう、光義は表情を一切変えることなく、手短に指示する。言われるまま、藤右衛門は慎重な手つきで手紙を開く。

 縦長の細い文字が、横書きに羅列されていた。どうやら、南蛮の人々が常々用いている文字であろうことは、藤右衛門にも容易に推測できた。

「南蛮の文でございますな……」

「左様。それこそが、コエリョ様が何よりも大事になさっておられた、耶蘇会に代々伝わる秘法が書かれた文じゃ」

「なぜ、このような大切なものを私のような者に……?」

 畏れ多い表情を見せる藤右衛門を強い視線で捉えながら、光義はゆっくりと、力強く言葉を繋いだ。

「先ほども申した通り、最近、コエリョ様の周辺は、何かと物騒になっておる。もしもの事があった時、このように重要な文が太閤様の手の者に渡っては、ぜず様に申し訳ない。そうお考えになったコエリョ様が、其方に託すことをお決めになられたのじゃ」

 二月の冷たい風が、庭の招霊木に吹きつけた。寒風を受けた花が、ゆらゆらと危うげに揺れた。


         *


 この日の会合から三月の後、天正十八年四月四日にコエリョはこの世を去った。

 コエリョの死から間もなく、佐川藤右衛門の屋敷は原因不明の火事によって焼け落ち、少なからぬ人々が犠牲となった。

 太閤秀吉に近しい一派による犯行との噂もあったが、真相は藪の中であった。

 そしてこの事件以降、コエリョの手紙と佐川藤右衛門の所在は、誰も知らぬところとなったのである。

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