第5話 第一の殺人
第二章
二〇一六年九月十八日
翌日は、九月とは思えないほどに肌寒い日だった。
その日の午後、私たち三人はお披露目会に出席するため、中浦酒造を訪れた。
門をくぐり、会場であるイベントスペースの前に立つ。入場者は入り口で手荷物を預けるシステムになっており、簡単な身体検査を受けた後、皆がほぼ手ぶらの状態で中に入っていく。
私も同じように荷物を預け、取材に欠くべからざるアイテムであるデジタルカメラ以外は何も持たない状態で中に入った。
「なぜ、身体検査なんてしているんだ?」
持ち込みを許されたデジタルカメラのストラップに首をくぐらせながら、私は美香に尋ねた。
「何でも先日、ユーチューバーを名乗る人物が『突撃取材をおこなう』って予告動画をネットに上げたらしいんですよ。それが原因で急遽、参加者の身体検査をおこなうことにしたらしいんです。南奈は『知った顔の人も多いし、形だけだけどね』って笑ってましたけど」
「今、流行の迷惑系ユーチューバーって奴か」
世の中には、矢永以外にも困った輩が一定数いるようだ。モラルの衰退を嘆く溜息を吐きながら会場に足を踏み入れると、既に多くの先客がいた。
多くは、お披露目会に招待された酒造組合の関係者やバイヤーたちなのだろう。皆、背広ネクタイのビジネスマン・スタイルに身を包み、何やら雑談を交わしている。意外に、女性も多い。なかには、海外のバイヤーらしき外国人の姿も見えた。
一方で、およそビジネスマンらしからぬ、ラフな服装の人々も見受けられる。
「南奈の話では、宣伝のためもあって、事前に予約した多くの一般人も招待しているそうなんです。毎年恒例らしいですよ。今年は、ユーチューバーの突撃取材予告もありましたから、本当は断りたいっていうのが本音だったらしいんですけど、動画がアップされる前に予約した人たちだから、断るに断れなかったみたいなんですよね」
怪訝そうな私の表情に気付いたのだろう。美香が、私の疑問に対する回答をことさら得意げに捲し立てた。
私は、想像を超える人の多さに圧倒されながら、改めて建物内を見回した。
酒蔵の一角には巨大なモニターが設置され、酒造りの一年といった主題の映像を、繰り返し流している。モニターの前、中央のスペースには巨大なテーブルが三脚ほど並べられ、テーブルの上に、工場の建物から運ばれてきた料理が、次々と置かれていく。
「それにしても、昨日まではあんなに静まり返っていたのに、今日はすっかりパーティモードだよな」
先程まで滞在していた安宿の恐ろしいまでの静寂に慣れていたせいで、喧騒になかなか馴染めない。私は所在なく、人々の様子を眺めた。
と、法被姿の女性が、数人の和服の女性を先導して通用口から入ってくる光景が目に入った。法被姿の女性は南奈である。
南奈は、私たちを見付けると「美香、矢永さん、山際さん!」と手を振りながら、嬉しそうに近付いてきた。雰囲気に呑まれかけていた私は、唯一の顔見知りと表現してもいい南奈の無邪気な笑顔に、救われた気がした。
と、和服の女性の一人が、南奈に導かれるまま、私たち三人の前に歩み寄ってきた。
南奈は、「こちらが社長の妹さんの、中浦樹希です」と、まず樹希を私たち三人に紹介する。続いて、私たちを樹希に紹介した。
「こちらが、東京の出版社の山際さんと三枝さん、記事を書かれるライターの矢永さん」
南奈の紹介を聞き終えると、樹希は腰の前で両手を合わせる。目を細めながら「中浦樹希と申します」と優しく微笑み、軽く頭を下げた。
身長は、見たところ一六〇㎝台の半ば、美香と同じくらいだろう。ぱっちりと見開いた二重瞼の大きな目。鼻筋がすっと通っていながら、高過ぎない鼻。静かな湖面に浮かべた、桜の花弁のような薄紅色の唇。全てのパーツが、完璧なバランスをもって配置されている。
やや大袈裟な表現が許されるなら、絶世の美女とは、このような容姿ではないかと思わせるほど、整った顔立ちである。
