第7話 資料館訪問
第四章
二〇一六年九月二十一日
午前九時過ぎ、私たち三人に南奈を加えた四人は、中浦酒造から車で五分ほどの山麓に建つ、郷土資料館の前にいた。
なぜ、郷土資料館を訪れることになったのか。
事件以来、資料館を訪れる予定が延び延びになっていたという事ももちろんある。
しかし、それだけではない。
学芸員である辻が樹希の婚約者であるなら、中浦家の人々には聞きにくい、事件に関するさまざまな話を聞けるかもしれない。そう考えたからだった。
誰もが暗黙のうちに、同じように考えていたのだろう。反論する者はいなかった。
車から降りた私たちは、玄関の前で建物を見上げる。
恐らく、完成してまだ数年と経っていない。決して大きくはないが、板張り風にデザインされた真新しい白壁が美しい、平屋建ての洋館風建築である。
「じゃあ、行きましょうか」と促す南奈の声で、私たちは入り口の自動ドアを通り、中に入った。受け付けに座っていた女性に軽く会釈をして、展示室に足を踏み入れる。
室内はやや暗いものの、思ったよりも天井が高い。広々とした印象だ。壁一面に備え付けられたガラスケースの中に、キリスト教関係の資料や、地元の祭りに関する資料、産業に関する解説パネル等が展示されている。
建物内は、簡単な仕切りで幾つかの部屋に仕切られているらしい。奥の部屋にも、よく似た展示物が並べられている様子が見受けられた。
南奈は、受け付けの女性と何やら話し込んでいる。辻への取次ぎを依頼しているのだろう。
話がついたのか、南奈は受け付けデスクの女性に頭を下げた。そのまま踵を返すと、私たちに歩み寄る。
「辻君は奥の収蔵室にいました。受け付けの人に連絡してもらったら、すぐに来てくれるそうです」
南奈が私たちに説明し終わる前に、すぐ横の通用扉が開き、一人の若者が姿を現した。辻秦司だった。
さらりとした質感のナチュラルなショートヘアも爽やかな、真面目そうな若者である。背丈は私と同じくらいか。一七〇㎝ちょっとのスリムな体に、ラフな薄いグレーのジャケットを着込んでいる。
やや細めのジーンズが似合う、スラリと伸びた足が何とも羨ましい。
「秦司、こちらが昨日、電話で話した東京の出版社の方々。歴史にご興味があるそうなので、中浦酒造の取材の合間にご案内したの」
南奈は、私たちを掌で指し示しながら、辻に向かって紹介した。
「初めまして、当館で学芸員をしております辻と申します。取材のお役に立つかどうかわかりませんが、どうぞご覧になってください。もしご質問などがありましたら、遠慮なくお尋ねください」
作為のない自然な笑顔を浮かべながら、辻は深々と頭を下げた。
突然の訪問にも拘らず、迷惑そうな素振りは一切見せない。ひょっとしたら、この地の歴史にことさら興味をもつ謎の三人組に対して、感謝に近い感情をもっているのかもしれない。
「皆さんには、樹希の恋人だって伝えてあるから」
南奈が悪戯っぽく笑うと、辻は困ったように頭を掻く。恥ずかしそうに笑いながら、私たち二人に名刺を手渡した。私は名刺を受け取りながら、突然の訪問を謝罪する。
「大変な事件の直後に、こうして大勢で押し掛けて、申し訳ありません」
私の言葉を受け取った辻は「いえ、仕事と事件は別問題ですから」と、明るく笑った。
私と美香が名刺交換をしている間にも、矢永はエントランス横に飾られている史跡地図を見上げている。地図の一点を凝視すると、早速、辻に質問を浴びせた。
「この資料館の裏山の中腹にある『種子神社』という神社は、しゅし神社と読むのかな」
辻は、質問者である矢永に歩み寄る。名刺を差し出すと、笑顔を浮かべたまま即答した。
「いいえ、たねこ神社です。変わった名前ですよね。外から来た人は、たいてい読めないんですよ」
南奈ほどではないが、はきはきとした語り口には好感がもてる。
「青刈(あおかり)地区に種子神社……。この地域は、農業に因んだ名前が多いのかな」
矢永は、地図から目を離さず、辻に次々と疑問をぶつける。初対面でいきなり質問攻めもないだろうと思いつつ、私も釣られて地図に目を遣った。
「確かに、変わった名前だね。古くからある地名なのかな。それとも、比較的新しい時代に、行政主導で付けられた地名かな」
「青刈や種子神社が、農業と関係あるのかどうかはよくわかりませんが、江戸時代にはすでにあったと伝えられています」
誠意を込めた丁寧な語り口に、辻に対する私の好感度はさらにアップする。
「それにしても、こうして改めて見ると、本当にキリシタン関係の史跡が多いね」
私が感心して呟く。
「この地区は、江戸時代を通じて隠れキリシタンが多かったですからね」
辻は即答した。
矢永は辻の言葉を受けて振り向き、辻の顔を正面から真っ直ぐに凝視した。
「そうらしいね。キリスト教と関係が深い土地である事実は、結城君から聞いた」
