第3話 事件前日二

 車は九十九折れの道をしばらく進むと、谷を抜けた。

 目の前に、細長く狭い盆地が姿を現した。緩やかな下り坂を抜けて盆地に入ると、車は川沿いに点在する民家の間を走り続ける。

「山に囲まれたこの地区は、青刈地区と言います。会社は、この地区の南の外れ、ちょっと山に入った場所です。会社までは、あと十分くらいです」

 隣の席で窓の外を眺めていた矢永が、突然、道の右側に見える山の麓を見ながら言った。

「あれは、キリスト教の教会かな。随分と立派な代物だ」

 矢永の言葉に釣られて、美香が窓の外に目を遣った。私も美香に続いて外を見た。

 道の右側に、まるで寄り添うように集まっている数軒の民家がある。

 後ろに聳える山の斜面に、周囲の簡素な民家とは不釣り合いなほどの威容を誇る、一棟の茶色い建物が見えた。壁面全体がレンガに覆われ、入り口の上にそそり立つ尖塔の上では、白い十字架が天を指している。

 私たちの車から、少なくとも百m近くは離れているだろう。細部まではよくわからない。しかし、レンガの壁や屋根の汚れ、燻みなどが生み出す独特な質感が、決して新しい建物ではない事実を示していた。

 少なく見積もっても、築百年ほど経っているのではないだろうか。

「まるで、ヨーロッパの歴史あるカトリック教会ですね。以前、フランスに行った時に、北部の山村で見た教会も、こんな感じでした」

 美香が、大袈裟に感心した。

 いや、待て。美香は、いつの間にフランスなどへ行ったのだ。社畜として不当な労働を強いられている先輩に黙って海外旅行と洒落込むとは、なかなかよくできた後輩だ。

 しかも、自分の海外旅行を棚に上げ、先輩の細やかなグアム旅行を全力を挙げて妨害するとは、極悪非道にもほどがある。

「そういえば、島原地方は十六世紀後半から十七世紀にかけて、宣教師によるキリスト教布教が盛んにおこなわれていた地域と記憶しているが」

 今度は矢永が、浅く広い知識を披露する。

「よくご存じですね。この地方は、もともとキリシタン大名として有名な有馬晴信の所領で、室町時代末期から江戸時代にかけては、確かに布教と信仰が盛んでした」

 南奈は、斜面の歴史がかった教会を横目でちらりと見ながら、感心した様子で答えた。

「こんな山の中にも、宣教師が来ていたのか。宣教師ってのも大変だな」

「この青刈地区は、日本の玄関口だった長崎や平戸から、比較的近い場所です。貿易港として栄えた口之津や、キリスト教布教の拠点の一つだった加津佐からは非常に近かったためか、宣教師様の行き来も活発だったみたいですよ」

 南奈は、バックミラーを通してちらりと私を見ると、すぐに視線を前方に戻した。

 南奈の話になるほどと納得しかけたが、何か違和感がある。私は、その違和感を口にした。

「さっきのキリスト教会は、いくら古いとはいえ、見たところ明治時代以降の建物だよね。そもそも、キリスト教徒が幕府によって厳しい迫害を受けていた江戸時代に、あんなに立派なキリスト教会が建てられるはずもない。何よりキリスト教自体、迫害によってほぼ途絶えてしまったはずだ。室町時代に、キリスト教の布教が盛んだった事実と、あの立派なキリスト教会は何か関係があるのかな?」

 南奈はハンドルを握りながら、あらかじめ質問を予測していたかのような反応のよさで、私の疑問に淀みなく答える。

「江戸時代になると、徳川幕府による禁教令で、キリシタンは棄教を迫られました。でも、この地区では多くのキリシタンが、隠れキリシタンとして密かに信仰を受け継いだそうです。そんな隠れキリシタンの多くが、明治時代になるとカトリック教に復帰した関係で、この地区は田舎の割にカトリック教徒が多いんです」

「なるほど」

 私は南奈の的確な解説に今度こそ納得し、今一度、窓の外を見た。先ほどは間近に見えたキリスト教会が、車のはるか後方に小さく見えるだけになっていた。

「隠れキリシタンは、みんなカトリック教徒になったの?」と、今度は助手席の美香が南奈の横顔に尋ねる。

「隠れキリシタンのうち、明治時代以降にカトリック教徒になったのは半分ぐらいって聞いた記憶がある。隠れキリシタンは江戸時代にはカムフラージュとして、表立っては神道や仏教を信仰していたんだけど、明治時代になって最終的に仏教を選択した人も少なくなかったみたい」