顔を少し動かす度に、背中まで伸びた黒い髪がサラサラと揺れて、実に艶っぽい。それでいて、万事が控えめで落ち着いている。仕草の一つ一つが単なる色気を凌駕し、いかにも名家の令嬢らしい気品を感じさせた。
私の視線に気付いたのだろうか。樹希は「どうかなさいましたか」と不思議そうな表情で、私に語り掛ける。言葉を失っている私の代わりに、美香が答えた。
「昨日、母屋の前にいらっしゃるお姿を遠くでお見掛けしたんですが、近くで見ると本当にお綺麗なので、びっくりしました。山際も、きっと同じ事を考えてると思います」
私の心を代弁したつもりかも知れないが、余計なお世話だ。
「因みに、三枝さんは私の高校の友人なの」と、南奈が説明した。南奈の言葉を待っていたように、樹希は落ち着き払った様子で、美香に対して誉め言葉を返す。
「お話は結城から聞いております。結城の話どおり、本当にお綺麗でいらっしゃいますね。結城が憧れていた理由も、わかりますわ」
いわゆる「倍返し」の手法だ。
思わぬ褒め言葉に動揺した美香は、瞳を落ち着きなく動かしながら、身を硬くした。話の内容に加え、想像の斜め上を行くお嬢様然とした樹希の口調も、美香に予想外のダメージを与えたらしかった。
美香は「有り難うございます」と、柄にもないか細い声で答えた。
その時。
防戦一方の美香を助けるように、会場に中年男性のアナウンスが響き渡った。
「皆様、長らくお待たせ致しました。中浦酒造、秋の限定酒のお披露目会が間もなく始まりますので、中央のモニター前にお集まりください」
「では、私は一旦、失礼致しますので、ごゆっくりお過ごしください」
アナウンスを聞いた樹希は、申し訳なさそうに深々と頭を下げると、踵を返す。こちらに向かって歩いてくる一人一人に丁寧なお辞儀をしながら、中央にあるモニターのほうへゆっくりと歩いていった。
後ろ姿にも、良家のお嬢様特有の気品が溢れている。私は、知識の中にあるステレオタイプのお嬢様像を完璧なまでに体現している樹希を、半ば幻を見る心持ちで見送った。
「私も、いろいろやらなきゃならないから、また後で。お酒も好きなだけ飲めるから、楽しみにしててね」
南奈も、美香に軽く挨拶をすると、樹希の後を追った。
私は、南奈が離れたのを見計い、横で今も身を硬くしている美香に向かってからかい口調で話し掛けた。
「どうした。お嬢様に思わぬお誉めの言葉を頂いて、戦意を喪失したか」
美香は私をきっと睨み、「そんなんじゃありません」と、子供じみた口調で言い返す。「山際さんこそ、鼻の下を伸ばして、みっともないですよ」と続けた。
何とでも貶すがいい。マンガやテレビドラマを通じ、四十年近くの歳月を掛けて形成された私の中のお嬢様像は、巨人軍と同じく永久に不滅だ。
二人がいなくなったのとほぼ同時に、蝶ネクタイをした司会者らしき男性が、モニターの前に登場して開会を告げる。その言葉を合図に、ようやくお披露目会の開始となった。
とは言っても、すぐに酒が飲めるわけではないらしかった。まず最初に、社長による挨拶があり、続いて組合の関係者の挨拶、関係者の紹介などが続く。
挨拶や紹介などの前振りが終わったかと思うと、今度はプレゼン用の映像がモニターに映し出される。その映像を使って、社長自らが今後のビジネス戦略などを延々と解説する。
私は、美香の後ろに続いて出動した。美香とともに会場を回りながら、カメラマンとしての比類なき技術と感性を生かして、シャッターを切り続ける。
自慢の技術と感性が、美香の指図の上でしか発揮されない不満はある。しかし、カメラマンという立場上、私の卓越した才能が美香の貧弱な感性によって浪費される点は、敢えて不問に付した。
「酒は、まだなのかな。このままじゃ、料理も冷めちまうよ」
一通り写真を撮影し終わった私は、戻って来るなり、矢永の耳元に小声で囁いた。
「企業主催のイベントは、えてして、こんなものだ。君も仕事柄、時々は企業のイベントなるものに参加して、知っているだろう」
矢永が社長の熱弁を聞きながら、無表情な言葉を私に投げ掛ける。いや、矢永は決して熱弁を聞いていない。たまたま、顔がそちらを向いているだけだ。
