第11話 毒の正体

 私たちは、再び広報課のドアを開けた。

 部屋に入ると、椅子に腰掛けてパソコン画面を眺めていた葉月が、顔をこちらに向け、軽くお辞儀をした。どうやら、通夜の準備の合間にホームページの作成をしていたらしい。

 私は、可能な限りの笑顔を浮かべながら、葉月に深くお辞儀を返す。南奈に促されるまま部屋の奥に進むと、ソファに深く身を沈めた。

 そのままの姿勢で、ふと考える。

 澤田は今頃、刑事にあれこれと事情を聴かれているのだろう。相手の心に土足で入り込んでくる警察の質問ぶりに、澤田は耐えられるだろうか。毒気にあてられていなければいいが。

 しかも、今日は通夜の当日である。

 澤田の心中を察するにつけ、ソファに抱かれている我が身の幸せが身に沁み、安堵感が込み上げてきた。

 ソファの柔らかさに身を任せながら世の由無し事に思いを馳せていると、パソコンが置かれた机の前に座っていた矢永が、画面を見ながら珍しく驚いた声を上げた。

「何、カンタリジンだと?」

 声に驚いた私は、美香や南奈とともに、矢永の前に置かれたパソコン画面を覗き込んだ。葉月も身を乗り出しながら、こちらを向いた。

「どうした、矢永。その、カンタ……。いったい、何の話だ」

 矢永は、画面を見詰めたままで答える。

「警察が、事件に使われた毒物の正体を発表した。お披露目会で二人に対して使われた毒物も、貞夫氏が摂取した毒物も、カンタリジンだったそうだ。しかも、毒物が検出されたのは、二人が使ったグラスと中の酒だけだったらしい」

「カンタリジン? どんな毒なんですか、それ」

 美香が、不思議そうに呟いた。美香の質問に反応して、矢永は過剰に詳細な解説を始めた。

「カンタリジンとは、昆虫、中でも主に甲虫(こうちゅう)の仲間から抽出される有機化合物の一種だ。ツチハンミョウ科や、一見カミキリムシに似たジョウカイボン科など、一部の甲虫の体内で生成される毒物だ。カンタリジンをもつ昆虫としては、ヨーロッパではツチハンミョウ科のヨーロッパゲンセイ、通称スパニッシュフライが、日本ではマメハンミョウやツチハンミョウなどが特によく知られている」

「ツチハンミョウって、種子神社の階段や、さっき花壇にいた虫か。あれは実に気持ち悪い」

 美しさを生み出す黄金比率を拒否したように、アンバランスに肥大した腹部。醜い腹部を覆い隠そうともしないで、胸部に申し訳程度に張り付いているばかりの短い翅。醜悪さを強調するように、不気味に青黒く光り輝いている外骨格。

 悍ましい姿を脳裏に浮かべ、私は震撼した。

「まさか、今回のカンタリジンは、ツチハンミョウから抽出したのか」

 私の咄嗟の質問に対して、矢永は無念そうな表情で首を振って見せた。

「それはわからない。ツチハンミョウからカンタリジンを抽出する行為は、決して素人が簡単にできる行為ではない」

「あんなに小さな虫から採れる毒で、人を殺せるんですか」

 美香が己の知的探求心を満足させるべく、さらに深く質問する。

「カンタリジンは、経口摂取すると胃や腸管から吸収されて、腹痛や嘔吐、吐血などの症状を引き起こす。致死量は成人の場合、約三十㎎。耳掻き一杯分にも満たない」

「そんなに少ない量で死ぬのか」

 私の感想を呼び水にして、矢永はさらに解説する。

「致死量を上回る量を摂取すると、同時に血圧低下や痙攣などを起こした後、呼吸障害によって死亡する恐ろしい毒物だ」

 美香が、眉間に皺を寄せて、嫌悪感を露わにした。

 毒殺事件の凄惨な現場を思い出したのだろう。自分から言い出しておいて拒否反応を示すとは、何ともメンタルの弱い後輩だ。

 と非難したいところだが、私も現場を思い出し、美香と同じく不快な気分に襲われた。

「皮膚に付いた場合は、死亡する事態にはならない。だが、火傷のような水膨れを生じる。日本では江戸時代、大名家の権力争いであるお家騒動の際に、この毒物が暗殺目的で盛んに使われたとも伝えられている」

