第1階層 マテウス=ケルナーの場合⑥

 同じ場所に幾つも開いた穴を指先でなぞりながら、いよいよ精度が確かなものに

なりつつあることに嘆息する。もってあと数年、或いはそれより早くなるかも

しれないが、この様子ではいずれ自分の制止など振り切って家を出てしまうことに

なるだろう。弟にとって救世群はある意味全てだ。まずは先に潜り込んだ自分が

機を窺うのを待つよう伝えてはいるが。


 ――救世群に飼い慣らされた? 辛辣さに載せて見せた口の端を上げるだけの笑み。

何を言うかと瞬時、頭に血の気が上るのを感じるも、弟が感情らしい感情すら

見せなくなって久しい事実に思い至れば、この表情こそがようやく垣間見ることが

出来た本心だと気付かされる。


 「―――」

そんなつもりは毛頭なかった。自分とて復讐を忘れたわけではない。……ただ、今は。

ぽつんとひとつ置かれたままの空の皿にスープをよそうと溜息混じりに椅子に掛ける。

何気なく転じた視線の先。棚の上の感光の中に消えた、祝いの席でひときわ輝いていた笑顔。

あの笑顔が消え、表情すら見せなくなったと言われて一体誰が信じるだろう。

立ち上る湯気をぼんやり眺めながら、いつからこうなってしまったのかと、静かに

目を閉じる。



 復讐に呑まれてゆく弟に、何もしてやることができなかった。

10歳で突然断ち切られた子供時代。以降、子供らしい伸びやかな生き方も出来ず、

ただじっと息を潜め、生きる為に外界へ出ざるを得なくなった兄を待つばかりの日々。

自分と違い、狭い世界での鬱屈した生活を余儀なくされたことに何も感じない筈が

なかった。その証拠に――


 「解ってない!」

その言葉が示した、もうひとつの真実。無謀とも呼べる手段すら躊躇わず選べる程に

膨らんでいた、感情。怒り、悲しみ、憎しみ。本来であれば真っ先に癒し和らげ、

いずれは消し去らなければならなかったそれらを、2人が生きる為の支えに利用したのは

自分だ。あの日、目を覚ました瞬間に視界を覆った手のひらは、その先の人生をも

深く覆ってしまった。


 何かに縋らなければ立ち上がること等、到底出来なかった。

……それが間違ったものであったとしても。


 しかし本当に弟を思うのであれば、軍部が遺体を運び出していたその時に

身柄を託すべきだったのだ。だが奪われた痛みや怒り、悲しみを共に知る唯一の

者が離れることを厭う身勝手さと、1人になることを恐れる弱さ。後であれほど

1人にさせた癖に、自分は己の為だけに弟を手放さず傍に置いた。


 何をするでなくとも、ただ傍に居てくれるだけで良かった。

絶望を知ってもなお生き続けるには理由が――支えが、必要だった。いつになるとも

知れない復讐の日までと嘯くよりも、ひやりとした地下で1人膝を抱え自分を待つ

小さな存在の為、そう言い聞かせることで何とか踏み止まってきた。

不安、懼れ、恐怖。明確で絶対的に正しい理由がなければそれらの感情に足元から

呑まれてしまいそうだった。



 粛清の嵐が去り、喪失と恐怖の爪あとだけが色濃く残る我が家で再び目覚めた時、

腕の中へと抱き込んでいた弟以外、ぬくもりを残した者は誰一人として居なかった。

それから地下での時を経て、再び日の下へと這い出た際、目にしたのは暴徒と軍靴に

踏み荒らされた我が家。無残に割れた食器や剥がれたクロスは打ち捨てられ、

代わりにそこにあった筈の武具や刀剣類、祝いの席でのみ使うようにしていた

母秘蔵の意匠を凝らした銀の燭台は姿を消し――持ち主はもう居ない、そういうこと

なのだろう。武具や刀剣には新たな使い手が、銀は溶かしてしまえば持ち主が割れる

ことはない。がさり、乾ききった花を踏んでいたのか、不意に耳を打つ枯れた音に

覚えず肩が震える。


 歩を進めるにつれ、露わになってゆく惨状。さすがに刺激が強すぎるだろうと

1人で行くことを告げた途端、自分も行くと言って聞かず、止む無く連れ出す形と

なった影は、地下から這い出すと同時に、あれほど動いていた口を閉ざした。

 繋いだ手の先の存在は何を感じているのか。耐えるように唇をきつく引き結び、

けれど真っ直ぐに現実を捉えようとする眼差し。今にも嘆きが、怒りが口を衝いて

しまいそうなのだろう、わなわなと震える唇からは堪えきれない呼気が漏れるのを

抑えられない様子が震え続ける肩からも解る。幼い弟には酷すぎた現実。

それでも目を逸らさず見つめ続けることが出来るのはやはり父より継いだ武人の

血によるものか。血を分けた家族はもう、2人だけになってしまったけれど。


 ひとりじゃない、そう声を掛けようと開きかけた唇は

「――!!」

きつく一点へと結ばれた視線の先に気づき、再び閉じてしまう。

睨みつけるように鋭い眼差しを向けるその先はあの日、弟が座っていた場所。