 美香は、まるで何かを計算するように右手の指を折っている。はっと気づいた表情で南奈の顔を見た。

「半分ぐらいがカトリック教徒になって、仏教を選択した人は少なくない……。そうじゃなかった人たちもいるの?」

 美香の言葉通りだ。私は、後部座席から思わず身を乗り出した。

「隠れキリシタンの信仰は、長い間の隠れた信仰の中で、本来のキリスト教とは懸け離れた内容になっていたらしいの。だから、隠れキリシタンの信仰を捨てないで生きる事を選んだ人もいたみたい。でも、そんな人たちも、今はいないんじゃないかなあ」

 目を瞑っていた矢永が、ここでおもむろに目を開け、口を挟む。

「長崎県を中心に、隠れキリシタンの信仰をそのまま継続した人々が、かつては数万人単位でいたという。だが、後継者不足や地域社会の構造変化などで年々減り続け、今では五島列島や平戸市の離島などに僅かに残っているに過ぎない」

 ハンドルを軽快に操作する傍ら、矢永の解説を聞いていた南奈が、深く頷きながら提案した。

「もし、この地区の歴史にご興味がおありでしたら、明日はお披露目会ですから、明後日にでも、この地区の史跡や郷土資料館をご案内しましょうか。資料館の学芸員が、私の幼馴染なんです。実を言うと、今ここで話した知識も、皆その人の受け売りなんですよ」

 首を竦め、悪戯っぽく舌を出した南奈の姿が、思い出したように言った。

「そうだ! せっかくですから、明日のお披露目会にも、ぜひいらしてください。秋の新作、飲み放題ですよ!」

 私は、飲み放題、食い放題にはめっぽう弱い。思わず、有頂天になって声を上げた。

「それはいい。断る理由もないし、明日はお披露目会、明後日は歴史探索に決まりだな」

 矢永は、私が口にした締めの言葉などまるで聞こえていない様子で、南奈への質問を続けた。

「君もカトリック教徒だろう。明治時代にカトリック教徒になった人々の末裔なのかな」

 南奈が、バックミラーの向こう側で、再び目を大きく見開き、驚いた表情をした。

「おっしゃる通り、カトリック教徒です。でも、なぜ、わかったんですか。ひょっとして私、カトリック教徒だって言いましたっけ」

「言ってはいない。先ほど宣教師を『様』付けで呼んだから、ひょっとしてカトリック教徒ではないかと思ったのだ」

 南奈は、納得した様子を見せ、すぐに遠い景色を眺める表情になった。恐らく、記憶の糸を辿っているのだろう。

「私の家がここに移ってきたのは、曽祖父の代です。昭和に入ってからだったので、もともと隠れキリシタンじゃないんですよ。それに、自分で言うのも恥ずかしいんですが、私自身、あんまり熱心な信者でもないんです」

 会話が続いている間も、私たちを乗せた車は盆地の中央を走り続ける。

 やがて、幹線道路を左方向に外れると、盆地を囲む山に向かって進路を変えた。


         *


 途中、川に架けられた橋を渡る。

 幅が十数mほどの比較的、水量が豊富な川だった。豊富な水量のために、河原はほとんど見られず、堤防の下側がすぐ水になっている。

 橋の袂に掲げられた青い標識を見ると、「清水川」と書かれていた。

 川を渡って数軒の住宅の間を抜けると間もなく、目の前に時代がかった重厚な建物が姿を現した。濃い焦げ茶の板壁に囲まれた、二階建ての巨大な和風建築である。

 車は、建物の横にある駐車場に滑り込んだ。

 南奈は後部座席を振り返ると、「着きました。ここが我が社、中浦酒造です。長旅、お疲れ様でした」と、笑顔で軽く頭を下げた。

 車を降りると、私たち一行は建物の正面に回り込んだ。

 中央付近にある二間ほどの入り口の横には、「中浦酒造株式会社」と墨で書かれた高さ二mほどの木製看板が掲げられている。横には、直径一mはあろうかという立派な杉玉が、軒から吊り下げられていた。

