毒蟲は土に蠢く
児島らせつ
第1話 二つの事件
序章一
一九九七年三月
小学四年生に進級する直前の、春休みの出来事だった。
その日、僕が居間のテーブルで本を読んでいると、お父さんがふらりと帰ってきた。
まだ、夕方ともいえないほどの早い時間だ。
――こんな時間に帰ってくるなんて、珍しいな。
本を読みながらちょっと不思議に思っていると、お父さんは突然、妙に真剣な声で話し掛けてきた。
「ちょっとよかか。話があるったい」
普段のお父さんは、とても無口だ。まして、何かに夢中になっている僕に声を掛けることなど、滅多にない。
突然の出来事に驚いた僕は、テーブルの前に座り込んだまま振り向き、身長一八〇㎝近い長身のお父さんの顔を見上げた。
お父さんは、僕の表情をちらちらと観察しながら、まるで単語の一つ一つを選ぶように、落ち着かない様子で話を続ける。
「今から山に行く。一緒に来んね。わいに見せときたかもんがあると」
表情から考えると、どうやら冗談などではなく、本気のようだった。でも、いくら早めに帰ってきたといっても、もうすぐ夕方だ。山に登るなんて、いったいどういうつもりなんだろう。
「今、本ば読みよう。よかところやけん、今度じゃつまらんの?」
面倒に思った僕が言い返すと、お父さんはちょっと困ったような顔をして、一瞬の間を置いて答えた。
「よかけん来んね」
お父さんはやや強い調子で言い残すと、僕の返事を聞こうともせずに、すたすたと玄関に向かって歩いていく。玄関の上がり框に腰を掛けると、靴を履き始めた。
「春休みも明日までやけん、明後日からは学校やろう。明日はお父さんさんも忙しかけん、今日やなかとつまらんとじゃ」
お父さんは、昔ながらの頑固者だと皆が言う。僕もそう思う。一度こうと言い始めたら、僕が口にする反論など聞きはしない。
僕は仕方なく、読みかけの本をテーブルの上に置くと、お父さんの後を追う。玄関に着くと、運動靴を履いて外に出た。玄関の外で待っていたお父さんは、僕が近づくとやや乱暴に腕を掴み、大股で歩き始めた。
「山って、どこん山に何しに行くと? ちゃんと話してくれんば、わからんばい。それに、腕、痛か」
僕が顔を顰めると、お父さんははっと気づいて、腕を離した。
「悪かった。つい、気が焦ってしもうてな。大丈夫か」
僕は、腕をさすりながら、こくりと小さく頷いた。
いつものお父さんらしくない。何だか随分と思い詰めている様子に見えた。お父さんに遅れないように小走りに近い速さで歩きながら、僕はもう一度しつこく尋ねる。
「どこん山に、何しに行くと?」
「絹笠山たい。わいも知っとうやろう。あん山たい」
お父さんは、前方に聳え立つ山を指さした。それ以上は何も話そうとしない。
突然、子供を一方的に連れ出しておいて、ほとんど説明をしないという状況は、ちょっと納得がいかない。ひょっとしたら、話しにくい理由でもあるんだろうか。
お父さんの横顔を見上げると、なんとなく、何かを隠している表情にも見えてくる。
絹笠山は、僕たちの家からそう遠くない場所にある。島原半島の真ん中辺り、雲仙岳の南西数㎞にある、標高九〇〇mほどの小高い山だ。
九〇〇mとは言っても、麓にあたる僕たちが住む地区、青刈地区の標高自体が比較的高いので、普段から僕たち地元の人は、それほど高い山とは思っていない。そんな山だった。
とても天気のいい日だった。時間は夕方に近く、山道を登る僕たちを、橙色の夕日が後ろから照らしていた。
登り始めは、アスファルトで舗装された道路だった。十分ほど歩いた頃、お父さんは進む方向を見詰めたまま、不愛想な顔で僕に声を掛けた。
「ここから林道に入るばい。道が悪うなるけん、気ば付けれ」
何が起ころうとしているのかわからないまま、僕は不安を隠さずに返事をした。
「……うん、わかった。ばってん、あんまり速う歩いちゃ、嫌ばい」
お父さんは前を見たまま、「ああ」と短く答える。間もなく、僕とお父さんは舗装道路を右に曲がって、舗装されていない林道に足を踏み入れた。
最初は、小さな車が通れるほどの道幅だった。足元も、車のタイヤが付けた溝でちょっと歩きにくかったけど、しっかりと踏み固められていた。