「それはそうだが、昨日からこれだけを楽しみに過ごしてきたんだ。その辺りの事情もわかってほしいな」
「ならば、この演説も我慢して聞くべきだ。それが、社会人としてのあるべき姿だという事実がわからないとしたら、嘆かわしい状況だ」
矢永が、自分の普段の身勝手さを棚に上げ、身も蓋もない返事をした。私は仕方なく、社長の熱弁に聞き耳を立てた。
演説は、さらに十分ほど続いた。ようやく長い前振りが終わると、法被に身を包んだ菊池や南奈たちの手で、会場に次々と酒が運び込まれてきた。列の最後には、五合瓶を差したステンレス製のワインクーラーを重そうに抱えている葉月がいた。思わず駆け寄って手を貸したくなったのは、恐らく私一人ではなかっただろう。
十五本の一升瓶と五本の五合瓶が中央のテーブルの上に置かれると、一斉に拍手が沸き起こった。
「この拍手は、日本酒が飲める拍手でもあり、社長の長い話が終わった拍手でもある」
私は、横にいる美香にもっともらしく解説した。美香は、私を横目でちらりと見ると、口の前に人差し指を当て、「しっ」と言った。
社長の合図に続いて、菊池や南奈たち、法被姿の面々が瓶の栓を開けた。傍らに立っていた樹希を初めとする和服の女性たちが、テーブルに並べられたグラスに酒を注ぎ始める。
瓶の中を空気が上るコポコポという小気味よい音とともに、周辺に甘い香りが広がった。
香りに誘われた客が「では、皆さん、グラスを手にお取りください」と勧める司会者のアナウンスとともに、酒の入ったグラスを我先にと手に取り始める。
私は、焦燥感と戦いながらも、落ち着いた体を装ってテーブルに近づいた。
中央のテーブルに立って酒を注ぐ和服の女性たちの左端、氷か何かが入っているのであろう白いクーラーボックスを挟んで南奈の隣に、葉月の姿があった。私は人混みを掻き分け、列をショートカットしながら葉月に近付いた。
何か予感めいた感覚があったのだろうか。葉月は、私が声を掛けるよりも早く私を見つけ、軽く会釈をする。
「もしよかったら、冷たいのは如何ですか。キンキンに冷えたのも、ありますよ」
葉月は、白いクーラーボックスの横に置かれたステンレス製のワインクーラーから五合瓶を取り出すと、私の目を真っ直ぐに見詰め、にこりと微笑んだ。
葉月の心遣いはとても嬉しい。しかし、この寒さだ。とてもキンキンを飲む気分にはなれない。私は葉月の気遣いに心打たれながらも、丁寧に辞退した。
「今はまだ、普通のでいいです。そっちの冷たいのは、普通のをもう少し飲んでから頂きます」
葉月は「そうですよね」と苦笑いし、持っていた五合瓶をテーブルの上に置くと、ワインクーラーを覆うようにナプキンを掛けた。ちょっと寂しそうな笑顔を眺めながら、私は傍らに置かれた、常温の酒が入ったグラスに手を伸ばす。
手に取る時、「和服、似合ってますね」と言葉を掛けてみた。決して、キンキンを断った罪滅ぼしではない。本心から似合っていると思ったのだ。
葉月は「別に、似合ってなんていないです」と恥ずかしそうに笑う。口元に覗く八重歯が、笑顔を引き立てる。
すぐ横で酒を注いでいた法被姿の南奈が、会話に割って入った。
「私と違って、葉月は和服が似合うんですよ。私が着たら、まるで七五三ですよ」
「南奈も思い切って和服を着てみれば、きっと似合うのに」
突然の声に振り向くと、いつの間にか、傍らに美香が立っている。横には矢永もいる。二人は、先ほど私が口にしたちょっとばかり恥ずかしい台詞を、こっそりと聞いていたらしい。私は、激しく動揺した。
一方の南奈は、美香の進言に対して「いやいやいや。私に和服は、ないから」と大袈裟に手を振って見せた。私を除く一同は、南奈の陽気な物言いを見て笑う。
葉月も、楽しそうに笑っていた。
酒が出席者に行き渡ると間もなく、グラスを手にした菊池がマイクの前に立った。菊池が、グラスを掲げながら「我が社の益々の発展を祈って、乾杯!」と音頭を取る。
