第16話 謎解き二
第十一章
二〇一六年九月三十日
中浦酒造の工場で、関係者たちを前に矢永は続ける。
「今までお話しした、間接的な要素を繋ぎ合わせると、ある推測が浮かび上がってきます。毒殺犯は、コエリョによって隠された武器を、いつか必要となる日のために密かに守ってきた。今回、開発という名のもとに武器が人々の目に晒されるのを防ぐために、殺人を犯さざるを得なくなってしまった、という推測です」
何とも強引な推測だ。この強引さは、矢永が生まれ持った、特筆するべき資質の一つとも言える。
自らの推論を得意げに語る矢永の態度に、場を包み込んでいる重苦しい空気の温度が、少しずつ上昇し始めているように感じられた。
「話は変わりますが、青刈地区という名も変わっている。種子ついでに考えたのですが、青刈とは『アポカリプシス』が訛った言葉とは考えられませんか。アポカリプシス。つまり新約聖書にある『ヨハネの黙示録』です。山際君、君はヨハネの黙示録について説明できるかな」
一同の視線が矢永から私に移動し、私の体を強烈に貫くのがわかった。私は、突然の指名に困惑しながらも、辛うじて口を開いた。
「『ヨハネの黙示録』とは、新約聖書の末尾に記されている聖典で、一種の終末預言的な内容となっています。『ヨハネの黙示録』では、七つの目と七つの角をもつ子羊が、神から授けられた七つの巻き物の封印を解く毎に、地上がさまざまな禍に襲われます」
私は一つ一つの言葉を確認し、ゆっくりと語る。
「七つめの封印を解いた時に現れた七人の天使によって、更なる禍、天変地異が起こり、世界の終わりに最後の審判がおこなわれます。最後の審判では、『命の書』に名前がある者は天国に送られ、名前がない者は地獄に落とされます。最後に、救世主であるイエスの再臨が告げられ、ヨハネの黙示録は終わります」
「よくできました。いつも頼り甲斐のない君にしては、上出来だったよ」
矢永が唯一人、愉快そうにパチパチと手を叩いた。人々の視線が、再び矢永に戻った。視線による緊縛から解き放たれた私は、ふうと大きく深呼吸をした。
「青刈という名の由来については、あくまで想像に過ぎません。想像に過ぎませんが、もしこの地名が、新約聖書の最後の審判を暗示していると仮定したら……。大量の武器と最後の審判、大変興味深い組み合わせと言わざるを得ない」
話を聞いている人々の中に、明らかな動揺が広がった。矢永は、人々の動揺に全く配慮する素振りを見せない。
「ここで新たな疑問です。今回の殺人事件では、なぜ殺害の道具として、毒物が使われたのでしょう。また、使われた毒物の正体は、いったい何だったのでしょう」
矢永は、一瞬の間を置き、人々の視線が自分に集まった事実を確認すると、もったいぶって口を開いた。
「毒物の正体は、カンタリジンでした」
「カンタリジンだと?」
「そいは、いったいどがん物質ね」
人々の間から疑問とも、糾弾とも受け取れる声が上がる。伊東を中心とする集団の構成員からだった。
「カンタリジンは、比較的身近な昆虫であるツチハンミョウから採れる毒物です。同時に、昔から洋の東西を問わず暗殺などに広く使われてきた、比較的ポピュラーな毒物でもあります。しかし、ポピュラーとは言っても、現代においてもっと簡単に手に入る毒物はたくさんあります。にもかかわらず、犯人はなぜカンタリジンを使ったのでしょう。さらに、カンタリジンの製法などに関する知識は、どこから手に入れたのでしょう」
矢永は先ほどから、自身を攻撃的な目で見詰め続けている一団を、鋭い目で見返した。
「私はカンタリジンの出自を調べるうちに、恐るべき仮説に到達しました。今回の事件に使われた毒物、カンタリジンの正体は『カンタレッラ』です」
「カンタレッラ?」と、伊東が語尾を上げながら呟いた。呟き声を聞き逃さなかった矢永は、伊東に近付き、正面から対峙する。
「かのルネサンス期、イタリアで権勢を振るっていたボルジア家が、政敵を倒すために用いたと伝わる毒薬です。カンタレッラの正体は不明ですが、カンタリジンとの説があります」
一旦、言葉を止めた矢永は、取調室の刑事のように冷めた目付きで、伊東の反応を観察する。心苦しい感情が芽生えたのか、伊東は気まずそうに矢永から目を逸らした。
