第4話 事件前日三
最初に入った部屋は、やや薄暗く広々とした空間だった。
目の前には巨大な箱型の装置が据え置かれ、似たような幾つもの装置がベルト・コンベアやリフトなどで連結されている。奥には、タンクの上に鉄骨を組んで造られた櫓のような構造物も見える。
ただ、稼働している様子はない。
「ここは、十月頃から三月頃にかけて、仕込み前の作業をする部屋です。ここで洗米や精米をおこない、奥の装置で米を蒸すんです。今は九月なので、まだ使われていないんですが、もうすぐ稼働し始めます。使う前には、大規模な掃除や消毒がおこなわれるんです」
装置の反対側に何気なく視線を遣ると、やや広まった空間の隅に、白木でできた小綺麗な神棚が設えられている。
神棚に顔を近付けながら、矢永が呟いた。
「松尾大社の木札が飾られている。祭神は、どうやら大山咋(おおやまくいの)神(かみ)のようだな。造り酒屋としては、至極真っ当な信仰だ」
不思議そうな表情で、美香が尋ねた。
「おおやまくいのかみ……。何ですか、それ? 大山祇(おおやまつみの)神(かみ)なら聞いた経験がありますけど。確か、海の神様でしたっけ。その神様とお酒造りに、関係があるんですか」
同じ疑問を抱いた私は、まず美香の顔を、続いて矢永を見詰める。
「大山咋神は、伊弉諾(いざなぎの)尊(みこと)と伊弉冉(いざなみの)尊(みこと)の子である素戔嗚(すさのおの)尊(みこと)と、大山祇神の娘の間に生まれた大年(おおとしの)神(かみ)の子だ。つまり大山祇神の曾孫にあたる」
矢永は表情を変えずに簡潔に答え、続ける。
「酒造りにおいて、温度や湿度は命ともいえる。各工程ごとに温度や湿度を厳密に管理していないと、酒の味は全く異なるものになる。時には、酒とは呼べない代物になる場合もある。そうだろう、山際」
私は突然の指名に慌てたものの、もっともらしく答える。
「そうだな。温度や湿度を厳密に管理していないと、酒の味はまったく異なるものになる。時には、酒とは呼べない代物になる場合もある」
美香の、押し殺すような笑い声が聞こえた気がした。その笑い声に、私は自身の返事がオウム返しだった事実に、初めて気付いた。
そんな私のささやかな失態を気にする素振りも見せず、矢永は話を続ける。
「今でこそ、温度や湿度は機械によってほぼ完璧に管理できる。しかし、かつての酒造りは、年によって、或いは日によって全く異なる気象条件に合わせ、職人が長年の経験と勘に基づいて、温度や湿度の管理をおこなっていた」
「その通りです。昔の酒造りは、経験と勘に頼る作業の繰り返しで、品質を安定させるのも至難の技だったそうです。時には、気候があまりに不順で、温度や湿度が人間の管理できる範囲を超えてしまう事態もあったらしいんですよね。そうなると、造り酒屋にとっては死活問題です。一年の苦労が水泡に帰すわけですから」
横で、美香が南奈の顔を見ながら、全てを理解したような表情で頷いた。
「昔の職人さんの苦労には、本当に頭が下がるよね。私なんか、酒職人になれって言われても、絶対になれないよ、きっと」
誰も美香がなれるとは思っていないし、なれとも言っていない。
「丹精込めて造る酒が異常気象などで台無しにならないように、古くから造り酒屋では、一年の酒造りが無事成功することを願って、神棚に神を祀ってきた。かつて酒の出来は、最終的にはすべて神の手に委ねられていたわけだ」
美香が、ぱちんと勢いよく指を鳴らした。工場内に、指の音が大きく響いた。
「その神様が、松尾大社の大山咋神だったんですね。大山咋神も、責任重大だったでしょうね。ところで素朴な疑問なんですが、酒の神様は松尾大社の大山咋神って決まっていたんですか」
美香が、重ねて質問した。酒の神様なんて、そうそう何人もいるわけはないだろう。私は口には出さないまでも、即座に確信する。