 矢永は、相も変らぬ桁外れの記憶力を駆使して、的確な解説を口にする。

「しかし一方で、この毒は漢方では神経痛や膀胱炎などの治療薬としても利用されてきた。『毒は薬なり』という言葉があるが、このカンタリジンは、その典型ともいえる物質だ」

 ここで矢永は、ようやく私たちを振り返る。

「カンタリジンは少量であれば、尿道の血管を拡張させる作用で、男性器の勃起を促す効果をもつ。そのため、ヨーロッパでは『カンタリス』と呼ばれ、古くは古代ギリシャの時代から媚薬として用いられてきた。山際、君はマルキ・ド・サドを知っているかい」

 矢永は、人を試す表情で、傍らにいた私を一瞥した。ヨーロッパ文学は、私の脳内において比較的知識量が多い分野である。

「フランス革命前後のフランスの小説家だな。加虐性欲を表す『サディズム』や、そのような性的資質を備えた人物を指す『サディスト』という言葉の由来となった人物だ」

 私が、完璧に近い回答をすらすらと口にすると、矢永は頷いた。私は、言葉を発しようとする矢永を遮り、嬉々として説明を続けた。

「サドの代表作の一つに『悪徳の栄え』という話がある。その猥褻性から、日本では訳者である澁澤龍彦が有罪になったという、曰く付きの作品だ」

 葉月が眉を顰めた。矢永がさらに刺激的な内容を暴露する。

「作品の主人公であるジュリエットという女性は、自らの快楽と欲望のために、あらゆる背徳的行為に手を染め、殺人を繰り返す。敢えて評価すれば、キリスト教的価値観に真っ向から挑む究極の背徳的作品だ。この作品を書いたかどで、後にサドは時の権力者であったナポレオンによって投獄される。その後、精神病院に送られると、病院の中で一生を終えた」

「そのサドっていう人物の人生、壮絶ですね」と、南奈が呟いた。見ると、他の二人の女性と同じく、露骨に不快感を表していた。

「作品の中では、殺害手段の一つとして毒物が頻繁に使われている。何を隠そう、作者のサド自身も、実際に娼婦にカンタリスを盛って性行為に及んでいた。その結果、娼婦には重篤な後遺症が出たそうだ」

 矢永は、葉月の不快そうな顔に視線を止めると、冷たい表情でにやりと笑った。

 明らかなセクハラだ。私は、ルール違反を糾弾する視線を矢永に送った。

 矢永は私の視線を無視すると、そのまま妙に抑揚のある口調で蘊蓄を締め括る。

「カンタリジンとは、ことほどさように古くから知られ、危険と隣り合わせの性質をもちながらも、比較的よく使われてきた物質だ」

 ここで、美香が不思議そうに口を開いた。

「カンタリジンがどんな物質かは、よくわかりました。でも、犯人はなぜカンタリジンを使ったんですかね」

 カンタリジンの意味など考えた経験もなかった私は、思わず美香に質問の真意を質した。

「なぜとはどういう意味だ。たまたま手に入った毒物がカンタリジンだった。そんなところだろう」

「でも私は、矢永さんが以前に言っていた『生贄か、それとも見せしめか』っていう言葉が、やっぱり気になるんです。大勢の人の前での毒殺に生贄や見せしめの意味があるんだとしたら、カンタリジンを使った事実にも、意味がある気がしませんか」