矢永は、なおも伊東の顔を覗き込みながら、一気に説明する。
「コエリョやヴァリニャーノが、まさに日本にやってこようとしている時代、イエズス会の総長を務めていたのは、ボルジア家の一員であるフランシスコ・ボルハという人物でした。ひょっとしたら、ボルハを通じてイエズス会に伝えられたカンタレッラが、布教活動に、秘密裏に利用されていたのかもしれません」
矢永は顔を上げると、一同を見渡した。
「ボルハ自身はつましく、布教にも熱心で、イエズス会最高の総長の一人として後に列聖されたほどの偉人でした。それでも、布教の反対勢力に毒薬を利用しようとするイエズス会全体の意向には逆らえなかったという推測を、誰が否定できるでしょうか」
やがて、カンタレッラの精製方法はイエズス会の教えとともに、密かに青刈地区に伝わった。矢永の言葉は、コエリョがこの地にカンタレッラを持ち込んだ可能性を示唆している。
「もちろん、何の根拠もなく言っているのではありません。実は我々は、郷土資料館である資料を見つけました。それは以前、種子神社が焼け落ちた時に、祠の中から見つかった紙片です。その紙片には、カンタリジンと思しき薬物の精製方法が書かれていました。ご丁寧に、ボルジア家のものである牡牛の紋章まで、しっかりと漉き込まれていました」
紙片は、この地区でカンタレッラの製法が後の時代まで伝えられてきた、証左といえる。
「種子神社の武器とイエズス会、ボルジア家、そこにもってきてカンタレッラ……。ここまで情報が出揃うと、今回の事件にカンタリジンが使われた理由が、朧気ながら見えてくるではありませんか」
開発推進派の殺害には、コエリョたちが種子神社の武器を守るために残したボルジア家の毒薬、カンタレッラが使われるべきである。その事実は、予め運命付けられた必然だった。それが、矢永の推測だ。
「ただ、犯人が紙片の存在を知っていたかどうかは疑わしいですがね。もし知っていたなら、いつ見付かるかわからない祠の中などに、長年に亘って放置しておくはずはない。長い年月の中で、祠の中の紙片の存在はいつしか忘れられ、製法だけが口承か、或いはそれに近い方法で伝えられてきたのでしょう」
ここで矢永は一つ大きく息を吸い、何かを決意したように姿勢を正す。
「今回、種子神社に隠されたコエリョの武器のために、カンタレッラを実際に精製し恐ろしい犯罪を実行に移した人物は、いったい誰か」
矢永は、厳しくも冷たい目で人々を見回すと、右手の人差し指を一人の人物に向けた。
――いよいよ、その時がやって来た。
私は目を瞑り、覚悟を決めた。
「それは、貴女だ!」
矢永が指差す先には、葉月がいた。
一同が、葉月に視線を移す。葉月の隣に立っていた南奈も、驚愕の表情を浮かべながら、葉月を見詰めた。
葉月は、微動だにしなかった。矢永は、葉月の美しく整った、それでいて強い意志を感じさせる顔を、冷徹な視線で射抜いた。
「なんでも江戸時代以降、この地区は度々、幕府による隠れキリシタン弾圧の舞台となった。だが、いずれの場合も、原因不明の撤退で救われたとか。この伝承にも、恐らくカンタレッラが関係しているのだろう」
不穏ともいえる空気が、人々の間にざわざわと漣のように伝わった。私は目を瞑り、うつむきながら考えた。
外の社会からやってきた私たち余所者が、今、ここに集まった人々、特に伊東を中心とする集団の価値観を土足で踏みにじっている。伊東たちは、その事実に不快感を覚え始めている。
私の頬を伝わった脂汗が、顎の辺りからぽたりぽたりと滴り落ち、コンクリートの床に吸い込まれていく気がした。
「貴女の家は代々、コエリョによって隠された種子神社の武器を守ってきた。幾世代にもわたって使命が受け継がれていくうちに、コエリョの遺産はいったい何だったのかさえも、忘れられたのかもしれない。結果として、ただ守る行為だけが使命として受け継がれた」
葉月は唇を固く結んだまま、相変わらず身動き一つせずに、矢永を見詰めていた。
「郷田君、貴女は、都会に出て一流大学で学び、一流企業でも通用する醸造の知識を学んだ。にもかかわらず、この地区に舞い戻って、中浦酒造に入った。中浦酒造に就職した理由は、コエリョが残した武器を守るためだろう」
