第17話 謎解き三
秋江の後ろ姿を見送った矢永は、仕切り直しとばかりに、独演会を再開した。
「事件は、それだけでは終わりません。貞夫氏の死という、不可解な事象が起こりました。貞夫氏の死は一見、自殺に見えました。しかし、一つの疑問点がありました。カンタリジンです」
私は、一切の感情を一時的に封印して、矢永の話に聞き耳を立てる。
「郷田君が毒殺事件の犯人である限り、貞夫氏が自らの意思でカンタリジンを摂取するのは不可能です。それなのになぜ、貞夫氏はカンタリジンを摂取したのか。それは、社長と間弁護士を殺害した郷田君が、貞夫氏にカンタリジンを盛ったからにほかなりません」
「ははは、葉月が犯人ち、こいは可笑しか」
伊東が大袈裟に手を叩きながら、乾いた笑い声を上げた。
「貞夫さんは、死んだ日の十一時頃、中浦酒造で目撃されとう。死んだ時間は十一時以降で、自殺現場は中浦酒造から往復四十分は掛かるとばい。ばってん、葉月は十一時から遺体が見つかる十六時まで、会社を離れとらん。犯行は不可能ばい」
矢永は伊東を振り向くと、予想していたと言わんばかりの余裕を浮かべる。これ以上ないと思えるほどの、冷たい目で笑い返した。
「貞夫氏を目撃した人物は、郷田君だけだ。郷田君の証言自体、虚偽の可能性がある」
伊東は、矢永を厳しく見詰め、追及の手を緩めない。隙あらば、矢永の足下をすくってやろうという、決意に満ちた勝負師の目だ。
「ばってん、目撃証言ん通り、十一時前後に、貞夫さんのスマートフォンで『中浦酒造の近くにいる』ていうSNSのメッセージば送られとう事実が、わかっとうとやろう」
「その通り。穂高君の情報では、SNSの発信地点は確かに中浦酒造の近くだったようです。その後、警察がまったく動いていない様子を考慮すると、その情報に間違いはないでしょう」
矢永は、余裕を演出しているのか、薄ら笑いを浮かべたまま、ことさらゆっくりと伊東に語り掛ける。盲目的な信者に語り掛ける、如何わしい教祖のような口調だ。
「もし、葉月がSNSば送ったとしてん、貞夫さんのスマートフォンは十一時頃に中浦酒造ん近くにあって、十六時の遺体発見時には遺体発見現場にあった事実に変わりはなか。ばってん、さっきも言ったごと、そん間に葉月は中浦酒造ば離れとらん。やっぱい不可能ばい」
伊東老人の話は、論理的で切れ味が鋭い。田舎でのんびりと暮らす凡庸な高齢者の隠れ蓑を被っているが、どうしてなかなかの切れ者だ。
私は、矢永の勝利を信じながらも、伊東を興味深く見守った。
「郷田君が貞夫氏を殺害する行為は、不可能ではありません。これからご説明しましょう。あくまでも『可能性の域を出ない推測』との条件付きですがね。その前にまずは、なぜ郷田君がわざわざ貞夫氏を殺さなければならなかったのか。ご説明しなければなりません」
矢永は、傍らにあるベルトコンベアのコントロールパネルの上に置いていたペットボトルを手に取る。中の水を一口飲むと、天井を向いて「ふっ」と短く息を吐いた。
「話は毒殺事件以前に遡ります。貞夫氏はかねてから、樹希君と自分の息子を結婚させ、あわよくば会社の経営に食い込む計画を練っていました。そこで、辻君に対して『結婚を諦めろ』と執拗に迫ったと思われます」
矢永は一度、人々を見渡す。一同の間に、驚きの感情が波のように広がった。波の拡大を確認して、矢永は独り小さく頷く。
「脅迫まがいの言動が始まった時期は、ここ数ヶ月だったでしょう。どうにも困った辻君は、恐らく郷田君に『中浦貞夫から脅迫まがいの言動で結婚を反対されている』と相談した。郷田君はかねてから、辻君に友情以上の好意を抱いていました。そこで辻君を助けるため、脅迫に関する情報を集めようと、こっそり貞夫氏に近付く決意をしたと思われます」
人々が、一斉に葉月を見た。人々の顔には一様に、聞いてはいけない事実を聞いてしまった驚きと、戸惑いに似た表情が浮かんでいた。
「郷田君が、貞夫氏とどの程度まで近しい関係になったのかはわかりません。そんななか、一ヶ月前に重蔵会長が亡くなると、郷田君は隆社長と間弁護士の殺害を計画しました。同時に辻君を助け、毒殺犯の濡れ衣を被せるために、貞夫氏の殺害も企てたとしたら如何でしょう」