出席者たちの「乾杯!」という復唱とともに、グラスを交わす乾いた音がカチン、カチンと酒蔵の中に響いた。
「なるほど。コクがあるのにすっきりしていて、とても美味しい」
一口、口に含んだ私は、爽やかな口当たりに素直に驚き、グラスを思わず目の前に持ち上げた。中の酒を窓の光に翳すと、淡い黄金色の液体が、太陽の光にキラキラと光って見えた。
私は、澄み切った美味しさに感心しながら、何気なく、中央にあるモニターの方角に目を遣る。
モニターの近くでは、和服姿の女性の横に立った社長が、スーツ姿の男性と話をしていた。頭をピッチリと七三に分けた、ビジネスマン風の男性である。
話し声は、喧騒に掻き消されて聞こえない。が、男性は卑屈な笑いを浮かべながら、明らかに怪しげな目付きで、社長に語り掛けていた。社長は、いかにも優秀な経営者といった貫禄で、完璧な笑顔を作りながら謙虚に頷いている。
社長の様子を見て、男性はさらに姿勢を低くしながら、厭らしく笑う。男性の卑屈な態度に釣られて、傍らに立つ和服の女性も白い歯を見せて笑った。
「和服の女性は、社長の奥様の秋江さんです。男性は、弁護士の間さん。間さんの事務所は長崎市の県庁近くにあるんですが、この町の出身である関係で、中浦家に依頼されて財産を管理しているんです。ここは田舎だから、弁護士ってだけでちょっとした文化人扱いなんですよ」
囁き声に振り向くと、法被姿の南奈だった。南奈は、中浦家の人間関係を常に的確に解説してくれるので、とても助かる。
「財産を弁護士に管理してもらうなんて、まるでドラマの設定だね。やっぱり昔ながらの名家は違うなあ」
自分の財産を弁護士に管理してもらうなど、私にとっては一生縁のない事態だろう。今現在、私は自分自身の財産を、悲しいほど容易に管理できている。
「間さんのお父様と、亡くなられた重蔵会長が昔から懇意にしていらした関係で、息子さんが中浦家の財産を管理する仕事に就いたんです。間さんは、中浦酒造の顧問弁護士もしているんですよ」
南奈の、痒い場所に手の届く解説が続く。孫の手代わりに、家に置いておきたい気分だ。
私は、南奈の有り難い解説に感謝しながら、モニターの左側に置かれたテーブルの方向に、何気なく視線を移す。テーブルの上に置かれたステンレス製のアイスペールに掛けられたナプキンを捲り、中の氷をグラスに移している葉月の姿が目に入った。
その時だった。一人の男性が人混みを掻き分けながら、社長に近付いた。
右手にはグラスを持ち、左腕の腋には高級そうな黒い鞄を大事に抱えている。皮膚の張りなどを見ると六十歳前のようだが、頭を覆う白髪が原因で、見ようによっては六十歳代後半に見えなくもない。
一頻り酒を嗜んだのか、赤ら顔をしている。白髪の男性は、ふらふらとした足取りで社長の前に立つと、周囲に聞こえるほどの大声を上げた。
「二人して、またよからぬ相談をしとるのか。重蔵兄ぃの次に、今度は誰を亡き者にするんじゃ」
人々の視線が、一斉に男性の口元に集まった。社長は、何も言わずに男性を見遣ると、苦笑いで答えた。傍らの間弁護士は、突然の事態によほど驚いたのか、口を開けたまま呆けた顔で静止している。
「あの若造、辻もそうじゃ。奴は、中浦の財産が目的に決まっとる。あいつが中浦に入るなんて、俺は認めんぞ。樹希は、俺の息子と……」
男性は、激しい口調で喚き続ける。喚き過ぎて酸欠になったのか、よろけた時、一人の女性が腕を取って男性の体を支えた。女性は「貞夫さん、ちょっと飲み過ぎですよ」と、男性に言葉を掛けると、困った顔をした。
女性の後ろでは、高校生と思しき少年と小学生ぐらいの女の子が、どう反応していいのかわからないのだろうか、無表情のまま立ち尽くしている。
男性は「ええい。大丈夫だ。手を離せ」と叫びながら腕を振り解こうとし、再びよろめいた。
矢永が「あの男性は、何者かな?」と、出席者のほぼ全員が等しく抱いたであろう素直な疑問を、南奈に投げ掛けた。
