第13話 神社の秘密

 辻の説明は、南奈の説明に比べると多少、具体的ではあるものの、私の疑問を解消するほどの詳細さは持ち合わせていなかった。結局、隠れキリシタンの信仰を受け継いでいる人々は、今となってはほとんど残っていないし、詳細はわからないという結論か。

 私たち三人が侃々諤々と議論を交わす横で、矢永は何物にも心を動かされず、焼け残りのページをゆっくりと捲り続けていた。異様なまでの落ち着き振りは、解脱を目指す修行僧のようでさえあった。

 最後と思われるページに辿り着いた時だった。矢永は、「おや」と呟くと、不思議そうな表情で煤けた紙に顔を近付けた。

「どうしました」

 辻が横から覗き込む。

「このページ、間に別の紙が入っているようだな」

 矢永は、かつてキリシタン版だった焼け残りの紙の束を指さした。私と美香も覗き込む。

 なるほど。最後のページが、長年の風化のせいだろうか、一際しっかりと密着して、ちょうど袋綴じのような状態になっている。

 焼け焦げてできた隙間から、明らかにキリシタン版とは質感の異なる、一枚の紙片が顔を覗かせていた。

「これを取り出してみたいのだが」

 矢永の提案に、辻は顔を近付けて密着部分を確認する。

「軽く引っ張ってみてくっついていないようなら、取り出せるかもしれませんね。一応、私がやりましょう」

 辻は、自分も白い作業用手袋を嵌めると、矢永と立ち位置を入れ替えて、一段と顔を近づける。中の紙片をピンセットで挟むと、力加減を調節しながら、細心の注意を払って引っ張った。

 紙片に、引っ掛かりはないらしかった。意外なほどに呆気なく、取り出し作業は終了した。

 紙片は、二枚折りになっていた。焼けた側にあったはずの右半分は、当然、欠けている。

「こりゃ、中も随分とご丁寧に焼けたもんだ」

 紙を見るなり、私は落胆して思わず大きな声を上げた。美香が「しっ」と囁きながら、人差し指を口元に当てる。

 辻が、ゆっくりと紙片を開いた。

「紙の質感は、和紙とは明らかに違いますね。どうやら西洋の紙です」

「西洋の紙と和紙は、そんなに違うのかい」

 私が尋ねる。横から矢永が、人を蔑む態度で口を出した。

「中世から近世にかけての西洋の紙は、おもに粉砕した木綿屑などを原料としている。ペン先の摩擦に耐え得るように滑らかで全体的にやや厚く、インクの滲みも少ない。それに対して、和紙は楮などの繊維を長いまま使っているため、薄い割には丈夫だ。筆と墨を使う方法を想定しており、滲みによる独特の表現方法が可能になっている」

 知ったような口振りが癪に障るが、ここはじっと耐えた。口角泡を飛ばしながら議論をしていては、折角の紙の遺物たちが唾でふやけてしまう。

 私は、矢永を睨み付ける代わりに、目の前の西洋の紙切れに視線を落とした。

 紙片は、もともと汚れていたのか、焼け残った部分も黒ずんでいた。文字がほぼ解読できない状態になっていると言ってもよかった。

 辻は、それでも諦めずに、見えそうで見えない文字と格闘を続ける。

「文字の特徴も、キリシタン版とは異なっていますね。日本語のローマ字表記ではなく、向こうの言葉。しかも手書きです」

 辻が、興奮を素直に表情に表しながら、震える声で呟いた。辻の言葉に興味をそそられた私は、新たな情報を催促する。

「何語なんだ。いったいなんて書いてあるんだ」

 矢永が「まあ、慌てるな」と私を制止しながら、興奮の冷めやらぬ辻に続いて解説した。

「これは手紙だな。言語は、どうやらイタリア語らしい。文字は、汚れていてほとんど読めないが、左下の一部は読めそうだ。内容は『……macino un canthar……』。恐らく『ゲンセイをすり潰す』という意味だと思われる」

「ゲンセイって、確か」

 美香が矢永の顔を眺めながら、驚いた様子で記憶の糸を辿る。

「そう、カンタリジンの原料だ」

 矢永が、間髪を入れずに返答した。

「今回の事件に使われた毒物の製造方法が、ここに書かれているのか」

「まさしく、今回の毒物の製造方法だ。その事実がいったい何を意味しているのか……」

 ここで矢永は、紙の表面に何かを見つけたらしく、言葉を止めた。おもむろに紙を持ち上げると室内の電灯にかざし、透過した光を観察する。

 紙の中心部に、何やら印章らしい模様がぼんやりと姿を現した。U字形の枠で囲まれた牛のマークだった。矢永の肩に頭を寄せるようにして横から覗き込んでいた辻が「透かしですね」と言葉を発した。