伊東が、相手を卑下するかのような笑いを浮かべながら「まさか、そげん馬鹿な」と、吐き捨てるように言った。
「殺害を実行に移し、成功させるためには、貞夫氏と一層、親しい関係になる必要があったでしょう。貞夫氏は、一部では好色漢として知られていたようですから、方法は自ずと想像がつきます。犯行現場となった橋も、より親密になるために何度か使われた可能性がないとは言えない。前もって利用していれば、殺害を実行する時に相手に怪しまれないですからね」
葉月は、マリア観音のように穏やかな表情を浮かべながら、やはり、微動だにしない。葉月の強さの前では、背徳の記憶さえも、計画という装置に内包されている歯車の一つに過ぎないのか。
私は、周囲の景色が捻じ曲がっていく、眩暈にも似た感覚に襲われた。
辻が突然、人込みを掻き分けながら走り出ると、矢永の胸ぐらを掴んだ。拳を振り上げながら「いい加減にしろ!」と叫ぶ。
ほぼ同時に、振り上げた拳と矢永の間に、葉月が体を滑り込ませた。辻を振り向くと、「やめてください」と静かに、強く言い切った。
葉月の言葉に虚を突かれた辻は、一瞬の逡巡の後、「……すみません」と矢永に謝罪しながら、拳を降ろした。その表情は、恥ずかしそうにも、悔しそうにも見えた。
「あいにく、人に憎まれる状況は慣れている。心配しなくてもいい」
矢永は独特の言い回しで謝罪を受け入れると、上着の胸元を整えながら続ける。
「私の推測では、貞夫氏は、郷田君の目撃証言がある十一時前には、すでに殺害されていました。ただ、問題は貞夫氏のスマートフォンです」
矢永は、誰に向けるでもなく、人差し指を立てながら「いいですか」と断りを入れる。
「貞夫氏のスマートフォンは、十一時には中浦酒造周辺にあり、遺体発見時の十六時には、遺体の脇にありました。その間、郷田君は中浦酒造を離れてはいません。郷田君は、どのようにして、スマートフォンを貞夫氏の遺体の元に届けたのでしょうか。方法は、唯一つ。川です」
「川? 意味がわからんばい」
伊東が、怒気を孕んだ声で訴えた。
工場内の重苦しい空気と緊張感は、秋江の慟哭以降、もはや臨界点に達していた。質量を増した空気が人々の肉体を束縛し、精神の暴発を辛うじて抑え込んでいた。
「決行の前……、前日か二日前かは、わかりませんが、郷田君は貞夫氏に『九月二十一日の朝、例の場所で会いたい』と連絡を取ります。例の場所とは、殺害現場です。現場は人家からも離れ、まず人目につきません。待ち合わせ時刻は、十一時に中浦酒造に到着する予定を考慮すると、十時ぐらいでしょうか」
矢永は、人々の暴発の予感をものともせず、淡々と解説を続ける。
「決行当日には、会社にあらかじめ午後出社の連絡を入れておきます。郷田君は、貞夫氏と現場で待ち合わせて、毒入りのビールを飲ませます。貞夫氏が息絶えるのを見届けると、毒物を貞夫氏に持たせ、スマートフォンを抜き取ります」
ここで、穂高が再び疑問を呈した。
「貞夫氏の缶ビールに、確か毒物は入っていませんでした。こっそり毒物を飲ませたのなら、ビールからも毒物が検出されますよね」
矢永は横目でちらりと穂高の姿を捉えると、控えめに微笑んだ。
「簡単な話だ。毒物入りの缶ビールを飲ませた後で、毒物の入っていない缶とすり替えればいい。それだけだ」
私は目を瞑り、貞夫氏の遺体発見現場の様子を、頭の中に思い描く。矢永の推測と矛盾する点は、発見できなかった。
現場に矛盾がない代わりに、私の心の中には、不安と安堵という矛盾する二つの感情が渦巻いていた。矢永の推測が全くの的外れであってほしい願望と、真実を知りたい欲望の間を、私は今もって彷徨い続けている。
「一連の作業をシミュレーション通りに手早く終えると、十時三十分過ぎ頃には撤収可能となるでしょう。ここからが、この事件の核心だ。当初は完璧とも思えたアリバイ作りだね。わくわくするよ」