「酒造りの神の神社として有名だったのが、京都市にある松尾大社のほか、同じく京都にある梅宮神社、奈良県桜井市の大神神社だ。これらは、日本三大酒神神社ともいわれていた」
一人ではないのか。まあいい。
大神神社なら、若い頃に一度だけ訪れた経験があるので、私も知っている。日本最古の神社と言われ、背後に聳える三輪山そのものをご神体としているため、本殿を持たない風変わりな神社だ。
「なかでも松尾大社は、全国に数十あるといわれる松尾神社の総本社で、とくに室町時代以降、日本を代表する酒神神社として、多くの造り酒屋に信仰されてきた。全国の蔵元の中には、今も神棚に松尾大社の大山咋神を祀っているところが多い」
最初の疑問と矢永の答えが、ここへきてようやく繋がった。矢永の話は、いつも流れが読めず、長い。
「長い年月を掛けて、職人さんたちの体に少しずつ染み込んできた信仰心は、酒造りが機械化された今も消えることなく受け継がれ、酒蔵の中に息づいている、という話ですね」
美香が腕を組み、うんうんとわかったように、もっともらしく頷いた。南奈が、驚いた表情を矢永に向ける。
「矢永さん、周辺知識にも随分とお詳しいんですね。本来なら私が説明しなければならないはずなのに、つい聞き惚れてしまいました」
対する矢永は「いや、取材のための予備知識だ」と素っ気ない。私は、気が利かない矢永の代わりに、仕方なく話を纏めた。
「たとえキリシタンの里であっても、美味しい酒を造るのは、やはり昔ながらの日本の神様なんだな」
*
その後、私たち一行は酒造りの工程に従い、麹菌を米につけて麹米を造るための麹室、米に麹米や酵母、水などを加えて発酵させる発酵タンクを見学した。その次に向かったのは、できあがった新酒を一定期間熟成させる貯蔵タンクだった。
「麹菌を付着させ、繁殖させて造る麹米のできは、昔から『一麹、二酛(もと)、三造り』と言われるぐらい、お酒のできを大きく左右します。ちなみに、酛とは後ほどご説明する酒母、造りとは、発酵してできあがった醪(もろみ)です」
ノートを片手にした美香は、南奈の言葉を聞きながら、懸命にメモを取っている。一方の矢永は、あらぬ方向を一人眺めている。
私はというと、カメラを構えて一つ一つの装置を撮影しながらも、三人を鋭く観察する。
「麹菌を蒸米につけて繁殖させる麹室は、質のいい麹米を造るため、室温が三十~三十五℃、湿度は約六十%に保たれています。麹室でできた麹米は、専用のタンクの中で蒸米と水、酵母などと混ぜ合わされ、約十日後にお酒のもとである酒母となります。できた酒母に、さらに蒸米と水、酵母を加え、発酵タンクで四十日ほど発酵させると、醪ができあがります」
南奈は、私と美香を交互に見ながら、熱心に説明した。さすがに広報担当だけあって、隙のない解説ぶりだ。
南奈の快活な解説が工場内の広いスペースに反響し、心地よく耳に入ってくる。私は、カメラのモニター画面で南奈と美香の2ショットを確認し、シャッターボタンを押しながら、相槌を打つ。
「酒母を絞れば日本酒ができあがる、という簡単な話ではないんだね。日本酒もなかなか奥深いな」
モニター画面の中の南奈が、私を見てにっこりと頷いた。
「日本酒は、麹菌による糖化、つまり澱粉をブドウ糖に変える行程と、酵母によるアルコール発酵を同時におこなう、独特の発酵方法で造られます。世界的に見ても珍しい発酵方法なんですよ」
「並行複発酵だな。日本酒のほかに中国の紹興酒や韓国のマッコリ、それに日本の焼酎など、ほぼ東アジアだけに見られる醸造方法だ」
矢永が、唐突に話に加わった。場を弁えない矢永の解説だが、南奈が積極的に反応する。
「おっしゃる通りです。で、その醪を搾ってできあがるのが、一般的に新酒とよばれます。普通、絞ったお酒は濾過した後、半年ほど貯蔵タンクで貯蔵して熟成させますが、熟成させる前の段階で、新酒として出荷されるものもあります」
