第1階層 マテウス=ケルナーの場合⑨

 「今度はちゃんと感想を聞かせてね」

それから貴方が何者かも。貫くような眼差しに射竦められ、息が詰まる。

常とはまるで違う、けれどあの日と同じ苛烈さも露わな瞳に、全てが終わったのだと、

悟った。



 目覚めると既に日は高く昇っており――行かなければ、今日も隠れ家で次の襲撃の

打ち合わせがあった筈だ。慌てて立ち上がると背を何かが滑り落ちる感触。

これはあいつの――自身の物より少し大きめの上着を拾い上げると、椅子に掛け直し

ながら記憶を辿る。酷く酔っていた覚えはある。受けた衝撃を吐き出す相手も居らず、

かと言って酒で紛らわせようとするもそれも叶わず、棚の写真にどうしようもない

思いをぶつけた――そこまでは確かだ。だがそれまでの間に弟が出てくることはなかった。


 「……マテウス?」

やや乾いた唇がその名を呼ぶ。たかだか名を呼ぶだけで声が上擦ってしまうのは、

開いてしまった距離のせいか。何度か呼びながら部屋を見て回るが、求める姿は

見つからず――出掛けたのか、既に自分の帰りを膝を抱えて待つような年ではない。

やけ酒に沈む兄に呆れて気晴らしにでも行ったのだろう、そう結論付けると昨日の

スープの残りを掻き込み自宅を後にする。

……口にしたスープはやはりどこか味気ない、寂しさの残るものだった。


 どうやらまだ打ち合わせは始まっていなかったらしい。昨日同様、部屋の隅に

陣取ると三々五々集まり始めるメンバーたち。皆それぞれ愛する者、または護るべき

家族が居り、何を置いてもまずはそれらを優先し行動する。その中には妻に手伝いを

頼まれた、子供が怪我をした等、個人的な理由で来られない者も出るが――それも含めて

救世群だと言ってのける彼等は「そんなこともある」と誰ひとり気に留めることはない。

居ない者の分は居る者が補えばいい。それだけだと言ってからりと笑う。

軍の在り方であればまるで認められないそれを認め、逆に互いの連帯へと繋げる形へ

転化させたのは他でもない――


 「ちょっといい?」

掛かる声に初め自身に向けてではないだろうと、そのまま思考の中に沈んでいると。

「ノル、聞いてる?」

「っ!……」


 ノルベルト=ケルナー。種蒔く者、の名を冠した一族の証は捨てたが、それでも

捨てきれなかった、この名。「北方の輝ける者」に「神の贈り物」だなんて、父も存外

詩人なものだと弟と笑い合ったのは遠い昔。昔の自分たちを知っている者と出会う

可能性を思えば、名も変えるのが正しい選択だったのだろう。けれど姓は捨てても

名だけはどうしても、捨てられなかった。名すら失くしてしまえば何の為に生き

永らえているのかも解らなくなりそうだったから。

 

 ノル、再度呼ばれ慌てて顔を上げると呆れたように笑う女の唇がすっと開き。

「ちょっと来て」

背中越しに親指で促すのは皆が集まりつつある広間の奥に連なる客間――実際は

執務室になっているが、を示すとそのまま部屋へと入ってゆく。一体何なのか?

