第12話 資料館再訪

第七章


二〇一六年九月二十五日


 社長の告別式が終わると、私たちは地区に一社しかないタクシー会社に電話し、タクシーを呼んだ。

 私たち三人が乗り込むと、ハンドルを握った運転手が、助手席に腰掛けた私に対して「どちらへ行きましょうか」と尋ねた。

 言葉に詰まった私は、助けを求めて後部座席の矢永を振り返る。

「確か、資料館に行く前にどこかへ寄ると言ってただろう。どこへ行くんだ」

 矢永は、私の問い掛けに対して直接は答えず、運転手に「間弁護士の自宅へ行きたいんだが、わかるかな」と告げる。

「間弁護士、ですか?」

 運転手は、バックミラー越しに矢永をちらりと見ながら、不審そうな顔をした。

 いつだったか、南奈は間弁護士を「地元では文化人扱いだ」と表現していた。にもかかわらず、この運転手は間弁護士を知らないらしい。運転手の不思議そうな表情が、私には不思議に思えた。

 運転手は、そのまま一瞬だけ考える。思い出したように「ああ、間さんのご自宅ですね」と答えると、ゆっくりとサイドブレーキを下ろし、アクセルを踏んだ。

 車の傍らに立っていた南奈が、名残惜しそうに手を振りながら、私たちを見送った。

「なぜ、間さんのご自宅なんですか。このまま郷土資料館に行っちゃ、だめなんですか」

 動き出した車の中で、美香が矢永の顔を覗き込みながら、興味津々に尋ねた。

「今日は、午後から間氏の告別式もおこなわれている。資料館に行く前に、ちょっと顔を出してみようと思ってね」

「なぜ、告別式がおこなわれているなんて知っているんだ」

 間家の予定を押さえている事実を不思議に思った私は、矢永に尋ねる。

「昨日、広報課で見ていた新聞に告別式の告知が掲載されていた」

 矢永は窓の外を眺め、陽の光に目を細めた。

 私たちがカンタリジンの正体について侃々諤々と議論を繰り広げている間にも、矢永は次の調査の手筈を着々と整えていたようだ。矢永の頭の中は、シュレーディンガーの量子力学よりもさらに難解で不可解だ。

「告別式には、間氏に縁のある人たちが一堂に集まっている。一人一人、順繰りに訪ね歩いて聞き取りをするよりも、こんなに効率がいい話はないだろう。上手くいけば、事件に関する重要な話を聞けるかもしれない。まあ、相手が快く応じてくれればの話だがね」

 確かに、私が逆の立場でも、快く応じたいとは思わないだろう。中浦酒造の人々のように温かい目で見てくれる人々は、例外中の例外だ。

 タクシーは、盆地の中央を南北に走る道をひたすら北に向かって進む。盆地の北の外れ、私たち三人が宿泊している旅館まであと数分の場所で右折すると、盆地の東側に向かって針路を取った。

 盆地を南北に貫く、清水川を渡る。そのまま、しばらく住宅街を進むと、道が少しずつ細くなってきた。どうやら、間弁護士の自宅が近いらしい。

「どんな内容を聞くつもりなんだ」と、私は再び口を開いて矢永に確認した。

「大した内容ではない。最近、仕事上のトラブルはなかったかとか、特に貞夫氏との関係はどうだったかとか、そんなところだ」

「先方にしてみれば、告別式の時にあまり聞かれたくなさそうな質問だな」

 私は、相手の立場に立ちながらも、矢永に対しては素っ気なく答えた。

 矢永は、私の顔に視線を向けると、突然「まあ、そこは君の腕次第だ」と、聞き捨てならない言葉を口にした。

 またしても、だ。

「俺の仕事だって? いつの間に決まったんだ。だいたい、最初に提案した張本人は矢永、君だろう」

 私は、目の前に堂々と座っている他力本願な男を前に、思わず大きな声で抗議した。

「山際、君の他に誰がいるというんだ。君は、こういう時のためにいるんだろう」

 矢永は、澄ました顔で返事をする。私は口をへの字にして不満を露わにしながらも、言い返す言葉を見つけられず、本能的にうな垂れた。

 ほどなく住宅地が途切れ、トラックや重機が所狭しと置かれた広場が現れた。タクシーは、広場の奥にある一軒の大きな家の前に音もなく止まった。

 いや、正確には大きな家というより、小ぶりなビルと表現するべきだろうか。運転手は、助手席の私と後部座席の矢永、美香を順番に見ながら「着きました。ここが間建設です」と説明した。

