第9話 葉月との会話
第五章
二〇一六年九月二十三日
貞夫の遺体が見つかって二日、つまり毒殺事件が起こって五日が経った。
貞夫の遺体が見つかった日の夕方、私たちは中浦家の一人一人に当日のアリバイを確認した。
社員たちにも聞いてみた。結果は、全ての人にアリバイがある事実が判明した。
それ以来、今日まで新しく判明した事実は、特にない。
*
宿での質素な朝食の後、私と矢永が逗留している藤の間に突然、美香がやってきた。美香は入ってくるなり、畳の上にぺたりと座り込みながら提案した。
「貞夫さんの家に行ってみませんか。もし運がよければ、何か手掛かりになる話が聞けるかもしれません」
「でも、まだ遺体は帰ってきていないし、貞夫氏の家は家宅捜索されたと聞いたぞ。ご家族も、話ができる精神状態ではないだろう。行ったはいいが、何も収穫がなかったという展開は勘弁願いたいな」
腕枕をした私は、頭だけを美香のほうに向けると、それとなく拒否した。すると、美香はむきになって反論した。
「収穫があるかないかは、行ってみないとわかりませんよ。ここでじっとしているよりは、いいと思うんです」
美香は、「果報は寝て待て」という有り難い格言を知らないらしい。だいたいにして、収穫できるかどうかわからない作物を育てる農家が果たしているのか、という話だ。
農家に「これを育ててごらんなさい。収穫できるかどうかはわかりませんが」と呼び掛けながら、種を配ってみるがいい。水を掛けられ、塩を撒かれ、尻を蹴飛ばされ、玄関口から放り出されるに決まっている。
しかし、後輩思いの私が噛んで含めるように「行くべきではない」とアドバイスしたとしても、美香は素直に聞くはずがない。
私は、気持ちとは裏腹に、吝かではない空気を醸し出しながら「貞夫さんの家は、どこにあるんだ」と、探りを入れた。
「昨日、南奈に聞いたんですが、盆地の東の外れだそうです。ここから車で行くと、盆地を南北に流れている清水川を渡って、十五分ぐらいです」
思いのほか、具体的な情報が返ってきた。私は、陸上部の美人マネージャーのように、更なるハードルを手際よく用意する。
「十五分か。ちょっと遠いなあ。情報を得られる可能性が五十%である事実を考えると、あまり効率的でない気がするが」
何とか計画を阻止できないかと、あれこれ画策する私に痺れを切らしたのか、美香は「行きたくないなら、山際さんは、いいです」と捨て台詞を吐き、矢永に確認を求めた。
「矢永さん、二人で行ってみましょう。山際さんみたいに、面倒臭がって何も得られないよりは、小さな可能性を信じて能動的に行動したほうがいいと思うんです」
矢永は、顎に右手を当ててしばらく考えていたが、やがて納得して口を開いた。
「山際のように何もしないと決め込むよりは、多少はましかもしれないな。結城君に車を出せるか、相談してみてくれないか」
美香の顔が、露骨に明るくなった。
「すぐに南奈に電話してみます。予約分の出荷が終わって、あまり忙しくないって話してましたから、大丈夫だと思います」
だが、美香は明らかな事実誤認をしている。
私は面倒臭がっているのではない。作業による時間的損失やエネルギー消費量を鑑み、熟慮に熟慮を重ねたうえで、美香の提案が決して最善の策ではないと指摘したまでだ。
しかし、このまま切り株で兎を待つ怠惰な人間と思われ続ける事態は癪だ。私は、小難しい話の代わりに、一つの提案を持ち出した。
「君たち三人が貞夫氏の家に行っている間に、俺は広報課のパソコンで間弁護士の業務内容について調べよう。手分けをすれば作業効率もよくなるし、上手くいけば犯人に繋がる手掛かりを見付けられるかもしれない」
中浦酒造なら、赤の他人に迷惑な顔をされながら聞けもしない話を聞き出そうと、躍起になる必要もない。