「中世から近世にかけてのヨーロッパでは、紙を注文した貴族の紋章や製造にあたった工房のマークなどが、透かしとして漉き込まれる例が多かった。この透かしも、そういった紋章やマークの一つだろう」

「これだけ焼け焦げていても、透かしだけはしっかりと残っているんですね。素敵」

 美香は、焼け焦げた紙片を覗き込みながら、悩ましげな表情で一つの疑問を口にした。

「そういえば、焼けたっていう言葉で思い出しましたけど、種子神社の祠。前から気になっていたんですが、古い祠は火事の後、建て直したんですよね。新しい祠は、いったい誰が再建したんですか」

 矢永と顔を寄せ合うようにして透かしを凝視していた辻は、美香に向き直る。疑問の解消を期待する表情の美香に視線を合わせると、よく通る声で答えた。

「中浦酒造の亡くなった会長、重蔵さんです」

「本当ですか。どうして中浦酒造の会長が?」

 美香が、普段より半オクターブほど高い驚きの声を上げた。

「実は、この地区の西側の山の南半分は、ほとんどが中浦家の土地なんです。つまり、種子神社の敷地も、中浦家の私有地です」

 さすがの矢永も、湧き上がる興味を隠し切れない様子だった。

「中浦家は、そんなに広い土地をもっているのか。ひょっとすると、中浦家も代々この地に住んでいる隠れキリシタンだったのかな」

「いいえ。もともとは福岡のほうの豪商の血を引くそうで、明治時代に入ってすぐの頃にこの地域に入ってきたと、樹希から聞いた記憶があります。その時、この周辺の土地を纏めて買い取ったという話です」

 私は、なるほどと頷いた。

 と、それまで熱心に解説を続けていた辻が、今までとは打って変わって、半ば投げ遣りな表情で呟いた。

「まあ、どちらにしても、種子神社は開発予定地の中なので、開発が始まると移転するしかないんですけどね」

 またもや衝撃的な情報だ。

 私は、心のキャンパスノートにすかさずメモする。

 矢永は、神社が開発予定地であるという情報だけでは満足しなかったらしい。新しい情報を仕入れようと、辻を必要以上に強い口調で問い質す。

「住民の人たちは、神社の移転についてどう思っているのかな」

「あまり快く思っていない人も少なくありません。数百年もの間、神社は多くの人々の信仰を集めてきたわけですから。そんな神聖な場所を開発によって簡単に潰して、神社だけ移転させる行為は、感情的に受け入れにくいんだと思います。特に、古くから住んでいる人は、そうですね」

 辻は残念そうに表情を曇らせ、付け加えた。

「でも、大地主が私有地の中でおこなう行為なので、表立っては声を上げにくい雰囲気があるんですよね」

「なるほど、そんな事情があるのか」

 矢永は、驚いたのか感心したのか、区別し難い口調で顎に手を当てて頷いた。

「そうは言っても、宗教って皆の心の拠り所ですよね。いくら地主の行為でも、はっきり反対してもいいと思います」

 美香が、クラス委員長のような模範的、かつ形式的に過ぎる意見を堂々と主張した。

 非現実的な理想論を展開しさえすれば万事が解決する。そう信じて疑わない後輩の視野の狭さには、赤面するばかりだ。中学、高校時代を通じて常に保健係だった私としては、美香を保健室に連れて行き、すぐにでも早退させてしまいたい。

「君も、神社の移転を快く思わない一人かい」

 矢永は視点を変え、今度は辻の内面に切り込んだ。

「個人的には移転に反対です。この場所に対しては、学術的な興味もありますし。ただ、僕は二十年ほど前、四歳になったばかりの夏に、半島の東側から引っ越してきた『外の人間』なんで、今回の件に対しては、あまりとやかく言えませんけど」

