人食い鰐〈エル・ココドリーロ〉

 ミーティングの後、パトリックはFESの指揮官のいる執務室へと向かう。その途中で、黒服の護衛SPをぞろぞろと従えた細身のスーツ姿の男とすれ違う。荒くれの海兵が集うこの基地で、兵卒如きに侮られぬよう、精一杯胸を張って歩いている――だがその努力も虚しく、精々が雄牛の列の先頭を歩く雄鶏というところ。緊張のあまり、こちらには目もくれない。

 執務室の扉をノックし、入室をする。部屋のあるじ――胸の徽章によれば階級は提督――が腕を組みながら机に腰掛けている。痩身で長身、オールバックに撫で付けられた灰色の髪と黒々とした太い眉。つい先程まで応対していた来客への悪感情を隠す様子もなく、苦笑いを浮かべている。

「あれは……エドゥアルド海軍省副大臣でしたかな」

 パトリックは鶏男について尋ねる。

大統領官邸ロス・ピノスが派遣した新しいお目付け役だ。奴らは相も変わらず私のことを聖戦士ジハーディストか何かと思っているらしい……その手の扱いにはもう慣れたがね。さ、遠慮せず座ってくれ」

 部屋の主に促されるまま、机の前に置かれたソファーに腰を降ろす。

 ラファエル・サルセド提督は農家の三男坊として生まれ、この国のほかの多くの軍人たちと同じく、貧困を脱するために軍に入隊した。熱心なカトリック教徒で、あのコンドル作戦の生き証人でもある。

 一九七六年、メキシコ政府は黄金の三角地帯ゴールデン・トライアングルと呼ばれるシナロア、チワワ、ドゥランゴの三州にまたがる罌粟ケシの産地に一万人の兵士を派遣。山間に広がる罌粟ケシ畑に向け、航空機から枯葉剤エージェント・オレンジ――アメリカ政府より提供された2・4−ジクロロフェノキシ酢酸――を散布した。

 アメリカの支援のもと行われた、世界初の麻薬撲滅を目的とした大規模除草剤散布。以降、同じ作戦はコロンビアやアフガニスタンなど世界中の麻薬生産地帯で繰り返される。

 結局、除草剤の散布が麻薬産業を破壊できないことはその後の歴史が証明する。

 コンドル作戦の場合も、一時的にはこの国メキシコの麻薬産業に壊滅的な打撃を与えたが、麻薬密売人ナルコたちは事業を麻薬の生産から輸送に切り替えることで生き残りに成功する。例え黄金の三角地帯ゴールデン・トライアングル罌粟ケシ畑を失ったとしても、彼らには世界最大の麻薬消費国――アメリカと接する三千キロもの国境があり、商品もメキシコ以南の密林奥深くでは依然として生産が続けられていた。

 メキシカン・トランポリンの成立。

 中南米諸国で生産された麻薬はメキシコというトランポリンを跳ねてアメリカに飛んでいく。そして多くの業界と同様に、流通業者は生産業者よりも大きな権力を手にする――この国の麻薬密売人ナルコたちは、黒煙を吹き上げ燃え上がる罌粟ケシ畑から不死鳥のように蘇った。

 コンドル作戦は結果として、この国の麻薬組織をより強大な存在へと生まれ変わらせたが、同時に彼らの最大の敵を生み出す契機にもなっていた――皮肉好きな歴史の気まぐれ。

 罌粟ケシ畑に火を放ち、麻薬密売人ナルコを追い回す騎馬兵の姿に、当時十五歳だったサルセド少年は、神の啓示を読み取る――お前も彼らのように、この国に蔓延る害虫どもを駆逐せよ。

 その天啓に従って麻薬密売人ナルコ狩りに半生を捧げた男が、パトリックの向かいのソファーに腰を下ろし――まるで雑談でもするかのような軽い調子で口を開く。

「実は個人的なから、あの恥ずべきGAFE隊員に関する情報を耳にしていてね。ブラックホークヘリに乗る所属不明の兵士が、グアテマラ国内にあるグスタボの軍事キャンプを襲撃した、というものだ。単刀直入に尋ねるが、これは君らの仕業かな?」