辻は、矢永の視線に動じる様子もない。恐らく、自分が生まれ育った土地の歴史を知ってもらいたい欲求が、そうさせるのだろう。
「奥の収蔵室には、展示されていないキリシタンや隠れキリシタン関係の資料が結構あるんです。十年ほど前に種子神社が火事で焼けたとき、焼け跡から見つかったキリシタン版の焼け残りなんて、ちょっと珍しい資料もあるんですよ」
私と美香は、聞き慣れない言葉に同時に反応して、顔を見合わせた。
「キリシタン版? 何ですか、それ」
美香が、辻に向かって身を乗り出した。質問の対象者ではないはずの矢永が、いつものように過剰な知識を披露する。
「キリシタン版とは、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて、日本人に対するキリスト教布教のために、日本国内で印刷された印刷物だ。かな・漢字表記の本と、ローマ字表記の本があり、東洋で初めて、西洋式活版印刷技術を用いた印刷物としても知られている」
印刷術が発明された場所は、確か古代中国だった。中国の印刷物は、遅くとも奈良時代には日本に伝わっていたはずだ。現存する資料としては世界最古の奈良時代の印刷物「百万塔陀羅尼」を以前、奈良の法隆寺で見た記憶がある。
つまり、後に中国からヨーロッパに伝わって独自の発展を遂げた活版印刷術が、別ルートで中世の日本に伝わったという話か。
「キリスト教の教義や辞書、イソップ物語など、キリシタン版の内容は実に多彩で、なかには平家物語をローマ字で記した本もある。現存する数は非常に少ないが、当時の布教の様子や日本語の発音などを研究するために欠かせない、貴重な資料となっている」
美香は、それでもまだピンと来ていないらしい。小首を傾げながら、矢永の話を無表情で聞いている。
「キリシタン版の平家物語は、高校の日本史の教科書などにも載っていた。山際、君も見た経験があるだろう」
急に、私に振られた。
言われると、見た気がしないでもない。私は頭の中で日本史の教科書のページを捲ってみたが、それらしい写真を見つけられず、考えるのを止めた。
私たちの会話を聞いていた辻が、すかさず地元ならではの情報を公開した。
「種子神社から見つかったキリシタン版は、現存する最も古い種類の一つで、この地区からそう遠くない半島の南部、加津佐という地区にあった『コレジオ』で印刷された本です」
――コレジオ?
カレッジと語感が似ているが、学校のような存在か。知っている体を装うか、それとなく聞いてみるか。
「コレジオって、どんな組織だったんですか。教会とは違うんですか」
私の判断よりも早く、美香が口を開いた。
「簡単に言えば、キリスト教の聖職者育成のための教育機関だ。キリスト教の教義はもちろん、ラテン語や音楽、一般教養など、幅広い授業がおこなわれていたらしい」
矢永が、まず答えた。矢永の目を見ながらタイミングを計り、辻が言葉を引き継ぐ。
「コレジオが加津佐にあった時期は、一五九〇年から翌年にかけての僅か一年間で、すぐに熊本の天草地方に移転しました。種子神社にキリシタン版があった理由には、加津佐から近いという地理的条件が関係していたのかもしれませんね」
「加津佐といえば、コレジオがあった事実でも知られているが、それだけではない。日本の玄関口として利用されていた近隣の口之津とともに、コレジオの創設者である司祭アレッサンドロ・ヴァリニャーノ、医師であり修道士でもあったルイス・デ・アルメイダなどとも縁の深い地だ」
矢永は一頻り説明すると、思い出したように頷いた。
「そう言えば、加津佐は、コエリョが亡くなった土地でもあるな」
自分が口にしようとしていた人物の名が、矢永の口から出たのだろう。辻の表情が、ぱっと明るくなった。
「さすが、矢永さん。コエリョの名が出ますか。亡くなった年は、確か加津佐にコレジオができた一五九〇年だったと思います」
それにしても、未知の固有名詞のオンパレードだ。私は、二人のマニアックな会話に全く付いていけず、半ば投げ遣りな態度で矢永に尋ねた。
「コエリョって誰だ。キリスト教の関係者か。あまり聞いた記憶のない名前だが、どんな人物なんだ」
矢永は、私たちに向き直って解説した。
「コエリョとは、宣教師の一人だ。ザビエルやヴァリニャーノ、ルイス・フロイスなどに比べると知名度は低いが、当時、日本での布教の責任者として、幅広く活動していた」
続いて辻が、例によって矢永の説明を過不足なく、絶妙な匙加減で補足する。
「時の関白だった豊臣秀吉に謁見した記録もあるほど、当時の日本のキリスト教社会では大きな権力を握っていた人物です。もっとも、秀吉を怒らせ、伴天連追放令の切っ掛けを作った人物とも伝えられていますが」
辻の説明を聞いた矢永は、芝居がかった態度でパチパチと大袈裟に拍手し、再び鋭い視線を辻に向けた。目的を果たすためには手段を択ばない、獲物を狙うハンターのような冷徹な目だ。