 南奈は杉玉の下を通って開け放たれた入り口をくぐると、私たち三人を建物の中に導いた。

 床は、昔ながらの三和土である。靴底を通して、足の裏から伝わるひんやりとした感触が心地いい。

 中央の広間のような空間から左側に視線を移すと、木製の巨大な樽が並んでいる。

 右側には、かつて酒造りに使われたのであろう様々な道具が、説明用のパネルとともに展示されている。奥の十数畳ほどの空間は、明るい照明の下に様々な酒やお菓子を並べた、土産品の販売スペースになっていた。

「仕事じゃなかったら、ここで思い切り試飲させてもらうところなんだけどなあ」

 展示物の間を通り抜けた美香が、陳列された日本酒の一群を凝視しながら、無念そうに呟いた。

「ここは、もともとお酒を造っていた酒蔵なんですが、今は資料展示やイベント用のスペースになっているんです。実際の酒造りは、今はこの建物を抜けた奥の工場でおこなっています。で、瓶詰めなどは、さらに奥の建物です。今は、お披露目会で披露する秋の限定商品『生詰め冷やおろし』の出荷に向けて、瓶詰め作業の真っ最中なんです」

 南奈の解説を聞きながら建物を通り抜けると、中庭を挟んだ向かいに、近代的な三階建ての工場が現れた。


         *


 南奈が所属する広報課は、工場棟の一階の隅にあった。ドアを開けた南奈に続いて、部屋に入る。

 見渡すと、事務用の机が六台ほど並び、四台の机の上には、それぞれパソコンが置かれている。壁際の棚には広報関係の資料だろうか、書類を挟むバインダーが色分けされた状態で整然と並べられていた。机の一群の奥には、来客用らしい白いソファと小さなテーブルが設えられている。

 南奈は、私たち三人を来客セットまで導くと「どうぞこちらにお掛けになってお待ちください」と、今までになく丁寧かつ事務的な言葉遣いになり、着席を促した。

 私は、南奈の言葉遣いに釣られて思わず畏まりながら、勧めに応じてソファに腰掛けた。

「皆さんのご到着を社長に報告してきます」

 そう言い残すと、南奈は部屋を出ていった。私は、美香とともに南奈の後姿を見送った。

 矢永だけは、座る素振りも見せず、机と棚の間の通路をゆっくりと歩きながら、何やら観察している。

 私たちの傍らにある机の上には、酒のラベルらしい印刷物が無造作に置かれていた。明るい薄緑色をバックに、黒い筆文字で「Shimabaraizumi」と書かれている。輸出を意識した商品のラベルなのだろうか。よく見ると、小さな赤字が所々に入っている。恐らく、新しいラベルの校正紙なのだろう。