「間建設? 間弁護士の自宅は建設会社なのかい」

 驚いて尋ねる私に、運転手はにこにこと営業スマイルを浮かべながら、当然といった口振りで返す。

「間建設は、この辺りでは有力な建設会社です。間さんの坊ちゃんは、ここのご長男です」

 中浦酒造を出る時、運転手が不思議そうな表情をした理由が、今わかった気がした。恐らく運転手にとって、間弁護士は弁護士ではなく、あくまでも間建設の長男なのだろう。

「すぐ戻りますから、ここで待っててもらえますか」

 美香が運転手に告げた。そのまま、矢永とともに車を降りる。

 慌てて、私も後に続いた。


         *


 ビル横にある駐車場には、数十台の乗用車が止まっていた。

 ちょうど、式が終わった時間らしい。ビルの陰から、喪服に身を包んだ人々がぞろぞろと出てきたかと思うと、挨拶もそこそこに、それぞれの車に乗り込んでいく。

「山際さん、出番ですよ。頑張ってください」

 美香が私の背中を、どん、と不作法に突き押した。

「お前まで、俺に汚れ役を引き受けろと言うのか」

 私は毒付いた。

 しかし、美香は私の問い掛けには何も答えず、「私は、中で声を掛けてみます」と言い残し、ビルの裏に颯爽と消えていった。

 私は仕方なく、車に乗り込もうとする人々に影のように近づく。軽く頭を下げ、タクシーの運転手譲りの営業スマイルを浮かべながら、蚊の鳴くような声で取材を試みた。

 取材内容はと言えば、先ほどタクシーの中で矢永と打ち合わせた通り、間弁護士の仕事上のトラブルや貞夫との関係などである。

 最初は、それほど愛想が悪いわけではない。しかし、まず出版社の人物であると正体を告げると、心なしか表情が硬くなる。間弁護士の死や人間関係に話が及ぶと、皆一様に貝のように固く口を閉ざす。

 これ以上しつこく食い下がっては、掌の一撃によって、それこそ蚊のように潰されてしまうかもしれない。私は、冷や汗を流しながら引き下がった。

 何人かに同じ方法で接近したが、案の定、有力な情報は得られなかった。

 美香は、上手く話を聞き出せているのだろうか。

 いや、案外、鬼より厳しい先輩である私がいないのをいい口実に、物陰に座り込んでいるのかもしれない。ことによると、缶コーヒー片手に、油を売りまくっている可能性だってある。

「警察と違って社会的権威があるわけじゃないから、やっぱり難しいな」

 私は、際限なく流れ落ちる冷や汗をハンカチで拭い、取材の困難さを改めて言葉にした。

 私の独り言を、言い訳と捉えたのかもしれない。数mほど離れた場所で様子を眺めていた矢永が、「このままでは、君を連れてきた甲斐がない」と、冷笑した。

 私は思わず「笑ってないで、君もやってみたらどうだ」と口に出そうとした。

 その瞬間だった。

 一人の老人が、次々と車に乗り込む人々の群れから離れ、私たちに向かって近付いてきた。老人は目の前で立ち止まると、他の出席者たちと同じく、警戒心に満ちた表情で、私を上目遣いに睨め付けた。