何か、よからぬ計画を練っているに違いなかった。
「ところで、キリシタン版を見ることは可能かな。もし可能であるなら、ぜひ本物を目にしてみたい」
やはり、良からぬ計画を企んでいた。
正直、私が興味をもっているのは、中浦家に関する新たな情報であって、この町の歴史ではない。そんな私の思いを知る由もなく、辻は矢永の懇願を無邪気に受け入れた。
「収蔵室の奥にあるはずです。ただ、本当に燃え滓になっていますよ。だからこそ、見つかってから十年もの間、手つかずになってるんです。それでもよければ、収蔵室へどうぞ。ご案内します」
「面白そう。私も、ぜひ見たいです。教科書に載っていた資料の実物が見られるんですよ。山際さんも、本当は見たいですよね」
今まで事態を静観していた美香が、否定しにくい表現で私にまで同意を求めてきた。私は、「付き合ってもいいが、長居は失礼だぞ」と釘を刺すのが精一杯だった。
辻は、軽やかな足取りで嬉しそうに進む。私たち四人は辻を先頭に、職員専用のドアを抜けるとバックヤードへ入り、収蔵室を目指した。
辻は通路の奥で立ち止まると、「収蔵室」と書かれたドアを開けた。強めのエアコンによる冷気に加えて、土と木の匂いに防腐剤が混じった、独特な匂いが鼻を突いた。
辻は、壁にある照明のスイッチを入れる。
「ここが収蔵室です。狭くてお恥ずかしいんですが、約二万五千点の資料を収蔵しています」
幅は十数m、奥行きは二十mぐらいだろうか。入り口から部屋の奥に向かって、十列ほどの高い棚が並び、その間に幅一mほどの通路が伸びている。
棚のそれぞれの段を見ると、出土品や書物、古の生活道具などを収めた木の箱が、びっしりと並べられていた。
「凄い量だ。展示室に展示されて来館者の目に触れる資料は、ほんの一部なんだな」
私が収蔵品の量と密度に驚くと、辻が少年のように純粋な笑顔を向けて、資料館の意義について熱く語り始めた。
「展示も大切ですが、資料館の第一の存在意義は、歴史的価値のある資料の保管と研究なんです。ですから、資料館の多くの資料は、ここに保管され、専門の研究者や学芸員の手で研究されているんです」
「ここに収蔵されている資料は、一般の人たちの目に触れる機会はないんですか。勿体ないですね」
美香が、残念そうな表情をした。
辻は、「安心してください」と、とにかく明るく答えると、傍らに置いてあった土器の破片を手に取った。
「特別展や企画展では、普段は収蔵室に保管されている資料の一部が公開されます。人の目に触れる機会が少ない資料を、一般の人たちに如何に興味深く見てもらうか。特別展や企画展の企画立案は、学芸員の腕の見せ所なんですよ」
辻の言葉の熱量が、時とともに増していく。私は、保管されている資料のためにも、これ以上に温度を上げる行為は危険だと感じた。
「ところで、キリシタン版はどこにあるのかな。とても興味があるので、一刻も早く見たいんだけど」
意を決し、心にもない台詞で辻の話の腰を折る。
理想的な頃合いで放たれた私の言葉に、我に返った辻は「そうでした。歴史や資料館の話になると、つい熱くなっちゃって」と、頭を掻きながら謝罪した。
収蔵品を傷つけまいと注意しながら棚の間の通路を進むと、奥に十畳ほどの小さな空間が見えた。
長い机が、三つ並べられている。机の上には、パソコンやさまざまな書類、専門書、恐らく修復用と思われる道具などが雑然と置かれていた。
机の横には細長い木箱があり、新聞紙を敷いた上に、二体の小さな像が収納されている。矢永が目聡く像を見つけ、辻に問い掛けた。
「地蔵か。いや、子供を抱いている女性の像だ。辻君、これはマリア観音ではないかな」
辻が、矢永のはったりに似た知見に驚き、マリア観音を手に取った。
「矢永さんの仰る通りです。青刈地区のあちらこちらから出土した石製のマリア観音です」
「マリア観音って、禁教令でキリスト教が禁止された後で、隠れキリシタンたちが密かに信仰の対象にしてきた像ですよね。でも、これはただの子育て地蔵にも見えますけど」
美香が、納得のいかない表情で、辻の顔に鼻先を近付けた。
辻は、やや仰け反りながら「ほとんど消えていますが、背中に小さく十字が彫られているんです」と説明した。
「マリア観音の多くは、仏像の一種である慈母観音の白磁製の像が流用されていた。その一方で、ここにある像のように隠れキリシタンたちによって作られた、子育て地蔵に似たマリア観音も存在する」
矢永は辻から像を受け取り、美術品を確認する鑑定士の目でしげしげと眺めた。矢永の後ろに立っている私は、背伸びをしながら像を覗き込む。
「確かに、マリア様というよりも、子育て地蔵そのものだな。予備知識がないと、マリア様だとは誰も気が付かないだろうね」
「一般的に、隠れキリシタンは慈母観音をマリア様に見立てたと言われていますが、勘違いから、慈母観音をマリア様と思い込んで信仰した、という説もあります」