 美香は、私の見解を否定する割には、曖昧な理由しか述べない。私は、少々苛立ちを覚えながら、重ねて聞いた。

「気がしないかと聞かれても困る。もう少し具体的に言えないのか」

「具体的にと言われても……。それは、わからないです。でも例えば、カンタリジンが何かを象徴しているとか、カンタリジンを使わないと、その殺人自体が意味を成さないとか」

 話を聞いていた矢永が、「なるほど、面白い考察だ」と言い放つ。美香が、自説に対する矢永の評価を聞いて嬉しそうな表情をした。

 だが、やはり私には理解できない。

「たまたま、カンタリジンだったという見解を、なぜ君たちはそこまで否定したがる」

 私は、矢永に対してさらに詳細な説明を求めた。

「たまたまカンタリジンだったという考えは、決して否定していない。ただ、カンタリジンは、原料さえ手に入れば決して精製が不可能でないとはいえ、素人にはいささかハードルが高い。もっと簡単に手に入る毒物はたくさんある」

「例えば、どんな毒物だ」

 私は、矢永を糾弾する眼付きで見遣りながら、半ばふて腐れて問い詰める。

「ヒ素を含む殺鼠剤やアコニチンを含むトリカブト、強心作用があるコンバラトキシンを含むスズランなどだ。にもかかわらず犯人は、なぜカンタリジンを使ったのか」

 両手を膝に置いた美香が、身を乗り出した。

「矢永さんは、なぜ、カンタリジンが使われたと思いますか」

 矢永は、「それは、現時点ではわからない」と首を小さく振りながら、お手上げといった表情で答えた。

「なんだ。思わせ振りに説明しておいて、君も答えを用意していないのか」

 私は、思考の袋小路に成す術もなく佇む矢永を揶揄した。

「何だか、大人気ないですね。山際さんのその口振り」

 美香が私を一瞥しながら、冷ややかに語る。

「大人げないとは何だ。私は、矢永を信頼すればこそ、濃縮果汁のように内容の濃い意見を期待していたんだ。それが『わからない』とは。失望するのも、仕方がない話だ」

 世界でもっとも深いといわれるチャレンジャー海淵よりもさらに深い私の思慮を理解できないのか、美香は無視を決め込んだ。恐らく今の美香には、私の真意を理解させようとする行為自体、徒労だ。猫に小判だ。

「現時点ではわからないとしても、カンタリジンである理由を考えながら調査する三枝君の行為は、決して無駄にはならないだろう」

 矢永が、従順な飼い猫と化した美香に対して、冷静に語る。

「カンタリジンを使った理由が見えた時に、自ずと犯人の姿が浮かび上がってくる。そういう話ですよね」

 美香は、今にも矢永の膝の上に寄り添い、ゴロゴロと喉を鳴らしそうな雰囲気を醸し出している。

「三枝君の推理する通りだ。それが真相に辿り着く最善の方法だと、私は思う」

 矢永は、まるで膝の上の猫を撫でながら過剰な余裕を撒き散らす、安楽椅子探偵のような笑顔を浮かべて嘯いた。

 私は、どうやら深く潜航し過ぎたらしい。一万九百mの深淵から浮かび上がる手段を逸したまま、遥かな高みである地上に佇む矢永と猫、いや美香を、茫然と見上げるしかなかった。


         *


「もう一つ、謎がありますよね。犯人はカンタリジンを、社長と間弁護士にどうやって飲ませたんでしょうか」

 珍しく黙ったまま話を聞いていた南奈が、顎に人差し指を当てながら口を開いた。

 胸の前で腕を組みながら考え込んでいた矢永が、ここで情報を整理する。

「毒が混入された可能性があるのは、一般的に考えると料理と料理用の食器、酒瓶、グラスだ」

「しかし、さっきの報道内容によると、二人が飲んだグラスと中の酒以外から、カンタリジンは一切検出されなかったんだぞ」

 私の反論に軽く頷く南奈の横で、いつに間にか人間に戻っていた美香が、酸欠状態の金魚のように間抜けな顔で、パクパクと口を開いた。

「と言うことは、その場で二人が持っているグラスに直接、毒が入れられたんですかね。あるいは、最初に毒入りのグラスを手渡されたとか……」

「いや、あれだけの人がいた中で、相手が手に持っているグラスに直接、毒を入れる芸当は、いくらなんでも不可能だ。加えて、私の記憶では二人を含む出席者は皆、酒がすでに入っているグラスを自分で選んでいた。したがって、毒入りのグラスを渡されたという可能性もない」