「あんたたち、出版社ん人ね」

「はい。東京の出版社の者です」

 私は、相手の警戒心を解くために、覚えたての営業スマイルで答える。私の言葉に反応して、近くにいた数人が同時に私に視線を向けた。

 視線を感じた瞬間、私の体中の汗腺が、示し合わせたように一斉に口を開く。冷や汗よりもさらに濃縮された脂汗が、汗腺の奥底から湧き上がってくる感覚に襲われた。

「悪か事は言わん。今回ん事件はそっとしておいたほうがよか。奇蹟には、誰も踏み込んだらいけん」

 老人は、強い信念を宿した目を私に向け、低く、はっきりとした口調で語った。

 ――今、奇蹟と口走ったのか。

 私の耳は、予想だにしなかった言葉を上手く拾い上げられなかった。老人の言葉を推測して「奇蹟、ですか?」と確認しようとした。

「奇蹟とは、どういう意味かな」

 いつの間にか私の傍らに立っていた矢永が、静かな口調で老人に問い掛けた。

「奇蹟は、奇蹟たい」

 老人は、もどかしそうに口走ると踵を返し、車の周辺にたむろする人々の群れの中に消えていった。

 はっと我に返った私は、人込みを掻き分けて老人を捜索した。しかし、老人の姿を見つけることは叶わなかった。私は呆然と立ち尽くしながら呟いた。

 ――奇蹟とは、いったい何だ。

 被害者が二人ですんだ状況が奇蹟なのか。或いは、間弁護士の遺骨が思ったよりも早く戻ってきた状況が奇蹟なのか。

 それとも、間弁護士が亡くなった事実、それ自体が奇蹟だとでも言いたいのか。

 狐につままれた気持ちで呟く私の横で、矢永は下唇の下に薄く生えている無精髭を、右手の親指と人差し指で弄んでいる。

 私は、矢永の様子を見て「何か気付いたことでもあるのか」と尋ねた。

 その時。

 敷地内で油を売り、その代金で缶コーヒーを買っていたのであろう美香が戻ってきた。

「駄目です。全然、話そうとしてくれません。まるで厄介者扱いで」

 私と矢永を見つけた美香は、両手を広げて困った表情をした。

 矢永は、美香の取材失敗を確認すると、捉えどころのない笑顔を浮かべながら、「覚えているか。社長室にあった建築模型を」と、私たちに問い掛けた。

 私は、「ああ。もちろん、覚えているさ」と相槌を打った。田舎の造り酒屋には不釣り合いとも思える、何とも立派な建築模型だった。

「あの模型には、『AIDA CONSTRUCTION CO・LTD』と書かれたプレートが付いていただろう」

 矢永の言葉に、私は目を閉じて、社長室の詳細を思い浮かべた。

 随分と以前の話だ。細かい部分までは、とうてい思い出せない。しかし、言われてみれば、そんなプレートが付いていた気もする。私が記憶を確認するより早く、何かに気づいたのか、美香が驚いた表情で口を開いた。

「つまり、間弁護士の実家である間建設は、中浦酒造の開発計画に関わっていたんですね」

「そのようだ。今まで気がつかないとは、迂闊だった。どうやら我々は、事件を全く新しい角度から見直す必要が出てきたのかも知れない」

 矢永は、湧き上がる喜びを抑え切れないといった微笑を浮かべながら、下唇を撫でる。迂闊だったと発言する割には、妙に嬉しそうだ。矛盾している。もっとも、矢永の存在自体が、大いなる矛盾なのだが。

 それにしても、間弁護士の実家が間建設であり、開発に関わっていた事実が、いったいどんな意味をもつのか。理解に苦しんだ私は、矢永を問い質そうとした。

「さあ、次は資料館だ」

 私が問い質すよりも先に、矢永はいつになく嬉しそうな声を上げた。

 私と美香を置き去りにして、矢永は足早にタクシーに向かう。ドアをノックすると、開いたドアから後部座席に乗り込んだ。私も、慌てて矢永の後を追う。

 今、恐らく矢永の脳の中では、複雑なジグソー・パズルのピースのような断片的な手掛かりが、着実に組み立てられつつある。そのパズルは、徐々に何か具体的な景色を描き始めているのかもしれなかった。

「お待たせして申し訳なかった。郷土資料館まで行ってもらえるかな」

 矢永は、私と美香が乗り込んだ様子を確認すると、歯切れのいい声で運転手に告げた。


         *


 三人を乗せたタクシーは、一路、資料館へと向かう。

「この度は、間さんの坊ちゃんには本当にお気の毒なことで」

 車のハンドルを握りながら、運転手は気の毒そうに呟いた。

「運転手さん、間弁護士をご存じなんですか。もしよかったら、間弁護士についてお話を聞かせてもらえませんか」

 運転手の呟きを聞き逃さなかった美香が、絶妙のタイミングで反応した。

「間さんの坊ちゃんは、子供の頃から、よく知ってますよ。とても頭のいい方で、昔は神童とも呼ばれてました」

「こんな、辺鄙な田舎にも、そんなに優秀な人物がいるのか」

 矢永が、何とも失礼な言葉で感心した。

 案の定、運転手は少しむっとした表情を見せた。むっとしたまま、視線だけをちらりと動かし、バックミラー越しに矢永を見る。すぐに正面に向き直ると、気を取り直したように続けた。

「坊ちゃんは、社長でいらっしゃるお父上にとって、ご自慢のご長男でした。お父上は会社を継いでほしかったらしいのですが、弁護士だか裁判官だかになるとか言って、大学もそっち方面に進みましてね。結局のところ会社を継がなかったんですよ。卒業後、長崎市内に事務所を開いてたらしいですね。法律事務所っていうんですか」

