第18話 謎解き四、そして旅立ち(最終話)
そのまま、どれだけの時間が流れただろう。
「今回の事件に関する、私の推理はここまでです。あとは、静かに警察の捜査を見守っていこうではありませんか」
矢永が、妙に演説めいた口調で声を上げた。
その言葉に、我に返ったのだろうか。伊東を中心とする男たちははっと顔を上げる。そのまま、気まずそうな顔をしながら、すごすごと工場を後にし始めた。
伊東たちの行動を合図に、中浦酒造の関係者たちも足を引き摺るように、三々五々、仕事場へと戻り始める。
皆の顔には、今までの話が信じられないといった表情が一様に浮かんでいた。焦点の定まらない目で、夢遊病者のようにふらふらと歩を進める。
無理もない。
俄かには受け入れ難いほどの、恐ろしくも奇怪な事件だった。私でさえ、まるで夢の中かと錯覚する正体不明の浮遊感を、未だに拭い去れないでいる。
ここにいる人々が、現実感を持って事件を振り返るまでには、しばらくの時間が必要となるだろう。
すれ違いざま、伊東が矢永を上目遣いに睨みつけながら、呻くように聞いた。
「警察には、言わんとか」
矢永は、表情一つ変えずに答える。
「先ほども申し上げた通り、我々から警察に話すつもりはありません。あくまで一市民による無粋な推論に過ぎませんし、客観的な証拠は何一つありませんからね。私の推論を聞いて、その内容を警察に通報しよう考える人がいるかも知れませんが、それは一向に構いません。しかし、優秀な警察の方々のことですから、探偵気取りの怪しげな男の戯言など、聞く耳はもたない可能性が高いでしょう。通報される方は、その事実をあらかじめ認識されておいたほうがよろしいかと思います」
ここで穂高が、横から遠慮がちに、しかしはっきりとした口調で問い掛けた。
「しかし、澤田さんが捨てた水にカンタリジンが入っていた事実は、カンタリジンが検出されれば立派な証拠になるはずです。その事実は、警察に知らせなくてもいいんですか」
「カンタリジン入りの水が捨てられて以降、何度か雨が降ったため、今となってはカンタリジンを検出するのは難しいだろう。もし検出されたとしても、数匹のツチハンミョウが同じ場所で死んでいた事実を考えると、検出されたカンタリジンが毒殺に使われた毒薬であると証明するのは難しいだろうな」
矢永の言葉に、穂高は反論しなかった。
「……葉月は、わしらが守る」
伊東は、矢永と穂高の会話が終わったのを確認すると、私たちに向かって強い口調で宣言し、再び歩き始めた。
*
伊東の後ろ姿を冷たい視線で見送った矢永は、パイプ椅子から力なく立ち上がろうとする樹希たちに声を掛けた。
「樹希君、辻君、祥子さん、郷田君。君たちは、ここに残ってくれ給え。まだ、最後の話がある。あと、もしよかったら、穂高君。君も残るかね」
樹希、辻、祥子の三人は、戸惑いながらも首を縦に振った。穂高は、訝し気な顔をしながらも「ええ」と短く答えた。
葉月は、膝の上で嗚咽を漏らし続けている南奈に、優しく語り掛けた。
「私と矢永さんたちは、ちょっと話があるから、先に行ってて。すぐに行くから、いい子にして待っててね」
頭を撫でると、南奈は顔を伏せたまま「うん」と、子供のような返事をした。
五人以外の退出を見届けて、矢永は再び、名探偵気取りの尊大な表情を演出した。五人の顔を順番に睨め付け、最後に辻の前で視線を止める。
「辻君。一つ、質問だ。君が貞夫氏に脅迫されていた内容は、君の出生の秘密だね」
引きつった辻の表情は、矢永の問い掛けが、的確な内容である事実を示していた。
「出生の秘密の、具体的な内容とは何か。脅迫の内容が出生の秘密である事実を、我々がどのような方法で推測したか。重蔵会長が、君たちの結婚に反対していた、本当の理由は何か」
矢永は、右手の指を順番に折り曲げながら、謎掛けもどきの言葉を口にした。
「君たちに、ここに残ってもらった理由は、他でもない。この三つの内容について、説明しておかなけらばならない、と考えたからだ」
本当に「説明しておかなければならない」のか。私には、説明する必然性は感じられなかった。
「申し訳ないのですが、今はとても、そんな気分になれません」
案の定、辻が矢永の身勝手な提案を頭から否定した。
だが、今の矢永は、誰が何と言おうともミステリートレインの運転を止めるつもりはない。その事実は、日の目を見るよりも明らかだった。
「私だって、できればこのような話はしたくない。しかし、私がここで君の出生の秘密を語る行為も、それを君たちが聞く行為も、厳然とした権利であり、同時に義務でもあるのだ」
矢永はもっともらしい言葉を繋いで、周囲を煙に巻く。
辻は、もともと自分の出生の秘密なる話題に多少の興味をもっていたのか、あるいは矢永の言葉に抗う行為を諦めたのか、それ以上は何も語らなかった。
辻の沈黙を見届けると、矢永は得意げに人々の顔を見渡す。
「ヒントになった物品は、もちろん髪の毛だった。貞夫氏が持っていた髪の毛の持ち主は、いったい誰か。目的は何か。まず思い浮かんだ目的は、言うまでもなくDNA鑑定だ」
