第10話 鞄

第六章


二〇一六年九月二十四日


 私と葉月が、広報室で仄かに甘酸っぱい、青い檸檬のようなひと時を過ごした翌日。

 いよいよ今日は、隆社長の亡骸が戻って来る当日である。

 亡くなって六日という時間が経っているうえ、遺体は司法解剖されている。そのため、火葬されて遺骨となった状態で戻ってくるとの話だった。

 午後、私たち三人は、通夜に出席するために中浦酒造を訪れた。

 駐車場の前で車を降りると、中浦家の正門をくぐって母屋に向かう。

 母屋の前では、副社長の菊池が慣れない様子で陣頭指揮を執っている。葬儀社の担当者とあれこれ相談しながら、遺骨の受け入れ準備を整えているようだった。

 二人の社員が、庭に面した八畳の座敷と隣の居間を隔てる襖を次々と外し、通夜を執りおこなうための一つの大きな空間を作っていた。

 他の社員はというと、奥の納戸から座布団を運び、部屋の隅に積み上げている。葉月は、座布団を抱える社員の隣で、畳に掃除機を掛けていた。

 南奈の話では、社長の母である祥子は未だ体調が優れないそうで、姿が見えない。妻の秋江は、もう一人の副社長である佐々木とともに、遺骨の引き取りに向かったという。

 間もなく、葬儀社の若いスタッフたちの手で、奥の座敷に祭壇が運び込まれた。同時に、玄関の横には通夜用の簡単な受け付けが設営される。

「菊池さん、一人で忙しそうに走り回って仕切ってるけど、なんだか大変そう」

 不在の秋江に代わって忙しなく動き回る菊池に同情しながら、美香がぽつりと呟いた。

「会社の行事ならともかく、社長の葬式の準備なんて、どう考えても慣れない役目だろうからな」

 私も、美香と同じく菊池に同情した。しかし、中浦家に残された男性が高校生の雅彦だけである事実を考えると、菊池が陣頭指揮を執るのもやむを得ない事態だろう。

「後で、何か手伝える仕事がないか聞いてみますね。特に、力仕事は男性陣の助けも必要でしょうから。ね、山際さん」

 美香が私を見ながら、厭らしい笑顔を浮かべる。私は、美香の魔の手から逃れようと、すかさず否定的な返事をした。

「慣れない余所様の家で手伝いなどをしようとしても、かえって邪魔になる。何もせず、会社の隅で大人しくしているのが最善策だ」

 私は育ちの上品さ故に、当然の如く力仕事が苦手だ。美香はそんな私に過酷な労働を押し付け、苦しみ喘ぐ様を見て、悦楽に耽るつもりなのだろう。

 私が、決して肉体労働はするまいと決意を新たにしていると、南奈が工場のある棟から出てくる様子が見えた。

 母屋のほうに小走りで向かっていた南奈は、私たち三人を見つけると、進路を変えて駆け寄ってくる。私たち三人の前に立ちはだかると、勢いよく頭を下げた。

「こんにちは。今はまだ通夜の準備でバタバタしているので、申し訳ありませんが取り敢えず広報課で寛いでいてください」

 私たちは、南奈に導かれるままに広報課へと向かった。

「そういえば山際さん、昨日、広報課で葉月と二人っきりでしたね。何を話してたんですか」

 私たちを広報課へと誘導しながら、南奈が突如、私の喉元に鈍く光る言葉のナイフを突き付けた。

 私は思わず「なぜ、それを!」と叫ぶ。南奈の目が、スクープ記事を追う敏腕記者のようにきらりと光った。

「昨日、広報課に戻ってきたら、美香と矢永さんがドアの前に立って、中を覗いてたんです。何事かと思って一緒に覗いてみると、山際さんと葉月が仲よさそうに話し込んでるじゃありませんか」

 南奈は、上半身を傾けながら目線を私の傍らに向け、悪戯っぽく目配せをした。視線の先には、自分が犯した大罪の意味を理解しようともせず、泰然自若としている厚顔無恥な美香がいた。

「貞夫さんのご自宅から会社に戻ったら、山際さんと郷田さんが広報課で話している様子が見えたんです。声を掛けようかと思ったんですが、二人がいい感じなんで黙って見てました」