「勝手に歩き回って、あんまりじろじろ見ると失礼だぞ。部外秘の書類が置かれていたらどうする」

 私の忠告を聞く様子も見せず、矢永はあろうことか、パソコンの画面まで覗き込み始める。

「そう言う山際さんも、机の上の校正紙をしげしげと見てたでしょう。気付いてましたよ」

 横から美香が鋭く指摘する。唯我独尊を決め込んでいる矢永は、マウスを手に取って画面をスクロールさせると、驚いた表情で呟いた。

「これは会社のホームページだな。なかなかデザイン的にも凝っている。いいセンスだ」

「褒めていただいて、有り難うございます」

 後ろから声がした。声に振り返ると、いつの間に戻ってきたのか、入り口付近に立つ南奈の姿があった。

「申し訳ありません。社長は、出先での打ち合わせからの戻りが遅れてるみたいで、もう少し時間が掛かりそうです」

 南奈は謝罪しながらも、矢永に褒められたことがよほど嬉しかったのか、満面の笑みを浮かべながら矢永の傍らに歩み寄った。

「勝手に見ないでください」と厳しく非難され、えさを取り上げられた犬のようにしょぼくれるであろう矢永を想像していた私は、少々がっかりした。

「社員のなかでは、割とパソコン関係が得意なので、私がホームページを作っているんです。ベースは知り合いのデザイナーに頼んで作ってもらったんですが」

「もうちょっと拝見してもいいかな。社長が戻って来られるまでには、まだ時間があるのだろう」

 南奈の説明を聞き届け、矢永は画面を見詰めたまま、興味深そうに尋ねる。ホームページが、随分と気に入ったようだった。

 南奈は「いいですよ」と相変わらず明るい笑顔で答える。

 矢永はマウスに手を掛け、「商品一覧」と書かれたメニュー・ボタンをクリックした。画面が切り替わり、様々なデザインの一升瓶や五合瓶の画像が一斉に姿を現した。

 私も無意識のうちに、パソコンが置かれた机の前に美香とともに吸い寄せられていた。パソコンを前にした矢永を、私と美香、南奈の三人が取り囲む形になった。

「島原泉って一言で言っても、随分と種類があるんだね」

 美香が感心する横で、矢永はひたすらページをスクロールし、ホームページを隅々まで観察している。時々、メニュー・ボタンをクリックする音が、カチカチと部屋に響く。

「『まだらネコのほろ酔い日記』……。ブログもやっているのか」

 声に誘われて画面を見ると、左上に三毛猫の写真が大きく掲載されたブログが目に入った。地の色は薄いピンクで、酒屋のホームページにしては可愛らしい雰囲気だ。

 南奈は、一度画面を確認すると矢永を振り返り、よく通る声で答える。

「はい。ただ、ブログだけは醸造課の郷田葉月という女性が担当しています」

「醸造課……。どうしてブログだけは、他の部署の人が作っているんだい」

 私は尋ねた。南奈がホームページを管理しているのなら、ブログも南奈が作成すれば効率がいいはずだ。

「醸造部門の生の声を伝えたほうがいい、という社長のお考えで、ブログに関しては醸造課の人間が担当しているんです。亡くなった会長は、どちらかというとインターネットとかには疎い方だったんですが、今の社長がネットでの情報発信に力を入れようって、ブログも開設したんです」

 南奈は私たちに説明しながら、何気なくドアの方向に顔を向ける。次の瞬間、「あっ」と驚きの声を上げた。

「葉月! びっくりしたなあ。いつからそこにいたの。いつも、いつの間にかいるんだから、葉月は」

 南奈の声に誘われて、私たちもドアに視線を移動させた。

 ドアの前には、一人の女性が立っていた。女性は驚いた様子で硬直していたが、やがて呪縛が解けたかのように弛緩すると、驚きから冷めやらぬ様子で「いらっしゃいませ」と頭を下げた。

「彼女が、このブログの制作者、郷田葉月です。さっきもお話ししましたけど、醸造課に所属しています」

 私たち三人は、同時に葉月を見詰めた。

 長い黒髪をひっつめにした、傍らに立つ南奈に比べると、幾分か小柄な女性である。白いTシャツの上に薄いブルーの作業着を着込んだ作業員風の服装が、OL然としたスーツ姿の南奈とは対照的である。

「こちらは、東京からいらした出版社の方々で、山際さんと矢永さん、三枝さん。今日から三日間、お酒の本の企画でうちの会社を取材する予定なんだ」

「初めまして。東京さきがけ出版の三枝と申します。今日から三日間、取材させていただきます。できるだけご迷惑にならないように気を付けますので、よろしくお願いします」

 美香が、三人を代表して挨拶する。

 突然の展開に対する緊張が続いているのか、葉月はまだ少しおどおどした表情だ。しかし、不安そうな表情とは裏腹に、目には生来の強い意志のような光が、凛々と宿っているようにも見えた。

「葉月のお父さんは、以前はこの会社の副社長をしていたんです。十年ほど前に引退されましたけど」

 南奈は、思い出したように壁の方向を指さした。指の先には、簡素な額縁に入った三十㎝四方ほどのモノクロ写真があった。社員一同が集まって撮影したらしい、よくある集合写真である。随分と昔の写真らしく、ややセピアがかった色に変色していた。

