第6話 宴

第三章


二〇一六年九月二十日


 事件後、捜査本部が立ち上げられると、翌日からは、社員を中心とする関係者を一人ずつ捜査本部に呼びつけるという、本格的な事情聴取が始まった。一人につき最低八時間、刑事と顔を突き合わせながら、微に入り細にわたる質問に答える過酷な内容である。

 社員たちの心労に思いを馳せるにつけ、心が痛んだ。


         *


 事件の後、何も進展がないまま、二日が過ぎた。その間、私たちの取材も止まったままである。本来なら昨日、東京に帰るはずだった私たち三人は、取材を切り上げて帰るタイミングを逸したまま、逗留を続けていた。

 前にも後ろにも進むことができない膠着状態の中で、悶々とした時間を過ごしていると、私のスマートフォンが突然鳴った。

 着信画面に目を遣る。南奈からだった。

 南奈も、恐らく昨日の事件の衝撃と疲労に打ちのめされているに違いない。ひょっとすると、私を精神的な支えとするために、電話を掛けてきたのかもしれない。

 私は、南奈を心底気の毒に思いながら、受話器マークにタッチして電話に出る。

「もしもし、山際ですが」と挨拶すると、南奈は「こんにちは」と、思ったよりも明るい声で挨拶を返してきた。

「実は、ちょっとご相談があるんです。皆さんのご都合がよければ、今晩、ご一緒にお食事でもいかがですか」

「食事……ですか?」

 困惑する私の言葉を聞き流し、南奈は続けた。

「せっかく取材に来ていただいたのに、こんな事件に巻き込んでしまって申し訳ないなって、ずっと考えてたんです。で、葉月に相談したら、お食事にご招待しようって話になりまして。久しぶりに会った美香とは、積もる話もありますし……。いかがですか?」

 どうやら、悲惨な事件によって心身が疲れ果てている状態であるにも拘らず、私たちの存在を気に掛けていたらしい。

「でも、あんな事件の直後だから、結城さんも疲れているだろう。無理しなくていいよ」

 私が遠慮しながら答える横で、矢永が「それは有り難い」と、聞こえよがしに大声で喚いた。矢永の声に反応し、南奈はことさら明るい声で答えた。

「わかりました。じゃあ、午後六時前頃に、旅館に伺いますね」


         *


 南奈が、タクシーで私たち三人を迎えに来たのは、約束の夕方六時を過ぎた頃だった。葉月は同乗していなかった。

 私は「郷田さんが乗っていないね。都合が悪くなったのかな」と何気なく尋ねる。

 別に、ことさら残念に思ったわけではない。にも拘らず、南奈はフフッと微かに笑い、「ご心配なく、葉月は、現地集合です」と妙に勿体ぶった口ぶりで答えた。

「ちょっと遠いんですが、せっかくですから美味しい料理を食べていただきたくて、お勧めの料理屋を予約しておきました」

 南奈の言葉に、食に対する欲望が目覚め始めた。南奈の手回しのよさに感謝しながら、私は他の二人と共に車に乗り込んだ。

「どんな店なの?」

 美香が、過度な期待を露骨に表しながら、南奈に尋ねる。

「新鮮な魚介類にうるさい地元の人の間ではちょっと有名な、魚料理が美味しいお店なんだ。知る人ぞ知る店」

 南奈が、後部座席を振り返りながら、明るく答えた。

 三日前、駅から来る時に走った九十九折れの山道を来た時とは逆に十数分ほど走ると、山の裾野から海に向かって広がる平地に出る。山を後ろに見ながら更に五分ほど走り、車は幹線道路沿いの小ぢんまりとした料理屋の前で止まった。

 南奈の「ここです」という声を合図に、私たち三人は窓越しに店を観察した。

 小さな二棟のビルに挟まれ、他の建物よりも数mほど奥まった場所に、ちょこんと遠慮がちに建っている。看板も、小学生が図工の時間にこしらえたのではないかと思われるほど完成度が低く、小さい。