美香も会話に参加する。
「知ってる。で、殺菌していないお酒を生酒、水で薄めない強いお酒を原酒って呼ぶんでしょ。資料に載ってた。でも、いろいろな呼び名があって、ちょっと、ややこしいんだよね」
「そうだね。生酒や原酒って呼び名はよく聞くけど、実は生酒や原酒にも、いろいろな種類があるの。最終的な濾過をおこなわず、無殺菌のまま出荷されたお酒は無濾過生原酒、濾過だけをして無殺菌のお酒は生原酒なんて呼ばれる場合が多いかな」
「そういえば、明日、お披露目会で披露するのは『生詰め』って呼ばれる種類だよね。生詰めは、生酒とは違うの?」
美香の素朴な疑問に、南奈は、「いいところに気が付いたね」と言わんばかりの表情になった。
「『生詰め冷やおろし』の話ね。通常のお酒は、貯蔵前と貯蔵後に加熱殺菌をするんだけど、生詰めは貯蔵後の殺菌をおこなわないで瓶詰めするの。まあ、半生みたいなお酒といえるかな」
私も、美香に負けじと質問を繰り出す。
「今の季節、生系のお酒は流通してないのかな? さっきのお土産スペースにも、ホームページにも見当たらなかったけど」
「生酒は、瓶の中で菌が生きているから、時間と共に味が変化します。だから、おもに冬から春にかけての酒造りの季節にしか、出荷していないんです」
南奈は、私を振り向きながら、一瞬、申し訳なさそうな表情をした。が、すぐに元の明るい表情に戻った。
「でも、冷やおろしが出た後、十月以降の仕込みシーズンに入ると、搾りたての生酒も次々と出荷されるようになりますよ。つまり、今回お披露目する冷やおろしが、限定商品シーズンの幕開けを告げるお酒というわけです」
「結局のところ、今の季節は、まだ飲めないってことかぁ。残念」
美香が残念そうに天井を仰ぐと、南奈が笑った。私も釣られて笑った。
*
続いて一行は中庭を通り、隣のやや小さな棟に移動する。小振りではあるが、工場よりもさらに新しい建物だ。
「こちらの建物には、実際に酒造りを担当する醸造課、酵母を培養したりできたお酒を分析したりする研究室などが入っています。葉月も、ここで醸造課の一員として働いています」
棟を結ぶコンクリート製の渡り廊下を進みながら、南奈が建物の概要を説明した。
渡り廊下の右手に視線を移すと、今までいた工場とこれから向かう研究棟の間に、ぽっかりと空いた空間がある。空間の先に見える木立の隙間から、木造の古い建物が見えた。
南奈が、建物を指さしながら「あれが、中浦家の母屋です」と説明した。
私は、庭木越しに母屋を観察する。
重厚な灰色の瓦を戴いた寄せ棟造りの、酒蔵にも負けないほどに立派な、平屋建ての日本家屋である。建てられたのは昭和初期ぐらいだろうか、随分と年季が入っているように見受けられる。
だが、それ以上に驚かされたのが、大きさだった。
「向きの関係でここからは奥行きが分からないけど、間口だけでも少なくとも三十m近くはあるね」
私は、驚きを隠さずに正直な感想を述べた。家の大きさが、そのまま中浦家の繁栄ぶりと、この地における社会的地位の高さを証明しているようでもあった。
「今、あの家では何人ぐらいの家族が暮らしているのかな」
矢永が目を凝らし、母屋の方角を見詰めながら問う。
南奈は右手の指を使って数え始めた。親指から順番に指を折り曲げ、全部を折り曲げると、今度は小指を立てる。
「会長の奥様の祥子さんと、長男である社長ご夫妻、長女の樹希、次男の雅彦君、次女の真衣ちゃん、住み込みでお手伝いをしている澤田さんだから……。合計七人ですね。ついこの間までは八人だったんですが」
私は頭の中で、住民一人当たりの部屋数を素早く計算する。
「一部屋が八畳として、家の大きさから考えると、部屋数は十五は下らないだろうな。ということは、一人につき少なくとも二部屋ぐらいの勘定にはなるはずだ」