葉月の顔に、僅かな動揺が表れた気がした。斜め下を向いて、視線を細かく移動させる。
「私は、DNAが判明した結果、貞夫氏にとって利益になる相手を推測した。最近の貞夫氏の行動を考えると、中浦家の関係者の可能性が最も高いと思われる。そこで思い出したのが、重蔵会長に結婚を反対されていた辻君と樹希君だった」
矢永は、まず辻を見た。辻は、困惑した表情で、矢永に視線を送り続けていた。続いて、やはり動揺を隠せない、樹希に視線を移す。
「いささか、荒唐無稽に聞こえるかもしれない。私は、重蔵会長が結婚に反対していた事実から、辻君と樹希君の間に結婚を許されない重大な秘密がある、と仮定した。例えば、出生の秘密だ。そう考えると、貞夫氏が髪の毛のDNA鑑定の結果を材料に、辻君を脅迫した可能性が浮上する」
「やめてください! その話は必要がないでしょう!」
葉月が叫んだ。葉月には珍しく、動揺を伴った叫び声だった。葉月の言葉を耳にした矢永は、無念そうな表情を作って反論する。
「貴女に、必要がないと言われても困る。全ては、貴女が原因だ。貴女が原因を作らなければ、こんな話などせずに済んだのだ」
詭弁だ。
矢永は、端から自説を披露したいだけなのだ。矢永は、他人の心の傷に対する配慮など、微塵も持ち合わせていはいない。
「私は早速、辻君の髪の毛を車のシートから、重蔵会長の髪の毛を愛用の帽子から、樹希君の髪の毛を部屋からこっそりと拝借した。そして、貞夫氏が持っていた髪の毛とともに、ちょっとした知り合いにDNA鑑定をお願いした。果たして結果は、貞夫氏が持っていた髪の毛は、辻君と樹希君の髪の毛だった」
ここで矢永は、お気に入りの絵本を捲る幼児のように満面の笑みを浮かべながら、再び辻と樹希に視線を送る。続いて、入り口に最も近い場所で遠慮がちにパイプ椅子に腰掛け、俯いている祥子に顔を向けた。
「それだけではない。私の依頼による鑑定の結果は、想像もつかない内容だった。祥子さん、重蔵会長の奥方であられた貴女なら、鑑定結果がどのような内容だったか、おわかりになるでしょう」
祥子は、矢永の問い掛けに対して不自然なほどの動揺を見せ、目を泳がせた。手に持つ白いハンカチをぎゅっと握り締め、全身を細かく震わせている。
「貴女は、貞夫氏が所持していた髪の毛が、辻君と樹希君の髪の毛だったと聞いた瞬間、激しく動揺しました。貴女の反応を見ると、鑑定結果と同じ内容をすでにご存じだったとしか考えられません」
矢永の言葉に、祥子は体に電気が走ったように、背筋をビクンと震わせた。
図星だった。
「話してください。貴女がご存じの話を」と矢永に促され、祥子は話し難そうにぽつりぽつりと答え始める。
「二人の出生に関する話は、存じておりました。昔、一度だけ、重蔵会長が涙ながらにぽつりと仰っていたのを記憶しています。『秦司君と樹希は、異母兄妹だ。二人には、本当に悪いことをしてしまった。だが、兄妹である以上、結婚を認めるわけにはいかない』と。ただ、私は……」
「ただ、何です」と、矢永がすかさず追及の手を伸ばす。
「ただ、知ってはいけない内容に思われましたので、ずっと胸の奥にしまっていました」
「二人の未来に関わる、重要な話です。二人に伝えなければならないとは、思わなかったのですか」
矢永は、追及の速度を上げ、祥子の心を薄暗い袋小路へと追い詰める。
「私は後妻の身で、社長や樹希さんは先の奥さんのお子さんです。ですから、二人の個人的な話に関して、私がとやかく語る資格があるのかと、いつも自問自答しておりました。重蔵会長にも、二人の日常生活にはあまり口を出さないよう言われておりましたものですから。でも、こんな事件が起こるなんて……」
祥子は言葉を失うと、俯いたまま、さめざめと涙をこぼした。きっと、事件の原因の一端が、二人の出生の秘密を隠していた自分にあると信じているのだろう。
言動から察するに、祥子はきっと根が素直で、かつ自己否定感がやや強い性格と思われた。その性格が、祥子の心の奥底に澱のように張り付いている自責の念を、さらに増幅させているに違いなかった。
私は、祥子の心情を推し量りながら、辻と樹希を観察する。
辻は次々と明らかになる禁断の内容に絡め捕られ、蒼褪めた顔で立ち竦んでいた。一方の樹希は、信じられない様子で、膝の上に置いた両手を硬く握り締めている。桜の花弁のような薄紅色だった唇は、血の気が引き、土気色に支配されていた。
構わず、矢永は続ける。
「貞夫氏の脅迫は、祥子さんの証言と同じ『辻君と樹希君は異母兄妹である』という内容だったのだろう。しかし貞夫氏は、具体的な内容は辻君に告げていなかったと思われる。なぜなら、以前、私が辻君に対して『君は重蔵会長に似ているね』と鎌を掛けたところ、きょとんとして動揺の欠片も見せなかった」