だけど、登るに連れて、地面はいつの間にか凹凸が激しくなって、道もどんどん狭く、険しくなっていく。狭い道の真ん中には、昨日まで数日間、降り続いた雨でできたぬかるみが、くねくねと走っている。油断をすると、ぬかるみに足を取られて転びそうになる。
お父さんは、親子連れで歩くには不向きとしか思えない道を、僕の体力も考えずに足早に登っていく。さっき「速う歩いちゃ、嫌ばい」と言った時、間髪を入れずに「ああ」と答えたのは、いったい何だったんだろう。
僕は、お父さんの足をどうにか止めようとして、もう一度しつこく質問した。
「なして、急に絹笠山に?」
「とにかく、見せんばならんもんがあるったい。よかけん黙って登らんね」
お父さんは、僕を振り向き、ちょっと苛々した様子を見せて短く答えると、再び前を向いた。そのまま、何かに取り憑かれたように、黙って登り続ける。
道の両側に生える木や草は、気が付くと、僕の背丈よりも遙かに高くなっている。草木は、僕たちの上に覆い被さり、本来なら足元を照らしているはずの太陽の光を隠していた。
気が付くと、木の間からほんの少しだけ見える空は、さっきまでの橙色がかった青色から、少しずつ灰色に変わり始めていた。僕たちが歩く木のトンネルの中も、暗くなり始めている。
日の入りが近かった。
暗くなるに連れて、大きくなる恐さと不安。耐えられなくなった僕は、もう帰りたいと心から思い、さっきから一生懸命に考えていた言い訳を口にした。
「もう帰ろう。もうすぐ、日ば暮れてしまうばい」
でも、お父さんは振り返りもせずに、はあはあと息を切らしながら、「もうちょっと、もうちょっと……」と小さく呟いただけだった。
僕は、どうしていいかわからなくなって、立ち竦む。お父さんの後ろ姿をしばらくの間眺め、はっと思い出して後を追った。
今の僕は、言われた通りにお父さんに付いていくしかない。僕は、お父さんの後に続きながら、不安を紛らわせるために必死になって考えた。
お父さんは、僕にいったい何を見せたがっているのだろう。なぜ、質問にもほとんど答えてくれないのだろう。何の説明もないまま、小学三年生の腕を無理矢理ぐいぐい引っ張って、夕暮れ近い山に連れていくなんて、あんまりじゃないか。
いろいろな疑問が、後から後から湧いてきて、頭の中を駆け巡る。不安を紛らわせるはずが、かえって僕を不安にさせた。
登り始めて、十分ほど経った頃だった。狭い山道は、何の前触れもなく、突然ふっつりと終わった。見上げると、僕たちの目の前には、急な斜面がそそり立っていた。
周囲は深い林に囲まれていたけど、その部分だけは、人工的に木々が取り除かれたらしい。不自然なくらいにはっきりと、岩肌が顔を覗かせている。
何となく、見覚えがある景色だと思った。でも、それがいつ、どこで見た景色なのか、思い出せなかった。
高く聳える急な山が、倒れ掛かってきそうに思えた。見上げていると、何だかとても怖くなってきた。
僕が感じた怖さは、決して風景に対する怖さじゃなかった。うまく言えないけど、これから何か大変な事件が起こるかも知れない、そんな恐さだった。
「ここば登るけん、付いてこんね。なに、ゆっくり登れば、大丈夫ばい」
お父さんは、相変わらずぶっきらぼうな調子で僕に命じると、崖に辛うじて頭を覗かせている岩の隙間に足を掛けた。手足に体重を掛ける度に、脆くなった岩の欠片がぽろぽろと砕け落ちた。
「無理ばい、こがん急な崖。落ちたら怪我するばい」
一生懸命に断ろうとした。だけど、小学三年生の小さな声は二人の距離の前に掻き消されて、お父さんの耳には届いていないらしかった。
お父さんは、斜面を登りながら僕の姿を見下ろして、僕にも登るように目で合図をする。
僕は、取り残されるかもしれないと思うと不安になり、お父さんの後を追って、必死で斜面を登った。
でも、こっちは、まだ十歳にもならない子供だ。お父さんとは身長や体力に大きな差があるから、何度も転げ落ちそうになる。
ようやくのことでお父さんに追いついた時には、手も膝も泥だらけになって、肩で息をしている有様だった。
下から見上げた時にはわからなかったけど、足元には幅数十㎝ぐらいの平らな場所がある。そこが、ちょうど足場のようになっていた。
僕が無事に登ってきた状況を確かめたお父さんは、持っていた小さなスコップで、目の前の土や枯れ葉を掻き分けて、穴を掘り始めた。僕は、体力が回復するのを待ちながら、黙ってお父さんの作業を見守った。