 辻は、やはり投げ遣りに聞こえる声で、床に向かって言葉を吐いた。辻の言葉が、床の木製タイルに虚しく吸い込まれていった。

「子守唄、カンタリジン、手紙の紋章。それに加えて、今度は種子神社の移転か」

 矢永は、透かしを眺めながら、聞き取れないほどの声で呟いた。

 私たち三人の注目を浴びながら、怪しげな呪文のように独り言を繰り返していた矢永が、突然、何か重大な事実に気が付いた顔で立ち上がった。

 矢永が座っていたパイプ椅子が、ガタンと大きな音を立てて倒れそうになる。私と美香は、収蔵室に似つかわしくない破壊的な音に、びくりと反応した。

 思わず顔を見合わせる私と美香を背に、矢永は辻の顔を凝視し、脈絡のない一言を口にした。

「ちょっと種子神社に行ってみたい。君もどうかな」

 辻は一瞬、驚いた顔をした。

 しかし、嗜好を同じくする同志と行動を共にする行為に、理性では抗えない本能的な幸福感を感じたのだろう。すぐに弾けるような笑顔を見せた。

「ご一緒します。もう閉館時間ですし、僕の車で行きましょうか」

 感情の高ぶりを隠し切れない声で答える。賛同するが早いか、机の上に置いてあった自動車のキーを手に取った。


         *


 私たち三人に辻を加えた四人は、神社の麓にある駐車スペースで車を降りた。数日前と同様に、そのまま山道を進み、照葉樹に覆われた石段を登る。

 昨夜の雨で水を含んだ石段は、色が燻んで幾分か滑りやすくなっていた。濡れた石と照葉樹から放たれる、むせ返るような青臭い臭いが鼻を突く。

 私たち三人が履いている靴は、決して山登りに適している種類ではない。足元に注意していても、ほんの少し油断をすると滑りそうになる。

 私たちは、足裏のグリップを確認しながら、緩慢な動作で用心深く石段を登り続けた。

 と、辻に続いて石段を登っていた矢永が、突然、脈絡のない言葉を口にした。

「私は、写真でしか重蔵会長を見たことがないのだが、辻君、君は会長にどことなく似ているね」

 辻は、「え?」と驚いた様子で振り向いた。

「そんな事を言われたの、初めてです。でも、どうしてですか」

「樹希君は、ひょっとしたら君の、重蔵会長に似ている点に惹かれたのかななどと、ふと考えてね」

 辻は、一瞬きょとんとしたが、困った表情で笑った。

「もし、そうだとしたら、ちょっと複雑な気分ですね」

「いや、単なる思い付きの話だから、忘れてもらって構わない」

 矢永は、何とも無責任な弁明をすると、一方的に話題を打ち切った。

 そんな意味不明の会話から、間もなくだった。

 石段が終わり、小さな平地の奥に、四日前と同じくひっそりと佇む祠が姿を現した。

 雨上がりの神社は、しっとりとした空気を身に纏い、前にも増して神秘的で荘厳な雰囲気を醸し出していた。

 矢永は、立ち止まる素振りもなく祠に歩み寄ると、中を覗き込んだ。

 横で、辻が心配そうに見守っている。矢永は、そんな辻の表情には無頓着なまま、祠の裏に向かって歩を進めた。

 矢永は、骨の髄から生まれついての放蕩者だ。矢永に正しい生き様を指導しなければならない立場にある私は、声を掛けながら後を追った。

「どこへ行くんだ。まだ何か気になる点があるのか」

 矢永は、私の呼び掛けに耳を貸す兆候もなく祠の裏に回り込むと、ポケットからスマートフォンを取り出した。スマートフォンの中央にあるボタンを押して、何やらアプリを起動させると、画面を見詰めて歩き始める。

 そのまま、祠の裏周辺も何度も往復する。同じ動作をしばらく繰り返していたかと思うと、突然、祠の裏手右側にある平地の切れ目から、裏山の崖に向かって足を踏み出した。

 見ると、道ともいえない僅かな木の隙間が、獣道のように奥に伸びている。

「危ないぞ」

 昨日の雨で、地面はぬかるんでいる。だが、私の呼び掛けにも耳を貸さず、矢永は木の根に足を掛けながら器用に崖を進んでいった。進みながら、スマートフォンを食い入るように見詰め、崖のあちらこちらを探索している様子だ。