矢永が、冗談めかした口調で自らの感情を露わにした。矢永は、ここに集まった人々の感情が、依然として爆発寸前である事実を全く理解していない。
いっぽうで葉月だけは、人々の感情が作り出す歪んだ空間の外にいる。
「十一時に車で会社に戻ると、貞夫氏のスマートフォンを使い、家族宛てに『今、中浦酒造の近くにいる。とんでもない事件を起こしたしたのかもしれない』とSNSでメッセージを送ります。中浦酒造付近からの発信なので、貞夫氏が生きて中浦酒造付近にいた偽装になります」
矢永は、自らの推理に感心するように、右手で顎を撫でた。
「以降の説明は、トリックの核心ともいえる部分です。多分、郷田君は、ここでも氷を使ったのでしょう」
一同が、息を呑む音が聞こえた気がした。幻聴だったのかもしれない。が、聞こえたとしても不思議のない状況が、工場内にはあった。
「十一時五分、郷田君は研究棟の二階、誰もいない研究室の酵母保存用の冷凍庫に隠しておいた、大きな氷の塊を取り出します。氷には、あらかじめスマートフォンが入る大きさの穴が開けられていたのでしょう。穴にスマートフォンを入れると、水を満たして一時間ほど凍らせ、接合させます」
まるで、見てきた口ぶりである。人々は、先ほどにも増して、矢永の言葉が真実であるかのように錯覚し始めていた。
「十一時十分頃、郷田君は私たちに対して、貞夫氏を見掛けたという嘘の証言をしました。この証言は、SNSのメッセージが送られた時間前後、貞夫氏が中浦酒造付近にいた偽装になりました。続いて十二時過ぎ、昼休みになると、目立たない裏道を数分歩いて、スマートフォン入りの氷を清水川に運びます」
葉月を振り返った矢永は、人の心の中を見透かす笑顔で葉月に視線を送った。
葉月は心を見透かされまいと、強い表情で矢永の視線を撥ね返す。まだ、自分の罪と対峙する勇気と覚悟を失っていないらしい。
「十二時十分、郷田君は清水川にスマートフォン入りの氷の塊を流します。運搬には、恐らくクーラーボックスのような容器を使ったのでしょう。氷の塊は数㎞流れると、貞夫氏の遺体がある橋の横にある堰で止まります。やがて氷が溶けると、スマートフォンは水没します」
「実に巧妙な方法だ」と呟くと、矢永は負けを認めた棋士よろしく、額に右手を当てて唸った。気を取り直したように手を降ろすと、再び口を開く。
「清水川は水が比較的豊富で、ある程度の水深があり、流れも安定しています。大きく蛇行している犯行現場付近までは、障害物となりそうな設備も河原もありません。そのため、スマートフォンが入った氷は、堰まで辿り着く可能性が高いと思われます。流速は、見たところ分速百mほどですから、現場に流れ着くまでは、二十~三十分ぐらいです」
矢永は、天井に近い空間を見上げる。自分の言葉を一つ一つ確認するように、立てた人差し指を前後に動かしながら、解説を継続する。
「事前に、入念なシミュレーションを繰り返していたはずです。氷を流してから到着するまでの時間、氷が溶けるまでの時間は、ある程度予測できていたでしょう。その後、十二時十五分には会社に戻り、遺体発見までは、ひたすらアリバイ作りに専念します」
葉月は、シミュレーションの記憶を具体的に思い起こしているのか。頬をやや紅潮させながら、どことなく懐かしそうな表情をした。矢永は、葉月にちらりと目を遣ると、最後に付け加えた。
「これで、貴女の完全犯罪もどきは完成となる」
葉月は、矢永の挑発的な言葉に心を乱されたりはしなかった。むしろ、矢永の言葉を素直に受け入れようとしている態度にさえ見えた。
私は、矢永の失態を目に焼き付け、記憶する行為こそが自らのレゾンデートルだと自覚している。そんな私の目は、矢永の心に過った微小な落胆の影を見逃さなかった。
「断っておきますが、今の私の話は、郷田君自身に犯行が可能だったという見解に基づいた話です。ひょっとしたら、フィクションかもしれないし、フィクションと主張されれば、返す言葉もありません」
人々による嘲弄の視線をものともせず、矢永は渾身の力を込めて抵抗の矢を放つ。