缶コーヒーでも飲みながらキーボードを叩いていれば、勝手に情報が向こうからやってくる。我ながら、いいアイデアだ。
美香が、私の建設的な提案に対して「わかりました。そうしましょう」と突き放すような返事をした。
こうして、私たちは「貞夫家訪問組」と「中浦酒造組」に分かれ、情報収集をおこなう手筈になった。
*
そして私は今、中浦酒造の広報課で椅子に座りながら、パソコン画面を熱心に眺めている。
机の上には、冷たい缶コーヒーが置かれていた。
なぜ、この季節に冷たい缶コーヒーなのか。自動販売機のボタンを押す時に、うっかり「つめたい」と書かれた青いボタンを押してしまったからに他ならない。
私が、机上の缶コーヒーを恨めしく見詰めていると、突然、傍らに置いていたスマートフォンが振動した。
画面を見ると、美香からのSNSだった。すぐに開いて、文面を確認する。
貞夫の家では家族の話を聞けずに、門前払いを食らったという内容だった。予想通りの結果だ。
運が悪いのは、私だけではなかった。まあ、彼らの場合は、私と違って自業自得であるのだが。
多分、あと二十分もすれば、戻ってくるだろう。私は、目の前のパソコンに視線を戻す。
パソコンの画面には、「間法律事務所」の文字が大きく表示されている。間弁護士の法律事務所のホームページだった。私はマウスを細かく動かしながら、ホームページを隈なく閲覧する。
設立は今から十年ほど前で、現在の所属弁護士の数は三人。地方の事務所らしく、業務内容は事業再生から債権回収、刑事事件、民事事件となかなかに幅広い。だが、一般的な法律事務所の範疇を出る仕事内容ではない。
一方、代表を務める間弁護士の経歴を見ると、地元の企業の顧問弁護士や地元公共団体の法律顧問などが比較的多く感じられる。
中央から遠く離れた地方で、弁護士として安定した収入を得るためには、割がいい顧問弁護士などの仕事をこなさなければならないのだろう。
逆説的に表現すると、割のいい仕事を積極的に獲得してきた事実が、間弁護士のそつのなさを表していると思われた。
「ブログ」と書かれたメニューボタンをクリックし、ブログを見る。
以前はほぼ毎日、更新されていた。ところが、九月十七日を最後に途絶えていた。十七日といえば、間弁護士がお披露目会で社長とともに毒殺される前日である。
私は、その後もしばらくの間、ホームページを眺めていた。だが、これといって興味を惹く情報は発見できなかった。
「結局、手掛かりになりそうな情報は、見つからなかったな」
椅子の背凭れに寄り掛かって背筋を伸ばしながら、私はふと考える。
自分たちがこの地にやってきて、立て続けに三人の人物が死んだ。二人は五日前、もう一人が二日前に……。
――偶然か。
もちろん偶然だ。私たちがこの地にいる事態と殺人事件は、無関係に決まっている。
とはいえ、非現実的な出来事の連続による精神的な疲労のせいか、偶然である事実が信じられなくなる瞬間が、時々ある。
この地に住んでいる人たちにとって、私たちはあくまで余所者だ。ひょっとしたら、私たち余所者がこの地にやってきた時点で、何かの微妙なバランスが崩れた、とは考えられないか。
バランスの崩壊によって、今まで止まっていた歯車が動き始めたのかもしれない。もし私たちがいなければ、殺人事件も起こらず、今頃、人々は退屈で平穏な日常を過ごしていた。その可能性も、決してゼロとは言い切れない気がする。
ふと気が付くと、妄想に恐怖している自分がいた。
――私たちは、気が付かないうちに、何か取り返しの付かない愚かな行為をしているのではないだろうか。
急に、何の根拠もない不安に襲われた。同時に、なぜだか葉月の顔が頭に浮かんだ。
――私たちみたいに田舎に生まれ育った者は、きっとその土地に縛られて、決められた運命を受け入れながら生きるしかないんですよね。