数分ほど掘り続けた頃だった。土の中から、子供一人がやっと通れるか通れないかというくらいの、小さな扉が姿を現した。
鉄でできているらしい、重そうな扉だった。きっと古い扉なんだろう。全体が茶色く錆びて、山から染み出す水に濡れた部分から、微かに鉄の匂いがした。
よく見ると、右側の二ヶ所に蝶番があって、左側の一ヶ所に、赤銅色の南京錠が掛かっている。南京錠は扉ほど古いものではないらしく、それほど錆びてはいなかった。
「よかか。開くるぞ」
「……うん」
僕は、お父さんの目を見て小さく答え、ごくりと唾を飲み込んだ。
お父さんは、ポケットから出した鍵を南京錠に差し込むと、ゆっくりと回した。かちりと音がして南京錠が外れたのを確認すると、お父さんは扉を引いた。
扉は、ぎぎぃと軋むような音を立てながら、ゆっくりと開き始めた。きっと、何年も動くことがなかったので、蝶番が錆びて動きにくくなっていたんだと思う。
お父さんの太い腕の筋肉が盛り上がって、表面に何本もの血管を浮かび上がらせていた。その様子から、お父さんが精一杯の力を込めて、扉を開こうとしているのがわかった。
扉の奥は、真っ暗な空間だった。濡れた土の匂いがした。暗闇が今にも、どろどろとしたわけのわからないものに変わって、ずるずると自分に向かって這い出してくるような気がした。
僕は、思わずお父さんにしがみ付いた。
暗闇に目が慣れてくると、入り口から差し込む微かな光で、ぼんやりとだけど中の光景が見えてきた。
中は、扉よりもやや大きな通路になっていた。背が高いお父さんが身を屈めないで進むことができていたから、きっと大人が立って歩けるぐらいの高さなんだろう。
ただ、光が届いているのは入り口から数mくらいの場所までで、その奥にはやっぱり深い暗闇が広がっている。お父さんは、腰にしがみついた僕を引き摺るようにして、ずんずんと奥に進んでいった。
そのまま、五mか十mほど進んだ時だった。突然、足音の響き方が変わった。その音で、僕は今までと広さが違う場所に出たことを知った。
お父さんは、ポケットを探ると、古い懐中電灯を取り出し、スイッチを入れた。
懐中電灯の光に照らし出されたのは、岩の壁だった。気がつくと、僕たちは岩を刳り抜いて造られた、天井の高い大広間のような空間の端に立っていた。以前に、何度か友だちと訪れた、近所のカトリック教会の中にちょっと似ていた。
さっき、入り口で嗅いだ時とは比べものにならないくらい強烈な、錆びた鉄の匂いが鼻の奥に流れ込む。僕は、思わず咳込みそうになった。
お父さんは懐中電灯の首を振り、光をゆっくりと左側に動かした。
光の動きを目で追っていると、中の様子が少しずつわかってきた。僕はそこが、四方を岩の壁に囲まれた部屋だと、勝手に想像していた。でも、岩でできているのは、入り口がある面を含む、三方の壁だけだった。
残りの一方の壁は、木の板でできていた。いや、木の壁じゃなかった。よく見ると、子供が入れそうなぐらいの大きさの木箱が、天井近くまで積み上げられて、まるで壁のようになっていた。
木箱は、入り口の扉よりも古いらしかった。長い間、湿気と地下水に触れていたせいだろう。或る箱は色が変わり、或る箱は押し潰されるように一部が壊れて、中身が頭を覗かせていた。
僕は、無意識にお父さんのそばを離れて、箱から頭を覗かせている物体に顔を近づけた。
懐中電灯の頼りない光に照らし出されたのは、ボロボロになるまで錆びた鉄の棒の束だった。棒の先端には穴があいて見えるけど、その穴も盛り上がった錆でほとんど塞がっている。
穴に顔を近づけてみたものの、懐中電灯の光が斜めから中途半端に当たっているせいで、真っ暗な穴の中は見られなかった。
「……わいは、これば守るったい」
後ろで、お父さんが小さく、野太い声で呟いた。
僕は、「え?」と聞き返した。
お父さんはもう一度、前よりも更にはっきりとした口調で言った。
「わいが、これば守るったい。いつか来るそん日んために、守るったい。今はお父さんの仕事ばってん、お父さんも、いつかは倒るる。そん時は、わいがお父さんの代わりに守らんばならん。それが、昔から決められとう運命ばい」
僕には、お父さんの言葉の意味が、よくわからなかった。
――その日?