昨日の態度が気に障ったのだろうか? だとしてもわざわざ呼び出して更に怒りを

ぶつける程のものでもない筈だ。大体未だテーブルにも就けていないような自分に

何故声を掛けるのか? 疑問は尽きないが。


 「……はい」

これ以上事を荒立てるのも良くないと、素直に従うことにする。

不思議そうにこちらを見つめる仲間たちの視線が痛かった。



 「前は一口で終わってしまったから――」

改めて用意したの。目に入ったのは、昨日口にしたものと全く同じそれ。

用意されて間もないのか、まだあたたかな湯気が立つ皿にはやや崩れたじゃがいもや

大きめに切られたベーコンが覗く。わざわざどうして――そう尋ねようとした時

 「今度はちゃんと感想を聞かせてね」

それから貴方が何者かも。立ち上る湯気のあたたかさとは対照的に冷徹さを載せた声が、

僅かに残っていた酔いを瞬時に醒ます。


 「……貴方は、誰なの?」

再び繰り返される問いに冷えてゆく思考。交わる視線にあの日見た、自分たちへ銃撃の

命を下した女の影が重なる。父と母、同胞、友人たちの命を非情にも奪った憎むべき

存在が今、目の前に居る。


8年もの間、弟と共に影に潜みひたすら待ち続けた中でようやく訪れた好機。

これ以上の好機は恐らくきっとないだろう。必要なのは己の覚悟、ただそれだけ。

……やるなら今しかない、握り込む拳に力が籠もる。殆どの痛みをあいつに背負わせて

しまったから、せめてこの女は自分の手で葬るつもりでいた。

 弟の手は決して汚させない。隣に立つ兄へ寄りかかることもせず、自らの罪だと

祝いの席を睨みつけていた小さな存在。あの時からずっと弟の時間は止まったままだ。

併せて手元に置き、その時を止めることを助長したのは他でもない自分で。

だからこそ、弟が罪を犯すことだけはないようにしたかった。……あのスープを飲むまでは。


 「……言いたくないってことね」

内なる葛藤に口を開けずにいると、勝手に見切りをつけたのか話を変えましょう、

告げて椅子に掛けると、こちらへも同じようにテーブルを挟んだ目の前の椅子へと

掛けるよう促す。スープを挟んで1対1、冷め始めたスープからは先程までの湯気は

薄れつつあり、いいのよ? 食べても。からかうようにスプーンで掬う仕草を見せるも、

緩く首を振って返すと美味しいのに、とやや拗ねたような声が続く。

 解っている。その味なら誰よりもよく知っている。だからこそ弟のものからは失われた

ぬくもりを持つそれを再び口にするのが恐ろしいのだ。自分たちの標的である女に、

失われた筈の母が作るものと寸分違わぬ味が出来るなど――ベーコンの重みで崩れた

じゃがいもがほろりと皿の中へ沈み、瞬時鼻先を掠める香ばしい匂い。

いつの間にか広間の喧騒は、耳に入らなくなっていた。



 「……これはね」

私の母が教わった味なの。まだ救世群に今ほどの力がなかった頃、私が家を空けている

間に軍部の立ち入りがあってね――スープを見つめながら語る声音に、ほんの僅か翳りの

色が灯る。父だ。取り締まりの度、テーブルでひとりやるせない表情を浮かべていたのが

思い出される。仕事のことは殆ど家族に語ることのない人だったから、知るのは周囲からの

噂や伝達によるものが大半で――それもどこまでが真実だったかは定かではないが、

この様子からすると全ての噂が嘘というわけでもないのだろう。


 「本当に酷かった」

特に私は救世群の中でも素性が軍部に割れつつあったから。母は抵抗をしなかったから

連行は免れたけど、その分家を徹底的に壊されたわ。軍部は疑わしきを罰しはしなくても、

壊しはした。それが救世群のメンバーの家だとしたら尚更よね。そう口にして笑うことが

できる程度には、傷は癒えているのだろう。決して明るい話ではない筈なのに、語るその

表情はどこか穏やかだ。


 「だけど――」

当の本人は居らず、証拠もない以上、憶測だけで出来ることには限界がある。

さりとて軍部に抵抗する反乱分子の家かも知れないとなれば、当然取り締まりは厳しさを

増す。「調査」と称して引っ掻き回され、壊されていったあらゆるもの。だが賢かった母は

それでも止めることはしなかった。私の帰る場所を護る――ただそれだけの為に。

膝に置かれた手が微かに震えるのはその場に居なかった自身への苛立ちか、もしくは

軍部への怒りか。


 スープはその時貰ったものよ。どこで聞いてきたのか、軍部が引き上げたその日の

遅くに来客はあったと言う。……きっと母だ。差し伸べられた手に、初め同情なら

必要ないと断ったらしいけど。


 「同情じゃなかった」

今の貴女に必要なのは同情でも労りでもない。ただ純粋に生きる為に命を繋ぐ食事だ、

そう言われたそうよ。貴方も家を預かる者ならば、何が一番大事かは知っているでしょう?

家族が安心して我が家で食事を摂ることが出来る、これに勝る幸せはない筈だと渡された

バスケットに詰まっていた命の糧。2人の兄弟を伴い供されたそれは、新たに私たち家族が

立ち上がる為の礎になった。だから群の皆に料理を振る舞うと決めた時、このスープを

出すのは当然の選択だった。これは私たち家族が命を繋ぐと共に立ち上がる糧となった

ものだから。そこまで口にして真っ直ぐにこちらを見据える眼差しに声を失う。


 「……っ」

ひとつは命を繋ぐと同時に立ち上がる糧となり、もうひとつは命を永らえ「来るべきその日」

に備えて刃を研ぎ澄ませる為にのみ作られ続けた。どちらが母の味に近いかなど、考えずとも

明白だ。思わず逸らした視線が未だ手つかずのスープへ落ちる。――それに。


 「なんで、とも言ってたわね」

私は救世群の中でも限られた人たちにしかこの味を振る舞っていない。

なのに貴方はこの味を知っているような口ぶりだった。特別変わった所がないもの

だからこそ、その味を知る者は態度が顕著に出る。

 それでここからが面白い所なんだけど――今度は何だ。じわじわと弄るように話を

詰めるさまに内心舌打ちをしていると。スープを届けてくれた人には2人の子供が居た。

兄弟だったらしいわ。


 「……」

最後までその人は素性を明かさなかったようだけど、仕立ての良い外套や躾の行き届いた

子供たちを見れば、それなりの立場の人だったことは間違いないみたいだった。だから――


 「もう一度聞くわ」

……貴方は、誰なの? 既に確信に近い思いを抱いている癖に、どうしてもこの口を

割らせたいらしい。しかし未だ女が読めていない自分たちの素性。立ち上がる糧を

与えた筈の家族が何故素性を隠してここに居るのか。恐らく女の中では永遠に繋がる

ことはないだろう糸の正体を観念して口にしようとしたその時。

 

 ばん。不意に開いた扉から見知った顔が覗き――

「……上出来だ」

以前とはまるで別のものとなってしまった笑みを載せて、手の中に仕舞われていた

ナイフが研がれた刃を表した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る