「何ば言いよっと。証拠はあっとか」
「そうたい。いい加減な話ばすんな」
先ほどにも増して、伊東たちの苛立ちが静かに、だが確実に募っていく。人々の心は事件解決とは全く異次元の、本能的な怒りに近い感情に支配され始めていた。
私は、この場から逃げ出したい衝動に、懸命に抗う。今は息を飲んで、事態の進展を見守るしかない。伊東たちの不満を制するように、右手の掌を聴衆に向けながら、矢永は答えた。
「私も、全くの想像でこんな話をしているのではありません。幾つかの証拠があります。まず一つめは、証拠というよりは、ヒントと表現したほうがいいでしょう。郷田君が制作している、ブログのタイトルです。三枝君、タイトルは何と言ったっけ」
突然の指名に驚いた様子の美香だったが、すぐに矢永の質問を理解する。
「『まだらネコのほろ酔い日記』です」
矢永は、はっきりとした声で美香に重ねる。
「皆さん、お聞きになりましたか。まだら猫です。私は当初、中浦酒造に棲み着いているぶちの猫を指していると思っていました。しかし、この言葉は、別の意味を表しているとも考えられます」
「どがん意味ね」
伊東が矢永を上目遣いに見ながら、低い声で静かに問うた。矢永は得意げにも見える尊大な表情で、伊東に語り掛ける。
「カンタリジンは、先ほども申し上げましたように、主にツチハンミョウという甲虫の仲間から抽出されます。ツチハンミョウの仲間は、決して珍しい昆虫ではなく、この辺りでもごく普通に見られます。ツチハンミョウは漢字では『土斑猫』と書きます。『斑猫』、つまり『まだら猫』です」
矢永は葉月を振り向くと、したり顔で続ける。
「郷田君。貴女の家では、恐らく今回の毒物カンタリジンをツチハンミョウの仲間から抽出する方法が、昔から伝えられていた。実際に抽出をおこなっていた貴女にとって、ツチハンミョウは身近な存在だった。そのため、深く考えもせず、ついブログのタイトルに使った」
葉月は、真っ直ぐな瞳で矢永の顔を凝視したまま、肯定も否定もしなかった。二人の視線がぶつかり、見えない火花を散らした。
葉月に自分の行為の罪深さを省みてほしいという願いに、罪悪感に苛まれる葉月を見たくないという気持ちが交錯する。許されるなら、一刻も早くこの場を後にしたいが、そのような行為は許されない。
私は、最後まで見届けなければならない。
「ブログのタイトルに関しては、君の内面的な問題なので、私が今、ここで証明する芸当は不可能だ。しかしながら、このタイトルが私にとって一つの大きなヒントになった事実は間違いない」
ここで矢永は、一方的に葉月から視線を外し、再び不特定多数の人々に視線を移す。
「二つめの証拠は、カンタリジンを精製するには、それなりの設備が必要だという事実です。以前、中浦酒造の醸造課の内部を見せてもらいました。見たところ、エバポレーターや遠心分離機など、一般的な精製のために必要な機材が、最低限は揃っている様子でした。つまり、郷田君にはカンタリジンを精製する行為が可能でした」
矢永は、しばし間を置き、人々の意識が自分の口元に集中するのを待った。
「三つめは、ここにいる山際君と郷田君の会話の中の言葉でした。山際君は、郷田君に『貞夫氏が毒物らしき粉末を持っていた』と話しました。ところが、その話を聞いた郷田君は、『毒の瓶』と表現しました。これは明らかにおかしい。なぜなら山際君は、容器について一言も喋っていないからです。ところが、郷田君は毒物が瓶に入っている事実を知っていました。『犯人だけが知り得る事実』です。私にとって、非常に有力な証拠でした」
伊東を中心とする男たちは、確かにその瞬間、今までにない敵意を私たちに向けた。彼らは怒りに目を血走らせ、体を打ち震えさせている。激怒する姿は、隙あらば私たちに襲い掛かろうと様子を伺っているようにさえ見えた。
伊東たちのエネルギーは、もはや危険水域の近くまで達しているに違いなかった。
一方の矢永は、少しも怯まない。
「郷田君。私の話に納得していない人々も少なからずいるようだが、続けても構わないかな」
「構いません。続けてください」
葉月が動揺を微塵も見せず、静かに、よく通る声で矢永に告げた。葉月の声を合図に、敵意に満ちた伊東たちの目線が、若干ながら弱まった。
