第8話 第二の殺人

 私たち三人は、南奈が運転する車で、すぐに現場に向かった。

「現場は、どんな場所なんだい」

 私は、後部座席から南奈に尋ねた。

「会社から、幹線道路のほうに百mほど進んだ場所に、川がありますよね。清水川っていう川。その川の下流にある、塔の坂という場所に架かる橋です。会社の辺りから下って最初の堰がある場所で、堰のすぐ上に橋が架かっているんです。盆地から山合を南に行った場所なので、あまりひとけのない場所なんですよ」

 助手席の美香が「どれくらい掛かるの」と質問する。

「直線距離だと数㎞だけど、車だと迂回するから、片道二十分ぐらいかな」

 南奈の言葉通り、車は幹線道路を南下して盆地を抜け、山道に差し掛かる。幹線道路を二十分近く進むと、車は突然左折し、林道に入った。

 林道の先のY字路を左に行くと、赤色灯を灯らせている数台のパトカーが遠目に見えた。私たちは、パトカーから十数mほど離れた場所に車を止めると、外に出た。

 歩いて橋まで進む。

 袂には、現場保存テープが張られていた。

 橋の下を流れる清水川は、中浦酒造に近い場所と同じように、幅は十数mほどである。水量が比較的豊富なために水が両岸まで迫っていて、河原らしき部分がほとんど見られないという点は、中浦酒造周辺の川の様子と同じだった。

 ただ、橋が架かっている部分だけは、ちょうど蛇行しているために、手前の川岸に小さな河原があった。橋から数mの下流側には、南奈の言葉通りに堰があり、水を堰き止めて小さな滝を作っていた。

 橋の上に停車している黒いミニバンの周囲で、多くの鑑識員が何やら作業をおこなっている。

 近付くと、橋の右下にある小さな河原にも、忙しそうに動き回っている鑑識員が観察できた。捜査員たちの慌ただしい動きは、三日前の中浦酒造での事件を思い起こさせた。

 現場保存テープに手を掛けながら、河原の様子を観察しようとする。

 首を伸ばすと、すぐ前にいる直立不動の警察官に「下がって! 関係者以外は立ち入り禁止だ」と鋭い目つきで睨まれた。

 ――先日と同じだ。

 否応なく頭をもたげる既視感。先日の中浦酒造での悍ましい光景が、私の脳裏に生々しく甦る。

 ほぼ同時に「山際!」と、聞き覚えのある声が聞こえた。穂高の声だった。

 この状況も、先日と同じだ。声の方角に顔を向けると、河原から橋の袂に向かって斜面を登ってくる穂高が見えた。

「穂高、君も来ていたのか。いったい、どうなっているんだ。本当に中浦貞夫氏なのか」

 未だに貞夫の死が受け入れられない私は、近付いてくる穂高に強い口調で尋ねた。

「もう病院に運ばれたが、中浦貞夫氏に間違いないそうだ。病院で死亡が確認されたよ。こんな片田舎で、こうも立て続けに人が死ぬとは、参ったよ」

 穂高は疲れた様子で答えながら、現場保存テープの前で立ち止まった。

「死因は何だ。殺人か」

 穂高の後ろ姿に、矢永が尋ねた。

「いや、ミニバンの中で毒物を飲んで、自殺したらしい。車のドアを開け、そのまますぐ横にある橋の欄干に凭れ掛かるようにして息絶えていたそうだ。車の中には、飲みかけの缶ビールと毒物らしい白い粉が入った瓶も見つかったとのことだ。成分はまだわからないが、警察は先日の毒殺事件に使われたのと同じ毒物だと見ているらしい」

 穂高は抑揚を全く欠いた口調で、まるでカンニングペーパーを朗読しているかのように淀みなく、現場の状況を説明した。私は「死亡推定時刻は?」と、鋭く詰問する。

「まだはっきりとはしていないが、十一時頃、家族のSNSに『今、中浦酒造の近くにいる。とんでもない事件を起こしたのかもしれない』と本人からメッセージが入ったそうだ。心配した家族がつい先ほど捜索願を出して、捜索中の警察官がここで発見した。状況から考えると、死亡推定時刻は恐らく、SNSを送信した後の十一時過ぎ頃と見て、まあ間違いはないだろう」