五日前、種子神社を二度目に訪れた時の遣り取りだ。あの時、私は迂闊にも矢永の言葉を、単なる思い付きの勝手気儘な発言としか捉えていなかった。だが矢永は、辻が自身の出生の秘密をどこまで知っているか、探っていた。全ては計算尽くだった。
「一方、郷田君は、貞夫氏の所持品から見つかった髪の毛の話題を持ち出したところ、髪の毛について『誰のもの』ではなく、『誰と誰のもの』と表現した。通夜の当日だったかな。『誰と誰のもの』という言葉は、郷田君が髪の毛の存在とその正体を、すでに知っていた事実を暗示している」
辻と樹希は、愕然とした表情で葉月を見た。予想外の展開に対して、驚愕の念を抱きながらも、どう反応するべきか判断に苦しんでいるようにも見えた。
「郷田君は、髪の毛の正体について、辻君以上に詳しく知っていた。その事実は、貞夫氏と郷田君の距離の近さを雄弁に物語っている。そこで私は、郷田君が貞夫氏に近付いた、と考えた」
矢永は、四人を敵に回しながら、全員の心の中に、悪魔の言葉を囁き続ける。
「郷田君。貴女が貞夫氏殺害を決意した大きな理由は『辻君と樹希君は異母兄妹である』という話を、貞夫氏が語っていたからではないかな」
葉月は、矢永の言葉に先刻よりも激しい動揺を見せたが、動揺に抗うように顔を上げた。たとえ、自らの手を汚そうとも、辻の出生の秘密に関する具体的な内容だけは、伏せておきたかったのに違いない。
「貞夫の口から、秦司と樹希が異母兄妹である、と聞かされた時、今までにない殺意を感じたのは確かです。貞夫は、二人が異母兄妹である内容を公にしようとしている、阻止しなければ、と考えました」
私は先ほど、一切の余分な感情を、心の奥底に仕舞い込んだはずだった。にもかかわらず、封印した感情がいつの間にか湧き上がっていた。私の胃が、きりきりと悲鳴を上げた。
「貞夫氏がおこなったと思われるDNA鑑定は、本人の同意がない鑑定だ。同意のない鑑定には、法的な拘束力は一切ない。しかも一般論としては、結婚する二人が異母兄妹であっても、認知されていなければ法律上は赤の他人。つまり、仮に兄妹である事実が世間に公表されたとしても、結婚は可能だ。ま、周囲からの好奇の目というハードルはあるがね」
「仮にも兄妹ですよ。他の家ならいざ知らず、我が中浦家では、兄妹の結婚など許すわけには参りません」と、祥子が先ほどよりもやや強い口調で反論した。
「異母兄妹は片親が異なるため、遺伝学的に見れば、従兄妹と同じだけの遠さがある。法律上は結婚が禁じられているとはいえ、いわゆる近親婚による生物学的な弊害は心配のないレベルだ」
祥子は、表立っては矢永に反論しなかったが、「それでも、私は結婚に賛成していなかった重蔵会長の遺志を尊重したく思います」と呟いた。
矢永は、法律事務所の担当者まがいの丁寧さをもって、DNA鑑定について必要以上の熱弁を振るう。
「今さらですが、私がおこなったDNA鑑定も、『辻君と樹希君は異母兄妹である可能性が高い』という内容でした。これは祥子さん、貴女の証言と矛盾しません。二人が兄妹であるという貴女自身の見解を重視し、かつ重蔵会長の遺志も尊重したい。そうお考えでしたら、法的に有効な方法で正式に鑑定し、辻君を重蔵会長の子として認知する行為をお勧めします。そうすれば二人は法律上、結婚できなくなります」
「でも、夫はもう亡くなっています。鑑定は無理です」
祥子は、どうしていいかわからないと言った表情で、矢永の顔を見た。矢永は、決して好感はもたれないであろう薄気味悪い笑顔を浮かべながら、祥子から辻、樹希へと、順番に視線を移す。
「具体的には、祥子さんと次男の雅彦君、次女の真衣ちゃんの検体で、重蔵会長のDNA型を推定し、辻君と樹希君のDNAと比較します。この方法で、法律上、必要な確率をクリアできます。父親の死後におこなう認知なので、これを死後認知といいます」
「でも、やはり私にはできません。大人の勝手な都合で、大切な子供たちをこんな問題に巻き込みたくありません」
祥子の懇願にも似た反論に、矢永は諦めたように「そうですか」と呟いた。矢永は、ここで今一度、厳しい顔付きになると、辻に向き直る。
「辻君、ここで、祥子さんの証言に基づいて、君の生い立ちを推測してみようと思う」
辻は、固く拳を握り締め、蒼褪めたたまま俯いていた。
「君は一緒に種子神社に行った時、『四歳になったばかりの夏に、半島の東側から引っ越してきた』と口にしたね。君は、この地区へ引っ越してくる四年前、その地で重蔵会長の子として生まれた。もちろん、父親が誰であるのかは、君の母親と重蔵会長以外は知らなかっただろう。その後、君が四歳になる直前、君たち母子は大変な災難に見舞われる」
矢永の言葉に、辻と樹希、祥子、葉月の四人の呼吸が止まった気がした。
私には、その現象の意味が、理解できなかった。横にいる美香も、驚いてキョロキョロと四人を見渡した。
美香にしても同様に、四人の呼吸停止の理由が理解できない様子だった。
答えは、矢永が用意していた。