すかさず、矢永が口を開く。
「ただし『毒の瓶』発言は、証拠としてはあまりに曖昧に過ぎますし、ブログのタイトルや精製設備などは、一応のヒントではあるものの、証拠ですらありません。肝心な殺害方法も、謎のままです」
矢永は、困ったような表情でしばし沈黙した後、続ける。
「毒物は、社長と間弁護士のグラスと酒からしか検出されませんでした。当時、会場にあった酒瓶からも、料理からも一切検出されなかったのです。これらの事実から、普通に考えると、犯人が二人の持つグラスに直接、毒物を入れたという結論になります。しかし、あれだけ目撃者がいる中で、グラスに直接、毒物を入れる行為は考え難い。しかも、毒物を直接入れたのなら、その後グラスに口を付けた時、すぐに苦しみ始めるはずです。ところが、お二人は、グラスのお酒を飲みながら談笑している途中で、突然苦しみ始めた。これは、毒物を直接入れたのではないという事実を示しています。では、犯人は、何を使ってグラスに毒物を入れたのか。私はあるものに気が付きました。お二人の殺害に使ったもの、それは恐らく氷です」
矢永は薄ら笑いを浮かべながら、表情を確かめるように葉月を見詰めた。
「社長と間弁護士は、お披露目会の最中、確かに氷の入ったオンザロックを飲んでいた。氷の中心部付近に毒物が仕込まれていたとしたら、毒物が溶け出すまでに一定の時間が掛かるため、飲み始めてから毒物を摂取するまでにタイムラグが生まれる。郷田君、貴女は恐らく、オンザロックの氷の中に毒物を入れておいたのだね」
葉月は、ふふと氷のように冷たく笑った。
「でも、クーラーボックスの氷は、その時近くにいた社員が交替で希望者に提供していましたし、なかにはご自分で氷を取られる方もいらっしゃいました。私がお二人のためだけにクーラーボックスに毒入りの氷を仕込んでおくなんて、不可能です。にもかかわらず、毒物を摂取したのがお二人だけだったという事実は、どのようにご説明されるのですか」
「確かに、クーラーボックスの氷を使うのは難しい。そもそもクーラーボックスから、毒物は検出されていないしね。それもそのはずだ。お二人の毒殺に使われた氷は、クーラーボックスの氷ではなかったのだからね」
今まで腕組みをしたまま、黙って話を聞いていた穂高が、納得いかない表情で疑問を口にした。
「それはおかしい。迷惑系ユーチューバーの突撃取材予告が原因で、一般の出席者は入り口で手荷物を預け、ほぼ手ぶらの状態で会場に入っていたそうです。スーツの下に氷を忍ばせておくなんて、不可能です。話によると、中浦酒造の関係者も、同じような状態でした。氷をこっそり持ち込むのも、ましてやその氷をお二人のグラスに入れるのも、無理としか思えません」
「その通り。毒殺用の氷は、こっそりではなく、あるものを使って堂々と会場に持ち込まれていたんだよ。それは郷田君、貴女が会場に持ち込んだワインクーラーだ」
矢永は葉月の目を見ると、愉快そうに微笑んだ。
「貴女は、お披露目会に冷えた酒を提供することを提案して、会場に五合瓶を差したワインクーラーを持ち込んだ。もちろん、氷入りのね」
葉月は驚いた様子だったが、足下に目を落とすと、呆れた様子で微笑した。
「仮に毒入りの氷を持ち込んだとして、いったいどのようにしてお二人のグラスに入れるのですか」
答えを用意していたかのように、すかさず矢永が答える。
「このようなシナリオはどうだろう。貴女は会の最中、頃合いを見計らってワインクーラーから五合瓶を抜き取ってアイスペールに見せ掛け、なおかつその氷が勝手に使われないように、ナプキンを被せておく。次いで、社長と間弁護士の二人に声を掛ける。言葉の内容は、そうだなあ。例えば『ブログで、新しい飲み方としてオンザロックを提唱したいので、二人がオンザロックを飲んでいる場面を撮影させていただけませんか』といったところかな」
確かに、葉月はあの日のパーティ会場で、氷が入ったグラスを掲げる社長と間弁護士をデジタルカメラで撮影していた。当日は九月としては寒い日だった。正直、オンザロックが飲みたくなる気象条件ではなかったが、ブログのためと言われれば、隆社長は拒否できなかっただろう。