 私は、グラスを持つ仕草を真似ながら、完璧な観察力と記憶力に裏打ちされた見解を述べた。すると、往生際の悪い美香は、もう一つの可能性を示唆する。

「じゃあ、グラスを途中で交換した可能性はないですか? その時に毒入りのグラスを渡されたとか……」

 答えに窮した私は、パソコンの前に座っている葉月に向かって、思わず視線を投げ掛けた。釣られてか、美香も何かを期待する表情で葉月の顔を見詰めた。

 葉月は、自分に突然、話の矛先が向いた事実に驚いたらしい。一瞬、きょとんとした表情を浮かべたが、すぐに的確な答えを口にした。

「お二人のグラスを毒入りグラスに交換するのは、難しかったと思います。グラスはあまり余分がなかったですし、会場にあったお酒は一種類だけなので、基本的にはグラスを交換したりせず、お客様が持っているグラスに注ぎ足していましたから」

 葉月は、何かを思い出そうとするかのように机に視線を落とすと、「それに……」と、遠慮がちに言葉を続ける。

「お二人は、お酒を飲みながら組合長さんと談笑している最中に突然、倒れられました」

 葉月の話に納得した様子の南奈が、ここで結論めいた一言を口にした。

「そっか。グラスやお酒に直接、毒が入れられていたんだったら、お酒を一口飲んだその時、すぐに倒れるはずだよね。そうならなかったって事は、グラスやお酒に毒が入れられていたわけじゃないって話か」

 葉月の証言に頷く南奈の横で、美香が無念そうに言い放った。

「つまり、毒の混入経路は、本当にわからない。真実は藪の中、というわけか……」

 推理の行き詰まりを認める美香の言葉に、一同は沈黙する。私は両手を広げてお手上げのポーズを取り、ソファに凭れ掛かった。

「混入した人物はおろか、混入ルートも不明。まさに謎だらけだ。ひょっとしたら、被害者は誰でもよかったのではないかとさえ思えてくるよ。髪の毛の持ち主も、謎のままだしな」

「髪の毛? 何ですか、それ」

 葉月が、私の言葉に積極的な反応を示した。葉月が顔を近付けたとき、仄かな花のような香りが鼻腔をくすぐった。

 私は、ここぞとばかりに身を起こし、葉月と会話を繋ごうとした。言葉がまさに口蓋垂の周辺を通過しそうになった瞬間、南奈が口を開いた。

「葉月は、まだ知らなかったっけ。貞夫さんが花壇の陰に忘れていた鞄の中から、髪の毛が見つかったの」

「その髪の毛の持ち主は、今もって謎なんですよ」

 なんとか口にした私の一言に、葉月は再び私の顔を振り向く。まだ、説明が足りないと言いたげな表情で、疑問を口にした。

「でも、髪の毛の持ち主を知りたいのなら、例えばDNAとかを調べれば、誰と誰のものかはわかりますよね」

 矢永が、私たちの会話に途中参戦した。

「たとえDNAの配列が判明したとしても、その持ち主がわかるわけではない。持ち主である事実を証明するためには、持ち主のDNAと比較する必要がある。持ち主がわからない限り、持ち主を証明できない」

 矢永の言葉に、葉月は納得したように頷いた。

 ――持ち主がわからない限り、持ち主を証明できない。

 何とも哲学的、かつ厄介な命題に対する適切な反論を見つけられない私は、再びソファに深々と身を沈めた。そのまま、母親の胎内に似た安心感をより深く味わうべく、静かに目を閉じる。