料理屋でともに酒を飲んだ夜、葉月は確かにそう口にした。
私は、続けて考える。
この世にはきっと、縛られている者と縛られていない者がいる。両者の間には超えられない深い溝が、恐らくある。
その事実を、葉月は知っているのかもしれない。
葉月が、土地に縛られている自分と縛られていない他人を比較し、何を感じているのかはわからない。しかし、葉月の考えにかかわらず、縛られている側の人たちを理屈抜きに羨ましく思う時が、しばしばある。
縛られる場所があるという事実は、自分が帰る場所があるという事実と同義語であるからだ。
*
私は、親の仕事の関係で、幼い頃から頻繁に転校を繰り返した。
新しい街に到着した翌日には、そこがどこにあるどんな街なのかも知らないまま、新しい学校に連れて行かれた。通学路さえも覚えていないうちに、である。
学校で教職員に挨拶をすると、多くの場合、そのまま編入する教室に連れて行かれる。次に、話をした経験もない児童生徒の前で挨拶すると、与えられた席に座らされる。
見ず知らずの環境に一人で放り出された私は数日の間、新しい友人を自称する周囲の人間たちを観察し続ける行為に徹する。
クラスや学校などのコミュニティは、必ず幾つかのグループに分かれていて、その中には目に見えないヒエラルヒーが存在する。グループ同士はヒエラルヒーの中で、微妙な力関係によってバランスを保っている。
私は、度重なる転校で身に着けた特殊な観察力で、できるだけ頂点に近いグループ、或いは個人を半ば本能的に見付け出す。見付け出すと、自然体を装いながら少しずつ距離を縮めていく。
話題は何でもいい。勉強であったり、アニメであったり、音楽であったり、スポーツであったり。いずれにしても、それらはお互いの距離を縮めるための、ツールに過ぎないのだから。
距離を縮める行為に成功したら、また新たな問題が発生する。
言葉の問題だ。
子供の社会では、地元の言葉を使いこなせない人物は、得てして異端者と見做される。最初は客人と見做され、特別待遇で迎え入れられていたとしても、言葉をもって溶け込めなければ、お互いの関係はやがて破綻する。
私は、生まれ持っての才能なのか、幸いにして方言を覚えるのが早かった。数週間から一ヶ月もあれば、だいたいその地方の方言らしき言葉を駆使して、自然に会話を進められる状態になった。
ここまで行けば一人の子供として、その土地に溶け込むための作業は、ほぼ完了する。あとは、目に見える軋轢を生み出さないように、目立ち過ぎず、引き籠り過ぎず、周囲に合わせながら行動していればいい。
だが、こうした処世術を駆使してようやく生活に慣れたとしても、短い場合は数ヶ月、通常は数年が経過した頃、新しい土地へと旅立つ事態になる。
仮初めの友人たちに別れを告げると、彼らは決まって悲しそうな表情をする。次に、必ず「手紙を書くね」とか「電話するから、電話番号を教えて」等と、気軽に口にする。
しかし多くの場合、それは現実とはならない。その土地を離れた途端、転校生は「自称」友人たちにとって、外の世界の人間になるからだ。
土地に縛られている人間たちにとって、外の世界は得体の知れない異世界に過ぎない。縛られている人間たちの多くはまた、異世界の人間とは決して通じ合えないと信じている。
特に、自らの感情を理性によって制御する術を知らず、多分に移り気な子供にとって、通じ合えないと信じる傾向は顕著だ。
仕方がない事実だとわかっているから、私は前の土地の「元」友人たちを責める行為は一切しない。
何より、転校した私は私で、新しい土地で新しい人間関係を築く作業を、再び一から開始しなければならない。「元」友人たちなる存在に、構っている暇や精神的余裕はない。
およそ、私の少年時代は、そんな行為の繰り返しだった。
