第1階層 マテウス=ケルナーの場合⑦

 機を窺うよう伝えたのは、ただ万全を期してからと考えた、それだけではない。

もうひとつ気になっていたこと。それは――


 「まだかー?」

救世群の隠れ家のひとつ。とある民家に集った数名が先程から待ちわびているのは。

 「もうすぐだよ」

さっきからそう言ってるだろう? あの日から決して忘れることのない女の声が、

窘めるようにキッチンから返る。それと同時に仄かに漂ってくる匂い。

こんな風に時折、仲間であり、手足でもある彼等に女は手ずからの料理を振る舞うことが

あった。軍ではない自分たちはひとつの群れ。縦ではなく横で繋がっている仲間であり

家族なのだ、と常より何度となく口にするのを目にしてきた。


 (……白々しい)

あの日、背に従えた男たちの手を汚させながら、自身は手にした銃を掲げただけで

あったことが思い出される。自ら手を下すことは決してしない、見せかけだけの指導者。

巧みな弁舌でどんなに兵士たちを鼓舞しようと、最前線で指揮を執ろうと、己の手が

白いままなら何もしていないのと同じだ。こうして今あの女が「家族」と称する彼らに

振る舞う手料理を用意しているのだとしても、所詮手足である彼等を手懐ける手段の

ひとつに過ぎない。それよりも気になるのは――


 「お、きたきた」

テーブルについた1人が次第に賑やかになり始める食卓に歓声を上げる。パン、スープ、

塩漬け豚の煮込み。支援する民衆が増えるようになり、救世群の食卓も豊かになって

きたらしい。初めはパンとスープでもあるだけでマシだったんだぜ、と卓上の様子を

眺めていたこちらへと掛かる声。


 「そうか……」

適当に相槌を打ちながら、それ以上は関わらぬよう、それでもなるべく彼等の様子が

確認できる部屋の隅に落ち着くと、再び観察を始める。テーブルにつき、あれこれと

今日の料理についてのやり取りを続ける女と古参の者たち。料理を振る舞うと言っても、

口にするのは古参の者たちだけだ。彼らに比べればまだ日の浅い自分や他のメンバーは

遠巻きに眺めるのみ。ある意味、この食卓につけることが救世群の仲間として「家族」

として迎えられた証のようになっている。自分にそれが訪れるのは半年か、1年後か――

掬われたスプーンの中にある形の崩れたじゃがいもが、ほくりと男の口へと飲み込まれて

ゆく。


 玉ねぎと煮詰めたじゃがいも、ベーコンの入ったスープ。自分の良く知るレシピと

まるで同じように見えるそれに、他でも作られて当然のものであるとは解っていても

胸がざわつく。だが――ローリエを入れるのが大事なの、その言葉に身体の芯が一気に

冷える感覚を覚える。他にもスパイスが幾つかあってね、得意げに続ける声が語る

スパイスの組み合わせも母のスープとまるで同じ。どうして――思わず彼等に目を遣ると、

ちょうどこちらへ向けられた視線とぶつかり。

 

 「お、そうだ」

お前も一口食べてみるか? なかなかうまいぞ? スプーンをかざしながら笑いかけて

くる影に何と返したかは覚えていない。ただ、その味は――

 「おいおいどうしたー?」

スパイスつってもそんなに効いてないだろ?


 ふらふらと吸い寄せられるようにテーブルへ向かうと、僅かに震える手でひと匙

掬うも口にした途端。

 「なんで……」

呟くやいなや、口許を抑えて部屋を出てゆく自分に呆れたような声が掛かる。

そこまでスパイスは効かせていない筈だけど、扉の奥へと消える背を眺めながら

不思議そうに続く声に別の声が新たにスープの催促を促す。

扉の向こうで交わされる家族でのやり取りにも似たそれに、違う、誰に言うでもなく

零れる呟きが口を衝く。……そうじゃない。これは。



 「なんで……」

勢いよく閉じた扉に凭れかかると、そのままずるずると座り込む。

悔しさか懐かしさか、それとも怒りか。先ほどから理由も解らず流れ続ける涙を

どうにも止めることができない。どうしてこれを、あの女が――

 暗く辛い夜、奪われた者たちの為に母が分け与えた優しさ。どこでも手に入る、

ありふれた材料で作られた決して特別ではない、ごく普通の食事。

お前たちは手足ではなく家族なのだと言外に告げる、弟のものからはいつしか消えていた、

食べる相手を想い、心を籠めたぬくもりが感じられるスープ。

出来栄えは弟の作るそれと寸分違わぬものなのに。


 未だ残る口内のぬくもりに呼び起こされる記憶。まだ小さかった弟の手を引き、

母と連れ立って訪れた夜の民家。暗く辛い夜、少しでも彼らの支えとなれるよう、

ささやかな食卓を運んだのは1.2度の話ではない。

 誇らしげに空になったバスケットを振りながら先を歩く弟を見つめ小さく笑うと、

ありがとう、ゆるりとこちらへ向き直り微笑みかける影。あの時、自分は何と答えた

だろう――今思えば、復讐の為の楔として食べ始めた時点で、既に母の味からは離れて

しまっていたのかもしれない。胸の裡でじわりと広がってゆくあたたかさに、それ以上

考えるのが辛くなり、きつく瞼を閉じる。……未だ涙は、止まりそうになかった。


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