矢永が像を辻に返却すると、辻は元の箱に像を戻した。私は「で、キリシタン版は?」と、辻に尋ねる。
辻は、「そうでした」と、先ほどと同じ謝罪の言葉を口にすると、後ろにある棚の中を探し始めた。
「おかしいな。確かに、ここに保管してあったんですが。ひょっとしたら隣の棚かもしれないな」
独り言を口にしながら、一頻り周辺の棚の中を探した辻は、私たち三人のほうを向き、頭を掻きながら残念そうな表情をした。
「申し訳ないのですが、見当たりません。もしかしたら、他の者が移動させたのかもしれません。後で探してみますので、見つかったら改めてご連絡します。せっかく収蔵室まで来ていただいたのに、本当にすみません」
辻は、悪戯を見咎められた子供のように、物悲しい顔で頭を下げた。
「そんなに謝らなくても。もともと、無理を言って収蔵室まで押し掛けたのは、こちらなんだから」
私が宥めると、幼馴染の謝罪姿に悲哀を感じたのか、南奈が辻の顔を見ながら提案した。
「見つかったら、会社の私宛に電話ちょうだい。そうしたら、私が矢永さんたちに伝えて、連れてきてあげる」
辻は、両手で南奈の手を固く握ると、大袈裟に感謝の意を表した。両手の自由を奪われた南奈は、私たちに顔を向けて苦笑した。
「ところで辻君。この郷土資料館から種子神社までは、歩いて何分ぐらい掛かるのかな」
辻と南奈の熱い友情に心を動かされる様子もなく、矢永が唐突に質問した。
一瞬きょとんとした顔をした辻だったが、すぐに正気に戻り、今まで通りのはきはきとした声で答えた。
「歩くと、だいたい十五分ぐらい掛かります。ひょっとして、今から行かれるんですか」
「キリシタン版が見つかったからには、恐らくキリシタンとも関係があるのだろう。ちょっと興味があってね」
収蔵室で話を聞くだけでも予想外の展開であったのに、矢永はこの期に及んで、神社くんだりまで足を延ばすつもりか。
「おいおい、工場内の写真を押さえておくために、昼前には中浦酒造に伺う予定だったじゃないか。それに、結城さんも早く戻らないと、まずいだろう」
「会社は仕事どころじゃないですし、私自身、午後出社って予定にしてありますから、大丈夫ですよ」
引率役の南奈は、腕時計をちらりと見ながら笑った。
いや、本当の問題は時間ではない。わかりやすく表現すると、私は神社などには興味が一切ないし、行きたくもない。だいたい、資料館を訪れたのは、辻から中浦家の情報を仕入れるためではなかったのか。
「そういうお話でしたら、ガイドがいたほうが何かと便利でしょうから、私がご案内しましょう」
腕組みをして私の反論を聞いていた辻は顔を上げると、私の微かな希望に止めを刺した。
「車なら時間も短縮できます。南奈の車は軽自動車ですから五人は乗れないので、私の車を出しますよ」
「決まりですね。皆さんは先に駐車場に行って、秦司の車に乗っていてください。私は会社に電話したら、すぐに行きますから」
南奈は、スマートフォンを取り出し、画面をタッチしながら一方的に段取りを決めた。
「じゃあ、行きましょう」と先頭に立つ辻に続いて、私たち三人は部屋を後にする。南奈を残して資料館を出ると、駐車場に止めてあった辻の四輪駆動車に乗り込んだ。
辻は、ポケットからキーを取り出し、車のエンジンを掛ける。キュルキュルと甲高いモーター音を発した後、重厚な排気音とともにエンジンが始動した。
間もなく、南奈が「お待たせしました」と息を弾ませながら、車に乗り込んだ。
*
資料館を出た車は、資料館の左側の道を、山に向かって走り始める。山合いの道を五分ほど進むと、辻は車を道路右側の狭い駐車スペースに入れ、エンジンを止めた。
道路の横の草を取り除いて平らにしただけの、広さ十m四方ほどの狭い空き地だった。車を降りた時、土に埋もれた砂利に足を取られて、危うく転びそうになった。
「ここからは、目の前の狭い林道を入って行きます。参道みたいなもんですね。少し行くと鳥居があるんですが、その先にある長い石段を上った先が種子神社です」
辻は車を降りると、道のりを簡単に説明して一人で歩き始める。私たち四人も続いた。
足元に気をつけながら緩やかな山道を五十mほど進むと、辻の言葉通りに小さな赤い鳥居が見えた。
赤いとは言うものの、塗装はあらかた剥げ落ちている。「鳥居は赤いものだ」という先入観がなければ、かつて赤かった事実にさえ気付かなさそうな粗末な鳥居だ。
「ここからは石段になります。足下がちょっと悪くなるので、気をつけてください」
麓から見上げると、辻の言葉通り、急な石段が続いている。左右から石段の上に覆い被さるように茂っている照葉樹が邪魔になり、二十m先も見えない。出口の見えない仄暗さから、かなり先まで続いている状況が容易に想像できた。
照葉樹のトンネルの中を縫って、五人の頭上をひらひらと追い越していく黒い影が見えた。美香が影を目で追いながら、「チョウ、ですか」と矢永に聞いた。