 よほど注意していなければ、百人のうち九十七~八人は、料理屋である事実に気付かずに通り過ぎるだろう。

 しかし一旦、車を降りるとはっきりとわかる。建物の横にある換気扇のダクトから、いかにも食欲をそそりそうな匂いが、これでもかと漏れている。魚介類の香ばしい香りに刺激された私の食欲中枢は、もはや抗うことはできない。否が応にも、臨戦態勢に入ってしまう。

「予約しておかないと、この時間でもなかなか入れないんですよ。何せ、知る人ぞ知る人気店ですから」

 暖簾をくぐり、先にある引き戸に手を掛けながら、南奈が言った。

 私は、すぐ横にある小さな窓から、何気なく店内に視線を遣る。まだ夕方だが、あらかた席が埋まっている光景が見て取れた。確かに、南奈が繰り返す「知る人ぞ知る店」という表現は、嘘ではないようだった。

 入り口を入ると、店員の「いらっしゃいませ」という威勢のいい声とともに、店内の喧騒が一気に押し寄せてきた。

 それほど広いわけではない。十席ほどのカウンターと、通路を挟んで反対側に、同じく十席ほどのテーブル席。通路の奥には、狭い座敷席らしき空間がある。

 と、座敷の入り口付近に、一人の女性がこちら向きに顔を覗かせているのが見えた。

 葉月だった。

 私たち一同は、葉月が挙げる左手に招かれるまま座敷に上がり、席に着いた。

「取り敢えず、生ビールでいいですね」

 南奈は全員に確認すると、メニューから数点の肴を躊躇することなく選び、「これとこれとこれを、三人前ずつ」と手際よく注文した。

「この時季は、クツゾコって呼ばれるシタビラメや多比良ガネっていうガザミが、特にお勧めなんです。冬だったら、ガンバって呼ばれてるトラフグも美味しいんですが、残念ながら、今の季節はないんですよねえ」

 南奈のグルメレポートを聞き流しながら、私は向かいに座っている葉月の姿をしげしげと観察する。

 落ち着いた白いワンピースに身を包み、解いた黒髪を背中まで垂らしている。作業着に身を包んでいる昼間の葉月とはまるで別人のような、大人の色気を漂わせていた。

「私まで来てしまって、すみません。南奈と三枝さんの同窓会だとしても、取材関係のお食事会だとしても、私は部外者ですよね」

 葉月は申し訳なさそうに口にすると、小さく頭を下げた。

「いえ、全然構わないんですよ。むしろ、気を遣っていただいて、こちらが申し訳ないぐらいです」

 私は、熱々のお絞りで手と顔を拭きながら答えた。

 葉月の言葉には、私の周囲にいる薄っぺらい人間が駆使する言葉とは、明らかに質の異なる、正直さ故の重みがある。私は、既にその事実を見抜いている。

 つまり、葉月は全く邪魔ではないし、帰らなくてもよい。

「親父臭いから、顔を拭くのを止めてください」

 美香が、私のお絞りの端を引っ張った。私は、自身のプライベート空間を故意に侵す無神経な後輩の手を優しく払い除けると、これ見よがしに首の下を拭いた。

 そうこうしているうちに、人数分の生ビールが運ばれてきた。南奈は、生ビールがなみなみと注がれたジョッキを高々と掲げ、「今日は、事件の話はなしということで、楽しみましょう。カンパーイ!」と、元気よく音頭を取った。