 よく見ると、右上に全員のシルエットを表す小さな図版が嵌め込まれていて、図版に重ねるように、一人一人の名前が書き込まれている。

 一人一人の名前を順番に確認すると、前列の右から四人目に「郷田聡(副社長)」という書き込みが確認できた。恐らく、この人物が葉月の父親なのだろう。

 と、私たち世俗の者とは常に別次元の世界を彷徨っている矢永が、パソコンの画面を見詰めたまま、珍しくストレートな褒め言葉を口にした。

「このブログの写真は、郷田君が自分で撮っているのかな。被写体の選び方といい、構図といい、どれもなかなかセンスが感じられる写真だ」

 見ると、真っ赤なウメモドキの実や、白く小さな花を咲かせるギンモクセイ、路地裏を歩く三毛猫などの写真が、お披露目会の告知記事とともに掲載されている。

「写真も私が撮影しています。昔から写真が好きで、時々、一人で山などに撮影に行ったりもするんです。ただ、皆さんのようなプロの方々の前では、お恥ずかしいほどの素人写真なんですが」

 葉月は、本当に恥ずかしそうに、途切れ途切れに言葉を繋いだ。

「謙遜は無用だ。今回の取材のへっぽこカメラマンよりも、よほど才能を感じる」

 私は、矢永の合理性を欠いた辛辣さに遣り場のない不快感を覚えながら、眉間に皺を寄せた。お構いなしに、矢永は続ける。

「ブログのタイトルである『まだらネコ』とは、どういう意味かな? まさか、郷田君がまだらネコではないだろう」

 思わぬ誉め言葉に対して、まだ戸惑いを隠せない葉月に代わり、南奈が口を開いた。

「うちの会社に棲み着いている猫の愛称です。正式な名前はないんですが、まだら模様なので、『まだら猫』って呼んでいます」

 この二人、南奈が先輩で葉月が後輩なのだろうか。いずれにしても、普段からかなり仲がいいのだろうと想像できる。南奈の話を聞いた美香が、胸の前で両手を握って素直に感動した。

「面白い。猫の名前とブログのタイトル、誰が考えたの。南奈? それとも郷田さん?」

「どっちも葉月がつけたの。まだ子猫だった時、会社の横の側溝に嵌っているのを葉月が見つけて、助けたんだ。そのせいなのか、社員の中でも特に葉月によく懐いてるんだよね、葉月」

 南奈の問い掛けに、葉月はちょっとはにかんだ笑顔を浮かべながら頷く。

 葉月が初めて見せた笑顔だった。初々しい笑顔は、今まで葉月に纏わりついていた重苦しい空気のベールを、一瞬にして華やかで明るい空気に変えた。

 次の瞬間、真顔に戻った葉月は、思い出したように、私たちに向き直って告げた。

「申し遅れましたが、社長がお戻りになられました。社長室においでください、とのお話です」


          *


 私たち三人は、南奈に続いて廊下を進む。

 広報課の部屋と同じく廊下も、装飾性を排除したシンプルで現代的な造りが印象的だ。採光性を最大限に考慮した大きな窓から、明るい光が差し込む。

 光は、清潔感が溢れる白を基調とした壁に反射し、建物内を眩しいほどに照らし出す。

 太陽の光は、大脳の下部に位置する視床下部や下垂体などを刺激し、人間の精神活動や生理作用に大きな影響を与えるという。私の職場も、せめてこの廊下の半分くらい明るければ、私の精神活動も大いに活性化され、すぐにでも優秀な成績を収められるはずなのだが。

 突き当りの右側に、「社長室」と書かれたプレートが張り付けられたドアが見えた。南奈はドアの前で立ち止まると、軽くノックをした。

 奥から聞こえる「どうぞ」という声を確認して、南奈はドアを開ける。私は後ろに立って、南奈のうなじを眺めながら後に続いた。

「東京の出版社の方をご案内しました」

 南奈が頭を下げた先に、黒光りする大きな社長机が見えた。机の向こうには、若い男性が座っている。南奈は男性に対してお辞儀をし、続いて私たち三人にも軽くお辞儀をすると、そのまま席を外した。

「遠路はるばる、ご苦労様です。打ち合わせがちょっと長引いていたので、遅くなってしまいました。申し訳ありませんでした」

 男性は、過剰な抑揚のある芝居がかった口調で弁明し、席から立ち上がった。

 恐らく三十歳前後だろう。社長という肩書から想像していたよりも随分と若い。整髪料で隙なく整えた頭髪、さりげなく羽織ったやや細身のシルエットのスーツなどを見る限り、およそ酒蔵関係者とは思われない。東京のビジネス街を闊歩する若手ビジネスマンのようにも思われた。