チョウは、私たちの十mほど先まで進み、茂みの間を抜けると、空高く消えていった。
「あれは、ナガサキアゲハだな。クロアゲハによく似ているが、後翅の突起、尾状突起と呼ばれる付属物がない相違点で区別できる」
大した動体視力だ。矢永は、動体視力が威力を発揮するはずのスポーツなどとは全く無縁である割に、無駄な身体能力を身に付けている。
ここで、一つの疑問がふと頭をもたげた。
「長崎県に棲んでいるチョウだから、ナガサキアゲハという名前がついて……」
「いや、それは全く違う」
矢永は、間髪を入れずに否定する。
「じゃあ、なぜ長崎などという地名が付いているんだ」
「ナガサキアゲハは、もともと南方系のチョウで、東南アジア周辺を含む広い範囲で見られる種類だ。国内では長崎に限らず、九州に広く棲んでいた」
「『棲んでいる』ではなくて『棲んでいた』ですか。現在進行形じゃなくて過去形なのは、どうしてですか?」
矢永の言葉尻に、美香が鋭く反応した。これだけ長く急な坂を登っていても、息が切れていないとは、体力だけは一人前だ。
「地球温暖化と関係があるのか、明治時代以降は徐々に分布範囲を北に広げ、特に二十世紀の終わり頃からは、北上のスピードを急速に速めつつある。我々が子供の頃には西日本でしか見られなかったが、今では東京でも普通に見られる状況になっている」
私は立ち止まり、息を整えた。
平地ならば、ここにいる他のメンバーに負けない体力があるはずだが、ここは標高が千m近い高山である。酸素濃度は恐らく平地の半分ほどに違いない。
私は、呼吸が多少なりとも落ち着いた頃合いを見計らい、深呼吸をしながら矢永に尋ねた。
「もともと暖かい地方に棲んでいたアゲハだ、という事実はわかった。だから、なぜ、ナガサキアゲハなんだ」
「長崎在住のドイツ人医師にして博物学者として有名なシーボルトが、長崎で発見し……」
「ひゃっ!」
矢永の言葉が終わらないうちに、私は思わず悲鳴を上げた。私の声に、四人が同時に振り向いた。
私は、自分の足元を指さした。上げた足を降ろさんとした地面の上に、青黒く光る大きな虫が蠢いていた。
「変な虫がいるぞ。気を付けろ!」
頭部や胸部に比べ、不釣り合いなほどに大きな腹部をもつ、奇怪至極な虫である。正視に耐えないおぞましさを身に纏った虫は、もぞもぞと石段の上を這いずりながら、石段の脇の草叢を目指している。
都会での洗練された暮らしに慣れ切っている私は、実のところ虫があまり得意ではない。
一方の矢永は、エイリアンもかくやと思われるほどの不気味な虫の姿を遠目に見ながら、表情一つ変えずに正体を告げた。
「それは、ツチハンミョウだ。珍しい虫ではないが、潰すとかぶれるから、気を付けたほうがいいぞ」
矢永の言葉に、私は自分でも信じられないほどの素早さで石段の反対側に飛び退き、眉間に皺を寄せた。
「勘弁してくれよ。鬱蒼とした森の中で毒虫かい。アマゾンのジャングルじゃあるまいし」
裏返った声で叫ぶ私を見て、辻と南奈が笑い、美香は苦笑する。私は「他人事だと思いやがって」と、心の中で悪態をついた。
石段は、進むほどに傾斜がきつくなる。いよいよ四十五度を超えたのではないかと思われた頃、照葉樹のトンネルの先に出口らしい小さな光の点が見えた。私は、その一点の光だけを心の励みに、最後の力を振り絞って登り続ける。
小さかった光の点は、歩を進める度に少しずつ、大きさを増していく。それとともに、光を取り囲む木々の輪郭が、はっきりと見えるようになってくる。
最後の輪郭をくぐると、私たち一行はようやくトンネルを抜け、平らな場所に出た。
神社の境内だった。
私は「やっと着いたか」と息も絶え絶えに言葉を絞り出す。そのまま、境内の一角にある木の根元に、倒れ込むように腰掛けた。
美香が、腰を屈めながら私を見下ろし、蔑むような目で笑った。
「勘違いをしちゃいけない。私が休んでいるのは、疲れているからじゃない。あくまで今後の活動に向けて体力を温存するため、綿密に計算した上での行為だ」
第一、体力を温存したい私を押し切って、無理矢理こうして神社まで引き摺ってきた張本人は、お前たちではないのか。
私は、美香の後ろ姿に向かって、「ふん」と鼻を鳴らしながら、周囲をぐるりと見回す。
山を切り崩して造られた二十m四方ほどの平地の奥に小さな祠が立ち、祠の後ろには削り残された断崖が聳え立っている。平地の左右は、やはり切り立った崖が、垂直に近いほどの角度で落ち込んでいる。
ちょうど、小さな祠を戴いた狭小な平地が、急峻な山肌にちょこんと載っかっている、といった表現がぴったりである。
平地は、雑草が所々に生い茂り、部分的に落ち葉が溜まっているものの、荒れ果てていると表現するほど汚れていはいない。祠も、普段から雨風に晒されている割には、それほど汚れてはいない。