……思考は、手に取るように解った。


 自分のせいで父が、母が。多くの弾痕が刻まれたテーブルの向こうに座る過去の

自分を睨み据えたまま、唇を震わせる小さな手。そうではないと何度も言い聞かせた。

誰のせいでもないのだと。だが当の本人が赦していない。お前の為に集まった者たちは

皆、命を落としたのに何故お前は――来賓のものだったのだろう、踏み砕かれたパイプや

引きちぎられたコサージュの欠片等、粛清の残滓が無言のまま弟を責める。

それでも涙は決して見せず、忘れぬよう、刻みつけるように同じ場所を見つめ続ける

横顔に掛ける言葉が見つからない。



 ……痛みは同じだと、そう思っていた。だが違った。その肩が背負った重さは

自分の比ではなかった。武門の頭領たるケルナーの名を冠する者ならば、それすらも

越えて見せよ。父あたりなら、こんな風に言うかもしれない。でも弟はまだ子供だ。

小さな肩が負うには余りにも重すぎるそれは、放っておけば弟自身を潰しかねない。

 それならば――すべての痛みを知ったあの日、静かに立てられた誓い。

欠けたレンズの先に映る、感光したフィルムを大事そうに仕舞いこむ小さな背中に、

何としてでも弟だけは護ろうと決めた。その身も、心も。

それがただ1人、共に残った自分に出来ることだと信じたから。


 だがいつからだろう? 生活の為、食い繋ぐ為と家を空け、ようやく戻った自分を

見返す瞳に宿る想いが、聞き分けの良い返事と共に自分を送り出す声に潜む本当の

願いが、解らなくなってしまったのは。素直で感情が表に出やすい、いつだって

自身の想いに正直だった筈の眼差しは、見えない鎖で地下に繋がれるようになった頃から

不意にその光を失い――大人になり始めた兆しなのだと当時は思っていた。

この暮らしに順応する為、幼い心が自分を律することを覚えたのだと。

 

 しかしそうではなかった。……覚えていたのは、諦め。出ることも叶わない、

地下の小さな世界の中で否応なしに足るを知ることを求められ、唯一の家族である

自分も生きるのに必死なあまり、その変化に気づかずそして――



 「……別に」

ここでいい。気付いた時には遅すぎた。時を経て、何とか外で生活する為の基盤を整え、

この小さな牢獄から抜け出せると嬉々として支度を促した自分に返されたのは、

新しい世界を厭う声。もう慣れたし、幾度となく作られた為に母の作るそれと寸分

違わぬ味となったスープを取り分けながら興味なさそうに紡がれる答えに、それが

本心からのものだと理解する。常に聞き分けが良かったのも、不安や不満を口に

出さなかったのも、兄を困らせないよう気を遣っていた結果だったのではない。

……とうに諦めていたのだ。2年に渡る地下での暮らしは弟の心の在りようをすっかり

変えてしまっていた。


 生きる理由を忘れぬよう、いつからか作られ始めた母のスープ。食べることが生を

繋ぐのと同時に復讐を忘れぬ為の楔となるよう、繰り返し弟の手で作られるように

なってからどのくらい経つか。いつもと同じ色、同じ味。

母が作っていたものとまるで変わらないそれ。しかし――何かが違うと感じつつ、

目の前の空いた席を見つめながら考える。一体何がいけなかったのか?


 互いに1人ではとても立っていられなかったから、2人で生きる道を選び、

悲しみや痛みだけではそのまま潰れてしまうと感じたから、解りやすい目標を立てた。

「復讐」奪った命は、その命で贖ってもらう。

幼い弟にも正しく理解できるよう、遠回しな表現や脚色すら省き伝えたルール。

背負った重さこそ等しくなかったかもしれないが、感じた悲しみや怒りは変わらないと

思っていた。だからこそ、名を、家を捨ててまでその影を追った。

そしてようやく――手の届く場所に現れた、仇敵。



 自分たち家族の、兄弟の人生を大きく狂わせた元凶とも呼べるあの女。

無論自分とて復讐は忘れていない。けれど民衆の為に立ちあがった救世群は彼等の

中では英雄であり、望まれる存在で。自分達から総てを奪った奴らが今や軍部に

相対する勢力へと成長し、父が居た軍部が悪だと言われる。確かに時代は変わりつつある。

 だがこの怒りは、悲しみはどこにぶつければいい? 救世群の台頭と比例して、

衰退し腐敗してゆく軍部を見るにつけ、そして救世群としての活動が増え、民衆の

熱狂を感じる度、自分たちの行いの正当性に示される疑念。


 これは正しいことなのか? ここにきて揺らぎ始める信念。それは救世群が大勢を

変えつつある事実のみならず――掬い上げたスープを眺め、溜息をつく。

いつからこんなに母のスープを味気なく感じるようになってしまったのか。

皿の中のスープはまだ半分も減っていなかった。

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