「発見されるまで、四時間もの長い時間に亘って放置されていたわけか。お気の毒に」

 何気なく横を見ると、美香と南奈が現場保存テープの前で、ミニバンの方向に向かって手を合わせていた。貞夫をもっともよく知る立場である南奈は、さすがに少々強張った表情に見える。

 私も、二人に倣って合掌した。

 合掌を終えた私は、「毒殺犯は、やはり貞夫氏だったのか」と、新たな推理を展開する。穂高の目線を捉えながら、確認を求めた。

「それはまだわからん。しかし、毒殺犯の貞夫氏が犯行を後悔した末に実行した自殺と考えるうえで、決定的に不審な点は今のところ見当たらない。SNSの発信地点も、どうやら文面にある通り、中浦酒造の近くだったようだしな」

 穂高は、困った口調で説明した。困った口調で喋りながらも、頭の中では新聞記者としての経験と勘、熱意を動力源とした中央演算処理装置が、目くるめく速度で計算をしているのだろう。

「毒殺犯が貞夫さんって……。動機はいったい何なんですか。私には何が何だか、さっぱりわかりません」

 美香が、穂高に視線を移しながら、悩ましげな声で疑問を口にした。

「それは、まだわかりませんが……」

 穂高は、表情のない声で中途半端に答えると、口をへの字に曲げた。

 やはり、貞夫が二人を毒殺したという、先日の私の見立ては正しかった。

 しかし、財産が目当てでないと仮定すれば、毒殺の動機はいったい何だ。私はしばし、頭を捻る。

 そう、さしずめ「長年の争いによる恨み」だろう。

 恨みがあれば、人は経済的な見返りがなくとも、人を殺す行為が可能だ。過去のさまざまな事例は、恨みが殺人の動機となる事実を物語っている。具体例を挙げろと言われると困るが、そんな気がする。

 いずれにしても、三日前の事件の事情聴取を通じて、警察は貞夫と社長の間に起こっていた財産関係のいざこざを、すでに知っていたに違いない。

 その時、橋の下が、俄かに騒がしくなった。

 私は、欄干に手を掛けながら、ゆっくりと身を乗り出して河原を覗く。

 ウェットスーツに身を包み、橋から数m下流の堰の付近で水中を捜索していた捜査員が、何やら銀色の物体を手に握り、陸に上がってくる瞬間だった。

「先輩!」と、橋の横から声が響いた。

 先ほどの穂高の声と同じく、やはり聞き覚えのある声だった。先日の毒殺事件の時、穂高と一緒にいた後輩記者と同一人物だろう。

 後輩は、河原から続く斜面を登り、私たちに近付いてきた。

「何だ。何か見つかったのか!」

 穂高が声を掛ける。

「水の中から、中浦貞夫の所持品と思われるスマートフォンが見つかった模様です!」

 穂高は、後輩の声に「何だって!」と興奮した様子で大声を上げた。

 穂高は、捜査員たちの色めき立つ様子を観察すると、「すまない。新展開だ」と、慌てた様子で私たちに説明する。

 そのまま、右手を挙げて無言の挨拶をすると、小走りにこの場を離れていった。


         *


 私たち四人は、橋を離れて車に乗り込み、会社に戻った。

 帰り道、ぽつぽつと降り始めた雨は、会社に戻る頃には強い雨になっていた。

 私たちは、車を降りると足早に工場棟に入り、広報課のドアを開ける。

 南奈は、「どうぞ」と言葉を発しながら、私たちにソファに座るよう手で合図した。私と美香は、南奈が手を差し伸べたソファに腰を下ろした。

 矢永は、例によってパソコン前の事務用椅子に腰を下ろし、踏ん反り返る。

 南奈は、私たちが腰掛けた事実を確認すると、「ちょっと待っててください」と給湯室に姿を消した。後ろ姿が、心なしかはやって見える。きっと、南奈の「語りの虫」が疼き始めているのだろう。

 しばらくすると、南奈が四人分のコーヒーカップをお盆に載せて運んできた。

 南奈が「お疲れさまでした」と差し出すお盆からカップを受け取ると、そのまま口に近付ける。熱いコーヒーを一口、じっくりと味わいながら飲むと、ようやく現実世界に舞い戻った気がした。