「君が四歳になった年といえば、一九九一年だ。その年の六月、半島の東側では、ある大災害が起こった。雲仙普賢岳の大火砕流だ。島原市と南島原市の境界線を流れる水無川を中心とする地域に、甚大な被害をもたらした。一瞬にして四十三名もの尊い命を奪った、未曽有の自然災害だった」
大火砕流の記憶は、私たちが想像する以上に生々しい記憶として、この地方の人々の心の中に刻み込まれているのだろう。呼吸が一瞬、止まった意味が今、初めて理解できた。
矢永は、気の毒そうな表情を辻に向けた。
「君たち母子も、少なからぬ影響を受けただろう。その結果、重蔵会長の取り計らいで、この地に移ってきたのかもしれない。私の勝手な想像に過ぎないがね」
辻は、頷きはしなかったが、首を横に振る行為もしなかった。何にせよ、幼少時の経験である。引っ越しの詳しい事情など、記憶していないのが正直なところだろう。
矢永は、辻の意思表示など必要としない。
「ところが、何という運命の悪戯だろう。君は、ここで暮らすうちに、祥子さんが語るところの異母兄妹である、樹希君と惹かれ合う状況になった」
樹希と辻が、歯を食い縛りながら身を硬くした。樹希と辻は今、矢永の残酷無比な仕打ちに身を引き裂かれんばかりの苦しみを感じながらも、耐えている。
だが、運命の神を気取った矢永は、言葉を止める気配はない。付け入る隙を与えず、容赦のない言葉を吐き続ける。
「一方、重蔵会長は、二人が兄妹である事実を知っていた。重蔵会長は、二人が兄妹であると知っていたからこそ、結婚に反対した。祥子さんの証言から判断すると、そう考えられる」
祥子は、矢永の解説に深く頷いた。祥子の目に、何故かある種の満足感めいた色が宿っているのを、私は見逃さなかった。
祥子の目の色を見透かしてか、矢永が「だが、ここで、大きな矛盾が生じる」と、話の流れを変えた。
「重蔵会長は、辻君を非常に可愛がっていた。しかし、樹希君とは結婚させたくない。もし、この二つの要素がともに真実なら、認知するのが最も自然な流れだ。なぜ、貞夫氏は認知しなかったのだろう」
祥子を見る矢永の目が、鋭い光を放つ。矢永の視線と祥子の強い視線が私の前でぶつかり、目に見えない火花を散らした気がした。
「そういえば澤田さんは、重蔵会長との言い争いの時に、樹希君が『秦司の許に嫁ぎたいのです』と語ったと証言した。この言葉は、樹希君が辻家に入る状況を意味する。ひょっとすると重蔵会長は、辻君に婿養子に入ってもらいたかったから、辻君の許に嫁ぎたがる樹希君を諌めたのではないか。私は、その可能性を考えた」
確かに、澤田は樹希の言葉を「秦司の許に嫁ぎたい」と表現していた。貞夫の鞄を持っている澤田を見掛けた時の会話だ。
とは言うものの、その会話をして「重蔵会長は、辻に婿養子に入ってもらいたがっていた」と考えるのは、あまりに短絡的に過ぎる。
一同が、想像の斜め上を行く矢永の解釈に呆気にとられた。一同を代表して、私が矢永に対して至極もっともな疑問を呈する。
「いったいどう考えれば、そんな言葉遊びのような推測が成り立つんだ」
矢永は、待ってましたとばかりに私を見ると、怪しくも不謹慎な満面の笑みを浮かべた。
「皆さん、お二人の名前を思い浮かべてほしい。『秦司』と『樹希』。秦司は、酒造りの神である大山咋(おおやまくいの)神(かみ)を祀る松尾大社を勧請し、社殿を建設した古代の氏族、秦(はた)氏に通じる。一方、樹希は、松尾大社に大山咋神と共に祀られている宗像三女神の一人『中津島(なかつしま)姫(ひめの)命(みこと)』、別名『市(いち)杵島(きしま)姫(ひめの)命(みこと)』に通じていると推測される。重蔵会長は、二人がやがて結ばれる結果を望み、その願いを名前に込めたのではないだろうか」
誰も二の句を継ぐ行為ができず、反論もできなかった。
無理もない。二人の名前に、重蔵会長の隠された願いが込められているなどと、誰が想像できただろう。
矢永は、満足そうな表情で人々の沈黙を味わうと、さらに続ける。
「重蔵会長は、『異母兄妹なら、遺伝的には従兄妹と同じだけの遠さがあるから、結婚に問題ない』という、非常に合理的な考えの持ち主だった。そのうえで、辻君が樹希君と結婚し、できれば中浦家に婿養子に入る状況を望んでいた。だからこそ、辻君を認知しなかった。そう考えると、全ての辻褄が合う」
「そんな、まさか……」
樹希が、言葉にならない言葉で驚きを表現する。矢永は樹希の呟きに顔を向けると、困惑した表情を作った。
「ところが、ここで新たな疑問が湧いてくる。重蔵会長は、できれば辻君に婿養子になってほしいと思っていたものの、結婚には決して反対ではなかった。にもかかわらず、結婚に積極的な賛成の意を表さなかったのも事実だ。なぜか」
矢永は、女性の指のように長く華奢な右手の人差し指を、祥子に向けた。
「それは祥子さん、貴女が二人の結婚に反対し、重蔵会長に対して執拗に結婚反対を主張していたからでしょう。恐らく重蔵会長は、外に子供を作った負い目から、貴女の主張に真っ向から反論できなかった。違いますか」
