正しい決断
見上げると、屋根の鉄骨に白い中国服を着たルシアが腰掛け、その細い足をゆらゆらと揺らしている。周囲には配下の
周囲を見渡す。そこかしこの闇から異形の気配――さらに自分が先程通り抜けた倉庫の入り口から一匹、
「ほら、約束の品」
リアンは投げ渡された品を手で掴む。ジップロックの中身――指先ほどの大きさのメモリーカード。
「あなたの初出撃を、フェルナンドが撮影していた映像――その元データ」
特甲児童に異様な執着を示していたフェルナンド。その代替品として
「……どうせコピーがあるんだろ?」
手にしたジップロックを上着のポケットにしまい、リアンは尋ねる。
「さぁ。でも貴方を脅すのにもうそんな映像は必要ないでしょ?」
ルシアの指摘は的を射ている。自分はもう立派な
「これ以上何が望みだってんだ?」
ルシアが鼻で笑う。追従するように
「貴方の抱える私への借りはこんなものじゃ、到底精算できやしない」
そう言ってルシアがするりと腰掛けた鉄骨から滑り落ちる。白く薄いヴェールのようなその躰がはらりと落下し、リアンの顔の高さでぴったり制止する――伸び切った右脚の
天地の反転したルシアと視線が交錯する。
「あたしが抱える負債を精算するには、どうしたらいい」
腹部に隠し持つ銃を意識――肩を落とし右足を引く。膝を曲げ骨盤を立てる。動きを悟られぬように、全て数ミリ単位の動き。この距離では、銃弾がルシアの躰に届くのが先か、ルシアの
「FESの隊員の名簿――それなら帳尻が合うわ」
地面に向けて垂れ下がる白髪を指先で弄りながらルシアが応える。
リスト――オヒナガの虐殺の一件以後、FES隊員の個人情報は最高機密扱いに。その家族もまた証人保護プログラムと同等の手厚い処置で守られている。
「――あたしが仲間の……命や家族までも売ると思っているのか」
「私を見捨てた貴方が、今更仲間を売らない?」
余裕を見せつけたような態度が一転し、その瞬間だけ青い瞳が恨みがましくリアンを射抜く――言葉を返せない。
「もう二度もFESを裏切っておいて――貴方は自身を守るためなら、他人を顧みることのなく捨て去ることのできる最低な女。度し難いのは、それでいて上等な人間ぶることを辞められない点ね」
振り子の要領で躰に勢いを付けたルシアが、鉄骨に巻き付けた
「人間はその身に合わせた所作というものをするべきよ。善人なら善人らしく、クズならクズらしく、少しは態度を貫徹したら?」
頭領に合わせて、屋根にぶら下がる四人の
彼らの発する殺意を一身に浴び、リアンは思わず胸を撫で下ろす――ルシアは本当にFES隊員たちのリストを欲しているわけではない。リストを持ち出したのは安い挑発。こちらの反応を楽しむため――彼女の真の目的はこの自分を始末することにある。
おかげであのショッピングモールの駐車場で貫徹できなかった決断を、今ならすることができる。
「――まは――らない――」
鼓動が早まる。台詞が舌を滑る。気にせず、スポーツバッグの持ち手を握る指に力を込める。自分を受け入れてくれる場所ははただひとつ――
「なぁに? 聞こえない」
こちらの声の震えの意図を知ってか知らずか、ルシアが嘲笑するような口ぶりで尋ねてくる。息を吸う――今度こそしっかりと突きつけてやる。
「――仲間は売らない」
宣戦布告となる台詞。それを言い切る前に手にしたバッグをルシアに向けて投げつける――強くは投げない。あえてボールをパスするように、優しく投げ渡す。
その意表をつく軌道が、彼女の両サイドに立つ黒い中国服の反応をコンマ数秒だけ遅らせる――なんとか腕を伸ばしそれを受け止める。振り向くと背後の二匹の中国服が放つ斬撃が迫っている――手刀と手刀の隙間に飛び込み、間一髪でそれを
この圧倒的不利な状況下に残った小さな勝機。
地面に着地すると同時に、袖口に隠していた携帯電話の発信ボタンを押す。
バッグの中の手製の煙幕弾が起爆する。信管が火管を作動させ、カートリッジ内に収納された赤リンに着火。赤リンは燃焼することで、五酸化二リンに変化――大気中の水蒸気と反応し大量の白煙を生成する。追撃を仕掛けようとしたルシアら三匹の
躱された初撃に続けて、第二撃を仕掛けようとする二匹に向けて走り出す。ホルスターから抜いたグロックを連射し、一匹の動きを
そして何より、胴体部分は強化骨格――機械部分と生体部分の力の差による接合部の剥離を予防するためのもの――以外はほぼ生身のまま。足首のナイフ
動きを止めずに、喉から赤い血を吹き出す
予想通り突き出される二本の貫手――死にかけた