 美香が母屋の方向に目を逸らしながら、澄ました顔で答えた。

「矢永。君も聞いていたのか」と、私は怒りの銃口を矢永に向けた。

 矢永は矢永で、こちらに視線を動かすでもなく、「もちろんだ。出来の悪い低俗なバラエティ番組よりも、よほど楽しめた」と、当然のように答えた。

 恥ずかしくも、仄かに甘酸っぱかった昨日の出来事が、ここにいる全ての人物に筒抜けだったとは。

 何たる事態だ。

 気が付くと、私の体は衆人の好奇の目に晒され、心は絶望の淵にあった。まるで、何も知らない間に荷車に乗せられ、『ドナドナ』をBGMに市場に売られていく哀れな子牛さながらだ。

 表情筋を痙攣させながら目を剥いている私の顔を覗き込み、南奈が「葉月と、何を話してたんですか」と、拷問まがいの事情聴取をおこなう。

 私は精神的苦痛に耐えられず、口を割った。

「た、大した話じゃない。今回の事件に関して、今の時点で分かっている事実や、幸せについて話していただけだ」

 無意識に「幸せ」と口にして、私の中の原子炉が不意に臨界点に達した。羞恥という名の燃料が際限のない核分裂を開始し、心がみるみるうちに熔解していった。

 私は、瀕死の意識を必死の思いで立て直しながら、「まあ、そんな他愛のない話だ」と、擦れた声で絞り出した。

 矢永は、私の言葉を聞き届けると、いつにも増して冷たく言い放った。

「知っている。全部すっかり聞かせてもらったからな」

 絶対零度の言葉が、私の心と体を音もなく包み込んだ。立ち直りかけていた私の意識が、再び遠のいた。


         *


 絶対零度の空気の中で、私は無エネルギー状態から未だ立ち直れずにいた。

 忙しそうに動き回っている菊池を目で追いながら、矢永が南奈に聞いた。

「葬儀の準備は、副社長の菊池氏が中心になって進めているようだが、今後は菊池氏が社長になるのかな」

 間髪を入れず、南奈が答える。

「それはないと思います。しばらくは、副社長が社長代理としてやっていくと思いますが、恐らく次男の雅彦君が高校や大学を卒業したら、正式に跡を継ぐと思います。亡くなった社長には、お子さんがいませんでしたから」

 矢永は、「基本的に世襲らしいから、普通はそうなるな」と、菊池を眺めたまま納得した。南奈が、思い付いたように手を叩き、付け加える。

「でも、樹希と秦司が結婚すれば、秦司が社長になるパターンもあるかもしれませんね」

「なるほど。辻君が樹希さんと結婚して婿養子にでもなれば、辻君は雅彦君のお兄さんになるわけだからな」

 私は、南奈の言葉に頷いた。

 辻が、婿養子の形で中浦家に入れば、世襲制という基本スタイルを崩さずに後を継ぐことができる。血筋を考えると雅彦が候補の一番手だが、雅彦がまだ高校生である事実を考えると、婿養子となった辻は僅差の二番手と考えてもいいだろう。

 私がそんな事を考えていると、矢永が突然「足下に気をつけろ」と囁いた。私は、矢永の声に反応して、何げなく自分の足下に目を落とした。

 足先にほど近い場所、工場横の花壇の隅に、長さ二㎝ほどの黒い塊が五個ほど落ちていた。私は、正体を確認しようと顔を近付けた。その塊は鈍い光沢を放ちながら、六本の細長いパーツをパンタグラフのように折り曲げていた。

 私は、「うわっ」と叫ぶと、頭で判断するよりも早く、ほぼ反射的に飛び退いた。

 種子神社の階段で見かけた、件の虫だ。

 五匹の虫は、仰向けになったまま、息絶えていた。生きている姿と同様、何度見てもこの世のものとは思えないほどおぞましい姿だ。

「ツチハンミョウだ。恐らく、三日前に降った雨で溺死したのだろう。それにしても君は随分と、この虫に好かれているらしい」と、矢永がさも愉快そうに解説した。

 このような虫に好かれるぐらいなら、私は天崖孤独を貫きながら、余生を過ごすことを熱望する。巨大化した虫が頭をこちらに向け、大きく裂けた口でにやりと笑う姿を想像して、私は打ちのめされた。

 私の苦悩などどこ吹く風といった様子で、矢永が南奈に尋ねた。

「ところで、樹希君は、どうしているのかな。先ほどから、母屋を拝見していても、一向に姿が見えないが」

「そういえば、そうですね」

 南奈が不思議そうな表情で母屋に目を遣った。

 目の前を、一人の老婆が通り掛かった。

 白髪交じりの髪と、顔に刻まれた皴の具合から推察するに、七十歳代半ばぐらいに思われた。地味な薄茶色の長袖ブラウスを着込み、やはり地味な灰色のスカートの上には、白いエプロンを纏っている。