解答を口にしながら、四十㎡にも満たない広さしかない、1DKマンション暮らしの我が身を顧みる。数部屋でいいから、分けてもらいたいものだ。
「裏には蔵がありますし、陰になっている左の奥には、納屋もあります」
部屋と言わず、蔵だけでもいい。中に何が入っているかは知らないが、中身ごともらえるなら、なお嬉しい。
その時だった。工場の脇に並べられた紫色の花の鉢植えの陰から、小動物らしき影が不意に姿を現した。
指をさしながら、美香が叫んだ。
「猫だ。あの猫、まだら猫だよね。体にぶちの模様もあるみたいだし。本物のまだら猫だ」
まるで、渋谷区の街中で芸能人を見つけた女子高生のようなはしゃぎ振りだ。
なるほど、美香の言葉通り、白地に黒と茶の斑模様を纏った猫だった。恐らく、美香の言葉通り、ブログのタイトルになっている「まだらネコ」なのだろう。
まだら猫は、私たち四人のいる方向を振り返ると、一瞬だけ立ち止まった。目の前にいる人間たちの様子をしばらく観察すると、くるりと体をくねらせ、今しがた来た方向に向き直る。そのまま、何事もなかったかのようにのそりのそりと歩くと、再び鉢植えの陰に消えていった。
短い遭遇だった。
美香が、すかさず建物に駆け寄る。紫色の鉢植えに近付くづくと、猫が消えた建物の裏を覗き込んだ。しばらく目を凝らしていた美香は、やがてこちらを振り向くと、外国人がよくやるように両手を広げながら、残念そうに首を傾げた。
「気まぐれでマイペースなんですよ、あの猫」
南奈が少々、申し訳なさそうに弁解した。
旅立ってしまった気紛れな生物について、今更あれこれ愚痴っても仕方がない。私は、決して旅に出たりはしないもう一つの生物について、南奈に尋ねた。
「ところで、あの紫色の花は随分と綺麗だね。誰が育てているのかな」
「中浦家の長女、社長の妹の樹希が世話をしているんです」
南奈は、母屋の右側を指さしながら続けた。
「樹希はいろいろな植物を育てるのが趣味で、母屋の裏のほうでは、ローズマリーとかカモミールとか、ハーブもいっぱい育てているんですよ」
南奈の指先の方向にゆっくりと視線を移すと、庭木の向こう側で母屋の前を横切る人影が目に留まった。
南奈は、「樹希だ」と小さく呟くと、声を掛けようとして慌てて手を挙げた。
「おーい、いつ……」
しかし、樹希は母屋の前をすーっと音もなく通り過ぎると、南奈の声が届くよりも前に建物の右奥に姿を消した。まだら猫との出会いに負けないほどの短い遭遇に、容姿を観察する間もなかった事実が悔やまれた。
南奈は一瞬、残念そうな顔をした。が、気を取り直すように、すかさず笑顔をつくり、私たち三人のほうに向き直る。「醸造課をご案内します」と話を切り替えながら、私たちを研究棟に招き入れた。
*
研究棟は、工場よりも二回りほど小さな真新しい建物だった。外の暑さに慣れた体に、やや強めのエアコンから吐き出される、冷えた空気が心地いい。
南奈が、廊下に面したドアを開ける。後に続く私たち三人は、南奈の肩越しに中を覗き込む形になった。
明るい室内に数台のテーブルが置かれ、その上にパソコンと様々な分析装置らしい機械、試験管やフラスコなどの実験器具が所狭しと並んでいる。
「ここが研究室か。まるで、大学の醸造学科の研究室みたいだ」
などと言ってはみたものの、実は大学の醸造学科の研究室など、入った経験もないし、見た経験もない。
そんな事実を指摘されないかひやひやしていると、一番奥、窓際の椅子に座っていた男性が顔を上げた。
「当社の副社長、菊池です」と、南奈に紹介されながら、男性は席を立つ。状況が呑み込めない様子で、不思議そうな表情のまま私たちに歩み寄った。
副社長とは言うものの、恐らく研究畑の人間なのだろう。先ほど、葉月が着ていたのと同じ、薄いブルーの作業着を羽織っている。