「あの人は、亡くなられた会長の義理の弟の中浦貞夫さん。一緒にいる女性が、会長の奥さんの祥子さんです。祥子さんの横にいる二人は、社長や樹希の弟で高校生の雅彦君と、妹で小学生の真衣ちゃんです」
ここでも、微に入り細にわたる南奈の解説が際立つ。美香が「さすが南奈。何でも知ってるね」と南奈の肩にもたれ掛かった。
貞夫は、その後も何か言いたそうだった。しかし、思ったように舌が回らないのか「俺は、俺は、息子が」と繰り返すばかりだ。その後は、何やらブツブツと呟きながら、義姉の祥子に肩を支えられたまま、通用口を出ていった。
貞夫の唐突な登場に静まり返っていた会場は、貞夫の退場を確認すると、何事もなかったように再び喧騒に包まれた。
「やれやれ、とんだ余興が入ったな。会がぶち壊しにならなくて、本当によかったよ」
私は、美香の体を南奈から引き剥がしながら、苦笑する。美香が「よし、飲み直しましょう」と意味もなく、右の拳を振り上げた。
と、矢永がテーブルに近付き、ワインクーラーに入った五合瓶を手に取った。手が瓶の水滴に濡れるのも気にせず、ラベルに顔を近付ける。
「なるほど、原料米に西海一三四号を使った純米酒だな。九州では、知る人ぞ知る酒米だ」
ラベルを見ると、「島原泉」と大きく書かれた墨文字の右上に、「純米酒 生詰め冷やおろし」と書かれた濃紺の文字が確認できる。
「今年の冷やおろしは、旨味があるのに、すっきりとした呑み口が特徴なんです」
南奈が、横から瓶を覗き込みながら出来映えを解説した。
解説を聞く耳も持たず、美香が矢永から瓶を奪い取った。「生詰め冷やおろし」の文字を指でなぞりながら、「本当に美味しいですよね。さすが、海外でも評判になるだけあります」と、嬉しそうな声を上げた。
私が美香の奔放さに呆れていると、美香はいつになく高い声でけらけらと笑った。
これから、出席者たちの取材をしなければいけない事実を、果たして美香は記憶の片隅に留めているのだろうか。美香が失態を晒すのは一向に構わないが、私を巻き添えにするのだけは、勘弁願いたいと心から思う。
そんな先輩の憂慮を知ってか知らずか、美香は瓶を持ち上げる。栓を右手で掴むと、「ふんっ」と鼻を膨らませながら、力を込めて捻じった。今の今まで瓶の中に閉じ込められていた新鮮で華やかな香りが、鼻孔をくすぐった。
「おい、大丈夫か。あんまり飲み過ぎるなよ」と、巻き添えを警戒しながらも、私は美香が差し出す瓶に反射的にグラスを差し出す。美香は「大丈夫ですよ。気にしない、気にしない」と語り掛けながら、再びけらけらと笑った。
「じゃ、私はまたお酒コーナーに戻って、皆さんにお酒を提供してきます」
美香の泥酔ぶりに困惑しながら、南奈が持ち場に戻っていった。
そんなやり取りの直後だった。
あの忌まわしい事件、中浦隆社長と間弁護士が血を吐いて倒れるという事件が起こったのは……。
*
二人が倒れて間もなく、救急車が到着し、救急救命士がすぐに二人の処置を始めた。
他の救急隊員が、会社の関係者に事情を聴いている。やがて、救急隊員からの連絡を受けたのだろう、長崎県警の機動捜査隊員がやって来た。
機動捜査隊員は、救命処置がおこなわれている脇で、会場に残っている出席者たちを手際よく排除し、現場保存ロープを張り巡らせる。一連の動きは、今回の出来事が単なる事故ではなく、事件だと判断された事実を表していた。
救急救命士は、しばらく救急救命処置を続けていたが、効果がなかったらしい。ぐったりとして動かない二人をストレッチャーに乗せ、救急車に運び始める。
救急車には、中浦隆社長のストレッチャーにすがりついたままの秋江と、すっかり酔いが醒めたのか「俺が行く」と名乗り出た中浦貞夫が同乗した。同乗者を確認してドアを閉めると、救急車はサイレンを鳴らしながら会場を後にした。
ほぼ同時に、事務所の一室を使って、会社の関係者からの事情聴取が始まった。
精神的に参っているであろう、社長の母である祥子、妹の樹希、ともに病院に向かった貞夫と秋江、幼い雅彦と真衣は、後日改めて事情を聴く段取りになった。