 軽々しい口調に反してその台詞には無数の棘が含まれている。アメリカ政府は麻薬カルテル対策のための軍事支援提供の条件として、サルセド提督をCIAの協力者として直接指名し、大統領官邸ロス・ピノスにそれを渋々承知させた――その裏取引がなければ、提督はとうの昔に部隊を取り上げられ、閑職に左遷されていたはず。

 提督はそのことをよく理解している。しかし、恩義も感じていない――だからこうして遠慮もなくCIAの秘密作戦について問いただす。

「グスタボには敵が大勢います。例えば、この国最大の麻薬カルテルである“血盟”は、グスタボにグアテマラとの国境線を抑えられたことで、南米各国からのコカインの輸送に支障を来していた――国境地帯の奪還は彼らの悲願です」

 パトリックは見え透いた嘘で取り繕う。上層部うえは提督との全面的な情報の共有を認めていない。アメリカの法執行機関や諜報機関は、汚職にまみれたこの国メキシコの官僚組織や政治家たちに幾度となく煮え湯を飲まされてきた。パトリックの所感ではこの信心深い提督は汚れていない――とはいえ指示には背けない。

「血盟の連中がブラックホークでグスタボを襲撃した? 面白い冗談だ」

「重要なのは、グスタボがこの国に舞い戻ってきた、という一点です。奴がグアテマラの密林ジャングルに逃げ込んだばかりに、FESも、CIA我々もずっと手を出せずにいた。今が奴を捕らえる最大のチャンスです」

「君らが捕らえたいのはラ・オルミガだろう?」

「否定はしません」

「正直に言えば、君たちの要請に従いグスタボの生け捕りを部下に命じたことについて、まだ逡巡している。グスタボがかつて所属していたGAFEの標語を君は知っているかね?」

「“我々は死しても止まらない。死は我々の喜び”……でしたか」

 標的に親愛を覚えるほどに標的のことを知れ。グスタボという人間については、彼の恋人や家族以上に詳しく知っているだろう。しかし、生憎グスタボはそういった類の人間関係を持ち合わせていない。

「その通り。奴は国への忠を捨てた恥ずべき男だが――幾多の死線で、その標語が真実であることを証明して見せた。そんな男を生け捕り? 私の部下の命をまだ奴に差し出せと?」

「……我々は貴方の兵士の命を守るためにあらゆる支援を行っています」 

「それにアメリカはラ・オルミガに関する情報と引き換えに奴にどんな飴玉を差し出すつもりかな。財産の没収と懲役二〇年? 奴に殺された死者たちがそれで納得すると思うか?」

「ラ・オルミガを排除しない限りはこの国の麻薬戦争が終わることはありません」

「この国の麻薬禍の原因はもっと複雑なものだ。地政学、歴史、文化……もちろん、北の麻薬消費大国の無能な麻薬撲滅政策もそれに含まれる。君は、自分の所属する組織や政府が、これまでこの中南米で何をしてきたか、当然知っているはずだ――この麻薬戦争は誰か一人の悪人チコ・マロを排除すれば終わるものではない」

 提督は大統領官邸ロス・ピノスの政治家たちやCIA上層部が考えるような、狂信者でも戦争中毒者でもない。麻薬カルテルとの戦いを神より与えられた使命だと心の底から信じる一方で、武力行使で為せる正義の限界もよく知っている。

「――だからこそグスタボを殺しても何も変わりません」

 だからこそ説得の余地はある。提督が眉間に深い皺を寄せたまま黙り込む。そしてしばらくしてから、両手を上げて降参の意を示す。


 グスタボの捕縛作戦にあたっては、FESのお得意の戦術が採用される。ヘリからの降下班と、地上班による挟撃――先日の事業部長エル・フェレンテの捕縛作戦で実行されたものと同じもの。

 リアンは再び降下班に振り分けられる。

 作戦決行時刻は夜明け前。厳しい訓練を経てもかき消せない、暗闇への本能的な恐怖――その不安に長時間さらされた兵士の緊張の糸が、夜の終わりの予感によってほんの少しだけ弛緩するその瞬間。

 闇夜の静寂を切り裂くMi−17ヘリコプターのローター音、そして四方八方から発せられる銃撃音が、キャンプを守る兵士たちをほんの一瞬だけ思考不能に陥れる。

 その一瞬が彼らにとって命取りになる。

 監視塔に警備詰所、そして兵舎が次々と爆発する。混乱の中、不可視光IRライトに照らされた敵兵士たちが、暗視装置NVGを装備したFES隊員の銃火によって瞬く間に斃されていく。