 そのまま、向かいの席に座った美香とも軽くジョッキを合わせる。「美香との久々の出会いも祝って」と小さな声で呟き、目を細めて微笑んだ。

「いやあ。やはりビールは、誰が何と言おうと最高だ。生き返った気分だよ」

 私は、気化したアルコールとともに、一日を締め括る悦楽の言葉を口から吐き出した。


         *


 酒宴の始まりから二十分ほどが過ぎ、全員がほどよく酔い始めていた頃だった。生ビールのジョッキをテーブルの上に置いた矢永が、南奈の顔を正面に見ながら尋ねた。

「結城君と郷田君は随分と親しそうだが、いつ頃からの知り合いなのかな。ひょっとして、幼馴染かな」

 普段は、他人の個人的な情報に爪の先ほども興味を示さない矢永にしては、珍しい状況だ。

「わかります? 実は私と葉月は、小学校からの幼馴染なんです」

 口から離したジョッキをテーブルの上に置きながら、南奈が答えた。

「中浦酒造の中浦樹希と、樹希の彼氏の秦司(しんじ)も。秦司――辻君は、初日に車の中でちょっとお話した、郷土資料館の学芸員なんです。町役場に勤めているんですが、歴史に詳しいところを買われて、ずっと資料館勤務なんですよ」

 以前から、社長の妹である樹希を南奈が呼び捨てにしている事実が気になっていた。その理由は、樹希と南奈が幼馴染だったからだと、私はこの時になって初めて気付いた。

「そういえば、お披露目会の時に中浦貞夫氏が『辻は中浦の財産を狙っている』と言っていたな。あの時の辻という人物が、君たちの幼馴染の辻君ということか。そして、貞夫氏の言葉は、辻君と樹希君が付き合っているという意味だったのだな」

 矢永の言葉に、南奈は大きく頷いた。

「そういう事です! もちろん、秦司が財産目当てで樹希と付き合ってるなんてのは、嘘っぱちですけどね」

 いい具合に酒が回ってきたのだろう。南奈は、時間を経るごとに饒舌になる。

「自分で言うのも何ですけど、私たち四人って、本当に仲良しだったんですよ。小学校の頃は、いつも四人一緒で。私と樹希は高校で離れたんですけど、葉月は昔から秦司に憧れていて、一緒の高校に進学したんです。それどころか、秦司を追い掛けるあまり、一浪までして同じ関西のK大学に行ったんですよ。でも、結局、樹希に取られちゃって、今は傷心なんです」

 南奈はまたもや、アハハと甲高い笑い声を上げながら、葉月の首にしがみ付いた。

「馬鹿を言わないでよ。大学が一緒だったのは、たまたまよ。それに、樹希と秦司は、中学の頃からお似合いのカップルだったし」

 葉月が、南奈を睨んだ。残念ながら今の南奈は、葉月の遠慮がちな抗議に気付くほど、お人好しではなかった。

 それにしても、K大学は関西ではかなり名の知られた、いわゆる高偏差値の難関大学だ。私は、顔には出さないまでも、二人の身の上話を興味深く聞いていた。

 美香は美香で、両手を胸の前で握り締めたまま、目を輝かせながら興味津々の表情で南奈に尋ねる。

「樹希さんと辻君は、まだ結婚はしないの?」

 と、それまで無邪気に葉月とじゃれ合っていた南奈が、急に真顔になった。

「樹希と秦司の結婚は、まだ正式には決まってないんだ。今まで、ちょっとした事情があって……。家の事情ってやつ。中浦酒造はいわゆる田舎の旧家だからさ、いろいろあるんだよ」

 美香が「そうなんだ」と小さく口にし、少々気まずそうな顔をした。

 ひょっとすると、美香は地雷を踏んだのか。同じ内容の質問をしようとしていた私は、ほっと胸を撫で下ろした。

 気まずさに耐え切れないのか、口をつぐんだまま、ジョッキをぐいと飲み干す美香を見て、南奈は慌てた様子で付け加えた。

「そんなに、大した事情じゃないのよ。大した事情じゃないって表現すると、樹希と秦司に悪いんだけど。実は、お父様である会長は、樹希と秦司の結婚にずっと反対していらしたの。だから、結婚の話は未だに具体的になってないんだ」