 私は、貞夫が毒殺犯であるという自説が的中した事実に、やや興奮していた。

 しかし、私はもともと謙虚が服を着て歩いているような人間だ。はやる気持ちを表情には出すまいと心掛けながら口を開いた。

「それにしても、毒殺犯の貞夫氏まで亡くなるとは、驚いたな。予想外だった」

 美香は、コーヒーを持った手を膝の上に置き、私の話を大人しく聞いている。私の貞夫毒殺犯説を真っ向から否定してきた美香は、言い返す言葉もないようだ。

 私が「何か指摘したい疑問点は?」と言葉を掛けようとした時だった。

 美香はむくりと上体を起こすと、あろうことか、非の打ちどころがないと思われる私の推理に対して、全否定ともとれる暴言を吐いた。

「貞夫さんがお二人を殺害したという話は、やっぱり腑に落ちません。二人を殺しても財産が手に入らない以上、貞夫さんには何のメリットもありませんよね」

「財産だけが動機とは限らない。貞夫氏の心の中には、まだ人生経験が少ないお前には理解できない複雑な感情が、澱のように溜まっていたのかもしれないだろう。殺す行為で積年の恨みを晴らせる。それが、メリットと言えばメリットだ」

 私は、美香の往生際の悪さに不快感を覚えながらも、大人の対応で冷静に言い返した。

 常々思っているのだが、美香は常に自分の価値観だけを頼りに、森羅万象を理解しようとする。悪い癖だ。

「でも、矢永さんは、大勢の人間の前での毒殺には、生贄や見せしめの要素が感じられると話していました。個人的な恨みの感情と、『生贄や見せしめ』という殺害方法が、私の中でどうも結び付かない気がするんです」

 重箱の隅を突っつく美香の追及は、訓練中の警察犬並みにしつこい。私は、正当な逆切れを敢行したくなる感情を、必死で抑える。

「じゃあ、貞夫氏には恨みを晴らすほかに、どんなメリットがあるんだ。あると主張するのなら、聞かせてほしいもんだ」

 私は、貞夫毒殺犯説に納得しない美香に対して、あくまで貞夫毒殺犯説の枠内で話を進めようと、巧みに論点をすり替えた。

「あるかもしれません」と声がした。

 お盆を傍らの机の上に置き、コーヒーカップを両手で持った南奈だった。

「先日はお話ししなかったんですが、実は、貞夫さんは財産を欲しがるだけじゃなくて、経営にも関わりたがっていたんです」

「なんだって?」

 貞夫の欲の深さに呆れた私は軽い頭痛を覚え、思わず右手で額を押さえた。目を瞑ると、お披露目会で見かけた貞夫の横顔が、暗闇の中に亡霊のように浮かび上がった。

「どうやって経営に関わろうとしたんだい。もう、中浦家を出た人間だろう」

「経営に関わるために、ご自身の息子さんと樹希を結婚させようと、密かに目論んでいました。そのために、樹希と秦司の結婚に猛反対してたんです」

 私は、思わず「え?」と声を上げながら、首を前に突き出した。

「恋人がいる姪と、自分の息子を強制的に結婚させるのかい。だいたい、従姉弟同士だぞ」

「従姉弟同士の結婚は、法律の上では認められている」

 矢永が、間髪を入れずに横槍を入れた。

 法律上の問題がない事実は、端から理解している。私が言いたいのは、法律の問題ではない。価値観の問題だ。

 上流階級の人々の価値観が、私たち庶民の価値観からこれほどまでに大きく乖離していようとは。大抵の出来事には寛容な私も、さすがに開いた口が塞がらない。

「お披露目会で、貞夫さんが『あいつが中浦に入るなんて、俺は認めんぞ。樹希は俺の息子と……』って叫んでいた言葉は、樹希さんと息子さんとの結婚を指していたのね」

 美香が、貞夫の口調を真似ながら、言葉を返した。

「会長が生きていらした頃は、息子さんと樹希を結婚させる貞夫さんの目論見も、まだ現実味がありました。会長は樹希と秦司の結婚に反対でしたし、貞夫さんの事はともかく、自分の甥である貞夫さんの息子さんの事は、決して嫌ってはいなかったみたいですから」

「だが、会長の死によって風向きが変わった……。会長の死は貞夫氏にとって、単なる義理の兄の死以上に、大きな意味をもっていたのか」

 パソコンの前に座っている矢永が、南奈の顔にちらりと視線を移しながら、再び割り込んできた。南奈は、矢永を見返して首肯した。

「一方の社長は、会長とは正反対でした。秦司と樹希の結婚には、どちらかというと賛成でしたし、それ以上に貞夫さんの息子さんと樹希の結婚には反対だったんです。当然ですが、貞夫さんの目論見を知っていたみたいですから。そのため、会長が亡くなった時点で、貞夫さんの目論見は一歩も二歩も後退したんです」