 目を閉じた私の横で、葉月が壁の時計を見ながら、遠慮がちに口を開いた。

「じゃあ、私はそろそろ失礼します。通夜のお手伝いについて、菊池さんと打ち合わせをしなければならないので」

 私は、思わず目を開けて葉月を見る。

 葉月との別れを惜しむ気持ちが、表情に出てしまっていたかもしれない。葉月は、私をちらりと見返すと軽く会釈をし、困ったように笑った。

 私は、飛び切りの笑顔で笑い返そうとした。

 しかし、いかんせん飛び切りの笑顔など、ここしばらく作った試しがない。眉の角度、口角の上げ方など、一つ一つを考えている間にも、葉月はゆっくりと身を翻す。

 無情にも、私の笑顔を待たずにドアの向こうへと消えていった。


         *


 南奈が「そうだ!」と突然、思い出したように甲高い声を上げた。

「メールを送らなくちゃいけないの、忘れてた。すみません。ちょっとだけ作業させてもらっていいですか」

 南奈は、自分の席に腰掛けると、机の上に置かれていたノートパソコンを開いた。南奈の思考転換の切れのよさに、少し救われた気がした。

「こんな時に、何のメール?」

 美香が、南奈の背中に顔を近付けながら尋ねる。

「今度、雑誌に載せる広告の校正の締め切りが今日までだったの。こんな事態になってるから、『数日、待ってください』って、広告代理店にメールを送る予定にしてたんだ。でも、忘れてた」

 見ると、机の上には赤字が入った広告紙面の校正紙らしき紙が、乱雑に置かれていた。


  フルーティな香りを、今宵はロックで楽しむ

  純米酒 生詰め冷やおろし「島原泉」


 そんな文字が目に入った。

「日本酒をオンザロックで飲むのかい?」

 私が思わず尋ねると、南奈は「はい」と答えながら、嬉しそうに振り向いた。

「旨味が強くてフルーティな冷やおろしは、意外にオンザロックでもイケるんですよ。だから今年は、オンザロックを提唱しようっていう方針で広告を打ってるんです」

 ここで矢永が、思い出したように南奈に問い掛けた。

「お披露目会の当日、オンザロック用の氷などは、会場に用意していたのかな」

「はい、五十㎝四方ぐらいの白いクーラーボックスに入れて。ちょうど私がお客さんにお酒を注いでいた場所の横に置いて、欲しいお客さんには、その時近くにいた社員が交替で提供していました。なかには、ご自分で取られるお客さんもいたみたいです。でも、あいにくあの寒さでしたから、あまり人気がありませんでしたね。葉月は葉月で、キンキンに冷やした冷酒も用意してたんですが、そっちの人気も今一つだったみたいで、葉月は落ち込んでましたよ」

