人食い鰐〈エル・ココドリーロ〉
ミーティングの後、パトリックはFESの指揮官のいる執務室へと向かう。その途中で、黒服の
執務室の扉をノックし、入室をする。部屋の
「あれは……エドゥアルド海軍省副大臣でしたかな」
パトリックは鶏男について尋ねる。
「
部屋の主に促されるまま、机の前に置かれたソファーに腰を降ろす。
ラファエル・サルセド提督は農家の三男坊として生まれ、この国のほかの多くの軍人たちと同じく、貧困を脱するために軍に入隊した。熱心なカトリック教徒で、あのコンドル作戦の生き証人でもある。
一九七六年、メキシコ政府は
アメリカの支援のもと行われた、世界初の麻薬撲滅を目的とした大規模除草剤散布。以降、同じ作戦はコロンビアやアフガニスタンなど世界中の麻薬生産地帯で繰り返される。
結局、除草剤の散布が麻薬産業を破壊できないことはその後の歴史が証明する。
コンドル作戦の場合も、一時的には
メキシカン・トランポリンの成立。
中南米諸国で生産された麻薬はメキシコというトランポリンを跳ねてアメリカに飛んでいく。そして多くの業界と同様に、流通業者は生産業者よりも大きな権力を手にする――この国の
コンドル作戦は結果として、この国の麻薬組織をより強大な存在へと生まれ変わらせたが、同時に彼らの最大の敵を生み出す契機にもなっていた――皮肉好きな歴史の気まぐれ。
その天啓に従って
「実は個人的なつてから、あの恥ずべきGAFE隊員に関する情報を耳にしていてね。ブラックホークヘリに乗る所属不明の兵士が、グアテマラ国内にあるグスタボの軍事キャンプを襲撃した、というものだ。単刀直入に尋ねるが、これは君らの仕業かな?」
軽々しい口調に反してその台詞には無数の棘が含まれている。アメリカ政府は麻薬カルテル対策のための軍事支援提供の条件として、サルセド提督をCIAの協力者として直接指名し、
提督はそのことをよく理解している。しかし、恩義も感じていない――だからこうして遠慮もなくCIAの秘密作戦について問いただす。
「グスタボには敵が大勢います。例えば、この国最大の麻薬カルテルである“血盟”は、グスタボにグアテマラとの国境線を抑えられたことで、南米各国からのコカインの輸送に支障を来していた――国境地帯の奪還は彼らの悲願です」
パトリックは見え透いた嘘で取り繕う。
「血盟の連中がブラックホークでグスタボを襲撃した? 面白い冗談だ」
「重要なのは、グスタボがこの国に舞い戻ってきた、という一点です。奴がグアテマラの
「君らが捕らえたいのはラ・オルミガだろう?」
「否定はしません」
「正直に言えば、君たちの要請に従いグスタボの生け捕りを部下に命じたことについて、まだ逡巡している。グスタボがかつて所属していたGAFEの標語を君は知っているかね?」
「“我々は死しても止まらない。死は我々の喜び”……でしたか」
標的に親愛を覚えるほどに標的のことを知れ。グスタボという人間については、彼の恋人や家族以上に詳しく知っているだろう。しかし、生憎グスタボはそういった類の人間関係を持ち合わせていない。
「その通り。奴は国への忠を捨てた恥ずべき男だが――幾多の死線で、その標語が真実であることを証明して見せた。そんな男を生け捕り? 私の部下の命をまだ奴に差し出せと?」
「……我々は貴方の兵士の命を守るためにあらゆる支援を行っています」
「それにアメリカはラ・オルミガに関する情報と引き換えに奴にどんな飴玉を差し出すつもりかな。財産の没収と懲役二〇年? 奴に殺された死者たちがそれで納得すると思うか?」
「ラ・オルミガを排除しない限りはこの国の麻薬戦争が終わることはありません」
「この国の麻薬禍の原因はもっと複雑なものだ。地政学、歴史、文化……もちろん、北の麻薬消費大国の無能な麻薬撲滅政策もそれに含まれる。君は、自分の所属する組織や政府が、これまでこの中南米で何をしてきたか、当然知っているはずだ――この麻薬戦争は誰か一人の
提督は