 三方向から攻撃を仕掛ける地上班がキャンプの兵士たちを釘付けにしている間に、ファストロープを通じて地面に降り立った降下班――リアンを含む総勢二五名はグスタボの居城と思われる教会へと素早く移動。一五名が教会周囲を確保し、リアンを先頭とした十名は教会内部への突入に備える。

 元特殊部隊員であるグスタボは、自らの居処である教会を要塞化していると予測される。当然、建物の出入り口には、突入に対する何らかの備えブービートラップが施されているはず。

 だからリアンが特甲で石造りの壁を粉砕し、突入口を作り出す。壁の大穴から投げ込まれた閃光音響弾フラッシュバンと漆黒の特甲児童の突撃が、出入り口を守備していた兵士の虚を突く。一列縦隊の突入隊形を取るグスタボ捕縛チームが、うねる蛇のように教会内部へ侵入し、二点射撃で敵兵士を撃ち抜く――再び動き出すことのないよう、斃れた敵兵士の頭部にもう一発を叩き込む。

 部屋から部屋へ。反撃するのものは射殺し、投降するものは地面に押し倒しナイロン製の簡易手錠で手足を拘束する。

 突撃手であるリアンは敵兵士の正面に躍り出て、その銃撃を引きつける。後衛の隊員が特甲児童を狙う敵たちに向けて、小銃の引き金を正確無比に引き絞っていく。

 リアンは探す――グスタボを。村で最も大きな建物、といえども所詮は小さな集落の教会。ものの一分程度ですべての部屋を制圧しきる。見つからない標的。リアンの脳裏に浮かぶ台詞――大方、緊急避難部屋パニック・ルームにでも隠れてたんだろう――閃き。

 リアンは床の絨毯を引き剥がす。隠された石床に、一メートル四方の金属の板が嵌め込まれている。特甲の拳で床を破壊し、地下のトンネルへと着地。壁と天井を木板で補強された地下道――その奥から銃撃。臆さず突進。小銃弾を特甲化した腕で弾きながら、三人の兵士それぞれの腹、顎、胸に非致死性ノン・リーサルにまで出力を下げた超振動型雷撃器を叩き込む。

 そして目に入る大ボスの姿――グスタボ。護衛が倒されると同時に腰の拳銃を抜き、迫り来る突撃手の頭部に向けて連射。特甲のフルフェイスヘルメットは拳銃弾程度であればやすやすと受け止める。リアンは銃撃を気にもかけずに、そのままグスタボの腹部にフックを押し込む。

 つんのめりに倒れ悶えるグスタボ。リアンに追いついた隊員がグスタボを素早く取り押さえ拘束する。

 頭部装甲を展開し、素顔を露わにするリアン。耳に入るのはFES隊員の歓声と……FES隊員のブーイング。

 FESはグスタボ捕縛作戦の演習を行っている。

 グスタボの軍事キャンプの航空画像をもとに、FESが所有する秘密演習場に、合板でキャンプの実物模型を作成。部隊をふたつに分け、攻撃側と防衛側をローテーションしながら、模擬戦フォースオンフォースを繰り返す。

 演習にはシムニッションと呼ばれるペイント弾が使われる。実銃の機関部と銃身を換装して使用するため、発砲音や反動などの再現性が高く、実際の作戦に携行する銃器をそのまま使えることから、演習と実戦における感覚の誤差も小さくできる。反面、訓練用銃弾としては威力があるため、取り扱いには大きな注意を要する。

 何度も繰り返される模擬戦フォースオンフォース。グスタボ役を演じる隊員はその度にペイント液まみれになる。FES隊員によるパトリックへの挑発――現場では常に不測の事態はつきもの、というメッセージ。

 リアンも幾度となくグスタボをノックアウトする。グスタボ役の隊員に叩き込まれるボディブロー。フック。アッパー。ストレート。拳を繰り出すたびに、リアンの頭の中で超振動型雷撃器の出力のダイヤルが狂う。

 非致死性ノン・リーサルから致死性リーサルへ。

 あの男をこの手で生きたまま捕らえなければならない。

 〈エル・ココドリーロ〉――あたしの手足を切り取った男。そして、自分のを知る最後の生き残り。

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