「二人が承諾したところで、貴女はクーラーボックスの横に置かれたアイスペール、いやアイスペールに偽装したワインクーラーの毒入り氷を、目立たないように二人のグラスに入れる。あとは、五合瓶をそっとワインクーラーに戻し、グラスの中の氷からカンタリジンが酒に溶け出すのを待つだけだ。警察も、出席者たちが口にするはずのないワインクーラーの氷に毒物が入っているとは思わないだろうから、ワインクーラーの中までは調べない。したがって、この方法なら鑑識の目も欺ける」
東京の警視庁のように凶悪事件に日常的に慣れ親しんでいる警察なら、ワインクーラーを含め、あらゆる可能性を視野に入れて証拠を集めるかもしれない。しかし、地方の警察は事件慣れしていない分だけ、無意識に「有り得ない」可能性を排除し、先入観に基づいた捜査をするケースがままあるという。
葉月は、その点をも見越していたというのが、矢永の考えだ。
「それで?」と葉月が、続きを促す。
「貴女としては、毒入りの氷を全部使い切りたいところだっただろうが、そもそもワインクーラーに氷が数個という状態は不自然だ。多めに入れざるを得なかったために、多少残ってしまった。また、事件発生後のどさくさに紛れてワインクーラーを持ち出したいと考えていたが、思った以上に警察の到着が早かったうえに、一部の人たちによって現場から遠ざけられてしまったために、それも叶わなかった。しかし、それらの事象は、貴女にとってはある程度、想定内だったのだろう。貴女は、氷を使い切らなくても毒物が検出されないように、わざわざワインクーラーを氷の隠し場所にしたのだからね」
矢永の長い解説を受けて、葉月が鋭い視線を矢永に送った。
「とても面白いお話ですね。でも、ワインクーラーの氷にカンタリジンが入っていたという証拠はないですよね」
強く真っ直ぐな視線が、矢永を捉える。矢永は、葉月の視線に動揺する事なく、むしろ嬉しそうな表情さえ見せる。
「私たちは偶然にも、花壇の一角にツチハンミョウが集まっている部分を発見した。恐らくそのツチハンミョウは、カンタリジンの誘引作用によって集まっていたのだろう。誘引作用とは、同じ毒物をもつ仲間を引き寄せる作用で、交尾相手を見つける手段であり、子孫繁栄のために役立っているとする説が有力だ」
矢永は、ここでふうと静かに息を吐く。にやりと笑いながら、決定的な一言を口にした。
「ツチハンミョウが集まっていたその場所こそ、澤田さんがワインクーラーの水を捨てた場所だった。この不思議な符合は、ワインクーラーの水に、カンタリジンが混入していた事実を示唆している」
葉月は、驚愕の表情を浮かべた。目を大きく見開き、唇を噛む。
「さすがの貴女も、ワインクーラーの中に残ったカンタリジンの誘引作用が発動する点までは、読み切れていなかったようだね」
驚いたように顔をこわばらせた葉月だったが、次の瞬間、目を伏せながら微かに笑った。何かを諦めたようにも、何かから解放された事実に安堵しているようにも見えた。
「矢永さん。貴方は、狡い人ですね。人の心を弄び、いたぶりながら追い詰めていく。でも、そのおかげで、私は自分の存在と真摯に向き合えた気がします」
矢永の言動が正しいか否かと聞かれれば、「今に限っては正しい」と、私は答えるだろう。しかし、許されるならば、この場にいる人々を代表して、矢永の横っ面を張り飛ばしてやりたい。理屈では割り切れない、非合理的な感情が私の心を苦しめた。
私は、葉月を正視するに忍びなくなり、顔を背けた。
次の瞬間。
「貴女は、何て酷い人なの! この人でなし!」
秋江が叫び声を上げ、髪を振り乱しながら葉月に掴み掛ろうとした。
すんでのところで、菊池が秋江の体を横から押さえ込む。秋江は、そのまま膝から崩れ落ちた。
水を打ったように静まり返る工場内に、秋江の啜り泣く声が小さく反響した。
菊池が、秋江の腕を取り、肩を優しく抱き上げた。秋江は、抱き上げられた肩を震わせながら、力なく立ち上がる。菊池に支えられたまま、工場を後にした。
秋江の姿が見えなくなっても、啜り泣きの声は、いつまでも工場の壁に反響し続けている。
そんな気がした。
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