戦う理由
最初に感じるのは冷たさ。冷気が顔から、首元へと流れ込む。顔を覆い隠そうと毛布を掴もうとするが、手が空をきる――違う、そもそも手の感覚がない。
またいつの間にか沼の中にいる。身を切るように冷たい泥水――鼻や口を通じて肺へと流れ込む。咳き込みながら、顔の全てが沈まないよう必死にもがく――躰に巻き付く蛇のような細長い何かがそれを邪魔する。
自分を沈めようとする「何か」の正体を確認しようと視線を水底へと向ける――水は濁りきっているにも関わらず、その「何か」の姿だけはくっきりと視認できる。
水流にゆらめく
ルシア。
彼女の最後の願い――一緒に地獄に堕ちて。
リアンは抵抗をやめる――ああ、いいさ。そう決めたから自分は独りで廃倉庫にやってきた。今にも河へと落下しようとしている、あの大蛇の背に跳び戻った。
覚悟を決めて目を閉じる。自分を奈落へ引きずり落とそうとする鋼の手に身を任せようする。だがその時、別の誰かの手が、ないはずの自分の腕を掴む。大きな手――力強くこの躰を引き上げてくれる。水の中のルシアを見やる。ごめん、まだそっちには行けない。でもいつか、自分もそこに――
――頬に触れる人肌の温もり。それをきっかけに、夢から現実に意識が舞い戻される。
「起きたか」
薄ぼんやりと見えるもの――自分の顔を覗き込んでいる、青い目をした男の顔。視界と思考、その両方から
「眩しいぞ」
頬を触れていた男の指が今度は目元を引っ張り、瞼を大きく開かせる――ペンライトのオレンジ色の明かりが瞳を刺す。両目の瞳孔の大きさが同じであることを確認したパトリック――ライトをしまい自らの指をリアンの顔の前にかざしてみせる。
「何本だ?」
「……三本」
回答に満足したパトリックがリアンの後頭部に手を回し、その上半身をゆっくりと起き上がらせる。足元でガツガツと何かが砕かれる音。同じくアームスーツを脱いだリモンが、手にしたナイフで氷を砕いている――見ると自分の右脚が氷の中に埋もれている。
冷気の正体――河岸からもう一方の河岸まで、河面が隙間なく凍結している。まるで極地の風景。犠脳体兵器の残骸から漏れ出た凍結液が河の水をまるごと凍らせた――おかげで溺れずに済んだ。
「見境のない突撃はするなと、あれほど言ったのにな――頑固なやつだ」
いつもの説教――だが今日のその言葉には迷いがある。あの無謀を怒るべきか、褒めるべきか、判断をまだ留保している。やがてパトリックが諦めたように、言葉を続ける。
「犠脳による電子制御を失ったドローン群は都市の
男の判断――今は素直に労おう。何せ、目の前の少女はとても辛い決断を最後に実行した。
「最後の最後に、辛い仕事を任せたな」
「……うん」
記憶――装甲を粉砕した後、兵器の内部へ侵入――密集した機械部品の山の向こうでついにそれを発見する。液体の満たされたカプセル。その中に浮かぶ犠脳――ルシアの脳。それを
責務をやり遂げたという実感――それを再確認したところで、自分にはまだやるべきことが残されていることに気づく、
「イークーっ! 追いかけなきゃ――」
全ての黒幕の存在を思い出し、慌てて上半身を引き起こそうとするが、パトリックに胸元を抑えつけられ、それを引き留められる。
「お前、その躰でまだ戦うつもりか?」
指摘を受けて、改めて自分の躰を見下ろす。右腕――肩から先が消失。剥き出しの人工筋肉――まるで乱暴に引き千切ったコード束の断面。左腕に接続した
「安心しろ、
「じゃぁ……終わったの?」
「……ああ、終わった」
終幕はあっけなく訪れる。CIAやFES、あらゆる治安当局や諜報機関がその総力を上げ追っていた巨悪――その味気のない最後。去来するのは達成感というよりは虚脱感――嘘、これで本当にお終い?