 南奈は、私をちらりと見ると、悪戯っぽい目で笑った。

 南奈との会話を一旦切り上げた矢永が、私にゆっくりと歩み寄ると、耳元で囁いた。

「穂高君に、電話で確認してほしいことがあるんだが」

 あまりに唐突な要望に驚いた私は、目の前の矢永の顔を反射的に見返した。

「何だ、突然。いったい何を確認しろというんだ」

「毒物がクーラーボックスから検出されなかったか、会場となった蔵の入り口の防犯カメラに怪しい人物が移っていなかったか。そんなところかな」

「そうか、クーラーボックスに入れられていたオンザロック用の氷に、毒が仕込まれていたというわけか!」

 そうだ、そうに違いない。矢永の何気ない一言をささやかなヒントとして、私の脳内で非の打ち所がない、完全無比の、完璧な推論が瞬時に組み立てられた。

 が、同時に、小さな不安が頭をよぎる。

 確かに、県警の捜査一課担当である穂高は、事件に関するざまざまな情報を手に入れているだろう。とはいえ、貴重な情報を、簡単に部外者に話すとは思えない。

「しかし、そう簡単に教えてもらえるとは思えないぞ」

 矢永は、そんな私の気持ちに忖度することなく、勝手に話を進める。

「そこは、旧知の関係である君の腕次第だ。しかるべき時が来たら、今回の事件の真相をお聞かせできるはずだとか言えば、邪険にするような行為はしないだろう」

 たとえ抵抗しても、矢永は決して引き下がらないに違いない。私は諦めて、穂高の名刺に書かれた電話番号に電話を掛けた。

「はい、長崎日日新聞です」

 電話の向こうで、張りのある女性の声が響いた。

「東京さきがけ出版の山際と申しますが、社会部の穂高貴之さんをお願いします」

「少々お待ちください」という無表情な声とともに、待ち受け音に切り替わった。

「はい、穂高です」

 受話器を取る、ガチャリという雑音とともに聞こえた声は、穂高の声に間違いなかった。

「山際だ。まさか会社にいるとは思わなかったよ。てっきり取材に出ているものだとばかり思ってた」

「そりゃ、会社にいる時だってあるさ。で、何の用だ」

 受話器の向こうの穂高の声は、いつものように快活だ。私は、穂高の明るさに甘えるように、やや抑え気味の声で要件を手短に伝える。

「実は、今回の事件に関して、二つほど聞きたい話があってな。一つは会場にあったクーラーボックスから毒物が検出されなかったかという点、そしてもう一つは会場の外の防犯カメラに、怪しい人物は映っていなかったかという点だ」

「おいおい、簡単に、はいそうですかと喋れそうな内容じゃないな」

 穂高は、明らかに困惑していた。

「それはわかってる。しかし、我々にとっても真相に近付くための大切な情報なんだ。真相が明らかになった時には、君にも包み隠さず話すよ。だから、何とかならないか」

 穂高は、受話器の向こうで「うーん」と苦しそうに唸っている。やがて、「ちょっと待ってくれ」と言い残すと、受話器を離れた。

 言われたままに待っていると、「もしもし」と、戻ってきた穂高の声が聞こえた。カサカサと手帳らしき紙の束を捲る音が聞こえる。

「まず、クーラーボックスの件だが……」

 穂高らしくない、小さな声だった。きっと、周囲の目と耳を気にしているのだろう。

「警察の関係者の話だと、毒物の有無について調べたのは、会場で提供された全ての料理とそれを盛り付けた大皿、酒と空き瓶、オンザロック用の氷とそれが溶けた水、それに客が使った全てのグラスや取り皿、箸、スプーン。以上だ。つまり、出席者が口を付けた可能性があるもの全てだな。で、毒物が検出されたのは報道の通り、亡くなった二人が使ったグラスと中の酒だけだったそうだ。もちろん、クーラーボックスに残った水や氷からも一切検出されなかった」

「防犯カメラはどうだった?」

「正面入り口と通用口の外側に設置された防犯カメラの映像では、会が始まってから事件が起こるまでの間、途中で入った人はいなかったそうだ。出ていったのは祥子と貞夫の二人だけだったらしい」

 小さいながらも、ややぶっきらぼうな声だった。

 祥子と貞夫が出て行った映像は、おそらく泥酔して管を巻いた貞夫を、祥子が連れ出した場面だろう。

「そうか、有り難う」

 私が礼を言うと、穂高は受話器の向こうで「俺から聞いたって話は、誰にも言うなよ」と念を押してきた。

「もちろんだ。俺のほうも、何か進展があったら報告するよ」

「頼んだぞ」という声とともに、電話は切れた。

 私は、スマートフォンを上着のポケットに押し込むと、振り向いた。矢永は、パソコンが置かれた机の前にドカリと腰掛け、パソコン横に置かれた地元新聞に目を落としていた。

「どうだった?」

 他人事のように問い掛けてくる矢永に対し、私は穂高との会話をそのまま伝えた。

「クーラーボックスの水や氷から、カンタリジンは検出されなかったそうだ。これで、オンザロック用の氷にカンタリジンを仕込んでいた可能性も消滅だな」

 南奈が、残念そうな表情で私の報告を受け入れた。

「そうですね。さっきも言いましたけど、クーラーボックスの氷は近くにいた社員が交替でお客さんに提供していましたし、なかにはご自分で氷を取られるお客さんもいらっしゃいました。その点から考えても、クーラーボックスの氷を使って、社長と間さんのグラスにピンポイントで毒を飲ませるのは無理ですよね」