私は、祠を眺めながら立ち上がると、額の汗を拭いた。
祠の上に、扁額などはない。目の上に手をかざして、祠の格子の中を覗き込む。
中の様子は、というと、中央付近に握り拳ほどの石が置かれているばかりである。傍らの矢永を何気なく眺めると、腕組みをして祠を見上げながら、納得がいかない顔をしている。
不意に振り向いた矢永は、辻に尋ねた。
「ここには、何という神が祀られているのかな。神社にあるべき、扁額らしき板が見当たらないが」
辻は矢永に向き直り、「実は、よくわからないんですよ」と、申し訳なさそうに答えた。
「もともとは、地元で信仰されてきた土着神を祀っていたのではないかと思います。そんな神社が、江戸時代に隠れキリシタンの信仰に利用されたんでしょうね」
「今の時代、全国のほとんどの神社は、神社本庁に加盟しているけど、ひょっとして未加盟の神社なのかい」
私が推測を口にすると、辻は首を小さく縦に振った。
「はい。昔から本庁には加盟していない、いわゆる単立神社だと聞いています」
これだけ小さく、粗末な神社だ。きっと、この地区の誰もが、加盟の必要性などを考える機会もないまま、時だけが経ったのだろう。
視線を右側に移すと、祠のすぐ横には大きなクスノキがある。その横から盆地の方角を眺め遣ると、麓に小さく見える資料館の向こうに、青刈地区の民家が点在している。
私が遠景に目を奪われていると、矢永が「これは?」とクスノキの陰を指し示した。
小さな、祠らしき構造物である。
いや、祠というよりも、二本の垂直な木柱に粗末な屋根が載った、雨除けらしき簡素な構造物である。よく見ると、中に高さ三十㎝ほどの小さな像が二体、安置されている。
「辻君、これもマリア観音だね。資料館で見た像と同じく、やはり、子供を抱いている」
「矢永さんの仰る通り、これはマリア観音です。残念ながら、この神社で隠れキリシタンとの関係を示す資料は、今では、このマリア観音だけなんです」
考えてみれば、隠れキリシタンが密かに信仰を守り続けていた時代は、少なくとも今から百五十年以上も前の話である。
このように小さな神社に、江戸時代の歴史的資料がそのまま大量に残っているとは、確かに考えにくかった。
私に続き、中央にある祠の中を覗き込んだ矢永が「キリシタン版は、この祠の中から?」と、事件現場を検証する刑事のように質問を重ねた。
「はい。でも、もともとあった祠は、さっきもお話しした通り、十年ほど前に焼けたので、この祠自体は新しいんです。キリシタン版は、火事の時に焼け跡の中から、何重にもなった木の箱に入った状態で見つかったんです」
「火事か。火の気はなさそうな場所だけど、原因は、いったい何だったのかな」
私が口にすると、辻は右手の人差し指を上に向けた。私は、指の先にある青い空を見上げた。
「雷だと思います。目撃した人から聞いた話ですが、その日は天気の関係で、雷が朝からあちらこちらに落ちていたそうですから」
矢永は、改めて祠を見詰めながら、辻の言葉に「雷か。なるほど」と、曖昧な返事をした。続いて、辻に向き直る。
「ところで辻君。君は、誰が犯人だと思う?」
唐突な質問に驚いた辻は、「は?」と声を漏らしながら、真意を確かめるように矢永の顔を見詰める。
「僕には、ちょっとわかりません……」
瞬間、山の斜面を吹き抜ける秋の風に、木々がざわざわと寒々しい音を立てて揺れた。石段の近くに立っていた南奈は、物寂しい空気を打ち払うように振り向くと、一同に呼び掛けた。
「もうすぐお昼になりますから、そろそろ降りましょうか」
*
私たちが中浦酒造に到着したのは、十一時十分頃だった。
南奈は、駐車場に止めた車から降りると、私たちを先導しながら、駐車場の奥にある生垣の間を進む。南奈に続いて、私たちも生垣の間から工場の敷地内に足を踏み入れた。
醸造課がある研究棟の向かいには、事件の舞台となった建物がある。
事件現場となった建物は、入り口に現場保存テープが張られたままだった。テープの前では、警察官がパイプ椅子に座って張り番をしている。
僅かに開いた戸の隙間から中を覗いても、電気が消えているために中の様子は窺えなかった。仕方なく内部の観察を諦め、工場や広報課がある建物に向かう。
途中、木立の陰から母屋が見えた。母屋は母屋で、家の中全体が重苦しい雰囲気に包まれている事実が、遠目にも手に取るようにわかった。
私は、ふと独り言ちた。
「中浦家の人々は皆、三日前に起こった悲劇を、上手く受け止められないんだろうな」
葬儀の準備で慌ただしいなら、まだ気も紛れただろう。しかし、社長の遺体が司法解剖で戻ってこないため、葬儀の準備もままならない。心の整理をつけようにも、整理掏する事さえ不可能な状況だ。
私たちは、何もできない自分たちの無力さを痛感しながら、工場棟に入る。