 どうやら、母屋から工場の方角へ向かおうとしているらしかった。手には服装とやや不釣り合いにも思える、黒い革製のブランド物の鞄を持っている。

 南奈は、「澤田さん、ちょうどよかった。樹希はどうしてる?」と、すかさず老婆に声を掛けた。

 澤田。

 どこかで聞いた名だ。

 私は、中浦酒造を訪れて以降の記憶を紐解く。中浦家の同居人に、お手伝いである澤田という名の女性がいた記憶に思い当たった。

 澤田は、驚いたように足を止めると、南奈の顔を見詰める。ほんの少し間を置くと、一五〇㎝台前半と推測される低い背をますます低くしながら、「樹希お嬢様でございますか」と、低い声で呟いた。

「樹希お嬢様は、隆お坊ちゃまがお亡くなりになられて、大変なショックをお受けになっていらっしゃいまして、部屋からほとんどお出になられておりません」

 澤田は、母屋を見遣りながら、心配そうに答えた。

 樹希を思う気疲れのためだろうか。ただでさえ小さな体が、言葉を発する度にさらに縮んで見える。

「ずっと? 事件が起こったのは六日前ですが、その時以来、部屋に籠り切りなんですか」

 私は、お披露目会の時に至近距離で会話を交わした、上品で優美な面持ちの樹希を思い浮かべた。

 あのお嬢様が、身内の死という衝撃的な出来事のために疲労困憊し、消耗し切っている。

 その様を思い浮かべると、心が痛んだ。

「はい。事件が起こって以来、ずっとでございます。二十四時間、拝見しているわけではございませんが、私の存じ上げます範囲では、ほとんどお出になられていないと思います。食事もお部屋にお届けしているのですが、ほとんどお手をつけられないご様子で」

 矢永は「そうか」と、一瞬だが、気の毒そうな表情を作る。次の瞬間、冷徹ともいえる表情を浮かべ、更なる質問を澤田に投げ掛けた。

「ところで一つ聞きたいのだが、樹希君は貞夫氏に、息子さんとの結婚を迫られていたとか。本当かな」

「おい、矢永……」

 私が制止するより前に、澤田の表情が今までになく硬くなって見えた。澤田は、やや俯き加減になりながら、強張った口調で語る。

「はい。本当でございます。あの方は本当にしつこうございました。旦那様が辻様とのご結婚に反対されていたのをいい口実に、機会ある毎にやってきては、樹希お嬢様にご自分の息子さんとのご結婚を勧めていたのです」

「勧めていたって、どんな風にだい」

 好奇心に駆られた私は、思わず澤田に尋ねた。

 軽い気持ちで投げ掛けた言葉が、澤田の心に火を点けたらしかった。澤田は、今までのおどおどした態度とは別人のように、怒りに身を打ち震わせんばかりの厳しい顔つきで語り始めた。

「あれは、単に勧めていたのではございません。まるで恫喝でした。『辻と結婚すれは不幸になる。幸せになりたいなら、うちの息子と結婚するべきだ』の一点張りで」

 南奈が私を押し退けながら、聞き捨てならないといった表情で澤田に近づいた。

「そんなに酷かったの? その話は私も初めて聞いた」

 中浦酒造のスクープハンターたる南奈にとって、引き続き水面下で取材を続けるべき、特Aクラスの情報だったのだろう。

「貞夫さんの言葉を聞く度に、幸せになりたいのは本当はご自分だろうにと思ったものでございます。あの人は……、本当に下衆な人でございました」

 怒りに身を任せて、澤田は続けた。

 恫喝に下衆。私は不謹慎ながらも「上手い表現をする」と感心した。恐らく誇張ではない。澤田の丁寧な表現ながら辛辣な言葉の端々には、貞夫氏に対する並々ならぬ敵意が感じられた。

 矢永が「樹希君は、そんな貞夫氏を嫌がっていたのかな?」と、獲物を視界に捉えた蜘蛛の目で重ねる。

 澤田は、矢永の視線に絡め捕られ、もはや為すがままである。

「もちろんでございます。あまりのしつこさに、樹希お嬢様は体調を崩された時期もございました。言葉は悪うございますが、今回の貞夫さんの件につきましては、皆がほっとしている部分もあるのでございます」