祥子が、驚いた様子で、何かに弾かれたように背筋を伸ばした。
「隆社長と奥さんの秋江さんの間には、子供がいなかった。もしこのまま、二人に子供ができなければ、いずれ中浦酒造は、貴女の息子である雅彦君が引き継ぐ結果になります。ところが、辻君と樹希君が結婚すれば、その夢が破れる可能性が出てきます。貴女は先ほど、『重蔵会長は、二人の結婚を認めない旨の発言をした』と証言しました。この証言は、雅彦君に会社を継がせたいがための、虚言だったのでしょう」
祥子が矢永から目を逸らし、悔しそうに口をへの字に曲げた。
祥子の悔しそうな態度を一頻り観察した矢永は、にやりと天才詐欺師を思わせる笑いを浮かべた。
祥子に対する信頼感を払拭しきれないのか、話の成り行きに納得できない様子の辻が、不満そうに尋ねた。
「でも、祥子小母さんは、さっき僕を認知するためのDNA鑑定を拒否しました。僕たちの結婚に本当に反対しているのなら、認知するのも一つの手段です。もちろん、僕も樹希も拒否するとは思いますが」
矢永は「その疑問はもっともだ」と、生徒を見下す教師のような目つきで言い放つと、「だが」と続ける。
「辻君が言う通り、認知をしたら結婚はできなくなる。ところが、身内として中浦酒造の経営に口を出すようになる可能性は捨て切れない。遺産相続の権利も生じる。可能ならば、認知も避けたいのが本音だろう」
辻が、はっと何かに気づいたように祥子の顔を見た。祥子の真意を、確認しようとする視線だった。
祥子は、悔しそうに顔を歪めたまま、辻と目を合わせない。
「重蔵会長が亡くなって三年が経過すると、法律により、辻君の死後認知ができなくなる。重蔵会長の『結婚反対』という偽りの遺志を盾にして二人の結婚を認めず、かつ死後認知の期間を遣り過ごす。そして三年が過ぎた時、今度は異母兄妹であるという事実を明かして、結婚を事実上、不可能なものとする。そうすれば当初の計画通り、雅彦君が後継者となる可能性が大いに高まる」
矢永は、「よくできた計画だ」と嫌味をたっぷり含んだ言葉で、祥子の心を刺激し、感情を弄ぶ。
「話は前後するが、貞夫氏が、いつ、どこで二人の出生の秘密を知ったのかは、今となっては藪の中だ。だが、祥子さんが伝えた可能性も捨て切れない。祥子さんにとっては、貞夫氏の息子と樹希君の結婚阻止よりも、相思相愛である辻君と樹希君の結婚阻止のほうが優先される事項だからね」
祥子の目が、みるみるうちに吊り上がるのが、はっきりと確認できた。祥子の心は今、矢永に対する御し難い怒りに満ちているに違いなかった。
しかし、そんな些細な感情の変化に頓着する矢永ではない。
「私がこのような場を設けなくても、貴女は重蔵会長が結婚反対だったという話を材料にして、近々結婚反対の声をはっきりと上げるつもりだったのでしょう。しかし、全ての計画が明らかになった今となっては、その声は誰にも届きません。残念ですが」
矢永の最終宣告を受けて、祥子はパイプ椅子から力なく崩れ落ちた。矢永は、祥子の様子を意にも介さず、自己保身のためか弁解めいた言葉を口にする。
「言い訳がましいが、当初の私の推測は『重蔵会長が結婚に反対したのは、二人に結婚できない理由があるから』との認識がスタートラインだった。今にして思えば、『重蔵会長が結婚に反対していた』という前提自体が誤りだった。だが、『結果良ければ全てよし』という先人の言葉もある。この言葉に免じて、些細な見当違いは許していただきたい」
自分が述べたい内容だけを述べると、矢永は辻と樹希に向き直る。至って真面目な口ぶりで、終着駅への到着を宣言した。
「辻君、樹希君。これで、君たちの結婚に対する一切の障害は排除された。後は、君たちの決断次第だ。結婚するなり、別れるなり、好きにするがいい。これで、私の役目は終わりだ」
勝手に役目を担っているが、何が矢永の役目なのかは、全く不明だ。
それはさて置き、ミステリートレインは終着駅のホームに音もなく滑り込む。徐々に速度を落とすと、いつ終わるとも思われなかった長きにわたる運行を、ようやく終えた。
辻は、はっきりと認識できる表情の変化こそ見せなかったものの、心なしか安堵しているように見えた。樹希は、困惑の表情を浮かべながらも、辻の表情を確認し、やはり安堵の表情を浮かべたようだった。
――葉月は。
葉月の表情を観察する勇気は、なかなか湧いてこなかった。
しかし、このままで終わらせるわけにはいかない。私は最後の勇気を振り絞って、葉月の顔に視線を向けた。
葉月は、辻と樹希の安堵した表情を、実の母親のような優しさに満ちた目で、黙って見詰めていた。幼馴染としての最後の役割を果たせた結果に、細やかな満足感を得ているのかもしれなかった。
葉月の未来には、間違いなく茨の道が待ち受けているだろう。にもかかわらず、葉月は幼馴染のために、天使のように微笑む。その表情に私は、今までにない心の平穏を味わった。
――これでいい。全ては終わった。
