序章:特赦課の日常②

 「●●● アイ」

苗字の所を黒く塗り潰したのは、これを与えられてすぐだったか。

はっきりとは思い出せないのに、酷く不快な感じがして、見た瞬間に黒く塗り潰していた。

死んだら全て赦し、赦されるだなんて誰が言ったのか。塗り潰した想いは紛れもなく、

怒りだった。エンマ様はそれを見て何も言わなかったあたり、当然事情を知って

いるのだろうけど。


 そもそも成仏もできず、地獄にまで来ているのだから、相当強い思いなのだろう。

自身のことなのに全てをはっきりと思い出せないのは気持ちが悪いが、ここに居るのは

誰かからの連絡を待っているからだということだけは覚えている。でも一体誰から――

 思いを巡らせる間も、残り30分を切った緊迫感からか声のトーンが上がり始める同僚や、

既に受電を打ち切り申し開きをひたすら打ち込み続ける打刻音があたりに響く。

これだけ見ればまるで普通のコールセンターのような光景だが、大きく開いた天井から

各モニターに向かって延びる蜘蛛の糸が、ここが地獄であることを再認識させる。

近代化が進み始めた頃から地獄へ堕ちる者たちが増えてゆき、西洋部のムルムルネット

だけでは捌ききれなくなり、天界より蜘蛛の糸を使った天界ネットをレンタルしたのが

少し前の話。



 統合前は北・京など、本来果てのなかった死者の天寿を人にも理解できる1000年単位にまで

縮め、24時間間断なく続けられていた苦行を1日8時間までとしたのはエンマ様の英断だ。

罪人・獄卒共に自由な時間の認められた、どことなく人間臭さのある世界。

罪人としての天寿を全うし、来生へと向かう者もまだ僅かではあるが現れ始めているという。


 これが地獄だと言われて信じる者はいるだろうか? 苦行も責めも8時間きっかり。

互いが息絶えるまで傷つけ合うよう手にしていた筈の様々な武器は、それぞれプールバトル

定番の柔らかなバトンに変わり、バトンを駆使して捕まえに来る獄卒をかわし、うまく

ゴールまで逃げ切れれば罪人勝利の1層目。続いての2層目は熱い砂浜でのビーチバレー。

 かつては険しい針山が行く手を阻んだとされる3層目は、別の意味で登るのが困難な

ぬるぬるスポンジの山となり、獄卒の投げるカラーボールからひたすら逃げる無限

ドッジボールで4層目、ここから下層部の焼け焦げるまでの熱さを伴う苦行は、

そのまま熱さを耐えうる範囲まで落とした上で、更に上着を着せられ熱さに耐える

我慢大会が5層目。6層目ではこれにあつあつメニューのオプションが付き、7層目は

食後に数キロのランニング、最下層の8層目でもこれら全てを網羅したトライアスロン

なので、やってやれないことはない。


 なお、獄卒の仕事はそれを「罪人の心が折れない程度に邪魔する」こと。

何の苦もなく得られる幸福では、その価値に気づけない。だがかといって、懸命に

進もうとする相手に水を差すような真似は人だろうと鬼だろうと良い気持ちはしない。

存外罪人よりも獄卒側に求められる部分は多いが、改正前より罪人・獄卒共にぐっと

心を病む者が減ったという話もあるから、獄卒側にとっても改悪にはなっていないようだ。

 「罪人に希望を捨てさせることなく、けれど安易な勝利にはさせない」罪人・獄卒

双方のメンタル面を考えて定められたルールはこの「特赦課」が出来たとほぼ同時に

作られたらしい。「らしい」というのは既に自分がここに来た時からこのルールに

なっていたから。よって文献や言い伝えでのみ地獄の様子を知る者は、あまりに伝承とは

異なる世界に初めは酷く驚くという。――と、ここで

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