 澤田の声は、心の奥深くからマグマのようにふつふつと湧き上がる怒りのせいか、微かに震えていた。

 沸き上がる怒りを、鎮めようと考えたのだろうか。澤田は続けて二度三度、深く深呼吸をする。深呼吸が終わると、静かに、しっかりとした声で語った。

「ただ、今の樹希お嬢様は、それ以上に旦那様と隆お坊ちゃまの死が、ショックでいらっしゃるのです」

「重蔵会長の死も? お兄さんである社長はともかく、重蔵会長は、樹希さんの結婚に反対されてましたよね」

 今度は美香が、寝耳に水といった表情で、鋭い質問を澤田に浴びせ掛けた。

 澤田は、一瞬、開きかけた口を止め、考える仕草をする。言葉を一つ一つ選びながら、噛み締めるように答えた。

「たとえご結婚を反対されていたとしても、血の繋がった親子でございます。ご結婚の件を除いては、昔からそれはそれは仲のおよろしいお二人でございましたから」

「重蔵会長と樹希君が言い争いをしていた事件もあったとか。澤田さんは、その事実を知っていのたかな」

 矢永が、法廷で証人に尋問する検察官も顔負けの冷たい口調で、さらに切り込んだ。

「その出来事でしたら、よく覚えております。七月頃でしたか、一度だけ言い争いの場面をお見掛けいたしました。樹希お嬢様が旦那様に仰っていた『秦司のもとに嫁ぎたいのです』というお言葉が、今も耳に残っております。その後、旦那様は頭ごなしに結婚に反対された行為を、随分と悔いていらっしゃったように思います」

 傍聴席の私たちに注目される中、緊張した面持ちで続ける澤田。

「一方の樹希お嬢様も、言い争いの記憶がきっと心に引っ掛かっていらしたのでしょう。旦那様が亡くなられた時に『お父様が亡くなったのは、きっと私のせいです』と涙をお流しになっていたご様子は、本当にお気の毒でした」