「今、間建設は誰が?」

 矢永に余計な相槌を打たせないため、私は機先を制して運転手に言葉を向けた。

「お父上がやっておられますよ」

 じっと前方を見据えながら、運転手は当然とでも言いたげな口ぶりで答えた。

「長男の間弁護士は、会社の経営には全く関わってないんですか?」

 今度は美香が、ヘッドレスト越しに運転席を覗き込む。運転手は、矢永の時と同じく、目だけで美香を見た。

「今までは関わっていらっしゃらなかったようです。ただ、一緒に亡くなられた中浦酒造の社長さんとは、昔から仲がよかったんです。その関係もあって、中浦の社長さんと実家の建設会社の間をいろいろと取り持ってたそうですがね。中浦さんの温泉開発とやらが実際に動き始めたら、坊ちゃんは間建設に戻るらしいという噂もありました」

 川を渡って幹線に戻ると車は左折し、中浦酒造の方向を目指して南へ進む。数百m進んで幹線から右に入ると間もなく、郷土資料館が見えた。


         *


 私たち三人は、資料館の前で車を止めてもらうと、運転手に礼を言ってタクシーを降りた。そのまま、資料館の自動ドアを抜けて進む。

 三人の先頭にいた私が、受け付けに座っている女性に声を掛けた。

「東京さきがけ出版の者ですが、辻さんはいらっしゃいますか」

 女性は、無表情なままで「少々お待ちください」と返事をすると、手元にあった内線電話の受話器を取る。何やら二言三言、ぼそぼそ告げると、すぐに受話器を置いた。

「辻は、奥の収蔵室におります。すぐ参りますので、少々お待ち下さい」

 女性の言葉通りにロビーで待っていると、間もなく、通用口から辻が現れた。

「お待ちしてました」

 私たちを見付けると、嬉しそうに微笑んだ。

「例のキリシタン版、やっぱり他の学芸員が奥のほうに移していたみたいです」

 辻は頭を掻きながら、申し訳なさそうにお辞儀をした。

 私たち三人は「こちらへどうぞ」とドアを開ける辻に続いて、先日と同じようにバックヤードに入る。

 収蔵室へと歩を進める道すがら、矢永が辻に尋ねた。

「事件後、樹希君には会ったのかな。樹希君は、お兄さんが亡くなられて随分とショックを受けていたようだが」

 辻は立ち止まり、振り返る。頭を掻きながら、寂しそうな表情で答えた。

「お兄さんの事件があった翌日と、昨日の通夜の時に会いました」

「今日の告別式には出なかったのかな。姿を見かけなかったが」

「昨夜、通夜の時に社長のお母さんの祥子さんに『しばらくは、そっとしておいてください』って釘を刺されたもんですから、今日はちょっと遠慮しておこうかと……」

 美香が今更ながら、「いろいろと大変なんですね、皆さん」と、辻を含む多くの関係者に同情した。辻は、美香の言葉に「はは」と力なく苦笑した。

 辻のもどかしい気持ちは、よくわかる。しかし一方で、祥子の心情も痛いほど理解できた。

 薄暗い通路を抜けて収蔵室に入ると、先日と変わらず、さまざまな収蔵品を収めた棚が目に飛び込んできた。私たち三人は、棚の間を抜けて注意深く進む。辻に勧められるままに、机の横に置かれた折り畳み式のパイプ椅子に座った。

 横の木箱には、先日も見かけたマリア観音が収められている。

 辻は「ちょっと待ってください」と断ると棚の中段を覗き込み、やや平らな木箱を取り出した。

 桐製ではないかと思われる、三十×四十㎝ほどの白い木箱である。辻が蓋を開けると、木材とカビの臭いが入り混じった青臭い臭いが辺りに広がった。

 私たち三人は、身を乗り出して中を覗き込む。辻が慎重に包み紙を開くと、和紙の束を綴じた、いかにも年代物らしい簡素な書籍が姿を現した。

「これが、東洋最古の西洋式印刷物として誉れ高いキリシタン版か。実に美しい」

 矢永が、興奮を抑え切れない様子で呟いた。

 歴史的に貴重な遺物である事実は、間違いないのだろう。しかし、辻の話通り、半分近くは焼けて失われ、残った部分も少なからず茶色に変色している。

 激しい傷みばかりが目立つ紙の束は、いくら貴重な歴史的資料だと言われても、正直なところ私にはピンと来なかった。

「山際。君の浅薄な頭脳では、この資料の希少性、歴史的重要性はとうてい理解できないだろうな」

 矢永が、私の心を見透かした言葉を発した。

 見透かされた悔しさから、「かつては貴重な資料だったのかもしれないが、こんな状態では焚き火の燃え滓と同じだ」と、反論したくなった。しかし、横にいる辻の顔が視界に入ったので堪えた。