 造り酒屋の娘と公務員。一見、世間から後ろ指を指される事情は、特になさそうな組み合わせに思える。私は、僅かな手掛かりで、理由を推測する。

 中浦家は地元の名家、一方の辻家はよく知らないが、きっと庶民的な家柄なのだろう。身分が違い過ぎる恋には、何かと邪魔が入ると、昔から相場が決まっている。或いは、辻家は中浦家と敵対する関係の家柄なのかもしれない。さしずめ、東洋の現代版『ロミオとジュリエット』か。

「会長は、なぜ反対していたのかな」

 今度は矢永が、南奈に尋ねた。答えを見付けあぐねるように首を傾げていた南奈が、おもむろに口を開く。

「理由は、よくわからないんです。でも会長は以前、正体がよくわからない占い師の占いに心酔していた時期があって、占いの結果と関係があったのかもしれません」

「占いの結果なんかで、自分の娘の結婚を反対するのかい。それは、樹希さんでなくても納得できないよなあ」

 私は、樹希の身の上に、深い同情を覚えた。

 そもそも占いとは、異なる二つの現象の間に相関関係があるという、不確定な前提を基に成り立つ、端から破綻した宗教的行為だ。破綻している事実が明らかな宗教的かつ商業的行為を根拠として、親に自分の運命を決められていては、堪ったものではない。

 南奈は、私の占いに対する批判的考察を理解してか、深く頷いた。

「普段はとても仲のいい樹希と会長なんですが、結婚に関しては、いつも衝突していたんです。会長のお部屋で、二人が口論する事件もあったんですよ。確か、今年の七月でした。ねえ、葉月」

 葉月は、南奈に促されるまま、「そうね」と、何かが喉につかえたように中途半端な返事をした。

「口論の結果は、どうだったんだい。お父さんである会長は、樹希さんの気持ちをわかってくれたのかな」

 私の質問に、南奈は残念そうに首を振った。

「口論の後、樹希は会長の部屋を飛び出すと、部屋に籠って、ずっと泣いていたみたいです。あの時は、本当に樹希が可哀想だった。あの子は、超が付くぐらい純粋で一途だから」

 南奈がしんみりと呟き、葉月も首を縦に軽く振って肯定した。私も、南奈の言葉に納得する。

 樹希は、中浦家という閉ざされた世界で純粋培養され、外界の汚染物質を知らずに成長したお嬢様だ。抵抗力を持たない心と体に、父親の理不尽な反対意見は、さぞかし応えたことだろう。

 一瞬の間が空いた。

 今まで気にならなかった隣席の喧騒が、一気に音量を上げ、耳に飛び込んできた。美香が、隣席の喧騒を掻き消すように、不思議そうな表情で、南奈に尋ねた。

「会長が亡くなられて、結婚に反対する人はいなくなったんだよね? お母様も反対されてるの?」

「今の樹希のお母様、祥子さんは実は後妻なの。高校一年生の次男、雅彦君と、小学生の次女、真衣ちゃんの実のお母様が祥子さん。で、長男である社長と、長女の樹希のお母様は、二十年ほど前に亡くなられた清子(きよこ)さんっていう方なんだ」

 南奈は、お絞りを折り畳みながら、ほんの少し声のトーンを下げて、中浦家の人間関係を一から解説する。頬がほんのり、桜色に染まっている。

 横で聞いていた葉月は、「二十年前なんて、よくはっきり覚えてるわね」と、半ば呆れながら感心した。

「なかなか複雑な家庭環境なんだな。まあ、家庭の人間関係の複雑さが、必ずしもマイナスになるとは限らないけどね」

 私は、南奈の言葉に相槌を打った。南奈は、私の顔を一瞥すると、小さいながらもよく通る声で続けた。

「今のお母様の祥子さんは、後妻っていう遠慮もあってか性格なのか、上の二人、社長と樹希に対しては、あまりご自分の意見を言われなかったらしいの。だから、会長が生きていらした時に比べると、二人の結婚はぐっと実現に近づいたと思ってたんですよね。こんな事件がなければ……」