まず最初は副社長の菊池、もう一人の副社長である佐々木という男性、続いて葉月が聴取を受ける。
そうこうしている間に、雲仙署の制服警察官と刑事、鑑識員、機捜鑑識隊員も駆け付けた。鑑識員は早速、二人が倒れていた床に、白く囲まれた人型の図形を描き出す。
白い図形の無機質さが、犠牲になった人物の無念さを際立たせているように思われた。
会場から押し出された形の出席者たちが、現場保存テープに手を掛けようとする。その度に「下がってください!」と、制服警官から厳しい声が飛んだ。
救急車が到着してから、一時間ほど経った頃だろうか。今度は長崎県警捜査一課の刑事、鑑識員が慌ただしく乗り込んできた。刑事たちは、地元の警察官が「お待しておりました」とうやうやしく敬礼する中、現場を確認する。
以降、鑑識作業は県警の鑑識員と機捜鑑識隊員の合同作業となった。鑑識作業が終わると、恐らく現場検証が始まるのだろう。
県警の刑事によって、まだ話を聞いていなかった出席者たちへの事情聴取が続けられた。今は、南奈が事情聴取を受けている。
私は、締め出された多くの出席者に混じり、美香や矢永とともに会場の前に立ち尽くしていた。さすがの美香も、惨事を前に酔いからすっかり醒めたらしかった。
「さっきまで、二人ともあんなに元気そうだったのに、なぜこんな事態に……」
美香は、誰に問い掛けるでもなく呟くと、辛そうに言葉を詰まらせた。
「今のところ、二人以外に症状は出ていない。しかし、これだけの出席者がいる中での犯行である事実から考えると、不特定多数を狙った犯行なのか」
私は、自分でも驚くほど冷静に呟いた。緊張と興奮のためか、頭はすこぶる冴えており、何が起こったのか理屈の上ではしっかりと理解できている。
――我々の目の前で二人の人物が殺された、しかも毒物で。
しかし、言葉とは裏腹に全く実感が沸いてこないばかりか、体がフワフワしている違和感を消すことができない。私は、現実感が欠如した状態のまま、現場保存テープの向こうをぼうっと眺めていた。
「♯△$%♪&○♯※!」
野次馬と化した出席者による喧騒の中から、不意に野太い声が聞こえた。決して明瞭な発音ではないので、何と言っているのかはっきりしない。
私たちに対する呼び掛けかどうか、定かではなかった。だが、あまりに近くで響いたため、私たち三人は反射的に声の方向を振り向いた。
ややくたびれたグレーのスーツに身を包んだ、体躯のいい男が立っていた。
身長は、一八〇㎝近くはあるだろうか。素人目にも、スーツの下に鍛えられた肉体が隠されている事実が、はっきりと確認できる。
――どこかで見た記憶がある男だ。しかも、ずいぶん昔に。
何の確証もなく、私はぼんやりと考えた。
男は「山際。山際だろう!」と、今度は明瞭な言葉を再び口にした。きょとんとしている美香の横で、記憶の糸を手繰り寄せた私は、思わず「穂高か!」と叫んだ。
「山際。やっぱりそうか。いやあ、懐かしいなあ」
先ほどまで、どちらかというと自信なさげだった男の声が、自信に満ちた声に変わっていた。
「いったい何年ぶりだ。卒業して数年後に一回、会ったきりだから、十年ぶりぐらいか」
「そうだな。ほぼ十年ぶりだ」
私も、穂高に負けないほど興奮気味に応じた。
穂高は「変わらないなあ。元気か」と答えながら、私の両肩を手で掴み、乱暴に揺すった。体育会系に有りがちな暴力的ともいえるスキンシップが、穂高の記憶をさらに鮮明に蘇らせる。
殺人事件の現場には不似合いな、ドラマチックな邂逅と言えるだろう。美香は、唖然とした表情で私たちを見詰めている。状況が呑み込めない状況に耐えられなくなったのか、「山際さん。お知り合いですか」と、遠慮がちに口を開いた。
場違いな行動に気付いた私は、真顔を装い、矢永と美香に男を紹介した。
「こいつは、大学時代のクラスメートで、穂高っていうんだ。仕事は……。今、何をしてるんだ」
私の尻窄みの紹介に、穂高は「見てわからないのか、新聞記者だよ」と、豪快に笑った。矢永と美香に体を向けると、居住まいを正しながら自己紹介をする。