今まで室内を覆っていた粘り気のある重い空気が、心なしか、晴れたような気がした。
葉月を見届けた私は、腕組みをしたままで部屋の隅に佇んでいる穂高に囁いた。
「というわけだ。驚いたろう。あれが、矢永敬一郎という男だ」
穂高は、今までじっと閉じていた目をゆっくりと開き、私の顔に視線を向けながら、困ったような笑みを浮かべた。
「ああ、随分と面白い話を聞かせてもらったよ。事件の犯人どころか、辻君や樹希君の生い立ちまで聞かせてもらえるとは思わなかった。面白過ぎて、未だに信じられない」
私は、小声で尋ねた。
「ところで、この推理を記事にするのかどうかという話なんだが……」
穂高は「ああ、やはりその話か」と呟きながら、天井を見上げた。
「最初は、記事にする可能性も考えていた。事件があったら記事を書かずにいられないのは、記者の性だからな」
「だが」と、穂高は続ける。
「我々、地方の弱小新聞社は、警察や政治家との信頼関係で成り立っている部分があってな。先走って勝手に記事にしたり、下手に上から目線で情報提供したりして、お偉いさんのプライドを傷つけたりすると、その信頼関係にひびが入る結果にもなりかねない。しかも、今回の事件は想像以上に複雑な背景があるようだ。恐らく、郷田葉月本人に話を聞こうとしても何も語ってはくれないだろうし、伊東とかいう老人たちは、恐らく郷田の行為を全力で擁護、あるいは隠蔽しようとするだろう。記事にするには、もう少し警察の捜査状況を見てからのほうがよさそうだ」
そう話すと、腕組みをしたまま、何かを考えるように再び目を瞑る。数秒の間を置いて目を開けると、息を吐きながら小さく笑った。
「……というのは建前でな。実を言うと今回の事件に関して、自分がどう行動すべきなのか、答えを見つけられないでいるというのが正直なところだ。こんな話をしている時点で、本当は記者失格なんだがな」
困惑した表情だったが、不思議と明るい口調だった。
穂高の告白を聞きながら、今まで私の全身を貫いていた緊張感が一気に昇華し、空気中に放出される気がした。
私も穂高に倣って、ふうと大きく息を吐いた。
終章
二〇一六年九月三十日
矢永による謎解きから数時間後。
私たちは、十六時四十九分に諫早駅へ到着する予定の、島原鉄道の車中にいた。
ちょうど、島原半島北端の古部駅を出発した直後である。次の吾妻駅を過ぎると、列車は内陸に入る。
私は右側の窓辺の席に座り、窓枠に肘を掛けながら、間もなく見えなくなるであろう諫早湾を、ぼうっと眺めていた。二週間前と同じく、海苔の採苗に使われる支柱が林立する海の向こうに、対岸の景色が煙って見えていた。
バスで西に向かい、小浜温泉経由で帰る方法もあった。が、結局は島原鉄道による帰路を選んだ。
帰路は、ただ東京に帰るだけの行為ではない。私たちが約二週間を過ごした非日常から日常へと帰る、一種の儀式だ。したがって、往路と同じ道を辿らなければならない。
そんな気がした。
私の提案に、矢永と美香も反対はしなかった。確認はしなかったが、同じような気持ちをもっていたのだろう。
「間もなく吾妻、吾妻です」と、車内アナウンスが流れた。
吾妻駅を過ぎると、諫早駅までは三十分ほどである。私は、長いようで短かった二週間の出来事の数々を思い出そうとした。しかし、よくも悪くも印象深い出来事が多過ぎ、何を思い出せばいいのかが、思い浮かばなかった。
目を瞑り、記憶の箱を無理矢理こじ開けると、中を覗き込む。
さまざまな人々の顔が、同時に浮かんだ。元気のいい南奈の笑顔、恥ずかしそうに頭を掻く辻の表情、神秘的ともいえるほどに美しい樹希の横顔。豪放磊落な穂高の……、いや、穂高は、この際、要らない。
最後に、葉月の顔が浮かんだ。
葉月に対しては、遅かれ早かれ、警察の捜査の手が伸びる可能性が高い。自首も有り得る。
私は、正体不明の痛みを胸に抱えたまま、自問自答する。
――私たちの行為は、本当に正しかったのか。
私は、悪を憎み、悪人を決して許せぬ質の男だ。その証拠に、矢永のような極悪人は、一刻も早くこの世から消え去る結果を願って止まない。
葉月も、紛れもない悪人である。だが、葉月だけは、どうしても心の底から憎む気持ちになれないでいた。
矛盾という卵から生まれた苦しみが、芋虫のように脱皮を繰り返しながら、私の心の中で急激に成長するのがわかった。
――私たちは、葉月を初めとする多くの人々の運命を、不当に変えてしまったのではないか。
私の気持ちを察したのだろうか。向かいに座っている美香が、窓の外に目を遣りながら、口を開いた。
「心配ないですよ。山際さんがどう頑張ったって、人の運命なんて、そう簡単に変わりませんから」
私は、心の中を見透かされた気恥ずかしさから、ふて腐れた態度で聞き返す。
「どうして、そう思うんだ。そんな話をするからには、何か根拠でもあるのか」
美香は、視線を窓の外から私に移動させると、身を乗り出す。苦悩に満ちた私の目を覗き込むと、「そういうもんです」と微笑んだ。