白髪交じりの頭と、顔面の皺の具合から推測するに、少なくとも五十歳はゆうに回っているだろうか。きりりとした眉毛と鋭い目つき、への字に曲がった口、気難しそうな表情が、どことなく昔気質の職人らしい印象を感じさせる男性だった。
「お仕事中、すみません。東京からいらした出版社の方で、社内をご案内していたんです」
南奈が気を遣ってか、申し訳なさそうに事情を説明すると、菊池は納得した表情で「ああ、例の……」と、半ば口を開けたままで頷く。
そのままの表情で私たちに向き直ると「私が醸造課の責任者をしております、菊池と申します」と、頭を下げた。
「副社長では?」と、美香が不思議そうな顔をする。
「いやあ、副社長とは言っても、二人いるうちの一人です。私はもともと醸造の人間ですから、経営はほとんどわからんので、名前だけですよ。お恥ずかしい」
菊池はやや薄めの後頭部に手を当てながら、しきりに恐縮した。気難しげな見た目とは裏腹に、柔らかい物腰が意外だった。
挨拶の終わりを見届けて、南奈が建物の解説を始める。
「二階には、もっと大規模な装置を使って、お酒の成分を分析したり、試作品を造ったりする研究室もあります。さまざまな種類の酵母を冷凍保存している、大きな冷蔵庫もあるんですよ。ただ、エアシャワーを使って入るクリーンルームで、部外者の立ち入りは基本的にできないので、お見せできないんです。ごめんなさい」
「酵母に種類があるんですか」
私は意外な事実に驚いて、菊池に尋ねた。瞬間、菊池が嬉しそうな表情になった。
「ありますよ、いろいろな酵母が。どんな酵母を使うかによって、酒の味はまったく違ってきますからねえ。使われる酵母は蔵元によっても違いますし、銘柄によって使い分ける場合もあります。その違いが、日本酒にさまざまなバリエーションを生み出し、奥深い日本酒の世界を造り出すんですよ」
どうやら、私の言葉が何かの琴線に触れたようだ。時と場合によるが、無知も捨てたものではない。
それにしても菊池の語り口は、武骨な見た目からは想像できないほどに冷静で理路整然としている。菊池との会話に手応えを感じた私は、重ねて菊池に言葉を投げ掛けた。
「麹菌によって、酒の味はそんなに変わるもんですか。でも考えてみれば、本も携わる編集部員によって、完成度や売り上げが全く違ってきますから、似たようなものなのかもしれませんね」
菊池が、不思議そうな顔をした。私は、何となく居たたまれない気持ちになって、目を泳がせた。
と、斜めにしたガラス容器を炊飯器に突っ込んだような形の装置が目に入った。
「あれは、いったい何をする装置ですか」
「あれは、エバポレーター。蒸留などの作業に使います。で、こっちにあるのが遠心分離機。さまざまな成分を分析するために、欠かせない機械ですね。こっちは……」
菊池は、私のどんな質問も面倒に思うことなく、むしろ嬉々として説明を続ける。菊池の話は、私の想定を超えた速度で、次々と新しい次元に広がっていく。
「ここでは、何人ぐらいの人が働いているの? 十人ぐらい? それとも、もっと多いの?」
美香が、一つ一つの装置を珍しそうに覗き込みながら、南奈に尋ねた。
「主任研究員の菊池さんと、研究員が四人で、合計五人。葉月も、その研究員のうちの一人というわけ」
矢永が、おもむろに口を開いた。
「酒造りと言えば、杜氏と蔵人と昔から相場が決まっているが、中浦酒造では杜氏を雇ったりは、しないのかな」
南奈が慌てて、手に持った資料を捲る。
「うちの会社は、十年ほど前に、杜氏を雇う遣り方を止めたそうです。それまで酒造りを引き受けてくれていた杜氏の方がご高齢で倒れられて、人材を確保できなくなったのが大きな原因だったみたいです」
「杜氏を雇うって、どういう意味?」
美香が、二人の間に割り込むように、さらに素朴な質問を無邪気に投げ掛けた。言葉を繋いだのは南奈ではなく、またしても矢永だった。