「初めまして。穂高貴之といいます。長崎日日新聞で社会部の記者をしています」と、上着の内ポケットから名刺を出し、私たちに手渡した。
私は、名刺を受け取りながら「会社の後輩の三枝と、今回の仕事をお願いしている矢永さんだ」と、穂高に紹介した。穂高は、二人に軽くお辞儀をした。
「ところで山際。お前こそ、何でこんなところにいるんだ」
穂高が、不思議そうな表情で私に顔を近付けた。私は、名刺を渡しながら、自分たちの立場を手短に説明した。矢永と美香は東京の出版社の編集者で、酒造りの取材のためにこの地を訪れていた事、私はカメラマンとして帯同していた事、そして、取材中に事件が起こった事……。
「なるほど、そういう事か。それにしても、まさかこんな場所で会うとはな」
穂高は呟きながら、名刺を今一度、しげしげと眺めた。
「で、穂高。お前は、事件の取材か」
「ああ、実は長崎県警刑事課の捜査一課担当でな。事件が起こる場所に夜討ち朝駆けってわけだ」
捜査一課担当といえば、社会部の花形ポストだ。穂高の話を聞きながら、思い出した。
「そういえば、長崎県出身だと言っていたな。中学の時には、雲仙普賢岳の噴煙が諫早市内からも見えたと言ってたっけ」
火山の噴火を目の当たりにした経験のない私は、穂高の話に新鮮な驚きを覚えた記憶がある。
私たちが十数年ぶりの再会を懐かしんでいると、矢永が話題を事件に戻した。
「病院に運ばれた二人は、どうなったのかな」
瞬間、今まで緩んでいた穂高の表情が、現役の新聞記者らしい厳しい顔に変わった。
「二人とも病院に到着後、正式に死亡が確認されたと、先ほど病院から連絡があったようです」
穂高は、苦渋に満ちた表情をしながらも、感情を押し殺した口調で「つまり、今回の案件は殺人事件です」と口にした。
穂高の口を突いて出た最悪の言葉に、私と美香は息を呑んだ。
矢永は、ふうと小さく息を吐くと、鋭い目で穂高を見詰めた。
「死因は? やはり毒殺か」
穂高は、矢永の鋭い目に捉えられながらも、怯む様子を全く見せない。さすがは現役の新聞記者だ。
「特定までは少々時間が掛かりますが、警察は、二人が組合長と談笑している最中に突然、倒れたという状況から見て、毒殺と考えているようです。しかし、毒の混入経路は、まだ不明です。不特定多数を狙った犯行か、死亡した二人、もしくはどちらかを狙った犯行か、という判断も、まだできていないらしいですね」
私が、かねてから温めていた自説を披露した。
「あれだけの人がいたんだ。酒や食事に毒を入れたんだとしたら、二人だけを狙うなんて不可能だろう。不特定多数を狙ったんじゃないのか? ズバリ、犯人は突撃取材を予告していたというユーチューバーだ」
私の言葉に反応して、穂高が眉間に皺を寄せた。私の描いた犯人像に、共感せずにはいられなかったに違いない。
「いや、その話なんだが……。社員からの証言もあり、警察がすでにそのユーチューバーと連絡を取ったそうだ」
「随分と早い対応だな。それで、結果は?」
私は、思わず唾を飲み、続きを促す。
「ああ、その男は先日、動画撮影の最中に足の骨を折って、この会には参加していなかったという話だ。今は、東京の病院に入院中らしい」
私の推論は、秒速で否定された。思わぬ肩透かしに、私はだらしのないユーチューバーを呪った。
「矮小な己の常識に必要以上に拘泥していると、本質を見失う。山際、君は一度黙って、頭を冷やしたほうがいいのではないか」
横から矢永が、何とも失礼な表現を用いて、泉のように湧き出る私の推理を全否定した。
続けて、独り言のように小さな声で「生贄か、それとも見せしめか」と呟いた。穂高が「え?」と不思議そうな顔をした。
矢永は、穂高を真正面に見据え、自ら発した言葉の意味について解説する。
「犯人の狙いは、少なくとも不特定多数の殺害ではないだろう。混入経路は不明、との話だが、不特定多数を狙ったのなら、あれだけ多くの人が飲食している状況で、毒を摂取した人物が二人だけである事実は不自然だ。もし私が不特定多数を狙う犯人なら、犠牲者が二人だけに終わる混入方法ではなく、もっと効率よく多数を狙える混入方法を選ぶ」