――誰から、何を守るの?
――何のために、どうやって?
僕は、言葉の意味を確かめるために振り向き、お父さんの顔を見た。
お父さんは、普段は無口だけど、とても優しい人だった。そんなお父さんが、今まで家では見せた記憶がないほど厳しい表情で、僕の顔を見詰めていた。
僕はお父さんの顔を見て、今まで頭の中に次々と浮かんだいろいろな疑問をぶつけられなくなった。
お父さんが「今は聞きなしゃんな。いつか、わかるけん」と言っているような気がした。
自分がこれからずっと背負っていかなければいけない、運命という目に見えない幽霊みたいな存在が、体全体に絡みついてくるのを感じた。
幽霊からは絶対に、どんな出来事があっても逃げられない。
僕は、今まで感じていたより、もっと強い恐怖感に押し潰されそうになった。同時に、受け入れなければならないという、諦めに似た気持ちが生まれ始めている事実に気付いた。
その時だった。
後ろで、ゴトリと音がした。
僕は驚いて振り向こうとして、凍りついた。何かが僕の腕に触った。いや、触ったんじゃない。誰かが、僕の左右の二の腕を強い力で掴んでいた。
恐怖に怯えながら、僕はお父さんに向かって必死に声を上げようとした。でも、喉を震わせるはずの空気は、胸の奥で堰き止められて、声にならない。
次の瞬間、異変に気づいたお父さんの懐中電灯の光が、僕の上半身付近に向けられた。光に照らし出されたのは、僕と一人の男の人だった。
僕は恐怖に震えながら、横目で男の顔を見る。下から斜め上に向かって照らされた懐中電灯の光のせいで、男の顔は鬼に見えた。
「誰や!」
お父さんが叫びながら、男に掴み掛かった。その拍子に、僕の体は男の腕を離れ、僕は地面に尻餅をついた。
頭が真っ白になり、僕はお父さんを置いたまま、暗闇の中を出口に向かって走り出した。途中で何度も転びながら、走り続けた。
気が付くと、泥だらけになって家の玄関の前に立っていた。多分、転んだときに擦り剥いたんだろう。右の膝からは血が滲み出ていた。
僕は、玄関の上がり框に腰掛けたまま、お父さんの帰りを待った。少しずつ冷静になると、お父さんが心配になってきた。
お父さんは、いったいどうなってしまったんだろう。無事なんだろうか。
三十分ほど経った頃、お父さんが帰ってきた。お父さんは、何かに取り憑かれた恐ろしげな眼で僕を見詰め、
「今日、わいが見たことは『奇蹟』ばい。奇蹟やけん、人には絶対に言いなしゃんな。よかか、忘るったい」
何が奇蹟なのか、僕には意味がわからなかった。
ただ、お父さんの言うように、今日のことは忘れよう。心の中にしまって、決して人には言うまいと、固く心に誓った。
序章二
二〇一六年九月十八日
私は、パーティが嫌いではない。わかりやすく言うと、好きだ。
麗しいドレスで着飾った淑女や格調高いスーツをに身を包んだ紳士に囲まれていると、自分が二、三段上のランクの人間になったような気がするし、何よりも美味しい料理やお酒が食べ放題、飲み放題なのが嬉しい。
しかし、その喜びも同伴者の顔ぶれ次第と言えるだろう。同伴者が箸にも棒にも掛からない田舎者だった場合には、魅力的なはずのパーティも、何とも残念な行事になってしまう。悲しくも、嘆かわしい話だ。
*
今日、私こと山際公彦(きみひこ)は、九州の島原半島にある中浦酒造でおこなわれている秋の限定酒のお披露目会に、書籍の編集者として出席している。
もともと、このお披露目会に出席する予定はなかった。前日からこの地に滞在し、中浦酒造の酒造りを取材していたところ、取材を担当する広報課の結城南奈(みな)という女性から声を掛けられた。
「せっかくですから、明日のお披露目会にも、ぜひいらしてください」