 言葉を途中で切ると、南奈は右手を勢いよく上げる。喧騒に負けないほどのよく通る声で「生、一つ下さい!」と店員に叫んだ。そのまま、テーブルに置いた右手に体重を懸けながら立ち上がる。

「おいおい、大丈夫かい。随分、足元がふら付いてるように見えるよ」

 南奈は私の心配をよそに、「ちょっとトイレ」と言い残すと、ふらふらと店の奥に消えていった。

「すみません。あの子、ちょっと余計な話を喋り過ぎる癖があるんです。特にお酒が入ると、羽目を外す場合があるから、いつも注意してるんですが」

 葉月は、南奈の後ろ姿を心配そうに見送りながら、しきりに恐縮した。友人を思い遣りながらも、客人に対して気配りを忘れない葉月の心優しさに、私は身悶えするほどの感動を覚える。

「郷田さんは、とても友人思いですね。まるで、結城さんのお姉さんかお母さんみたいですよ」

 私の周囲に、葉月のような人間が一人でもいれば、私の人生はもう少し違う形になっていたに違いない。私は、何食わぬ顔で横に並んで座っている二人の横顔を交互に眺めながら、絶望的な気分になった。

「郷田さん、私が言うのも何だけど、南奈の行動は、気にしなくていいですよ。昔から、ああなんです。素直で、わかりやすくて、裏表がないっていうか。落ち込んでも、次の日にはケロッとして立ち直ってるし。心配してるこっちが馬鹿馬鹿しく思えちゃう時もあるぐらいなんです」

 美香が、笑いながら無責任な発言をする。続けて矢永が、美香の見解を無批判に肯定した。

「三枝君の言葉の通りだ。おかげで、結城君からは非常に興味深い話が聞けた」

 葉月が、頭を軽く下げながら、苦笑いした。葉月の様子を見た美香は、振り返ってトイレの方向を確認すると、南奈の話題を持ち出した。

「でも、南奈や郷田さんたちが樹希さんと幼馴染なら、社長は南奈にとって、幼馴染のお兄さんってわけですよね。でも、南奈は亡くなられた社長さんを、あまりよく思っていなかった気がするんです。私の思い違いかもしれないんですけど、本当はどうなんでしょうか」

 私も、かねがね同じ疑問をもっていた。

 葉月は、テーブルの上に視線を落として考え込んだ。

「南奈も、社長自身が嫌いではなかったと思うんです。ただ、社長による運営方針の転換が性急過ぎる事実に、納得できなかったみたいで」

 言葉を選びながら、美香の質問にゆっくりと答える。いかにも葉月らしい思慮深い反応だ。

「納得できていない気持ちは、何となくわかるんです。でも……」

 美香の言葉の途中で、葉月が何かに気付いた表情をした。

「まさか、南奈を疑って……」

「いえ、そういうわけじゃないんです。ただ、純粋にどうしてかなって思っただけで……」

 美香が慌てて否定した。

 葉月は両手をテーブルの上に置いたまま、目の前のジョッキをじっと見詰めて考え込む。まるで、ジョッキの中に答えが浮かんでいるかのようだった。

「南奈は、あの通りの竹を割ったような性格ですから、きっと納得できない気持ちが人一倍、はっきりと表に出てしまうんだと思います」

 矢永が、相手の心の中を探る、鋭い目つきで葉月に問う。

「君はどうなのかな。性急な方針転換とやらに、納得していたのかな。それとも、納得していなかったのかな」

 葉月は「私は、彼女ほどこだわってはいませんでしたけど」と小さく答えると、困ったように微かに目を伏せた。

 私は、葉月を矢永という悪の手から救い出すために、話題を変えた。

「ところで、郷田さんはK大学でしたよね。いったい、何を専攻していたんですか。やっぱり、お酒と関係がある分野だったんでしょうか」

 葉月は、私の顔を見ると表情を緩めた。

「農学部で、醸造を専攻していました。小さい頃から樹希の家で酒造りを見てたせいか、醸造に興味があって、『卒業したら、中浦酒造で働ければいいなあ』みたいな安易な考えで農学部に入ったんです。父が、中浦酒造で働いていた関係もありましたし」