どうやら、矢永は「二人、もしくはどちらかを狙った犯行である可能性が高い」と主張したいらしい。
「ただ、二人、或いはどちらかを狙った犯行だとしても、殺害するだけが目的なら、今回のように不特定多数が集まる場を選ぶ方法はいかがなものか。目撃者がいない場所で、もっと確実な方法を選んだほうが、成功率が高くなるのは明白だ」
矢永は、人の心を観察するような鋭い目で穂高の顔を睨むと、にやりと笑った。さすがの穂高も、続いて放たれるであろう矢永の二の矢に対して、表情をやや硬くして身構えた。
「犯人が、目撃者のいる場所を選んだのは、殺人を人々にアピールする目的があったに違いない。考えられる目的は、生贄、或いは見せしめだ」
穂高は、矢永の話を一通り聞くと、柔らかい物腰で肯定した。
「一つの可能性としては、考えられますね」
お披露目会の一出席者に過ぎない矢永の、分を弁えない尊大な口調にも嫌な顔一つしないとは、なかなか立派な大人の対応だ。穂高の寛大さを、矢永にも少し分けてやりたい気持ちになる。
その時、茶色いコートを羽織った男性が、「先輩、お話しのところ申し訳ありません!」と、現場の方角から走ってくる光景が見えた。どうやら、穂高の後輩らしい。
穂高は、声が聞こえた方角に顔を向けると、大声を張り上げて返事をした。
「何だ。何か新しい話が聞けたのか」
後輩は、私たちに気付いたのか、言い難そうにしている。
それを見た穂高は、「じゃあ、積もる話は、また改めてな」と言いながら、私の肩を叩いた。そのまま後輩の方向に足を踏み出すと、現場の方角へ消えていった。
*
事情聴取は、私たち三人に対してもおこなわれた。しかし、知っている情報の絶対量は、他の関係者よりも明らかに少ない。捜査協力と称してデジタルカメラの画像データを提供した後、警察のやや高飛車な口調の質問に冷静を装って答えると、すぐに解放された。
事情聴取から戻った今、私たちは、南奈とともに広報室にいる。
私と美香は、南奈と向かい合ってソファに腰掛けている。一方の矢永は一人、パソコンが置かれた机の前の事務用椅子にどかりと座り込んでいた。
事情聴取が終わり、緊張が解けたせいだろうか。今までの出来事がまるで夢だったかのような、不思議な感覚に囚われた。同時に、ソファの上でどっと押し寄せてくる疲労感を感じていた。隣に座っている美香を見ると、やはり多少疲れて見える。恐らく、美香も私と同じ心情なのだ。
南奈は、特に疲れている様子だった。きっと、私たちよりも随分としつこく事情を聞かれたのだろう。
周囲の人々の疲労に忖度することなく、矢永が問う。
「犯人が社長と間弁護士を狙って殺害したのだとしたら、殺害の動機は何だ? 社長と間弁護士には、何か共通点があるのか」
私は、はっと気付き、脳内で手掛かりを必死に検索した。
「社長は中浦家の財産の持ち主で、間弁護士は中浦家の財産を管理している人だった。共通点は、財産か。二人に近しい人間で、財産の問題で恨みを持っている者は?」
鉛のように重く感じられる体を無理矢理起こすと、南奈の顔を覗き込んだ。南奈は、私の言葉が耳に入りそうにないほどに疲労困憊の様子で、ソファにもたれ掛かったまま身動き一つしない。
「山際さん、事件が起こったばかりの今、南奈に対してその質問は可哀想です。私たちだけで話しましょう」
美香が珍しく、少々きつい口調で私を嗜めた。
今回ばかりは、美香の言葉ももっともかもしれない。私は「そうだな」と南奈に謝った。南奈は、視線だけを私に移して力なく笑った。
その後、事情聴取は夜半まで交代で行われた。一日目の現場検証を終えた警察が、現場に張り番の警察官を残して引き上げた時には、夜中の十二時を回っていた。
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