「こっちも終わりましたよ」
右脚を飲み込んでいた氷がリモンの手により全て剥がされる。ゆっくりと氷から右脚を引き抜き、立ち上がる。まだ直立できることに少しだけ感動するも――直後に立ちくらみをしてしまう。前のめりに倒れかけたところをパトリックに支えられ、なんとか転倒だけは回避する。
「じゃ、俺は他の連中の作業を手伝うんで」
その様子をニヤニヤと眺めていたリモンが、恩着せがましくウィンクを飛ばしてくる――ガンを飛ばして追い払う。鼻歌を歌いながら去っていく背を睨みながら見送る――小声で再度の謝罪と感謝を告げる。それからパトリックの手を借り、氷から突き出た犠脳体兵器の残骸に腰を下ろす。リアンを座らせた後、パトリックもその脇に座り込む。
「そう言えば、あんたが言ってた
「知ってたのか」
「あたしを
「……さて、ね」
スーツの懐から煙草とオイルライターを取り出しながら、パトリックが応える。流石にこの男でも、今この時ばかりは顔に疲れが見て取れる。大人の余裕を見せびらかすような軽口もなく、なんとも直球なはぐらかし。咥えた煙草に火を付けると、深々と煙を吸い込み――有害物質をたっぷりと含んだ副流煙を勢いよく吐き散らかす。
「あたしは大事な
その堂々たる吸いっぷりを眺めながら、リアンが言う。
「……まぁ、たまにはいいだろう。吸うか?」
返事の代わりに、これ見よがしに両肩を上下させてみせる――この腕でどう吸えと? パトリックが無言のまま、自分の咥えていた煙草を手に取り、吸口をこちらの口元に向けて差し出てくる。目前に押し付けられた煙草と、男の顔を交互に見やる。ちょっとの間、逡巡――意を決してそれを咥えて、一吸いする。
「……
「またぶっ倒れるぞ」
いつぞやに自分が見せた醜態――思い出すだけで顔が紅潮してくる。リアンが口から放した煙草をパトリックが躊躇なく咥え直す。それを見てますます気恥ずかしくなる。
二人してしばらくリモンら兵士たちがしている作業――戦いの後始末を眺める。負傷した兵士が衛生兵によって応急処置を施され、動ける兵士が氷漬けの大蛇の残骸から記録装置の類をなんとか引っ張り出そうとしている。
僅かな沈黙の後――リアンが先に口を開く。
「ねぇ、なんで――この化け物と最後まで戦ったの? 本当に、ただ街への攻撃を止めるため?」
思い起こしてみても――この男が犠脳体兵器と正面切って戦うことを決断するに至った理由が見つからない。市民への被害を防ぐため。敵のテロ計画を防ぐため。もちろんそうした建前はあるだろう。この国の安全保障や治安に関わる人間であれば、それを遂行する責務はある――だが、この男はアメリカ人。自身や部下の命を危険に晒してまで、それをする義理はない。
パトリックは質問に中々応えない――煙草の味をじっくり堪能し、それから慎重に言葉を紡ぎだす。
「――俺に下された命令というのは、CIAの手で世間に知られず、極秘裏に
「それじゃぁ……FESに捕まえさせちゃまずいんじゃないの」
「あの提督殿がそんな計画を許すわけがないから……その悪巧みはまぁ、ご破産だな。実は俺も昔、アフリカで似たようなことをした経験がある。凄腕の傭兵を集め、武器と資金を用意し、虐げられた人々を救おうとした。結末は言わずもがな、だ。俺の作ったネットワーク――〈キャラバン〉はプリンチップ社に乗っ取られ、傭兵たちはテロリストに成り下がり、提供した武器や資金は無差別に死をばら撒いた――以来、俺はその手の企みごとには懐疑的でね」
「だからわざとFESに逮捕させた? でもそれって犠脳体兵器――ルシアと最後まで戦う理由にならないでしょ?」
期待してしまう答え――お前のため。だがパトリックが実際に口にする回答は、その期待とはまるで真反対のもの。
「俺にだって上司への報告義務はある。あの化け物に釘付けにされ、FESの助けを借りるしかありませんでした――そう釈明するためにも、敵の大規模テロ計画を阻止したという手柄は必要……なんだその顔?」
思わず渋い顔で目の前にいる男の顔を睨んでしまう――この男は個人的な信条に基づく
大きな溜息を吐く――期待したあたしが馬鹿だった。
河岸から二台の軍用機体が現れる。味方の兵士たちが機体後部の貨物スペースに回収物を詰め込む。作業を終えると、彼らもまた兵員輸送スペースに乗り込んでいく。リモンがサテュロスに再搭乗――パトリックに向けて手でサインを出し、腹部装甲を閉鎖する。
「――さて、時間だ。軍と鉢合わせる前に我々は消えるとしよう」
パトリックが立ち上がる。別れの時――相手は薄闇の世界で生きる男。おそらくもう二度と会うことはない――確信めいた予感。
最後に何を告げるべきか、学力試験の時ですら発揮したことない集中力で思考をフル回転――別離の一歩を踏み出した男の背に向け、問いかける。
「あたしが実は
「ん? ――ああ」
男が振り向く――普段の無駄のない所作とはまったく違う、なんともゆったりとした動き。相手も名残惜しげである事実に、胸がちょっとだけ高鳴る。
「だからあたしのリアンって名前には、実は
機械の脚――その踵から伸びる尖ったスパイクを使って地面の氷を削り、自分の名前を記して見せる――「凉」。それを見たパトリックがにやけ笑いを浮かべる。
「――出来すぎだな」
理由はさっぱり見当がつかないが、随分と愉快そう――ただ自分の名前、存在を覚えていて欲しかっただけなのに、予想外にも程が過ぎるその反応。こっちはなんだか面白くない。
「ちょっとそれ、どういう意味」
男が自分の前に少しでも長く留まってくれるよう、わざとらしく強めに喰いついて見せる。
「いつか教えてやるさ」
「またそれ。いつかって、いつ?」
いつか。また再会できることを示唆する男の言葉。だから今ここで何もかもを話す必要はないだろう?――言外に、そう告げている。
「そういえば前にも同じことを言ったか……その時は確か、俺が戦う理由について聞いたんだよな」
「――うん」
答えを聞かずとも理解したつもりになっていた――それが見当はずれの大間違いでだったことが、今ならわかる。だから男の答えにしっかりと耳を傾ける。
「
腕のないこの肩をぽん、といつものように叩き、男が歩き去っていく――少し離れた場所に置かれた、傷だらけのサテュロスにその身を収める。腹部装甲が閉じられる。お互いにあえて別れの言葉は交わさない。
男を腹に収めた黒山羊が背を向けて発進する――他の黒山羊と軍用機体もそれに続く。
彼らの後ろ姿が廃墟の中に消えていく。それと入れ替わるように、空の彼方から聞こえてくるヘリのローター音――FESのブラックホークの到来。
一度は手放してしまった自分の帰る場所――男が取り戻してくれた場所。いざこうしてその玄関前に立つと、また胸の奥でずきりと罪悪感がうずき出す。
だけど、胸を張ってそのドアを叩くと決める。
負い目を胸から追い出すほどに満ちる確信――こここそが、自分の居場所だから。
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