「私が中浦酒造の社長、中浦隆です」と自己紹介をしながら、私に名刺を差し出す。

 私は「初めまして。東京さきがけ出版の山際と申します」と挨拶をすると、ほぼ完璧な作り笑いを浮かべながら、名刺を交換した。

 社長は、続いて美香、矢永とも同じように名刺を交換する。私たち三人の名刺にしげしげと目を通すと、隙のない笑顔を作って着席を促した。

 私は勧められるまま席に着き、さりげなく室内に目を向ける。

 部屋は、田舎の小さな企業の社長室としては、まあまあの大きさか。小さくもなく、かと言って驚くほど大きくもない。

 壁際の棚には、経済学や経営学関係の書物が並び、横には透明なアクリルケースに収められた、真新しい建築模型が置かれている。ケースの隅には「AIDA CONSTRUCTION CO・LTD」と書かれた小さな銀色のプレートが貼られている。建設会社からの贈り物だろうか。

 そのほかの調度品といえば、真っ先に目に入った、社長の威厳を表す立派な机と椅子、加えて黒い革の応接セットが目立つばかりだ。名刺に書かれた「中浦酒造」の名がなければ、造り酒屋の一室とは判別できないほど、酒を感じさせる要素のない小奇麗な空間だった。

 初対面の人物に、自らの部屋を好奇の目でしげしげと眺められる事態に慣れているのだろうか。私たちの視線の意味を悟ったらしい社長が、笑いながら語った。

「田舎の造り酒屋の社長室にしては、随分と殺風景な部屋でしょう。社員にも『何もなさ過ぎる』ってよく皮肉られるんですが、もので溢れ返っている部屋は、あまり好きじゃないんですよ」

 若社長は笑顔のまま、私たちに続いて席に着いた。社長に負けじと満面の笑みを浮かべた美香が、企画書をはじめとする数束の書類を取り出す。書類の束を社長に渡しながら、形ばかりの前口上を述べた。

「取材はなかなかお受けいただけないと聞いていましたが、この度は取材をご快諾いただきまして、本当に有り難うございます」

 続いて手元に残った書類を捲ると、企画の概要を説明する。

「弊社では来年の三月、日本酒に関する書籍の出版を予定しております。その書籍の巻頭記事と致しまして、海外進出を積極的に進めておられる御社の取り組みについて、様々な角度からご紹介させていただければ、と思っております」

 コンコンとノックする音とともに、お茶を載せたお盆を持って南奈が入室した。

 南奈は四人の前にお茶を置くと、無表情のままお辞儀をし、再び部屋の外に姿を消した。つい先ほどまでの愛想のよさは影を潜め、まるで別人のような表情だった。

 私が、南奈が出ていったドアの方向をぼんやりと眺める横で、美香の企画説明は着々と進行する。うんうんと頷きながら企画書と資料に目を通していた社長は、やや無造作にも思える手付きで、紙の束をテーブルの上に置いた。

「だいたいの内容は、わかりました。弊社も、今回の記事には期待をしています。いい感じに書いてくださいよ」

 社長は、笑顔を浮かべながらも鋭い目付きで、テーブルの反対側に座る私たちに顔を向けた。視線が、右端に座る美香から矢永、私へと順番に移動する。

 私は、得体の知れない威圧感を敏感に感じ取った。

 ファッションを初めとする万事に隙がなく、一見すると愛想がよく見える。そんな人物に限って、自分の思い通りにことが運ばない時に感情を乱しやすいという法則を、私は知っている。代表的な例が、うちの社長だ。

 今、ニコニコと笑顔を浮かべながら私の前に座っている若社長は、恐らくその法則が当てはまるタイプに違いない。

「この後は、結城に工場を見学させましょう。わからないことがあったら、何でも聞いてください。製造工程に関して、もし疑問点があれば、郷田という女性従業員に聞いてください。郷田なら、恐らくいつも醸造課にいるはずですし、その辺りの説明も、きちんとできるはずですから」

 立ち上がろうとする社長を押し留めるように手を上げながら、矢永が口を開いた。

「あそこにある建築模型は? どこかに新しい工場でも建設するのですか。もしそうだとすれば、なかなか思い切った設備投資ですね」

 皮肉が隠された矢永の言葉を、褒め言葉と受け取ったのだろうか。瞬間、社長の顔が得意気な表情になったように思えた。

「実は、近くにあるうちの山を開発して、温泉を中心とした観光施設を造る計画を進めているんです。その完成予想模型ですよ。ご存知のように、この地区は目ぼしい観光コンテンツもなく、高齢化と若者の流出、少子化で人口も減る一方です。この施設が地域活性化の一助になれば、と思ってるんです」