南奈の一言で、当初の予定には入っていなかったお披露目会に急遽、出席する事になった。
そして、このお披露目会に私と共に参加しているのが、記事を書くライターの役を担っている矢永敬一郎、そして後輩の三枝(さえぐさ)美香という二人の田舎者だ。このパーティを、私にとって残念なものにしている張本人たちである。
*
会場は中浦酒造の敷地内にある、昔ながらの酒蔵と棟続きになった、広いイベントスペースだった。
会場は、立錐の余地もないほど多くの関係者で溢れ返っている。さすがは、日本酒界の新星として彗星のごとく現れた造り酒屋のお披露目会だけの事はある。
すでに、宴の始まりから三十分程が経過している。私たち三人、とくに私と後輩の美香は、結構な量の酒を口にしていた。
「酒は美味いが、この混雑ぶりは落ち着かんな」
私は独り言ちながら、三杯目の酒に口を付ける。
「でも山際先輩、喧騒の中で飲むお酒って、なんかワクワクしませんか。例えば、花見の時のお酒みたいに、非日常を感じさせてくれるっていうか」
声に振り向くと、私の三倍以上と思われるハイペースでグラスを煽っていた美香が、すでにほんのり頬を染めている。一六〇㎝台半ばのスリムな体をこちらに傾け、そこそこ整っている目鼻立ちの顔をぐいと近付けると、けらけらと笑った。
私は、美香に対するリアクションが面倒に思えて、思わず傍らに不愛想に立ち竦んでいる一人の男に視線を移動させた。
その男は、身長一七九㎝ながら痩せぎすな体躯に加え、葬式帰りの出席者を思わせる黒いスーツが生み出す過度に細身のシルエットせいで、一八〇㎝台半ばにも見える。この男こそ、何を隠そうもう一人の田舎者、矢永敬一郎その人だった。
不愛想を座右の銘とする矢永は、私の視線には微塵も反応を示さず、仏頂面で部屋の中央付近に目を遣っている。私は、つられて矢永の視線を追った。
イベントスペースの中央付近に置かれたモニターには、「酒造りの一年」「我が社の今後のビジネス展開」といったタイトルの映像が、繰り返し流されている。
モニターの横に並べられたテーブルでは、法被姿の南奈がはち切れんばかりの明るい笑顔で、客のグラスに酒を注いでいる。一升瓶が並んだテーブルの近くでは、若社長である中浦隆と、会社の顧問弁護士である間弁護士が、氷と日本酒の入ったグラスを高々と掲げている。
その様子を、一人の女性が撮影していた。醸造課の郷田(ごうだ)葉月だ。
背は決して高くないし、いわゆる華やかなタイプではない。しかし、日本人らしいすっきりとした顔立ちに、和服が実によく似合っている。
彼女は、中浦酒造のブログを担当しているという話なので、恐らくブログ用の写真を撮影しているのだろう。長い黒髪から漂う芳香が、ここまで伝わってきそうな気がする。
私はしばし、我を忘れて葉月の姿に見とれた。
「社長は、随分とご機嫌だな。新しい日本酒を世界に広めるパイオニアとしてマスコミに取り上げられて、すっかり有名人気取りといったところか」
矢永が、苦虫を噛み潰したような表情を崩さずに、毒を吐いた。慌てた私は、葉月のことも忘れて、矢永の火消し役になる。
「おいおい、ここは敵陣真っ只中だぞ。軽率な言動は慎んでくれ」
私の必死の囁きが聞こえているのかいないのか、矢永は相変わらずの顰めっ面のまま、微動だにしない。まったく、自分勝手な奴だ。
矢永の不機嫌そうな顔とは関係なく、宴は進む。
モニターの横で、華やかな雰囲気が一際目を惹く和服の女性が、関係者にお酌をしている。社長の妹である中浦樹(いつ)希(き)だ。
そのすぐ近くでは、先ほど写真撮影をしていた若社長と弁護士が、入れ代わり立ち代わり近付いてくる出席者たちを相手に、相変わらずご機嫌な様子で談笑を続けている。二人の横に立つ和服の女性は、社長の母である中浦祥(しょう)子(こ)だ。