 崖に足を踏み入れて、数分が経った頃だろうか。矢永は、平地から十mほど進んだ場所で不意に立ち止まる。スマートフォンを眺めたまま、一人で納得した表情になった。

「いったいどうしたんだ。何かわかったのか」

 状況が呑み込めない私は、矢永の耳に届くように、大きな声で問い掛けた。

 私の声に反応した矢永は、身軽な足取りでこちらに戻ったきた。私の目の前まで来ると、澄ました顔で答えた。

「大した内容ではない。ただ、少しばかり気になる点があった」

 ますます意味がわからなくなった私は、さらなる答えを求める。

「いったい、何が気になったんだ」

「この神社の正体について、とでも言えばいいのか。そんなところだ」

 矢永は、やはり勿体ぶった表情で、肝心な部分を語らない。語ってもらえないと、核心に迫りたい欲求はさらに強くなる。

「神社の正体? 神社は神社だろう。意味がわからんぞ。あの崖に神社の正体に関係する何かがあったとでも言うのか」

 矢永の答えを待っていると、辻が私たちに声を掛けてきた。

「何か新しい発見がありましたか」

「発見と言えるほどの内容ではないが、ヒントめいた考えが朧げに見えてきた気がする。やはり、現場に足を向ける行為は非常に大事だ」

 矢永は辻の声に振り向き、抽象的な言葉でお茶を濁す。辻は、焦点が定まらない矢永の言葉を素直に受け取ったのか、にこやかに笑った。

「ちょっと涼しくなってきましたから、そろそろ戻りませんか」

 矢永と美香が、辻に続いて石段を降り始める。私も、靄々とした気持ちを整理できないまま、歩を進めた。


         *


 私たちは石段を下って鳥居をくぐり、駐車スペースに戻った。矢永は辻の車の前で立ち止まると、辻に一方的な別れを告げた。

「私たちは、もう少し神社の周囲を見てから帰る。いろいろと有り難う」

「もうすぐ、暗くなり始めますよ」

 最初、辻はそう言って、私たちを心配する言葉を投げ掛けた。しかし、強い意思を表している矢永を見て、引き留める行為を諦めたのだろう。

「わかりました。もし、何かお手伝いが必要になったら、お電話ください」

 言い残して車に乗り込むと、運転席で手を振りながら、神社を後にした。

 辻の車を見送っていた矢永は、車が見えなくなったのを確認すると、下唇の髭を指先で弄ぶ。私と美香の顔を鋭く冷たい目で眺め、「ところで」と口火を切った。

 何かろくでもない発見があったに違いない。

 私は、先ほど矢永が口にした、神社の正体なる問題をひとまず封印することにした。大人しく話を聞こうと矢永に顔を向けると、矢永はおもむろに言葉を発した。

「キリシタン版の間に挟まっていた紙に、紋章の透かしが入っていただろう。覚えているかな」

「もちろん覚えている。収蔵室で雑誌の燃え滓、いや、キリシタン版の中に入っていた紙だろう」

 私は、自信満々に答えた。

 一ペタバイトもの記憶容量を誇る高性能、高機能の頭脳を舐めてもらっては困る。ちなみに、一ペタバイトとは約一〇〇〇テラバイト、もっとわかりやすく表現すると、約百万ギガバイトに相当する。もっとも、最新の研究では、人間の記憶容量は基本的にそのくらいらしいが、そんな事実は黙っておけばわからない。

「あの紋章は、間違いなく、ボルジア家の紋章だ」

 矢永は、歩道を歩きながら、呟くように口にした。

 ――ボルジア家?

 一瞬の間を置いて、私は驚きのあまり大声を上げた。

「なんだって!」

 想定外とも言える矢永の告白によって、一時的に封印したつもりだった神社の正体に関する疑問は、瞬時に忘却の彼方へと消え去った。

 美香も、信じられなさそうな顔付きで、矢永に説明を求めた。

「ボルジア家って、ルネサンス期にイタリアで権勢を振るったスペイン出身の一族、あのボルジア家ですか」

「その通り。当時、ボルジア家の影響力は、一族から幾人ものローマ教皇が輩出したほどに強大だった。特にアレクサンデル六世として君臨したロドリゴ・ボルジアは、世俗的な教皇として有名だ。肝心の宗教や信仰などに見向きもせず、権力争いや豪奢な暮らしに明け暮れたと伝えられている」

 ここで矢永は、私に向かって呼び掛ける。

「ボルジア家の繁栄と腐敗、という歴史的事実に基づいて、映画『第三の男』や『ゴッドファーザー』などの中でも、『ボルジア家』という単語が、しばしば否定的な意味で引き合いに出されている。これは有名な話だ」