 一方で、南奈の横には一人、納得いかなそうな表情をしている天邪鬼がいた。やはり美香だった。

「でも、例えば誰かが毒入り氷をこっそり会場に持ち込んだっていう可能性は?」

 先ほどまで、毒入りの酒とグラスにひたすら拘っていた美香は、今度は毒入り氷説に固執し始めたようだ。

「それもないと思う。例の迷惑系ユーチューバーの突撃取材予告が原因で、出席者は全員が入り口で手荷物を預けて、ほぼ手ぶらの状態で会場に入ってたから、不可能だったはずよ」

 どこまでも諦めの悪い美香は、一度噛みついたら放さないスッポンのような執念深さで、南奈に食らいつき、ぶら下がる。

「じゃあ、会社の人たちは?」

「社員も同じような状態だったから、やっぱり無理だよ。そもそも、こっそり持ち込んだとしても、氷を懐から取り出して直接二人のグラスに入れるなんてできっこないし、だからといって一旦クーラーボックスに入れた可能性もないわけだしね」

 思考の袋小路だった。さすがのスッポン、いや美香も、ようやく南奈への追及を諦めたようだった。納得がいかないものの、納得せざるを得ない。そんな表情で静かに息を吐いた。

「やっぱり、氷の可能性もなし、という話なのかなあ……」

 と、二人の遣り取りを黙って聞いていた矢永が「なるほど」と曖昧な返事をし、口角を上げながら唇の下の無精髭を右手で弄んだ。

 その時、パソコンの画面に目を向けた南奈が、思い出したように声を上げた。

「そうそう、もう一つ大事な要件を忘れてました。秦司からの伝言です。何でも、先日お話ししたキリシタン関係の本、キリシタン版っていうんですか。見付かったそうです。もしよかったら、明日、告別式の後にお見せできますって。でも、こんな時ですし、どうしましょう」

「有り難う。明日の午後、告別式が終わったら伺おう。辻君にはそう伝えてくれないか」

 矢永が、地元新聞に目を通しながら、淡々とした表情で口にした。

 驚いたことに、矢永はこの期に及んでも、まだキリシタン版に拘っているらしい。

 確かに、キリシタン版は貴重な歴史的遺物かもしれないし、閲覧の約束も取り付けた。しかし、全ては事件前の出来事だ。三人もの人間が亡くなった今、事態がキリシタン版どころでない状況は明らかだった。

「こんな時に、キリシタン版もないだろう」

 正義感に駆られた私は、すかさず口を挟んだ。

「我々は、警察官や裁判官と異なり、犯人を捕まえたり、裁いたりする立場ではない。事件に束縛される存在ではない我々が、事件の最中に資料館に行ってはいけないという法はないだろう」

 矢永が、大上段からの反論を繰り出した。

「しかも、事態が深刻であればあるほど、息抜きや気分転換が必要になる。息抜きや気分転換から、解決に繋がるヒントが見つかる事例も少なくない。キリシタン版を見る前に、行っておきたいところもあるからな」

 矢永は、サイコ殺人鬼さながらの冷徹な目付きで私を睨み、にやりと笑うと、最後に付け加えた。

「山際。君に私の提案を拒否する権利は、ない」

 私の魂は、氷柱のように冷たく鋭利な矢永の言葉の前に、敢えなく降参した。

 私と矢永の密かな攻防を見届けたタイミングで、南奈がメール送信ソフトの送信ボタンをクリックした。

「明日の午後ですね。皆さんが伺うって、私が秦司に伝えておきます」

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