「酒造りは他の工業製品と異なり、昔から独特なシステムでおこなわれてきた。蔵元、つまり造り酒屋は自分たちで酒を造るのではなく、酒造りの技術と知識をもつ専門集団を雇って酒を造ってもらうシステムだ、酒造りの専門集団の責任者が杜氏で、杜氏のもとで実際に酒造りを担うのが蔵人と呼ばれる人たちだ。杜氏や蔵人は、かつてはおもに農民で、農作業ができない冬の間に出稼ぎ先として蔵元に出かけ、酒を造ってきた」
私は、杜氏や蔵人として酒造りに携わってきた古の農民たちに対して敬意を表し、合掌したい思いに駆られた。
「蔵人には、身につけた技術や経験年数などによって、厳しい上下関係がある。また、杜氏には地域ごとに流派があり、知識や技術は、その流派の中だけの秘密として固く守られてきた。三枝君、南部杜氏や津軽杜氏という名前を聞いた記憶はないかな」
「そう言えば、取材に来る前に見た資料の中に、南部杜氏について書かれていた本があったと思います」
「南部杜氏とは今の岩手県、津軽杜氏とは今の青森県にある杜氏集団だ。杜氏の集団は、先ほど言った酒造りの、いわば流派にあたる。しかし近年、出稼ぎという労働形態が少しずつ衰退すると同時に、杜氏の高齢化、後継者不足が進み、杜氏の数は減少の一途を辿っている」
しかし、それでは、日本酒製造自体が立ち行かなくなるではないか。矢永はそんな私の疑問を解消する蘊蓄を続ける。
「杜氏の減少が全ての原因ではないが、今の酒造業界ではコンピューター管理による生産ラインの機械化が進んでいる。機械化すれば、杜氏が長い歴史の中で受け継いできた経験や勘に頼らずとも、均一な品質の日本酒を大量に生産できるというメリットもあるからな」
矢永の解説を聞いていた菊池が、自ら積極的に言葉を繋いだ。
「おっしゃる通りです。厳しい上下関係とか、土地や一定の集団に縛られる生き方みたいなのは、もう流行らないのかもしれませんねえ。そんな昔ながらの酒造りがいいのか悪いのかって聞かれると、私にもよくわからないんですがね」
恐らく、現在の状況に抗うつもりはないし、何よりも抗いようがないのだろう。
しかし、きっと一抹の寂しさを感じているに違いない。菊池は笑顔の下で、時代の流れを受け入れるしかない無力さと、必死になって向き合っているのかもしれなかった。
「今は、杜氏や蔵人を期間限定で雇うんじゃなくて、社員として雇い、商品の製造だけじゃなく、研究開発なんかもやってる造り酒屋が少なくないんですよ。うちみたいにね」
菊池は笑顔だったが、それ以上は、何も語らなかった。
菊池の気持ちがわかるのか、言葉を引き継いで南奈が締め括る。
「うちも今は、もともと杜氏をしていた菊池さんという優秀な主任研究員のもと、研究開発と酒造りを並行しておこなってるんです。と言っても、酒造りの時期は、そちらが忙しいので、研究開発はおもにオフシーズンになってしまいますけど」
菊池は、照れたように微笑み、気を取り直すように威勢よく言った。
「そう。美味しい酒を造るのが、俺たちの使命だからね」
*
私たち三人は工場見学を終えると、南奈が運転する車で、宿泊する旅館に向かった。
昼過ぎに通った道を、中浦酒造から車で十分ほど戻る。旅館は、盆地の北の端から脇道に入ってすぐ、盆地を見渡す高台の上に、ひっそりと建っていた。
「相田旅館」という看板がなければ、そこが旅館であるとは、誰も気付かないだろう。
決して、観光資源に恵まれているとは言えない地域である。地方都市の駅前にあるビジネスホテル級の宿泊施設を期待していたわけではない。だが、木造二階建ての建物の予想以上の古さ、寂れ具合に、正直なところ、多少の落胆を覚えた。
旅館の前で私たち三人を降ろした南奈は、「お疲れ様でした。じゃ、明日、お披露目会で」と言い残して車をUターンさせると、今しがた来た道を走り去った。