「ただ、郷田君は、先ほどもお話ししましたように、見てもいない粉末の容器を『毒の瓶』と表現しました。また、郷田君が一人で管理していたワインクーラーの水に、ツチハンミョウが集まりました。さらに貞夫氏は、社長と間弁護士の殺害犯しか持ち得ないカンタリジンで命を落としました。これらは、私の推測が必ずしも荒唐無稽な内容ではない事実を物語っています。少なくとも、私にとっては、これだけで十分です」
矢永は、得意げな顔をして踏ん反り返り、葉月を見下ろした。葉月は、繰り返される矢永の挑発的な態度にも、決して動揺を見せない。
罪の意識、良心の呵責。秋江を初めとする、中浦家の人々による糾弾。
葉月は、世にも恐ろしい犯罪を決意した瞬間から、全てを受け止める覚悟を決めていたのだろう。全てを受け止めながらも、決して逃げず、強い意志を持った目線で前を向く。葉月は、誰にも負けない本質的な強さを、内に宿した人間だ。
矢永は、聴衆を見渡すと満足そうな顔をして、再びペットボトルの水で、口を湿らせた。
「考えてみると、一つめの毒殺事件の切っ掛けは『開発反対派である重蔵会長』の死、二つめの貞夫氏殺害事件の切っ掛けは『結婚反対派である重蔵会長』の死でした。二つの事件は、いずれも一見全く関係がないと思われる『重蔵会長の死』で、すでに避けられない必然となっていたのです」
「もう、やめてください!」
工場の中に、女性の声が大きく響いた。
声が聞こえた方向に顔を向けた。南奈が、愛しい人を守るように、葉月を抱き締めながら叫んでいた。
「もう……、もう、十分でしょう! 悪いのは、葉月じゃありません。葉月は、悪くない……」
南奈の肩は、わなわなと小刻みに震えていた。美香が下唇を噛みながら、一瞬、悲しそうな目で南奈に視線を移す。すぐに視線を逸らすと、俯いて目を閉じた。
決して本意ではないながらも、結果的に南奈を裏切る形になった事実に、美香自身も苦しんでいるに違いない。いつもは憎らしい後輩だが、この時ばかりは、私も美香への同情を禁じ得なかった。
「結城君、ご忠告有り難う。申し訳ないが、やめるわけにはいかない。この土地の呪縛に縛られながら生きている人たち、ここにいる全ての人たちのためにも、私は語らなければならない。僭越ながら、その魂を呪縛から解き放たなければならない」
矢永が、妥協を許さない厳しい目で南奈を見た。
「……奇蹟ばい」
矢永の言葉を遮り、伊東が呟くように小さな声で口を開いた。伊東の言葉を受けて、更に別の男が叫んだ。
「そうたい、こん事件は人殺しじゃなか。コエリョ様の遺産、俺たちん土地ば守ってくださる奇蹟……種子神社の奇蹟ばい」
男の言葉を合図に、人々の間に「奇蹟ばい」「奇蹟に決まっとう」という呻きにも似た声が上がり、やがて不気味な波のように広がっていく。伊東たちは呻きながら一様に、矢永の顔を恨めしそうに凝視する。
「なるほど。コエリョが遺した武器を守るために、隠し場所を侵そうとした者をことごとく抹殺する。それが貴方方の信じる『奇蹟』ですか」
相手の心を射抜く厳しい目を伊東たちに向けながらも、矢永は冷静を装った声で自らの説を展開した。
「貴方方の信仰は、もともとは各地に残る、隠れキリシタンの信仰とよく似た内容だったのだろう。しかし、この地で独自の発展を遂げた結果、キリスト教や他の地の隠れキリシタン信仰とは、全く異なる宗教に変貌した。いや、宗教とさえ言えない。私に言わせれば、人の死さえも奇蹟なる言葉で片づける、愚かなカルトだ!」
矢永は、やや興奮した様子で語気を強めた。矢永にしては珍しく、額に強い憤りを表す深い皺が寄り、眉間に血管が浮かび上がっていた。
「貴方方が、今回の事件、いや、数百年と続いてきた恐るべき伝統、奇蹟などと呼ばれている禍々しい呪縛を、どの程度まで具体的に感知していたのか。私にはわからないし、知りたいとも思わない。いずれにしても、一つの思想や行動原理が数百年もの間、人目を忍んで連綿と受け継がれ、生き残るためには、少なからぬ人の協力が必要だったろう」
相手を威圧する矢永の言葉の迫力に、伊東を中心とする男たちは怯み、口をつぐんだ。