 南奈の言葉に事件の全貌を見抜いた私は、膝をポンと叩いた。

「樹希さんと辻君の結婚に賛成している社長がいなくなれば、貞夫氏は樹希さんと辻君を、より別れさせやすくなる。また、樹希さんと息子さんが結婚した暁には会社に対して、より大きな影響力がもてる」

 私は、ここで矢永と美香、南奈の三人の様子を盗み見ながら一呼吸を置くと、決定的な結論を口にした。

「貞夫氏は、会社への影響力を得るために、社長に毒を盛ったに違いない。樹希さんと辻君の結婚に反対していた会長が亡くなった結果、焦りもあったかもしれない。そう考えると、辻褄が合う。どうだ、この推理は」

 突然、美香がソファから身を乗り出し、テーブルをバンと力強く叩いた。私は美香の興奮ぶりに驚き、危うくコーヒーを零しそうになった。

「百歩譲って、毒殺犯が貞夫さんで、動機が恨みだったとしましょう。でも、そうだとすると、なぜ貞夫さんは今さら自殺なんてしたんでしょうか。私には理解できません」

 美香の熱弁を聞いた南奈が、再び美香の陣に寝返る。

「それもそうだよね。自殺するぐらいなら、最初から毒殺なんてしないほうがいいよね。警察にも、特に疑われていなかったいみたいだし」

 突然、部屋の中に矢永の声が響いた。

「山際、勘違いをしてはいけない。毒殺犯である貞夫氏が自殺したと決めつける君の説は、あくまで可能性の一つに過ぎない」

「そうまで言うのなら、他にどんな可能性があるんだ」

 私は、矢永を睨みつけた。

「君が言うように、貞夫氏が毒殺犯であったとしても、貞夫氏は自殺ではなく、何者かに殺されたのかもしれない。三枝君が口にしていた『貞夫氏が毒殺犯ではない』という説にしても、貞夫氏が自殺したというのほかに、殺害されたという可能性はゼロではない」

 美香は矢永の言葉に納得したらしく、「確かに、全部で四通りの考え方がありますね」と、首を縦に振った。

 矢永の一言に、私の主張は、砂上の楼閣のように脆くも崩れ去りそうになった。私は、矢永と美香が繰り出す波状攻撃に対して、果敢に戦いを挑む。

「もし、貞夫氏の死が殺人だとして、いったい誰が殺したんだ。殺すほどの恨みをもった人物がいるのか」

 自分の仕事は終えたとでも思っているのだろうか。矢永は聞こえないふりをして、パソコンに向かう。

 矢永の後ろ姿を眺めながら、南奈が静かに口を開いた。

「貞夫さんに恨みをもっている人物なら、いると思います。ただ、それが殺意に繋がるかどうかはわかりませんけど」

 南奈は、眉を顰めながら語る。表情からは、今からする話が、他人の生き様に深く踏み込んだ禁断の内容であるという緊迫感が、否が応にも伝わってきた。

「実は貞夫さんは、前にも話した財産や会社の経営方針、家族の結婚相手だけじゃなくて、母屋の修理や財産の運用方法などについても、中浦家に随分と横槍を入れていたんです。そのせいで正直なところ、社長はもちろん、中浦家の多くの人たちにも相当に疎まれていたんです」

 ここで、私の思考回路を一条の閃きが走った。私は、南奈に確認を求めた。

「つまり、貞夫氏が社長と弁護士の二人を毒殺する動機が、逆に貞夫氏が殺される動機に繋がったかもしれないのか。ということは、貞夫氏を殺した犯人は、中浦家の人々の中にいるって話だ」

 美香が、唖然とした表情で呟いた。

「中浦家の人たちに限って、まさか、そんな……」

 南奈は美香の顔を見詰めて、心配ないと宥めたげな表情をした。

「貞夫さんは、本業の不動産会社でもかなり悪どい商売をしてたらしくて、本家の人間に限らず、恨みをもつ人は少なくなかったの。もっとも、そのせいか最近は本業もあまり業績が思わしくなかったらしいけど」