と、その時だった。
若社長の体が突然、ぐらりと揺れた。次の瞬間、胸元を押さえると、目を不自然に見開いた状態で俯いた。そのまま、崩れ落ちるように人混みの中に沈み、見えなくなった。続いて、弁護士も全く同じ反応をしたかと思うと、床に崩れ落ちた。
数人の女性の悲鳴が、宴の喧騒を切り裂いた。
私は、何が起こったのか確認しようと背伸びをした。しかし、悲鳴を上げながら、こちらに向かってくる人々の流れに遮られて、なかなか様子が確認できない。私は「どうした!」と、半ば本能的に大声を上げると、人々の流れに逆らって駆け出した。
気が付くと、矢永も傍らを走っていた。矢永と二人で、人混みを掻き分けながら進む。
ようやくのことでモニターの前に辿り着くと、社長と弁護士が床の上に倒れ伏していた。私たちは、二人のすぐ傍らまで近付いた。二人は激しい痙攣を起こしながら、目を剥き、喉を掻き毟っている。口元からは真っ赤な泡が溢れ出していた。
「貴方!」
人混みの中から、一人の女性が飛び出した。社長夫人の中浦秋江だった。秋江は、蒼褪めた表情をしながら床に膝を突くと、倒れている社長の上半身を慌てて抱き上げた。
その瞬間、口から血が混じった赤黒い吐瀉物が、一気に噴き出す。粘性をもった吐瀉物は、秋江の和服の裾付近を伝わって、どろりと床に広がった。
倒れている二人の様子を見た私は「これは……」と口にしかけ、言葉を詰まらせた。
――ひょっとすると……。
いや、そんなはずがない。私の思考は混乱した。
いつの間にか傍らに立っていた美香が、目を塞いだ。南奈は、両手で口を覆ったまま、がくがくと膝を震わせている。
「この症状は、毒物だ!」
私の代わりに、矢永が叫んだ。矢永は続けて「救急車だ。あと、大量のぬるま湯を。急げ!」と、大声で周囲の人々を怒鳴り付けた。矢永の言葉に数人が、事務所のある建物に向かって、慌てて駆け出した。
ぬるま湯を待つ間にも、矢永は社長の体から秋江を振り払い、口に指を突っ込む。
「とにかく、吐かせるんだ。山際は、弁護士を頼む」
矢永の呼び掛けに、私は弁護士に近付く。
しかし、人の口に指を突っ込んで内容物を吐かせた経験など、あるはずもない。弁護士を前に「どうすればいいんだ」と、震える声で矢永に尋ねた。
矢永は「とにかく、指を突っ込んで吐かせろ」と声を荒げる。私は仕方なく、弁護士の傍らに座り込むと、口に人差し指と中指を挿入した。
粘膜を傷つけないように気をつけながら、指を可能な限り奥まで差し込む。しかし、弁護士の反応は鈍かった。嘔吐反射が見られない。
どう対処していいかわからずに矢永を見ると、社長の反応も同様だった。矢永は、諦めた表情で私を見る。
やがて、私と矢永はほぼ同時に口から指を出すと、二人からそっと離れた。
「意識障害がある。救急車を待つしかない」
矢永が呟く後ろで、秋江が再び社長に駆け寄った。二人の顔色は見るみるうちに血の気を失い、ひゅうひゅうという苦しげな呼吸が徐々に弱々しくなっていく。痙攣も、少しずつ振幅を弱める。
ぬるま湯は、まだ来ない。
いや、来ても無駄かもしれない。私は口には出さないまでも、最悪の事態を想像した。
時間にすると、ほんの数分ほどだったろうか。
やがて、全てが静かになると、秋江に抱きかかえられた社長の頭部と、先刻まで喉を掻き毟っていた腕が、だらりと力なく垂れ下がった。
私と矢永は、手や汚れた衣服を洗浄するために、南奈に先導されて、その場を後にした。一同が為す術もなく、何が起こったのかさえ把握できないで立ち尽くす中、「貴方! 貴方!」と叫び続ける秋江の声だけが、酒蔵の中にいつまでも木霊していた。
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