「ページを捲ってみたいが、いいかな。ピンセットがあれば貸してほしい」

「ピンセットなら、ここにあります。捲っても構いませんが、捲ったとしても読める箇所はごく一部ですよ」

 矢永は、辻から白い手袋とピンセットを受け取ると、手袋を嵌める。

「一部であっても、貴重である事実に変わりはない」

 そう呟くと、無残に焼けた書物のページを慎重に捲り始めた。

 焼けた部分は既に欠け落ち、半ば粉となって箱の底に散らばっている。欠け落ちるべき部分をとうの昔に失っていた書籍は、思いのほか容易にページを捲れる状態になっていた。

 矢永は慎重に慎重を期して、ゆっくりと新しいページを開き続ける。壁に掛けられた時計が時を刻む音が、コチコチと室内に反響した。

 矢永は、数ページを捲ったところで手を休め、今まで丸めていた背中を伸ばすと、「ふう」と息を吐いた。息を飲んで矢永の作業を見守っていた私たちも、釣られて息を吐いた。

「やはり、最古のキリシタン版である『サントスの御作業の内抜書』だ。オリジナルの加津佐版に間違いなさそうだな」

 焼け残った部分に描かれたイラストの一部を目視しながら、矢永が納得したように呟いた。

「これほど焼けていなければ、極めて貴重な資料なんですが」

 自分の責任ででもあるかのように、辻が無念さを滲ませる。

「焼けたとはいえ、これはこれで十分に貴重な資料だ」

 矢永は辻を慰める口調で語った。

「サントスの何とかって、いったい何ですか。どんな内容なんですか」

 緊張から解放された美香が、矢永の背中越しに箱の中の焼け残りを覗き込んだ。

「簡単に言えば、使徒などの生涯や殉教の様子について書かれた本です。日本人に、キリスト教とはどんな宗教かを知ってもらうために活用された、謂わばパンフレットみたいな書籍といえばいいでしょう」

 辻の言葉を受け、矢永が実物を使って解説する。

「ちょうどこの部分が、冒頭の一文にあたる。焼けているので非常に判別し難いが、本来は『今日サンタエケレジヤよりサンペドロ、サンパウロ一切人間の三つの敵に対せられて御運を開き給ふところを悦び申さるるものなり。三つの敵とは、わが身、この世界、天狗これなり。』と書かれている」

 美香が「天狗、ですか」と、腑に落ちない様子で復唱した。

 確かにおかしい。

 天狗とは、山の神として信仰されたり、妖怪の一種として民間に伝承されたりしてきた日本独特の存在であるはずだ。

「三枝が指摘する通り、天狗がキリスト教の教えに登場するとは不自然だな。いったいどういう話だ」

「天狗とは、悪魔を指している。悪魔の概念がなかった日本人のために、天狗のイメージを流用したというわけだ」

 矢永が、天狗と書かれた部分を、右手の人差し指で示しながら解説した。

「当時の人たちには、ただ悪魔って言われるよりも、天狗みたいな存在だって言われたほうがイメージしやすかったんでしょうね」

 美香が、当時の人々の表情でも思い浮かべているのか、空を見詰めながら自論を展開した。美香が語る間も、矢永は食い入るように紙面を見詰め、再びゆっくりとページを捲る。

「辻君。そういえば君は以前、この地区には江戸時代に入って以降も隠れキリシタンが多かったと語っていたね」

 矢永が、思い出したように顔を上げた。唐突な隠れキリシタンの話題に、辻は少々不可解そうな表情をしながらも、矢永の記憶を肯定した。

「はい。でも、それが何か?」

 再びページに目を落としながら、矢永は辻に対して明快な語り口で話し掛ける。

「結城君も同じような内容を言っていた。結城君の説明では、室町時代末期から江戸時代初期にかけて、この地域ではキリスト教の布教が盛んだったため、弾圧後も多くの隠れキリシタンがいたらしいという話だった。しかし、江戸時代に入っても隠れキリシタンが多かった理由は、それだけではないはずだ。キリシタンはこの地区に限らず、もっと広い範囲に多数いたはずだからね」