「辻君も、郷田さんと同じ醸造関係の学科だったんですか?」

「秦司は昔から歴史が好きだったので、文学部で考古学を専攻していました。主に室町時代から江戸時代初期に掛けてが専門です」

 私は、置いていたジョッキに再び手を掛け、一口ゆっくり飲む。葉月の顔を見詰めて問い掛けた。

「それにしても、郷田さんも辻君も、本当に勿体ないですよね。K大学といえば、関西では、知らない人のいない一流大学。しかも、私たちが就職した二〇〇〇年前後よりは、大卒者の就職率も格段に改善していたはずです。もっと大手のメーカーなり省庁なりからも、引く手数多だったでしょう」

 葉月は、学歴を称賛した言葉に対してだろう、「有り難うございます」と礼を述べた。

「実は、大手の酒造メーカーも考えたんです。でも、うちは父親だけの一人親の家庭でしたので、父の老後を考えて、最終的に家から通える中浦酒造に就職したんです」

 私は、思わず感涙に咽びそうになった。こんなにも親孝行の娘が、今時いるだろうか。

「郷田君は、お父様と一緒に住んでいるのかな」

 矢永が、またもや葉月の深い部分に切り込んだ。

「歳が離れた親ですから、数年前から介護が必要な体になりました。認知症も発症した関係で、今は街の特別養護老人ホームに入っています」

 私は、辻についても尋ねてみる。

「辻君も郷田さんと同じく、卒業後に真っ直ぐこの地に戻って来たんですよね。辻君も大企業への就職には、興味がなかったんですか」

 葉月は、嫌な顔一つせず、真剣な眼差しで取材に応じる。

「秦司のお母さんは、いわゆるシングルマザーなんです。だから、やっぱりお母さんを一人にはしておけない、って考えたみたいです」

 美香が腕組みをしながら、しみじみと相槌を打った。

「そうなんだ。皆、いろいろと大変な事情を抱えてるんだね」

 葉月は、メニューが貼られている壁の方向に顔を向け、遠くを見る表情でぽつりと独り言のように呟く。

「私たちみたいに田舎に生まれ育った者は、きっとその土地に縛られて、決められた運命を受け入れながら生きるしかないんですよね」

 ほんのりと酒の香りを漂わせた葉月の艶めく唇から発せられる、全てを諦めたかのような、表情をもたない冷めた言葉……。

 私は、思考の焦点が定まらない、酒特有の浮遊感を脳の内部に感じながら、旅館の窓から見える景色を思い出した。

 ――きっと、葉月だけではないのだろう。

 人間たちを冷たく拒否するほど険しい山々の隙間に、へばり付くように広がる偏狭な土地。人々はこの地で、目に見えない力に縛り付けられながら、かつ縛り付けられている閉塞感に気付かないふりをしながら、代々つつましく暮らしてきた。

 申し訳程度の土地に簡素な家を建て、決して広いとは言えない畑を耕し、質素な飯を食らう営みが、生きていくうえでの全てだったのだろう。

 都会人には決して理解できない営みをよしとする遺伝子が、この地に住む人々の体の中には、今も息付いている……。

 私は葉月に対して、羨ましいとも気の毒とも表現できる、自分でも整理し切れないもやもやとした感情を抱く。そのままジョッキを乱暴に手に取ると、温くなって炭酸が抜け切ったビールを、ぐいと勢いよく飲み干した。

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