土地に縛られる生き方をしてこなかった私は、過去の人間関係を継続する習性を身につけていない。現在進行形の人間関係しか維持できないため、幼馴染と呼べる人間もほとんどいない。
現在、友人として交流がある人の多くは、社会に出てから知り合った人間ばかりだ。
――私には、帰るべき場所がない。
帰るべき場所、縛られる土地をもたない私は、この歳になるまでその身軽さを肯定的に捉えてきた。しかし最近、縛られる土地をもつ人を羨ましく感じる瞬間がある。
単純な、ない物ねだりだと思う。隣の芝生は青く見えるものだ。
それは重々理解している。理解してはいるのだが、青く見えてしまう事実は否定のしようがない。
土地に縛られて生きる者たちは、多くの場合、土地の見えない力を盲目的に信じている。その信仰に対する誠実さ、愚直さは、宗教の狂信的な信者に比肩すると表現しても過言ではない。
彼等は、自分たちが狂信的な信者である事実に気付いていない。しかし、その信仰心は、もはやアイデンティティの一部と言えるほど強く固く、潜在意識に絡みついている。
――その得体の知れない力が、もし自分の精神にも働いたとしたら……。
ひょっとしたら、訳のわからない処世術などに拘泥する必要もなく、もっと自然に、気楽に生きられるのかも知れない。
私は、ふと我に返り、それ以上の内容を考える行為を止めた。
今、この場所にいる自分が、本当の自分だ。仮定の中の自分は、自分のようであって決して自分ではない。
何より、人の生い立ちを変える魔術など、ありはしない。
*
哲学者の真似事をして不毛な思索に耽りながら、私は何気なく部屋の入り口の方角に顔を向けた。
葉月が立っていた。
私は、驚きのあまり椅子ごと後ろに引っくり返りそうになり、大声を上げた。
驚いたのは、葉月も同様のようだった。慌てて私の体を支える仕草をすると、心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「すみません。何か考え事をしていらしたようなので、声を掛け辛くて。大丈夫ですか」
思い浮かべていた本人が突然、目の前に現れた驚愕と、椅子から落ちそうになる決定的瞬間を目の当たりにされた羞恥。
二つの感情に心を支配された私は、「大丈夫です。こちらこそ、すみません」と答えるのが精一杯だった。
葉月は、パソコンの画面にちらりと目を遣ると、私の使命を察したのか「コーヒーを淹れましょうか」と提案する。返事を聞くまでもなく給湯室に消えると、間もなく二杯のコーヒーを手に戻ってきた。
「事件に関係する内容について調べていらしたんですか。何か、新しい事実はわかりましたか」
私は、葉月が差し出すコーヒーカップを、主君から南蛮渡来の逸品を下賜された田舎侍さながらの、ぎこちない仕草で受け取る。
コーヒーと葉月の心の温かさが、有り難かった。
「はい。間弁護士について、調べていたんです。ただ、ホームページを見る限り、間さんはごく普通の弁護士だったようですね。特に犯罪に巻き込まれそうな点などは、見つかりませんでした」
葉月はコーヒーカップに口をつけて一口だけ飲むと、熱さに顔を顰める。私は、ほろ苦さに顔を顰める。
葉月は一呼吸を置いて、興味深げに尋ねてきた。
「今回の事件について、いろいろと調査されているって、南奈から聞きました」
私は視線を、コーヒーの表面に揺らめく自分の顔から、葉月の顔にゆっくりと移動させた。葉月の食い入るような視線が、私の揺らめく視線とぶつかった。
私は葉月の視線に耐えられず、目を逸らした。
「そんな、たいそうな行為じゃありません。勝手な想像で、ああでもない、こうでもないと意見をぶつけているだけです。皆、何が起こったのかを自分なりに納得したいんですね、きっと」