 ツボに嵌ったのだろう。辻は「さすがに鋭いですね」と、矢永の言葉に感心しながら、今までにも増して嬉しそうに説明を始めた。

「隠れキリシタンが多かった理由は、もともとキリシタンが多かった事実もあるんですが、それ以外に二つの理由があると考えられているんです」

 矢永は間髪を入れず、「ほう」と興味深そうに呟いた。美香も矢永に倣い、興味深そうに辻を見詰める。

 辻は、「皆さん、島原の乱はご存知ですよね」と、私たち三人の顔を見比べながら、試す口振りで問うた。

 もちろん知っている。十七世紀の前半、島原半島と今の熊本県天草諸島のキリシタンや農民、豊臣残党の牢人たちが、島原藩および唐津藩の圧政、キリシタン弾圧に対抗するべく、天草四郎を総大将として蜂起した百姓一揆だ。

 もっとも、この知識は、先日矢永が語った内容そのままなのだが。

 私の思索をよそに、辻によるキリシタンの話題は継続する。

「残っている当時の文献によると、この地区のキリシタンは、島原の乱に参加しなかったらしいんです。当然のように、島原の乱で討ち死にしたキリシタンも少なかった。それが、この地区に隠れキリシタンが多かった一つめの理由です」

 美香が、納得のいかない表情で辻を見詰めた。

「どうして乱に参加しなかったんですか。島原の乱には、島原半島の南部からも多くのキリシタンが参加したはずですよね。この地区の人たちだけが参加しなかった背景には、何かあったんですか」

「その理由は、よくわかってないんです。思うに、この地区のキリシタンは情報収集など、何か別の役目を担っていたのではないでしょうか。その役目を遂行するために、敢えて直接、乱には参加しなかったとすると、辻褄が合います。根拠があるわけではないんですが」

「なるほど、面白い考察だ。ただ、根拠がない以上、妄言と切り捨てられても仕方ないがね」

 矢永が、身も蓋もない言葉を口にした。

 矢永のストレートな物言いに機嫌を損ねるでもなく、辻は「そうなんですよね」と、ばつが悪そうに答えた。頭を掻きながら、苦笑する。

「で、二つめの理由は? やはり、島原の乱に関係する内容なのかな」

 興味をそそられた私も、ついつい辻に続きを促す。

「実は島原の乱の時、乱に参加していなかったこの地区にも、幕府方の討伐軍が一度、やって来たらしいんです。ところが、原因は不明なんですが、討伐軍の兵力が激減してやむなく撤退したという言い伝えが残っているんです。これも根拠はないんですが、地元の古い人たちの間では、今も語り継がれています」

「それは只事ではないな。いったい何が起こったと伝えられているんだ。ぜひ知りたい」

 私は辻の話を円滑に進めるべく、タイミングを見計らって合いの手を入れる。

「この手の話は、乱の時だけでなく、江戸時代を通じて何度かあったらしいんです。幕府が隠れキリシタンを弾圧しようと、この地に乗り込んできたものの、その度に大した成果を上げるでもなく撤退したという内容です」

 美香が、左掌を右手の拳でポンと叩きながら深く頷いた。

「そうか。もし江戸時代の伝説が事実だとすると、それが隠れキリシタンが減らなかった、二つめの理由になるわけですね」

 ここで私は、かねてから気になっていた質問を辻に投げ掛けてみた。

「この地の隠れキリシタンの末裔で、今も信仰を受け継いでいる人々はいるのかな」

 この地を訪れた初日、南奈は車の中で、今も信仰を受け継いでいる人がいるかどうかについては、よく知らないと答えていた。辻なら、疑問に答えてくれそうな気がした。

 辻は、腕を組んで考え込んでいたが、やがて静かに口を開いた。

「五島列島や平戸市の離島などの隠れキリシタンと同じような成立過程を辿りながらも、独自の発展を遂げた宗教的組織があったらしい。以前、そんな話を聞いた記憶があります。ただ、人数はそれほど多くないですし、今は表立った宗教活動もしていないようです」

 私は、思わず身を乗り出した。美香も興味をそそられたようだ。私と同じく身を乗り出した。私たちの興味を確認して、辻は言葉を続ける。

「でも、信者たちは、日常生活の上では社会の中に溶け込んでいるうえに、組織は研究対象にもなっていません。そのため、活動内容や構成員については、地元の人もよく知らないんです。若い人のなかには、都市伝説みたいに思っている人もいるみたいですよ。都市ではないんですが」

 辻は、頭を掻きながら笑った。

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