「――だからこそグスタボを殺しても何も変わりません」
だからこそ説得の余地はある。提督が眉間に深い皺を寄せたまま黙り込む。そしてしばらくしてから、両手を上げて降参の意を示す。
グスタボの捕縛作戦にあたっては、FESのお得意の戦術が採用される。ヘリからの降下班と、地上班による挟撃――先日の
リアンは再び降下班に振り分けられる。
作戦決行時刻は夜明け前。厳しい訓練を経てもかき消せない、暗闇への本能的な恐怖――その不安に長時間さらされた兵士の緊張の糸が、夜の終わりの予感によってほんの少しだけ弛緩するその瞬間。
闇夜の静寂を切り裂くMi−17ヘリコプターのローター音、そして四方八方から発せられる銃撃音が、キャンプを守る兵士たちをほんの一瞬だけ思考不能に陥れる。
その一瞬が彼らにとって命取りになる。
監視塔に警備詰所、そして兵舎が次々と爆発する。混乱の中、
三方向から攻撃を仕掛ける地上班がキャンプの兵士たちを釘付けにしている間に、ファストロープを通じて地面に降り立った降下班――リアンを含む総勢二五名はグスタボの居城と思われる教会へと素早く移動。一五名が教会周囲を確保し、リアンを先頭とした十名は教会内部への突入に備える。
元特殊部隊員であるグスタボは、自らの居処である教会を要塞化していると予測される。当然、建物の出入り口には、
だからリアンが特甲で石造りの壁を粉砕し、突入口を作り出す。壁の大穴から投げ込まれた
部屋から部屋へ。反撃するのものは射殺し、投降するものは地面に押し倒しナイロン製の簡易手錠で手足を拘束する。
突撃手であるリアンは敵兵士の正面に躍り出て、その銃撃を引きつける。後衛の隊員が特甲児童を狙う敵たちに向けて、小銃の引き金を正確無比に引き絞っていく。
リアンは探す――グスタボを。村で最も大きな建物、といえども所詮は小さな集落の教会。ものの一分程度ですべての部屋を制圧しきる。見つからない標的。リアンの脳裏に浮かぶ台詞――大方、
リアンは床の絨毯を引き剥がす。隠された石床に、一メートル四方の金属の板が嵌め込まれている。特甲の拳で床を破壊し、地下のトンネルへと着地。壁と天井を木板で補強された地下道――その奥から銃撃。臆さず突進。小銃弾を特甲化した腕で弾きながら、三人の兵士それぞれの腹、顎、胸に
そして目に入る大ボスの姿――グスタボ。護衛が倒されると同時に腰の拳銃を抜き、迫り来る突撃手の頭部に向けて連射。特甲のフルフェイスヘルメットは拳銃弾程度であればやすやすと受け止める。リアンは銃撃を気にもかけずに、そのままグスタボの腹部にフックを押し込む。
つんのめりに倒れ悶えるグスタボ。リアンに追いついた隊員がグスタボを素早く取り押さえ拘束する。
頭部装甲を展開し、素顔を露わにするリアン。耳に入るのはFES隊員の歓声と……FES隊員のブーイング。
FESはグスタボ捕縛作戦の演習を行っている。
グスタボの軍事キャンプの航空画像をもとに、FESが所有する秘密演習場に、合板でキャンプの実物模型を作成。部隊をふたつに分け、攻撃側と防衛側をローテーションしながら、
演習にはシムニッションと呼ばれるペイント弾が使われる。実銃の機関部と銃身を換装して使用するため、発砲音や反動などの再現性が高く、実際の作戦に携行する銃器をそのまま使えることから、演習と実戦における感覚の誤差も小さくできる。反面、訓練用銃弾としては威力があるため、取り扱いには大きな注意を要する。
何度も繰り返される
リアンも幾度となくグスタボをノックアウトする。グスタボ役の隊員に叩き込まれるボディブロー。フック。アッパー。ストレート。拳を繰り出すたびに、リアンの頭の中で超振動型雷撃器の出力のダイヤルが狂う。
あの男をこの手で生きたまま捕らえなければならない。
〈エル・ココドリーロ〉――あたしの手足を切り取った男。そして、自分のあの秘密を知る最後の生き残り。
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