 続けて、「樹希お嬢様は本当に純粋で、清らかなお方なのです」と、愛しい我が子を見る母親の目になった。

「澤田さんは、本当に樹希さんがご心配なんですね。樹希さんが一刻も早く元気になられるよう、祈っています」

 私は、澤田の樹希に対する愛情を思い遣り、可能な限りの優しい言葉を掛けた。

 その時、駐車場の周辺が騒がしくなった。どうやら社長の遺骨の到着が近いらしい。

「もうよろしゅうございますか。通夜の準備なども、いろいろとございますので」

 澤田は、喧騒を気にしながら囁き、小さくお辞儀をする。そのまま、思い出したように工場のある棟に向かおうとした。

「ところで、それは?」

 矢永が、この場を離れようとする澤田を引き留めた。「それ」が指している物体は、澤田が手にしている鞄だった。

 この場にいる皆が、鞄の正体と、澤田が鞄を持っている理由を知りたがっていた。ただ、尋ねる切っ掛けを見付けられないでいただけだ。

 私は、今一度、鞄を穴が空くほど観察する。いくら見ても見物料を取られないし、実際に穴が空くわけでもない。私は安心して、舐めるように、隅から隅まで鞄を眺め回した。

 初見時の想像通り、誰もがその名を耳にした経験がある、ブランド物の黒い高級鞄である。恐らく、数十万円は下らないだろう。

 澤田がこの家の中で日常的に持ち歩くには、明らかに不釣り合いな代物だった。

「この鞄でございますか」と、澤田は右手に持った鞄を両手で持ち上げながら、矢永に確認した。

「その鞄は、澤田さんの持ち物かな。澤田さんには、ちょっと似合わない気もするが」

 矢永が、有り得ない切り口で尋問した。初対面の人物の所持品をいきなり酷評するとは、無作法も甚だしい。

 私は、矢永の失礼千万な所業を見過ごすことができず、「矢永、それはちょっと」と苦言を呈しかけた。私の言葉を遮りながら、澤田が感心した様子で答えた。

「これは、事件の二日後でしたでしょうか。そこの花壇の陰で見つけたものでございます。お披露目会の時に、どなたかがお忘れになったのでしょう」

 やや申し訳なさそうな表情をしながら、澤田は続ける。

「持ち主が誰かわからないものですから、私の部屋に置いておいたのでございますが、そのまま忘れてしまいまして。今から菊池さんの所へお届けに上がろうかと」

 中に入っている物品を見れば、或いは持ち主がわかるかもしれない。私は澤田の顔と鞄を交互に見ながら、「中は、確認したんですか」と尋ねた。

「あまり詳しく拝見しては申し訳ないと思い、簡単にでございますが」と、澤田は手にした鞄に視線を落とした。

「持ち主がわかる手掛かりは、なかったんですね」と、私は澤田に確認した。

 突然、矢永が鞄に手を伸ばす。引ったくりの窃盗常習犯よろしく、手慣れた手つきで澤田から鞄を奪い取ると、ファスナーを開けて中を覗いた。

 澤田は、慌てて手を伸ばそうとした。しかし、当然の権利であるかのように自信満々に振る舞う矢永に対して、意思表示のタイミングを逸したらしい。伸ばしかけた手を止めると、諦めて手を引っ込めた。

「不動産関係のパンフレットが数枚と週刊誌か。これだけの手掛かりでは、持ち主はすぐにはわからない」

 矢永は鞄の中に手を突っ込み、ブツブツと呟きながら物色している。

 美香が矢永の横から鞄に顔を近付け、眉間に皺を寄せながら眺めた。何かに思い当たった表情だ。私たちの視線を集めながら一頻り眺め、確信を得たらしい。美香は、おもむろに口を開いた。

「これ、きっと貞夫さんのです。社長や間弁護士に絡んでいた時、持っていました。ブランド物の限定品だし、なんでお披露目会場で大事そうに持ってるのかなって不思議に思ったから、よく覚えてます」

 美香の言葉に「ほう」と興味深げに頷いた矢永は、もう一度、中を覗き込む。

「何だ、これは」

 呆れた口調で言葉を発すると、小さなビニール袋を二つ取り出した。

 それぞれの袋の中には、細い繊維状の物体が束になって入っている。顔を近付けてよく見ると、髪の毛のようだった。

「貞夫氏は、髪の毛を袋に入れて持ち歩く、特殊な嗜好を持っていたのか」

 私は矢永の言葉に答えられず、美香の顔を見た。美香も、困った表情で私の顔を見詰めていた。

 矢永は、澤田に向き直り、怪しげな笑顔を作った。

「この鞄を見つけた時の状況を、もう少し詳しく聞かせてくれないかな」

 矢永の魔法に掛かった澤田は、言われるがままに説明を始める。

「はい。事件の時、酒蔵の中は大きなテレビやスピーカーなど、レンタルというのでしょうか、借り物が多ございました。そこで、事件の二日後、片付けてもいいというお話が警察からございましたので、一緒にテーブルなども片付けたのでございます。その時、私は金属のバケツのような、ワインクーラーとかいう入れ物を広報課に返しに行ったのでございます」

「ほう、それで?」

 矢永が、わざとらしい笑顔を澤田に向けたまま、続きを促す。

「ところが、ワインクーラーは水が入っていて、とても重とうございました。ですので、失礼とは思いながら、工場横の花壇の隅に水を捨てたのでございます。その時、花壇の陰に、この鞄が置かれているのを見付けたという次第でございまして」

「なるほど。で、ワインクーラーの水を捨てたのは、どの辺りかな」

 澤田は、私たちの後方、花壇の一角に歩み寄ると、地面を指さした。

「ちょうど、ここでございます」

 澤田の指が示しているのは、ツチハンミョウの死骸が密集している、まさにその場所だった。

 矢永は、澤田が示した場所を確認すると、至極当然の提案をした。

「いずれにしても、鞄は被害者の所持品だ。警察に知らせなければならない」

 矢永の言葉を受け取った澤田の顔が、みるみる曇る。「私は、逮捕されるのでございましょうか」と、心配顔で私たちに問い返した。

「大丈夫ですよ。多分、鞄を持ってるって警察に電話をしたら、すぐに取りに来てくれます。その時、簡単に事情を聴かれるだけですよ」

 心配そうな澤田が心配になったのか、美香がことさら明るく笑った。

 美香の笑顔に安心したらしく、澤田は「では、電話をしてみます」と言いながら、母屋の方角に消えていった。

 ちょうどその時、社長の奥方である秋江に抱えられた遺骨が、門の外に到着した様子が視界に入った。秋江は、遺骨を抱えたまま母屋の左側にある門をくぐると、私たち四人の前を通り過ぎて、母屋の中へと入っていった。

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