矢永は、自らを落ち着けるように、ここで右手の人差し指を額に当て、頭を軽く振った。
「覚えているかい、郷田君。貴女は、私たちがこの地を訪れて四日目の夜、料理屋で『自分はこの土地に縛られて生きるしかない』と語っていたね」
葉月は、返事を拒否したまま、矢永の目を見返した。矢永は、葉月の拒否を確認して続ける。
「かつて私は、隆社長と間弁護士の毒殺には、生贄の匂いがすると述べた。だが、許されるならば、訂正しよう。生贄は、貴女だった」
矢永の語る通りだ。私は、無意識のうちに大きく頷いた。
一旦、生贄になったからには、この土地に縛られ、自らの生き様を運命付けられながら生きなければならない。拒否する行為も、逃げる行為も、決して許されない。
「もう一度、言おう。貴女こそが、生贄だ。今もこの土地に、この土の中に巣食う、奇蹟などと呼ばれる目に見えない毒虫のような存在に捧げられた、生贄だった」
きっと、葉月自身も苦しんでいただろう。今も、矢永の容赦ない指摘に、自らの人生を振り返り、苦悩の表情を浮かべているに違いない。私は今一度、南奈に抱き締められながら佇む葉月を確認する。
私の予想に反し、葉月は南奈の頭を優しく撫でながら、心の平穏を取り戻しつつあるらしかった。優しさの中に強さを湛えたいつもの表情が、徐々に葉月の顔面に蘇りつつあった。
矢永は、伊東たちに厳しい目を向け、辛辣な言葉をもって糾弾する。
「貴方方は、生贄として生きる運命を負わされた郷田君の人生の上に、胡坐を掻いてきた。偽りの奇蹟、換言すれば、まやかしとも表現できる存在を、無責任に信じてきた貴方方の責任は、とてつもなく重……」
「これで、よかったんです」
矢永の言葉を遮るように、葉月が強い口調で答えた。微動だにせず、凛として背筋を伸ばしたその姿に、私の心臓は一瞬大きく波打った。
「私が自らの運命を、父からはっきりと告げられた時期は、中学を卒業する間際でした。私は驚く以上に、今まで感じた経験のない不安におののきました。想像してみてください。我が家、いえ、この地域の人々が代々にわたって隠し続けてきた、コエリョ様の秘密。それを守れと、ある日突然、一人の年端もいかない中学生が、命じられたのです」
葉月は遠くを見詰めながら、なぜか少し懐かしそうに、静かに語り続ける。
「その時以来、私は確かにこの土地に縛られ、同時にそんな自分の運命を呪いながら生きてきました。秘密を誰に相談する決断もできず、かといって拒否する行為もままならず、一人で苦しみながら、毎日を過ごしてきたのです。それは、今でも変わりません」
葉月のやや高く、よく通る声が、荘厳な讃美歌の調べのように工場の空間に響き渡った。葉月の姿を前にしながら、私はかつて広報課で二人きりになった時、葉月が語った言葉を思い出した。
――幸せでなかったとしても、私は、その運命を受け入れようと思っています。きっと、生きるとはそういう意味なんだと思います。
葉月は、きっとあの瞬間も、運命を押し付けられた理不尽さに耐え、運命を懸命に受け入れようとしながら生きていたのに違いない。
私は、自分の無神経さを恥じ、鈍感さを呪った。
「……でも、これでよかったんです。他の人が生贄になるぐらいなら、私が生贄で、本当によかった……」
感情を抑え付けていた見えない糸が、切れたのかも知れない。今まで、悲しみや苦しさといった負の感情を一切、表に出してこなかった葉月の頬を、一筋の涙が流れた。
「……悪くない。葉月は、悪くない……」
南奈は、言葉を繋ごうとする葉月の肩を一段と強く抱き締め、右手の親指で葉月の頬の涙をふき取りながら、呪文の如く繰り返した。
葉月は、南奈の頭を右手で愛おしむように撫でると、矢永の目を柔らかい視線で捉える。
続けて、周囲の人々をぐるりと見回すと、聖母かと見紛う表情で、にこりと微笑んだ。
「もう、これで全て終わりにしましょう。呪縛も、生贄も、私たちを苦しめる何もかもを……」
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