虐殺の記憶
いつから夢に見なくなったのだろうか――あの日のことを。
オヒナガ――山間の窪地にある、小さな村。村民の数は五〇人ほどで、村の生計はトウモロコシとトマトの栽培、養豚により支えられている。
その日、数年前に村を出て軍に入隊した若者が、棺に収められた姿で帰村する。棺を運んできた同僚兵士とその上官が、若者の父母に報告する――彼は
村人総出で彼の葬儀が執り行われる。兵士たちは葬儀の警備を申し出る。彼らは、麻薬カルテルによる報復を警戒している。
葬儀はつつがなく進行し、遺体は村の一角にある墓地へと埋められる。静謐な葬送――何も起きたりはしない。兵士たちは胸を撫で下ろす。生前の若者と親しかった兵士たち数人を残して、部隊は村を去る。
村を囲む密林――その奥深くで、ギリースーツに身を包み息を潜めるグスタボと
葬送されたばかりの若者はFESの隊員。彼は数日前に実行された、ラ・カンパニアの
政府内部に潜む内通者より殉職した隊員の個人情報を得たグスタボは、
村へと続く道路では、軍による検問がなされている。GAFE在籍時、武装蜂起した農民に対する鎮圧任務で、密林でのゲリラ戦を幾度となく経験したグスタボは、若き
顔全体を暗緑色のフェイスペイントで塗り潰した
抵抗らしい抵抗はただそれだけで終わる――それから一時間もしないうちに、村民たちは全員、トウモロコシ畑に掘られた大穴に横たわることになる。
その大穴を前にして、
熱気が頬を撫でる。
――オヒナガの虐殺。あたしはその場にいた。彼らを殺した。
深夜――リアンは密かに基地を抜け出す。
この手の軍事基地は侵入に対する備えはともかく、脱走に対する備えは緩い。
唯一の懸念は内務調査部による監視――やる気のない見張りが宿舎の出入り口で欠伸をしているだけ。深夜の酒の買い出しによく使われる抜け道を使い、難なく外に出る。
二度目の逃走――フェルナンドの邸宅の時と同じで、自分はまたも逃げ出している。
あの時と決定的に違うこと――逃げ込む先がもう存在しないこと。カルテルとFES、どちらも裏切ったこの自分を受けて入れてくれる場所など、もうこの世界にはどこにも存在しない。
ほんの少しばかりの思案の後、リアンはその考えを訂正する――ひとつだけある。自分の居場所は。今はもう、ただそこに向けて邁進するしかない。
途中、農場でピックアップを盗み出す。機械義肢の力で、ドアロックとエンジンキーの差込口を破壊。ラ・カンパニアの訓練キャンプで教わった通りに点火装置の配線を結線――無事エンジンが始動する。ピックアップで市内まで出てから、大型スーパーマーケットの駐車場でそれを乗り捨て、今度はセダンに乗り換える。
夜が明けて自分の不在が発覚すれば、すぐに追跡が始まるだろう。そうなればこの特甲の発する信号を探知され、おそらく一時間もしないうちに拘束される。自分に与えられた時間は精々が五、六時間程度――それで決着を着けなければ。全ての。
およそ三時間ほどのドライブで四台の車を乗り換える。同じ道を何度も周回し、尾行の有無を確認――思わず苦笑がこみ上げる。あの訓練キャンプに送られた過去が、巡り巡って自分をここまで追い詰めた――なのに、この窮地にあってあの場所で叩き込まれた技術を余すことなく活用している。
辿り着いた先は河岸に面した、保税工場の集まる一帯――麻薬カルテルによる厳しいみかじめ料の取り立てから逃げるため、企業は数年前に撤退。隣接する工場労働者のための住宅街は、貧民層が移り住みスラムとなったが、こちらは放置され、朽ちるがままになっている。
リアンは工場のひとつ、その敷地の脇に車を停める。それから助手席に無造作に置かれたスポーツバッグから拳銃を取り出す。いつも携帯している私物のベレッタ・ナノではなく、グロック19――マイクロダットサイトにウェポンライト、多弾数マガジンを備えたカスタムモデル。内部パーツは丹念に磨き上げられており、トリガープルは軽めに調整されている。同僚の
ラ・カンパニアのキャンプで射撃術を担当していた教官はイスラエル人傭兵で、ホルスターから銃を抜き撃つその瞬間まで薬室に初弾は装填しないスタイルを好んだ。一方、FESはアメリカ式で予め薬室に初弾を装填しておく――
次にアクセサリー――ウェポンライトとダットサイトを点検する。ダットサイトの輝度を調整――やや暗めに。光が外に漏れないよう、ハンドルの下の影でウェポンライトを点灯しバッテリーの充電具合を確認する。
ズボンと腹部の隙間にある
上着を捲りつつホルスターから銃を抜いて構える動作を何度か繰り返す。自分の手の大きさだと、
車を降りる。夜空には雲ひとつない。目的地は更に数ブロック先。スポーツバッグを背負い、月明かりによって伸びる影に注意しながら移動する。数分で目当ての場所である、屋根の崩落した家電工場に到着。敷地を囲む塀――大人三人分はあろう高さのそれを、助走をつけ、一気に飛び越える。敷地内に着地すると、手近な窓から建物の中に侵入する。
屋内は暗い。目が慣れるまでじっとしてる。拳銃のウェポンライトは使用しない。自分の存在を直前まで相手に気取られたくなかった。
パトリックは数日前に帰国した。結局はあの時の喫煙所でのやり取り――それが最後の会話となる。自分の腑抜けた姿に、あの男は失望しただろうか。だとしても、おそらく、これからより大きな失望に直面することになるだろう。どう転ぼうと、この夜が明けた後には、文字通り全てが明るみに出る。
いつかはこうなることはわかっていた――なら最初から真実を吐き出せば良かったはずなのに。だがそうはならなかった。自分が真実から逃げ出したから。
慎重に建物内を歩き進んでいく。リアンは出荷製品を保管していたのであろう倉庫区画に足を踏み入れる。高い天井――その天井まで届く背の金属製のラックが、等間隔に二列で並んでいる。折板屋根は所々が剥ぎ取られており、そこから星明りが差し込んでいる。
腕時計を見て時間を確認する。時刻は午前四時――指定された時間通り。床に散在する木製パレットの残骸を避けつつ、奥へと進む。ちょうど倉庫内の中央部分に辿り着いたところで、照明が点灯――とは言え、通電している照明は全体の三分の一程度に過ぎず、あちこちにまだ夜の闇がそのまま残っている。
「あら、時間どおりね」
頭上から声――あの日から幾度となく、頭蓋の中で反響し続けているあの女の声。
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