 社長は模型を眺めながら、饒舌に語った。

 夢を語る人間は、得てして口数が多くなる。私は、社長の話を半分聞き流しながら、タイミングを見計らって「へえ」とか「ほう」などと相槌を打つ。

 矢永は質問をしたものの、着地点を見つけられないでいるのだろう。社長の前で、調教師を目の当たりにした哀れなサーカスの熊のように、大人しく座っているばかりだ。

 私が矢永の悲哀に同情している間に、社長は一頻り説明をし終わったらしい。おもむろに立ち上がり、目を細めながら、美香に向かって右手を差し出した。

「完成した暁には、是非こちらも取材にいらしてください。お酒と温泉の町として、大々的に宣伝して、多くの観光客を呼び込みましょう」

 語尾が「呼び込むつもりです」ではなく、なぜか「呼び込みましょう」だ。日本語の使い方を間違っている。

「ぜひご紹介させていただきたく思いますので、その時は取材のご協力を宜しくお願いします。ほかにも弊社では温泉や旅行関係の書籍なども制作しておりますので、そちらの編集部にも声を掛けてみましょう」

 美香は、調子に乗って余計な口約束を取り付けると、ソファから立ち上がって社長と固い握手を交わした。私は、美香の軽率な振る舞いに危機感を覚えながらも、美香と矢永を真似て、恭しくお辞儀をした。


         *


 私たちは、美香を先頭に社長室を出ると、広報課に向かう。

 広報課では、パソコンに向かった南奈が慣れた手つきでキーボードを叩きながら、ホームページを更新していた。南奈は、私たちに気付いて手を止めると「お疲れ様です」と労いの言葉を口にし、「工場をご案内しましょう」と席を立った。

 作業場を目指す南奈の後ろ姿を見ながら、私は社長についての率直な感想を語った。

「会長は、どちらかというと酒造メーカーの社長というより、東京辺りのビジネスマンっぽい人だね。本棚にも経済関係の本がたくさん並んでいたし、ひょっとしたら経営学などにも詳しいのかな」

 正直なところ、キレやすいのではないか、実は陰湿なのではないかなどと聞きたかったのだが、自分の思いを安直に口にするほど私も馬鹿ではない。

「社長は、大学で経営学を専攻されていたんです。だからなのか、亡くなられた会長に比べると、酒造りがビジネスとして成り立つかを常に意識されているらしいんですよね」

「そういえば、下調べの資料として読んだ本には、確か島原泉を海外で注目されるほどのブランド酒に育て上げのは、今の社長さんだって書いてあったと思う。今の時代、社長さんみたいに先を見据えた経営戦略も大事なのかもしれないね」

 美香の語る内容はもっともだ。今の時代、古い因習や体質に固執していては、進歩がないばかりか、周囲から取り残されて、相対的に後退せざるを得なくなってしまう。我が社も、私のような才能溢れる人物を重用して、時代に鋭く切り込むことを真剣に考えるべきなのだ。

「でも、亡くなられた会長は、海外展開などの新しいビジネスには無頓着で、メディアなどへの露出はむしろ嫌ってらしたの。もともと地元消費型のお酒だったし、お酒以外で忙しくなると、肝心のお酒の味が落ちるって」

 南奈は、私と矢永に顔を向けて、さらに続ける。

「社長室にあった大きな建築模型を見ましたか? あれは社長が建築会社に造らせた模型なんですよ」

 矢永が、抑揚を欠いた声で答える。

「何でも、温泉施設とやらの建築模型らしいな。完成したら、ゆくゆくは温泉と酒の町として売り出すつもりだと、社長が嬉しそうに話していた」

 南奈は、大きく頷きながら補足した。なぜか、不満そうな表情だった。

「実は、亡くなられた会長は、温泉施設の開発にも反対していらしたんですよね」

 ひょっとすると社長は、会長が亡くなった事実を、ビジネスを次の段階に進めるチャンスだと捉えているのかもしれない。不謹慎にも、思わずそんな考えが頭をよぎった。

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