「取り敢えず荷物を置いて、寛ぎましょうか。初日にしては、移動から工場見学と内容が濃かったですし、私もちょっと疲れちゃいました」
美香はまだまだ修行が足りない。編集者として必要な素養は、まず体力だ。と、説教したい場面なのだが、私もかなり疲れていた。
美香が玄関の引き戸を開き、旅館内に足を踏み入れる。私と矢永も続く。
眼鏡を掛けた一人の老婆が、薄暗い玄関の横に、影のように立っていた。あとほんの少し暗ければ、私の陰に完全に溶け込み、この世から消え去りそうに思えた。
暗闇で目を凝らしながら、老婆の顔を見る。
長い人生経験と引き換えに、心と体のあらゆる部位が摩耗したのだろうか。皮膚の表面には、幾筋もの深い皺が刻まれ、髪はほぼ白髪と化していた。
ぼさぼさの白髪は、頭頂部で乱暴に纏められている。身長は一五〇㎝ほどなのだが、背中が丸く湾曲しているせいで、さらに小さく見える。
老婆は私たちを上目遣いにねめ付けると、ほうれい線と周辺のしわに囲まれた口を小さく動かし「いらっしゃいませ。お待ちしとりました」とお辞儀をした。
今にも折れてしまいそうなほどに華奢な手を、横にある台に向けて伸ばす。そのまま「こっちに、住所と名前ばお願いします」と、一冊のノートを指さした。
言われるまま、美香が備え付けのクリアレッドのボールペンで必要事項を記入する。
美香が書き終えた事を確認すると、老婆は今一度、眼鏡の奥から上目遣いで私たち三人を眺め、「こちらへどうぞ」と歩き始めた。
私たちは、老婆に導かれるままに、玄関横の階段を上がった。黒光りのする板張りのやや急な階段は、体重を掛ける度にギイと不気味に軋んだ。
階段を上がった場所には、共同の洗面台とトイレがあった。トイレを横目に見ながら、やはり黒光りの廊下を進む。
人の気配はない。私たち三人のほかに、宿泊客はいない様子だった。
「こちらん部屋になります」
老婆はふいに振り返り、くぐもった声で二つの部屋を指さした。
美香に二本の鍵を手渡すと、老婆は無表情のまま、茶運びの絡繰人形のように踵を返す。私たちに後ろ姿を見せながら廊下を戻ると、音もなく階段を下りていった。
「じゃあ、私が桜の間。山際さんと矢永さんは藤の間という割り振りにしましょう。特に山際さんは随分疲れてるみたいですから、しっかり休んでくださいね」
美香が、笑顔で私の顔を覗き込みながら、鍵を一本、すっと手渡した。
「余計なお世話だ。これでも、あのブラックな職場で年中こき使われているんだ。体力には自信がある」
「健康診断で、数値が高過ぎる項目を示すHマークが、結構ありましたよね。知ってますよ。不規則な生活と運動不足で、自慢の体力も落ちてるでしょう」
もしここが舞台の上なら、張り扇で頭を力いっぱい引っ叩いてやりたい場面だ。私は、胸にもやもやを抱えたまま鍵を開け、矢永とともに部屋に入る。
部屋の中は、外観や、部屋までの道のりで目にしてきた様々な設備に比べると、幾分か小奇麗な印象を受けた。
八畳の和室の向こう側には、障子で仕切られた二畳分ほどの縁側があり、隅に小さな冷蔵庫が置かれている。まさに、昭和の旅館の佇まいである。初めての訪問なのだが、妙に懐かしい。
縁側に近付き、窓の向こうに目を遣る。
小さな川の左右に、猫の額ほどの狭い平地が広がる。点在する人間の棲み処を押し潰してしまいそうな迫力で、深い緑の山々が平地の両側に聳え立つ。
長年、広大な沖積平野の一角に位置する東京で暮らしている身にとっては、四方を山に囲まれている光景は物珍しい。同時に、目に見えない力に圧迫されている不安感が、頭を擡げる。
「これから三日間、この旅館にお世話になるんだな。しっかり取材をして、さっさと懐かしの東京に帰ろう」
私は、自分に言い聞かせる。景色を眺めながら、不安感を忘れようと大きく伸びをした。
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