葉月は、両手で包み込んだコーヒーカップに目を落としながら、不安そうな表情で告白した。
「私も、何が起こったのか知りたいです。犯人は誰で、いったいなぜ、三人もの人が亡くならなければならなかったのか。事件の真相がわからないと、なんだか不安で」
私は、一刻も早く葉月の不安を払拭したい衝動に駆られた。
そもそも、歌舞伎役者も顔負けの派手な大見得を切って貞夫の家に出かけた矢永と美香が、もし何かを聞き出せていれば、葉月を失望させる事態にはならなかったはずだ。
矢永と美香の無能ぶりが、情けなかった。
「実は、わかっている事実はほとんどないんです。お役に立てなくてすみません。私たちにできる行為は限られていますから」
私は、情けないと思いながらも、正直な思いの丈を吐露した。
「そうですね。真相を暴くのは警察の仕事ですから、最終的には警察に任せるしかありませんよね」
葉月が、お釈迦様のように優しい笑顔を浮かべながら、癒しという名の蜘蛛の糸で私を救い上げた。
「でも、事件について多少はわかっている内容があるんですよね。今、どんな事実がわかっているんですか」
お釈迦様の質問には、答えないわけにはいかない。私は「わかっている事実、ですか」と、今日までの出来事を改めて頭の中で整理する。
「社長と間弁護士の殺害に使われた物質は、混入経路はわからないのですが、何らかの毒物に間違いありません。三日後に亡くなった貞夫氏は、その毒物らしき粉末を持っていました」
「そうなんですか。貞夫さんが、毒を……。ということは、やはり貞夫さんが犯人なんですか」
葉月は、やや悲しそうな表情で私に尋ねた。中浦の身内が毒殺犯である事実を、受け入れたくないのだろう。
だが、たとえ葉月が傷付く結果になっても、私は真実を語らねばならない。葉月の表情を注意深く観察し、慎重に言葉を選びながら、私は語る。
「状況から考えると、貞夫氏が犯人である可能性が高いですね。お二人に毒を盛った貞夫氏が、自らの行為を悔いるあまり、衝動的に自殺したのかもしれません。矢永や三枝は、貞夫氏が自殺ではなく、殺された可能性も考えるべきだと言っていますが」
そうは言っても、状況から考えると、やはり「毒殺犯である貞夫の自殺」という流れが私の中では最も収まりがいい気がする。
日本人は、古来より予定調和を重視する国民だ。収まりのよさを軽く見てはいけない。
「毒の瓶に、指紋などは付いていなかったのでしょうか。もし、ほかの人の指紋などが見つかれば、貞夫さんがその人に貶められた証拠になりますよね」
葉月は、私を見詰める。
いつもと変わらぬ落ち着いた素振りを見せているものの、きっと心の中は穏やかでないに違いない。お披露目会と橋の上で、いったい何が起こったのかを、自分なりに一生懸命に考えているのだろう。
無類の生真面目さが、いつもながら愛おしく思える。
誤解のないように補足しておくと、この愛おしさは、決して異性への愛に根差した感情ではない。人間愛に根差した感情だ。
「指紋ですか。その辺りの情報は、警察でないとわかりませんね。私たちとしては、お手上げ状態です」
私は、葉月の期待に添えなかった申し訳なさと、自身の至らなさのあまり、再び葉月から目を逸らす。そのまま、「ははは」と、顔を引き攣らせながら笑った。
世にも奇妙で、不自然な笑顔だったろうと思う。
一方の葉月は、事件について尋ねてはみたものの、私の回答が不甲斐なかった場合の感想を、あらかじめ用意していなかったのだろう。
「真実って、なかなか見えそうで、見えませんね」
適切な慰めの言葉を見つけられない様子で、漠然とした言葉を発した。
私はふと気になって、恐る恐る尋ねた。
「葉月さんは、キリスト教徒ですか」
唐突な私の言葉に混乱したのだろう。葉月は私の顔をちらりと見ながら「いいえ。でも、なぜそんな話を?」と尋ね返した。