事情聴取をすでに終えたと思しき数人の社員が出社しているものの、予想に違わずほとんど人気がない。出社している社員にしても、とても仕事が手につく精神状態でない状況は明らかだった。
ショックを受けている人は、中浦家の人々だけではない。社員たちも、同じようにショックを受けている。
「あんな凄惨な事件があった直後じゃ、仕事が手につかないのも仕方がないか。俺が同じ立場だったら、出社さえ難しいかもしれない」
私が小声で囁くと、南奈が社員を心配そうに見詰めながら、出社理由を説明した。
「お披露目会の直後で、以前から予約が入っていた分の出荷は、終えなくちゃいけないんです」
そういえば工場の奥では、作業員たちが酒瓶の入ったケースを次々とトラックに積み込んでいた。社員たちの代わりに出荷作業をおこなうため、酒造組合から派遣された作業員たちだという話だった。
作業を目にした時は、そこまで急いで出荷する必要があるのかと疑問をもった。だが、あの作業が、南奈が口にする予約分の出荷だったのだろう。
社員たちの気持ちを思い遣りながら広報課に入ろうとすると、後ろから「こんにちは」と、聞き慣れた声が聞こえた。私の内耳で瞬間的に電気信号へと変換された音声情報は、加速器の中を走る電子も顔負けの速度で脳の中を駆け巡る。
――葉月だ。
即座に判断した私は、首の腱を傷める可能性も厭わず、可能な限り素早く振り向いた。
やはり、葉月だった。
葉月は、私の勢いに驚いたのだろうか。一瞬、心配そうな顔をした。しかし、すぐにいつもの控えめな表情に戻り、「皆さん、駐車場を通って来られたんですよね」と尋ねた。
「私、今日は午後出社で十一時ちょっと前に出社したんですが、その時、駐車場の外から会社の中を窺っている貞夫さんらしき人を見たんです。皆さんは、見掛けませんでしたか」
私は、会社に到着して以降、現在までの記憶を辿った。
「気が付きませんでしたが、貞夫さんに何か用事があったんですか」
美香が「貞夫さんって、誰だかわかるんですか」と、私の耳元で囁いた。言われてみれば、美香の言葉通りだ。
私が貞夫なる人物に心当たりがない事実を察したのだろう。美香が続けた。
「中浦貞夫さんですよ。お披露目会の時、社長さんと間弁護士の前で悪態をついていた、白髪の男性です」
思い出した。
葉月は、そんな私たちの暗黙の会話を知る由もなく、不思議そうな表情で続ける。
「用事があるわけじゃないんです。ただ、声を掛けようとしたらすぐにいなくなって、その後、車のエンジン音が聞こえたんです。何かあったのかなって」
私は正直なところ、返答に困った。葉月の疑問を解決に導きたい私の気持ちは、富士山よりも高く、日本海溝よりも深い。しかし、私たちが貞夫氏について知っている情報といえば、お披露目会で悪態をついた亡き会長の義理の弟という、頗る断片的な情報に過ぎない。
無念の拳を握る私の横で、私の代わりに美香が口を開いた。
「ごめんなさい。私たち、つい今しがた来たばかりなんですけど、気が付きませんでした」
葉月は、落胆した表情で溜息を吐いた。そんな葉月の様子を黙って眺めていた矢永が、突然、話題をリセットした。
「ところで、菊池さんは出社しているのかな。もしいたら、後で話が聞けると嬉しいのだが」
葉月は、少々驚いた様子で矢永を振り向いた。
「あ、はい。さっきまではいたんですが、出荷のお手伝いのお礼をするとかで、組合に出かけました。じゃあ、私は醸造課に行かなければならないので、失礼します」
葉月は軽く会釈をすると、回れ右をして研究棟の方角へ消えていった。私は、葉月の後ろ姿を名残惜しく見送る。
私の気持ちなど気に留める様子もなく、南奈が広報課のドアを開けた。矢永と美香が続く。
南奈は部屋に入ると、「どうぞ。お座りになってください」と、傍らのソファに座るように手で促した。
矢永は南奈の勧めを無視して、ソファの近くにある事務用椅子にどかりと座った。美香は勧められるまま、ソファに腰掛けた。美香に倣ってソファに腰掛けた私は、南奈の様子を伺いながら口を開いた。
「実は、殺された社長と間弁護士について、聞きたい話があるんだ」
南奈は「何ですか。なんでも聞いてください」と明るく笑った。
いつも通りに元気のいい南奈に安心感を深めた私は、声の音量を二割ほど下げ、やや顔を近付けながら尋ねる。
「毒殺事件があった日の話の続きなんだ。ちょっと聞き難い話ではあるんだけど、私は、二人の共通点は財産を管理している点だと思っている。ひょっとしたら、事件には財産の問題が関係しているのかもしれない。二人に近しい人間で、財産の問題で揉めたりしていた人はいないのかな」
南奈は、顎に人差し指を当てて口を尖らせ、考える仕草をする。しばらく考えた後、思い出したように、よく通る声で答えた。
「財産問題で恨みをもつ人でしたら、一人います。中浦貞夫さんです」
南奈の言葉を受け、事務用椅子の背凭れに体重を掛けていた矢永が、さすがに驚いた様子で口を開いた。