「だから、そう思う根拠は」と、私は毒付いた。腹が立ったわけではない。気恥ずかしさから来る照れ隠しだ。
美香の言葉は、正直、私の心を少し軽くしてくれた。
考えてみれば、美香自身も、葉月の犯罪を暴くという行為を通じて、幼馴染である南奈を心ならずも裏切った。自らの傷心を押して私を慰めるとは、この二週間で、美香も幾分か成長したのかもしれない。
今なら、美香を美香たらしめている嫌味でお節介な性格も、多少は素直に受け入れられそうな気がした。
私は、斜め向かいの席に顔を向けると、目を瞑っている矢永に尋ねた。
「種子神社の裏に埋められていたコエリョの遺産だが、なぜ、君は皆の前で、実際に目にした事実を告白しなかったんだ」
矢永は、片目だけを薄く開け、私の顔をちらりと見遣った。
「毒を使い、人を殺すなどという行為は言語道断だ。だが、郷田君のご家族は、代々コエリョの遺産を守ってきた。大変な苦労、苦悩があっただろう。その行為に対して、一定の敬意を表しただけだ」
矢永の価値観から大きく乖離しているはずの「敬意を表した」という言葉が、俄かには信じ難かった。どうにも、本音とは思えない胡散臭さが漂っている。
「さらに付け加えるならば、大判小判がザクザクという状況ならいざ知らず、錆び付いた大量の火縄銃など、個人的には全く興味がない。君も同じ感想だろう」
こちらが本音か。私は、矢永の本音に対して、「やっぱりな。そんな理由だろうと思ったよ」と、正直な感想を口にした。
「まあ、俺も同じ感想かと聞かれれば、否定のしようもないが……。それにしても、夜中にスコップやバールまで持ち出して行った宝探しは、全くの骨折り損だったな」
矢永は「骨折り損といえば、確かに、その通りだ。しかし、思いがけない拾い物もあった」と口にする。
話が見えない私を前に、矢永は上着のポケットから、ビニール袋に入った、十㎝四方ほどの黒い物体を取り出した。
興味を示した美香が「何ですか、それ」と、矢永に肩を寄せながら、覗き込んだ。
矢永がビニール袋から取り出した物体は、どうやら二つ折りの革製の財布のようだった。
財布ではあるが、長年にわたって風雨に晒されたかのように、あちらこちらが傷み、少なからぬ泥も付着している。
尋常ではない傷み方から、少なく見積もっても、数年以上の昔に打ち捨てられた財布である事実は、明白だった。
「君の手癖の悪さは、まさに重要文化財級だな。いったいどこで、いつの間にそんなものを拾ったんだ」と、私は呆れながら尋ねる。
矢永は私の質問には答えず、ビニール袋から財布を取り出し、二つ折りの部分を広げる。カード入れの部分に指を差し込むと、中から一枚のシートを取り出した。
「何だ、それは」と私が尋ねるよりも早く、矢永はシートを裏返して、私と美香に表側を提示した。
「見ての通り、運転免許証だ。種子神社の洞窟の中で拾った、この財布の中に入っていた。日付から考えると、今から約二十年前の免許証だ。恐らく、持ち主は今から二十年ほど前にあの洞窟に入り、何か不測の事態が起こる中で、この免許証を遺失した。持ち主の名前、見えるかな」
私と美香は、免許証に目を近付けた。二十年という長い年月の間、地下水に晒され続けていたであろう免許証は、表面が傷んでいるために、字が非常に読み辛い。しかし、美香は目を凝らし、名前の部分だけは辛うじて読み取ったようだった。
「矢永……昭雄……」
読み終わった美香は、はっとして矢永の顔を見た。
「そう。この免許証の持ち主は、一九九七年の三月頃、この地で行方不明になった矢永昭雄氏。在野の歴史学者にして、私の父でもある」
矢永は、俄然、興味を示した私たちの気持ちをはぐらかすように、窓の外に目を向ける。一瞬の間を置いて、言葉を選ぶように、ゆっくりと語り始めた。
「私の父は、室町時代から江戸時代にかけてのイエズス会の布教活動を専門に研究していた。しかし、仮説の独自性の強さから、学会では、やや異端に近い扱いを受けていた。私自身、詳しい研究内容などはほとんど知らないし、実のところ興味もないのだがな」
矢永は、思い出したくもない記憶を思い出してしまったかのように、不機嫌そうな表情で語る。
多分、本当に不機嫌なわけではない。矢永特有の偏屈な性格が、そうさせているのだろう。一種の照れ隠しのようなものだと判断しながら、私は耳を傾ける。
「父は、ある日『島原半島の中央部に近い場所に、イエズス会の遺産がある』との噂を聞き付けた。早速、現地調査に出かけたが、そのまま行方不明になった。私が、大学一年生の時だった」
矢永は、免許証を財布に収め、ことさら無造作な手付きでビニール袋に仕舞い込んだ。
「地元警察が、懸命に捜索した。母も、現地まで赴き、手掛かりを求めて随分と歩き回ったようだ。しかし、父が発見される結果には至らなかった。状況から考えるに、当時、あの洞窟の中で、父の身に何かがあったのだろう。年代から考えると、郷田君の父親である郷田聡氏が、父の失踪に関係している可能性が高い。しかし、聡氏は、認知症だ。恐らく真相は、永遠に謎のままだろう」