 美香は、容疑者が中浦家の人々以外にもいる事実に、ほっとした顔つきになった。しかし、私に言わせれば中浦家以外にも容疑者がいると指摘しただけの話で、中浦家の人々が容疑者リストから外れたわけでは決してない。

 恐るべき推測が、再び私の脳を加速器内の荷電粒子のように高速で駆け巡った。

「今、閃いたぞ。三人の犠牲者は、いずれも中浦酒造の経営に関わっているか、関わろうとしていた人物だ。三人を殺した犯人は三人に対してではなく、中浦家に恨みをもつ人物かもしれない」

 元来、おっとりとした性格の私にしては、早口だったと思う。

「じゃあ、山際さんも、貞夫さんは二人を毒殺して自殺したんじゃなくて、無実のうちに何者かに殺された、って考えるんですね」

 私は、はっと我に返った。

 私は今まで、「毒殺犯である貞夫の自殺説」をもって、美香たちの「無実である貞夫の他殺説」に異論を唱えるべき立場だった。

 私は、美香たちの説に乗ってしまった迂闊さを後悔しつつ、反論した。

「でも、それでは貞夫氏が毒物を持っていた理由がわからないぞ」

 と、今まで、だんまりを決め込んでいた矢永が、私に対して悲しそうな顔を向けた。呆れたように小さく口を開いて、天を仰ぐ。

「現段階では、全ては根拠のない推測の域を出ない。にも拘らず、貞夫氏が毒殺犯であり、死因が自殺であるなどと断言する君の行為は、全くの的外れである事実を少しは自覚し給え」

 何故か、私が怒られた。

 私が矢永の対応に不満を露わにするなか、中浦酒造のホームページを再び熱心に眺め始めた矢永が、何かに気付いた。

「このホームページのタイトルの横にある『おどんがもった子は』という文章は、何かな」

 全否定されたままの状態で話題を切り替えられ、名誉挽回の機会を逸した私は、「なんだ、突然」と、矢永に非難の目を向けた。

 傍らで、美香と南奈が興味津々の様子で矢永の席に近付いた。私も釣られて、矢永の前にあるパソコンの画面を覗き込む。

 ホームページのタイトル部分の横に小さく、毛筆らしい書体で文章が書かれていた。

 いや、文章というより、詩と呼ぶ表現が相応しい文体だ。画面を見た南奈が、「この地方に昔から伝わっている子守唄です」と、思い出したように解説した。

 歌詞は、次のような内容である。


 ♪おどんがもった子は 岩屋にゃくるんな

 岩がくずるりゃ 死んでしまう

 おどんがもった子は 種子にゃくるんな

 越えりゃ楽しか 草のある

 おどまかんじんかんじん あん人たちゃよかし

 よかしゃ きりょうよし 姿よし


 南奈は、三人が一通り読み終わった状況を確認し、説明を始めた。

「『勧進』っていう言葉は、小作人です。『よかし』はよか衆、お金持ちの子という意味ですね。つまり、この歌は、小作人の子がお金持ちの子の子守をしながら歌った唄なんです」

 隣の熊本県に古くから伝わる有名な子守唄に、『五木の子守唄』がある。奉公に出された小作人の子が、自分の不幸な境遇を歌詞に織り込みながら、子供に歌って聞かせた子守唄だ。

 南奈の説明を聞いた限りでは、この唄も五木の子守唄と同じ系統の唄なのだろう。

 南奈は画面から目を離すと、感慨深げな顔つきで腕を組んだ。小作人の子供たちの境遇に思いを馳せながらなのか、しみじみと語る。

「郷土色が感じられるコンテンツなので、トップページのタイトルバックに貼り付けてるんです。でも、実は口減らしのために奉公に出された子供が、決して幸せとは言えない自分の運命を歌った、悲しい唄なんですよね。クリックしたら、簡単な解説も出ますよ」

 矢永は「ほう」と感心した声を出しながら、下唇の下に薄く生えている無精髭を、右手の親指と人差し指で弄んだ。この動作は、脳内にある下垂体からの脳内麻薬の分泌を促す、矢永独特のルーティンである事実を私は知っていた。