「いったいどのような事情で揉めていたのかな」
南奈が、妙に生き生きとした表情で、矢永の顔を熱く見詰めた。
私は知っている。南奈は、聞かれたら答えずにはいられない性分だ。何よりも、今の南奈の表情が、その事実を如実に物語っている。
「今から三十年以上も前の話になりますが、実は重蔵会長は、最初の奥様の清子(きよこ)さんと駆け落ちされたんです」
「会社の後継ぎが、地位やお金を捨ててかい? 仮にも、後に中浦酒造の中興の祖と呼ばれる人物だろ」
私は、予想外の内容に思わず口を挟んだ。しかし、考えてみれば、それだけ清子を愛していたのだろう。
南奈は、私の言葉が終わるのを見届けて、再び口を開く。
「後継者として期待されていた重蔵会長が家を出たため、重蔵会長のお父様である先代の会長は、中浦家の存続のために重蔵会長を勘当して、貞夫さんを重蔵会長の妹さんの婿養子に取られました」
重蔵を除く中浦家の人々は、価値観の軸を親と子の信頼関係や愛情ではなく、家の繁栄と存続に置いているらしい。
このような価値観のもとに生きる人間は、ドラマや成人向けコミックなど、架空の世界に限定された存在だと漠然と思っていた。
しかし、まるでフィクションのような世界でリアルに生きる人々が、この会社の中に確かに存在している。その事実に、私は新鮮な戦慄を覚えた。
同時に、中浦家の人々と異なり、命を賭して守るべき家とは縁のない自分が、とてもつもなく愛おしく思えてくる。
「駆け落ちから数年すると、重蔵会長と先代会長が和解されたらしくて、重蔵会長は戻ってこられました。その時、貞夫さんは和解なんか認めないって激しく抵抗して、随分と揉めたそうです」
「貞夫氏の気持ちもわかるよ。貞夫氏にしてみれば、裏切られた形になったわけだからな」
私は腕を組み、ソファに凭れ掛かったまま、目を瞑ってしきりに頷く。
「結局、貞夫さんは自分の希望で、財産の相続を放棄するっていう条件と引き換えに相応の財産を貰って家を出た後、その財産で不動産関係の仕事を始めました。でも、その時に分与された財産の内容に不満があるらしくて、その後もずっと揉めていたんです。重蔵会長がお元気だったときは会長と、最近は社長や弁護士である間さんと」
私は、止まることを知らない南奈の口を眺めながら、ふと思う。
南奈にとって、会話はエネルギー源なのだろう。今も、会話を通して目に見えない未知のエネルギーを取り込み、水と二酸化炭素からブドウ糖を作り出しているのかもしれない。
矢永が、南奈の口にする内容に呆れながら、「三十年もの間か。随分と執念深いもんだな」と、貞夫の執念深さに対した感心する。
私は矢永の言葉を受けて、今回の事件に決着をつけるべく、意を決して取って置きの推理を披露する。
「そう考えると明らかに、その貞夫氏という人物が怪しい。きっと貞夫氏が、財産が目当てで二人に毒を盛って殺害したんだ」
すかさず、南奈が想像以上の剣幕で反論を展開した。
「貞夫さんと社長は、確かに相続問題で対立していました。でも、対立していたからと言って、貞夫さんがそこまで大それた事件を起こすとは、とても思えません」
「そうですよ。全く関係のない私たち第三者が、亡くなった方の身内を勝手に犯人扱いするなんて、あんまりです」
美香までが、私の推理を潰しに懸かる。私は二人の勢いに押され、弱々しい声で「例えばの話だ」と言い訳をした。
「貞夫さんは今では、すでに財産を分与されて中浦家を出ています。社長と間さんが亡くなっても、財産は手に入らないんです」
南奈の新情報によって、「貞夫による財産目当ての犯行である」という私の推理は脆くも瓦解した。続いて矢永が、表情一つ変えずに言い放った。
「もし、仮に貞夫氏が犯人だとしても、証拠はない。決定的証拠を持たず、公的権力ももたない我々一般人は、甚だ心外ではあるが警察なる公的機関に全てを任せておくしかない。心配せずとも、警察が法の下に然るべき捜査をおこなうはずだ」
この部屋に、私の味方は一人としていない。私は、矢永の言葉に敗北を悟った。
その後、事件の話を一旦、封印した私たちは、中浦酒造の酒造りの話などを南奈から聞き、出荷作業に関する形ばかりの取材をおこなった。
気が付くと、十六時を過ぎていた。私は腕時計を見て「そろそろ、失礼するかな」と、矢永と美香に撤退を切り出した。
その時、広報課のある建物から、一人の女性が走り出てくる様子が見えた。
葉月だった。
葉月は、尋常ではないほどに慌てた表情で、息を切らしながら駆けてくる。只ならぬ様子に胸騒ぎを感じた私は、「どうしたんですか」と声を掛けようと、口を開きかけた。
私が声を発するよりも早く、私たち三人を見付けた葉月が叫んだ。
「大変です。たった今、警察から連絡が! 貞夫さんが! 遺体で!」
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