美香が、気の毒そうな表情で、矢永を見た。
「この企画のお話をした時、すごく乗り気でしたよね。お父さんの手掛かりが見つかるかもしれない、って思ったんですか」
矢永は、不機嫌さを意識した目線を美香に向けると、「いや、あくまで偶然だ」と、素っ気ない返事でお茶を濁す。ビニール袋をポケットに戻すと、腕組みをして目を瞑った。
しかし、私の鋭利な観察力が、矢永の言葉を真っ向から否定する。矢永は、父親の手掛かりを追うために、今回の企画に進んで参加し、この地に赴いた。自分のためか、母親のためか。恐らく、両方だろう。
矢永も、こう見えて、意外と人間らしい心を持っているのかもしれない。
「思いがけない拾い物もあった」と語った時の矢永の嬉しそうな目が、全てを物語っていた。如何に素っ気ない態度で取り繕おうとも、慧眼無比の私の目は、誤魔化せない。
帰路において、ようやくスイッチが入った私の探偵脳を弄ぶように、美香が突然、大きな声を上げた。
「洞窟といえば、私たち、閉じ込められましたよね。私、凄く怖かったんですけど、矢永さんは、まるでその事態を予想してたみたいに落ち着いてませんでしたか。ひょっとして、私たちを閉じ込めた犯人の目星も付いていたとか?」
矢永は、今の今まで忘れていたかのように、「ああ、あの時の話か」と、気のない返事をした。
「洞窟の入り口に『SODA』と書かれたクリアレッドのボールペンが落ちていた。恐らく犯人は、そのボールペンの持ち主である旅館の老女、或いはその関係者だろう」
私たちが泊まっていた旅館の名は、相田旅館である。そう言えば、相田旅館に私たちが初めてチェックインした時、宿帳に情報を書き込むために使った古びたクリアレッドのボールペンにも、同じく「SODA」と書かれていた気がする。
「いずれにしても、針金などどいう中途半端な道具で入り口を塞ぐという、あのような安易な固定方法では、女性でも簡単に蹴破れてしまう。手口から判断して、恐らく本気で閉じ込める考えはなかったのだろう。ある種の警告のようなつもりだったのではないかな」
ここで、私の心の中に微かな疑問が生じた。
女性でも蹴破れるのなら、私のスマートフォンのバッテリーなど、最初から必要なかったのではないか。という事は、矢永はその事実を知りながら、ちょっとした座興のつもりであのような暴挙に出たのか。
座興にしては度が過ぎているが、矢永なら有り得ない話ではない。
「おい、矢永。まさか君は、俺のスマートフォンのバッテリーなど使わなくても扉が開く事実を、最初から知っていたんじゃないだろうな」
矢永は、刺すような視線を送る私の顔をちらりと見遣ると、肯定する代わりに薄気味悪い笑顔を浮かべた。
私は、他人の所有物を何の躊躇もなく破壊しながら、平然としていられる矢永の業の深さを呪い、そんな矢永と行動を共にせざるを得ない自分の運命を恨んだ。
――矢永は稀代の天才ペテン師だ。いや、心の中に入り込み、毒をもって内側から人を蝕む、毒虫も同然の存在だ。
「それにしても、今回の企画はやる気満々だったのに。結局、没だなんて、悲しすぎます。東京に帰ったら、すぐに次の取材先を探さなくちゃ」
私の憤りに配慮するでもなく、美香がうんざりした様子で窓枠に頬杖を突き、深い溜息を吐いた。我に返った私は、仕方なく美香の愚痴に話を合わせた。
「次の取材先が決まったら、すぐに俺に知らせるんだぞ。俺にも、ベテラン編集者ならではの都合というものがある」
「山際さん、お忙しいのなら、別に、いいですよ。カメラマンの笹山さんに声を掛けて、矢永さんと三人で行きますから」
美香の返事は、失礼極まりない内容だった。
本当に、生意気な後輩だ。私がいないと何もできないくせに、発言ばかりは、まるでいっぱしの敏腕編集者気取りではないか。
正真正銘の敏腕一流編集者である私から見れば、全くのお笑い草だ。
「しかし」と、私は考える。
美香は、よくも悪くも、本当に心根の強い後輩だ。その強さが、今は、心から頼もしく思える。
私が美香に対して感じる肯定的な気持ちが、青い檸檬のような感情を伴っていないのは、美香にとって残念な事実かもしれない。が、滅多に人を褒めない私が、こうして褒めているのだ。素直に喜ぶべきである。
私の気持ちをよそに、美香が反対側の車窓を、残念そうに指さす。
「雲仙岳、あんなに小さくなっちゃいましたね」
私は、真っ直ぐに伸びた美香の指先から指の延長線上へ、ゆっくりと視線を移動させる。指先の遙か遠方、すっかり小さくなった雲仙普賢岳が、青い空をバックに、茶色い山肌を晒していた。
「間もなく諫早東高校前、諫早東高校前です」
若い男声の溌溂としたアナウンスが、車内に流れた。
終点の諫早駅は、もう間近だ。
(了)
毒蟲は土に蠢く 児島らせつ @yamoyamo
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