「これは、熊本県の天草地方に伝わる子守唄と、歌詞が非常によく似ているな。とても興味深い。恐らく、同じルーツをもつ唄なのだろう」

「どんな唄なんだ」と、私は矢永の横顔に尋ねる。

「細部までは覚えていないが……」と短く言い訳をすると、矢永はすらすらと子守唄を暗唱した。


 ♪おどんがもった子は 岩屋にゃくるんな

 岩がくずるりゃ 死んでしまう

 おどんがもった子は 湯島にゃくるんな

 湯島談合島 はなれ島

 おどまかんじんかんじん あん人たちゃよかし

 よかしゃ きりょうよし 姿よし


 言い訳をする割には、しっかりと覚えている。

 矢永の余計な知識と記憶力に驚くよりも先に、ことさら謙虚さを強調した嫌味な物言いが引っ掛かった。

 矢永は、解説という行為を心の底から楽しむように語り続ける。

「歌詞に登場する湯島は、別名を談合島という。島原半島と天草諸島の間に浮かぶ小さな島で、十七世紀に起こったキリシタンたちによる大規模な一揆、島原の乱の時に、一揆軍の会合が秘密裏に開かれた場所でもある。島原の乱については、山際、君もそれなりに知っているだろう」

 突然の指名だ。

 世間では、これを無茶ぶりという。私がどう答えていいか迷っているうちに、矢永は勝手に話を進める。

「十七世紀前半、一六三七年だったかな。島原半島と、今の熊本県天草諸島のキリシタンや農民、豊臣残党の牢人たちが、島原藩および唐津藩の圧政、キリシタン弾圧に対抗するべく、天草四郎を総大将として蜂起した百姓一揆だ」

 もちろん、私も知っている。

 島原半島の南東部にある原城に籠城して戦った一揆軍だったが、最終的には圧倒的な兵力を誇る討伐軍の前に鎮圧された。キリシタンが、以前にも増して徹底的に弾圧される切っ掛けともなった乱だ。

 南奈が、感心した表情で「日本の歴史に関しても、よくご存じですね」と、矢永の解説を称賛した。

 美香が、「矢永さんは、何でも知ってるのよ」と、稚拙かつ大雑把な表現で、自分の手柄のように自慢する。横にいた私は、すかさず、「少しばかり変人なだけだ」と、自己のプライドを賭して反論した。

 矢永は、私の言葉を受けて「確かに、私は、変人であるが」と前置きすると、この場にいる全員に問い掛けた。

「変人である私の考えるところ、状況は本の取材どころではない。一度ここは東京に戻って、出直したほうがいいと思うが、どうかな」

 冷徹な言葉に、私は一瞬ぎょっと耳を疑い、矢永の顔を二度見した。美香と南奈も、同様の顔付きだった。

「この事件を放っておいて帰るんですか。これだけの人が亡くなっている事件で。皆が矢永さんの慧眼を頼りにしてるんですよ」

 美香は、驚きと同時に不満そうな表情を露わにして、矢永を見詰めた。まるで、事件の解決を、共に見届けたいと訴えんばかりである。

 矢永が慧眼の持ち主であるかどうかはさておき、私もついつい横から口を挟む。

「我々は、今となっては明らかに事件の関係者だ。ここまで深く関わっておきながら、事件を放り出して帰る行為は、あまりに不義理だろう」

 私たち二人に向き直った矢永は、困った表情で腕組みをしながら問い質した。

「君たちは、私にいったいどうして欲しいのか。何の義務も権力ももたない私に、警察の真似事をさせる魂胆か」

 美香は、大きく何度も頷く。期待に胸を膨らませるように、これでもかと見開いた円らな瞳で、矢永の顔を見詰め続けた。

 南奈までが、同じ表情を作っている。私も、仕方なく美香と同じ表情を心掛け、矢永に視線を固定する。

 やがて、アラフォー親爺の円らな瞳に恐れをなしたらしい。根負けした矢永が、ふうと息を吐きながら呟いた。

「……全く、君たちは相当な暇人らしいな。ああ、長い逗留になりそうだ」

 矢永の言葉を待ってましたとばかりに、美香はこれ以上ないと思われる満面の笑みを浮かべた。

「早速、編集部に電話して、滞在の延長を掛け合ってみます! もしOKなら、中浦の人たちと会社の人たちに、貞夫さんが最後に目撃された午前十一時頃から、遺体が発見された十六時頃までの間のアリバイを確認しましょう」

 一刻も早く、中浦家の人々の疑いを晴らしたいのだろう。美香はスマートフォンを手に取ると、勢いよくソファから立ち上がった。

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