「私たちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」
私は呟いた。
葉月が、やはり不思議そうな表情で「何ですか、それは」と口にした。
「『新約聖書』の『コリントの信徒への手紙Ⅱ』の中にある言葉です」
私は、葉月の質問に簡潔に答える。
「真実は、目に見えない。だからこそ、人間は真実を追い求めようとするのかもしれません」
「だから、何ですか」と聞かれたとしたら、間違いなく返答に困るであろう、取り留めのない言葉だった。
何を口走っているのか冷静な自己分析ができなくなった私は、視線を泳がせながら、葉月と同様にコーヒーカップを見詰める。
自然な会話とは、何と難しいものだろう。そのまま、数秒の時間が流れた。
私は、「ところで、郷田さん」と、葉月に呼び掛けた。「はい」と短く返事をする葉月。
私は、つい先刻まで一人で考えていた内容について聞いてみた。
「貴女は以前、料理屋で一緒に飲んだ時、自分はこの土地に縛られながら生きるしかないっていう意味の言葉を口にしてましたよね」
酔った勢いで口走った言葉を今頃になって蒸し返された事実が、少々恥ずかしかったのかもしれない。葉月は、やや俯き加減になって、「ええ」と曖昧な返事をした。
「そんな生き方は、幸せですか。それとも……」
私は言葉に詰まりながら、要領を得ない表現で抽象的な質問を口にする。葉月は、そんな私を困惑した表情で見詰めながら、言葉を選んだ。
「幸せ、ですか。そうですね……。今までは、それなりに幸せだったと思います。でも、これからも今までと同様に幸せかどうかは、わかりません」
不確定要素を孕む事象に対して、無責任な発言を決してしない。真面目で慎重な葉月らしい言葉だと感心した。
「たとえ幸せでなかったとしても、私はその運命を受け入れようと思っています。きっと、生きるとはそういうことなんだと思います」
葉月の顔が、今までの表情とは一変して、何かを決意した強い表情になった。
葉月は、本当に不思議な魅力をもった女性だ。一見したところ、頼りなさげでありながら、時折、その奥に隠されている強い信念、或いは覚悟に似た要素が、顔を覗かせる。
念のため、今一度はっきり断っておくが、これは断じて私の趣味嗜好に基づいた意見ではない。葉月には、そう思わせる何か不偏的な要素が、備わっている気がする。
葉月ははっとした表情になり、恥ずかしそうに両手で口元を覆った。
「私、何か恥ずかしい言葉を喋っちゃいましたね」
先ほど一瞬、垣間見せた強さは既に消え、元の柔らかな表情に戻っていた。
葉月は再び顔を上げ、私を正面に見据える。「でも、どうして、そんな話を」と身を乗り出し、首を傾げながら、私の顔を覗き込んだ。
至近距離から放たれた葉月の吐息が、私の体を一瞬のうちにがんじがらめに縛り上げた。強烈な緊縛に、私は葉月から目を逸らす自由さえ奪われた。
心臓の鼓動が急激に高まり、体温が上昇するのを感じた。ともすれば震えそうな唇を懸命に動かし、たどたどしく単語を繋ぐ。
「別に、深い考えはなかったんですが。縛られる場所というか、帰る場所があるなんて、私みたいに帰る場所のない人間から見たら、ちょっと羨ましく思えたんです」
理解できたのかできなかったのか、葉月は「そうなんですか」と呟きながら、相変わらず不思議そうな目を私に向けている。私は、葉月の視線にいよいよ耐えられなくなり、渾身の力を振り絞って目を背けた。
――もっと他に、語り合うべき話題は、いくらでもあったはずだ。
そんな自問自答を繰り返し、「幸せですか」などと、新興宗教の勧誘のような軽薄な質問を口走った事実を、ことのほか悔いた。
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