第1階層 マテウス=ケルナーの場合⑧

 様子がおかしいのは普段飲まない酒を飲んで帰ったことからも窺い知れた。

既に日も変わった頃だろうか、自室で寝る前の日課となったナイフの手入れに

勤しんでいると、最初こそ控えめな気配が帰宅を告げるもがたん、椅子に

躓いたのだろう、派手な音がキッチンから響く。

 足元が覚束無いほどに飲んだのか、家から殆ど出歩くことなく、最低限の

行動範囲しか持たない自分にはまるで無縁の話だと鼻白みつつ、それでも常とは

違う様子に気配を探ろうと知らず耳をそばだてる。


 かたや標的を見つけ、その喉元に食らいつこうと潜り込むも、肝心な所で何故か

煮え切らず、いたずらに救世群で過ごす時間だけが増えている兄と、ひたすら刃を研ぎ、

復讐を忘れぬ為の楔の味を日々作り続けている自分。

最後に共にテーブルを囲んだのはいつだったか。まともに顔を合わせなくなって

久しいが、引いた椅子にどさりと腰掛けると同時に吐き出された重い溜息は、

粛清の後、自分が共に出ると言って退かなかった時に零れたものを思い出させた。



 ややあって――僅かに椅子が引かれる気配がして、ほどなくテーブルへ何か

硬いものが置かれる音。ガラスが擦れる音が同時にしたから多分棚の上の写真

だろう。枠より小さなガラスが嵌め込まれた粗悪な写真立ては、2人だけに

なって間もなく、兄がどこかの露天商から買い取ったものだ。ろくに金もなく、

目立つわけにもいかない以上、まともな店のもの等、買える筈もない。

飾られるのは自分たち兄弟にただ1つ残された、家族の最良且つ最悪の日を

収めたもの。……そんなものでも、縋らずにはいられなかった。

そうでもしなければ、立ち上がることもできなかっただろうから。


 胸にこみ上げる苦い感情を無理矢理やり過ごすと、研ぎ終えたナイフを仕舞い

ベッドへと歩を進め掛け――ふと思い直し踵を返すと今度は扉の前で立ち止まる。

あれではきっとまともに話は出来そうにないだろう、そう思いほんの少し扉を開け

様子を伺うことにする。



 引き寄せた写真を無言で見つめたまま、動くことすら忘れてしまったかのように、

身じろぎひとつしないさまに全く理解が追いつかない。……一体何をしているのか?

酒のせいもあるのか、普段とは異なる様子にまるで行動が読めずにいると。

 俯いた横顔から、さらりとした銀髪が滑り落ちる。テーブルに燈された仄かな

灯りを受け、密やかに瞬くそれは、癖の強い毛質の自分にはないものだ。

時折何かを振り切るように緩く首を振るせいで、都度きらきらと銀糸がはねる。

これまでも、そしてこれからも恐らく自分には決して見せることはないだろう、

弱さを滲ませる所作に、さすがに見ていられず扉を閉めようとしたその時。


 「……どうすればいい?」

必ず俺の手で始末をつける、そう決めたのに。どうすればいい?

呟くと同時に項垂れた肩がぐらりと傾ぐと、支えるようにテーブルへつかれる肘。

そのまま片手で顔を覆うように手のひらを押し当てると途端、堪えきれないとでも

言うように堰を切った震える呼気があたりに響き始める。


 あんなものを食べたら、嫌でも揺らいでしまう。消え入るように溶けていった

言葉に、思わず己の耳を疑う。


 (何言ってんだ……)

これまでの時が、俺たちの8年がたかだか食べ物で容易く覆されるだなんて。

あの女に奪われたものを忘れたとでも言うのか。弾痕の残るぼろぼろのテーブルを、

赤茶けたクロスを、兄はもう忘れてしまったのだろうか。噛み締めた唇が刻んだ怒り、

離れぬよう、離さぬよう、ひときわ強く握り込んだ手で結んだ復讐の誓い。

自分のせいで、という負い目が常にあった。だから幼さを理由に甘えることだけは

絶対にしないと決めた。父や母、友や親類たち――倒れた彼等の命の上に自分は

立っている。それが染みついているからこそ、地下の薄暗い我が家では勿論、ここに

来てからも抱き続けた望みはあの女への報復、ただそれだけ。

復讐を果たすまで自分が何かを願うこと等、出来はしない。というよりも寧ろ――

 (今更……) 

何をどう願えばいいかも、もはや解らない。


 これまで見てきたもの、やってきたことは全て、来たるべき日に備えての為の

ものであり、それ以外の道など知らない。だが兄は……見つけたのだろうか?

「来たるべき日」以上に大切なものを。これまでの8年が容易く揺らいでしまう程の

何か。愛か、仲間か。自分と違い、外の世界を知る兄ならば、自分とは別に大事に

したいと思う存在が出来ていたとしてもおかしくない。――と。



「――無理だ」

あの女を手に掛けるのも、あいつの手を汚させることも。どうにもならない二律背反に、

髪の間に差し入れた指先がきつく食い込むさまが見える、兄にとっては余程の苦しみ

なのだろう。しかし――ここまで来て何を言っているのか。思わず扉を開けて怒鳴り

散らしてやりたい衝動に駆られるが、どうにか踏み止まると次第に冷静さを取り戻す。


 どちらも出来ない、させたくない? ……何を今更。とうにこの手は奪うことしか

欲していないというのに。同じ場所に無数に開いた壁の穴や研ぎ澄まされたこの手の

刃の意味に気づいてないとは言わせない。

 重ねた歳月は痛みを僅かに和らげはしたが、それ以上に己の裡に根付いた負の感情を

より確かなものとした。怒りへ、報復へと先走るばかりだった幼い感情は時を経て、

確実に仕留める為の技量と、成し遂げる為の不動の信念を抱くに至った。


 ……今ならきっと、うまくやれる。だが――恐らく兄はもう同じ場所を見ていない。

あの日ふたりで立てた筈の誓いはいつの間にか自分だけのものとなってしまったらしい。

こうしている今も、たったふたりだけの我が家で殺伐とした空気に晒されるより、

軍ではなく群だと、家族なのだと憚って止まない奴らに絆され、靡こうとしている。


 「……」

何がそんなに迷わせているかは知らないが、確実なのはこれ以上「機を窺う」のは

難しそうだということ。

 「くそっ!」

感情も露わにテーブルを叩く音が妙に冷えてゆく頭の中で響くのを感じながら、

再びテーブルの上の酒に伸ばされる手を最後に僅かに開けていた扉をそっと閉めた。


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