 続いて矢永は、私と美香に向かって謎を掛けた。

「ところで、当時の人々の間では、ボルジア家についてよからぬ噂が囁かれていた。一族に伝わる門外不出の毒薬を使い、政敵をことごとく毒殺したという噂だ。その毒の名を、君たちは知っているかな」

「聞いた記憶があります。名前は確か……」

 美香が一瞬だが考え込んだ。私も、その名を知っている。

「カンタレッラだ!」

 私の言葉を受け取った矢永が、冷静を装って解説を進める。

「そう、カンタレッラ。正体は不明だが、それこそがヨーロッパゲンセイ、つまりスパニッシュフライから抽出したカンタリジンだったという説がある」

 かのボルジア家とカンタリジンに、そのような繋がりがあったとは。私は、矢永の意外過ぎる論理展開に半ば呆れながらも、その内容に一気に惹き付けられた。

「だとすると、あの紙片は、ボルジア家を繁栄へと導いた毒薬であるカンタレッラの製法を示した書類だったのか」

「でも、そんなボルジア家の毒薬の製法を示した書類が、何で、よりによって種子神社にあったんですか。繋がりが見えなさ過ぎて、荒唐無稽にも思えます」

 美香が、事実を受け入れられないといった口調で疑問を呈した。

「その疑問に答える前に、私から質問だ。キリシタン版が印刷された当時、この地で盛んに布教を行っていたキリスト教組織の名を何という」

 私は、「イエズス会だ」と当然の如く解答する。

「正解だ。東アジアでのキリスト教布教の中心人物の一人であったヴァリニャーノなども、イエズス会士だった。ヴァリニャーノは、一五六六年にイタリアのパドヴァでイエズス会に入信し、一五七〇年には司祭にまで出世した。さらに、その三年後には東インド管区の巡察師に大抜擢されるなど、異例のスピード出世を果たした人物だ」

 矢永は、淡々と続ける。

「入信後、しばらくの間、ローマで活動していたヴァリニャーノは、同じくローマにいたイエズス会総長とも面識があったはずだ。当時の総長は、フランシスコ・ボルハなる人物だった。その人こそ誰あろう、ボルジア家の一員にして、悪名高きロドリゴ・ボルジアの曾孫だ」

 矢永の声が、天の声のように荘厳なエコーを伴って響いた。もっとも、私は天の声など聞いた経験はない。あくまでイメージだ。

「つまり、ボルジア家とイエズス会の間には、密かな繋がりがあったわけか」

 私と美香は、例えようのない驚きをもって聞き耳を立てる。

「当時のイエズス会は、単なるキリスト教の教団としての顔以外に、裏の顔をもっていたといわれている。嘘か真か『ポルトガル人商人による日本人の奴隷貿易に関与していた』、或いは『戦国時代に起こった一部の武将の死に関与していた』などと主張する説もある」

 そういえば当時、日本に滞在したイエズス会の宣教師にルイス・フロイスがいた。フロイスが著した書物には、ポルトガル人が日本人を奴隷にしていたという記述があった記憶がある。イエズス会のみならず、宗教団体は少なからず多面的な存在であり、一面を見ただけでの評価は難しいという好例か。

「もしかすると、ボルハを通じてイエズス会に伝えられたカンタレッラが、布教活動の中で秘密裏に活用されたのかもしれない。そう考えると、カンタレッラの精製方法が、イエズス会の教えとともに密かにこの地に伝わったとしても、何ら不思議はない」

 矢永の新証言によって、カンタレッラとボルジア家、イエズス会、種子神社、今回の事件に使われたカンタリジンという、一連のピースが一つに繋がった。もし、これが真実ならば、邪馬台国発見にも匹敵する歴史的大事件に違いない。

「いったいイエズス会の誰が、何のために、こんな辺境の地に伝えたんだ。カンタリジン、いや、カンタレッラを」

 私は、心の奥底から湧き上がってくる興奮に任せて、矢継ぎ早に質問を繰り出す。美香も負けてはいない。

「それだけじゃありません。当時から四百年以上も経った今、誰が何のためにその毒を使ったんですか」

「今は、どちらもわからない。今回の事件の裏には、我々の想像を超えた驚くべき事実が隠されているのかもしれない」

 矢永は、思わせぶりな台詞を口にすると、気持ちを入れ替えるように「ふう」と大きく息を吐いた。

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