支柱を切断されたラックが倒壊する。それを受け止めた隣のラックも続けざまに倒れていく――ドミノ倒し。合計四台のラックが倒れ、倉庫内に轟音を響かせる。
影に隠れていた
白煙が倉庫内に充満する。
煙幕の中――倒壊したラックを遮蔽物にして、リアンはグロックの
エメラルドの輝き――特甲転送に伴う空中放電により、一帯にオゾン臭が溢れ出す。放電の中心地点に現れる漆黒の特甲児童。手に掴んだ
頭部装甲内のバイザーに表示される文言――身体に重大な打撃を検知。
これで、自分の居場所と状態が基地に伝わった。逃亡した特甲児童を確保するためすぐに軍が駆け着けるだろう。
自分の役目はそれまで
できれば
そして、足元に転がるグロック――造喚と呼ばれる特甲の再構築過程に巻き込まれたことで、銃把部分が丸ごと融解している――を蹴飛ばし、
地上の
特甲も無傷では済まない――だが再転送により破損部位は瞬く間に修復されていく。それに対して
圧倒――このまま一気に押し潰す。
だが、
反射的に彼らの頭領――ルシアの姿を探す。鉄骨の上にはいない。襲いかかってくる
敵はそれを逃さない。数十本もの
その顔に浮かんでいるのは――笑み。
手にした
聴覚センサ―が拾った小さな音――カチリ。
視界が暗転し、鞭打ちのような衝撃が全身に広がる。重力が消失し躰が浮き上がる。
数瞬後に後頭部と背中に激しい打撃。寸断される思考――途切れたままにならないよう必死に痛みにすがる。
幾度かの意識の途絶の後、最初に感じるのは、耳孔内に吹き出る血のぬめり。
頭部装甲内は完全気密――それでも音速の数十倍もの速度で膨らむ爆風の衝撃を完璧には殺しきれない。痛みを堪えながら目を開ける。バイザー内の視覚インターフェースは暗闇に包まれたまま――脳震盪により視界が薄ぼんやりとしているが、よく見ると警告が表示されている――特甲の破損部位を示している。視覚センサー、聴覚センサー、右腕、左腕――。
普段はあまり目にすることのない表示。なぜなら破損した特甲は再転送により、すぐに新品同様に生まれ変わる――普段なら。
頭部装甲を展開する。直前まで立っていた位置から十メートル以上後退している。立ち上がる――脚部は無事。ただし躰を覆う装甲は半壊、両腕も根本から消えている。戦闘支援AIに再転送を要請――エメラルドの輝きが躰に纏わりつく――遅々として進まない再転送。辛うじて右腕のみを復元して、光はそのまま弱々しく消えてく。
そして理解する――彼らが消耗戦を仕掛けてきた理由を。どんな手を使ったのか知らないが、ルシアたちはこちらの転送塔を手中に収めた。
一匹の
周りを見渡す。屋根の穴や窓から
「……さようなら」
直立を維持するのがやっとの旧友の姿を一瞥し、ルシアが静かな口調で別れを告げる――背を向ける。不味い――特甲の転送を実行してからまだ十分な時間は経っていない。このままでは自分を確保するための部隊が到着する前に、のうのうとあの女に逃げられる。
「――待てっ……」
なんとかルシアの背に追いすがろうとする――その行く手を阻むように、手足を換装した
眼前に立つ
満身創痍の特甲児童を弄ぶ何本もの
断頭台のギロチンを吊り支えている縄が切り落とされる。死刑執行人の斧が振り下ろされる。
途端に、全ての動きが停滞する――残された時間が圧縮されたかのように。この首と胴が分断される瀬戸際――刑の執行を合図した女と目が合う。冷ややかにこちらを見つめるその目――目尻が僅かに震えている。瞳の奥底に秘められた
だが次の瞬間、爆音がリアンの瞼をこじ開ける。倉庫の壁が爆散――数人の
壁の大穴からなだれ込んでくる四頭の黒山羊――軍用アームスーツ、サテュロス。先頭を走る一頭が手にした対物ライフルからライフルグレネードを発射――弾頭から先端に重しをつけたワイヤーが伸び、リアンの首を目掛けて高々と振り上げられたその手を絡め取る。吸着した弾頭本体から光ファイバー製の触手が無数湧き出て、
後ろの二頭のサテュロスはミニガンを装備――激流のように噴出する鉛玉がリアンを取り囲む
突然の乱入者に場の優位を瞬く間に奪われた
リアンに背中を向けるサテュロス――ライフルグレネードを撃った機体の外部スピーカーから、聞き慣れた声が発せられる。
「遅くなってすまんな」
例えスピーカー越しでもその声の主を間違えることはない。
この国から消えたはずの男――パトリック。
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