第1階層 マテウス=ケルナーの場合⑤
そして時は過ぎ――
「見つけた」
あの女だ。外套を椅子へと投げ掛けながら普段よりやや興奮気味の様子で食事の用意をする
自分に駆け寄って来る兄が口にした「あの女」に瞬時、身体中の熱が上がってゆく程の激情が
自身の裡で渦巻くのを感じる。
……あれから8年。薄暗い地下を飛び出し、名を、住処を何度も変えながら、ひたすら
赤毛の女の行方を追った。その頃には「救世群」は既に軍部と対峙できる程の規模に
なりつつあり、最早ケルナーの名を名乗るのは危険な状況となっていた。そしてあの女も――
あの日垣間見た時よりも幾分か年を重ねた様子の横顔が、テーブルの上へと放られる
引き剥がされたポスターの中で蜂起を呼びかけており。あの時からずっと救世群を
率いていたのか。食器を並べつつ棚の上の写真に視線を遣ると、そっと目を閉じる。
感光で半分以上映っていないが僅かに残った場所に並んで映りこむ、ふたつの笑顔。
誕生日にと作られたご馳走を前に満面の笑みを浮かべているのであろう自分の後ろに並ぶ、
満ち足りた様子で幼い息子を見つめる優しい眼差し。物陰に転がっていたせいか、全ての
写真の中でも唯一これだけが姿を留めていた。いよいよだ。ようやくあの女に手が届く。
どうするか等、会う前から決まっている。力には力を、それが奴らのやり方なら、こちらも
それに倣うまでだ。蜂起を呼びかけているのならそれこそ好都合。
蜂起の混乱に乗じて近づき、そのまま――
「駄目だ」
こちらの意図を見透かしたように諌める声が、いつの間にかスプーンを握る手を静かに
包んでおり。あれほどの組織になれば外部から侵入するのは無理だ。
……お前の気持ちは解る。
「解ってない!」
諭すような声音に押し込めていた苛立ちが一気に噴き出す。兄と違い、幼さに翻弄される
ばかりで何ひとつ選べなかった歯痒さのどこを、生活の為、情報を得る為と外界へ出る
兄に対し、ひとり残され燻り続ける寂しさや憎しみをただただ飼い馴らすしかなかった
自分の何を――解っているというのか、そう言い募ろうとするも。
「お前こそ解ってない!」
俺がどれだけこの日を待ち焦がれていたか! 親も、頼れる人間も無く、幼い弟を抱えて
生きるのがどれほど苦しかったか。
「……お前には解らない」
振り絞るように再度口にされるそれに、いつもと違う響きが籠るのを認め顔を上げると、
今度はこちらの目線から逃げるように視線を逸らされる。親の庇護も見込めない状態で
子供だけで生きてゆくには、なりふり構ってなどいられない。
地下室にあった蓄えが僅かなものになり始めた頃から、兄は行先を言わずに出かける
ことが増え、時には数日戻らないことがあった。帰れば酷く疲れた様子で倒れるように
眠り込み、行先を尋ねてもはぐらかすばかりでまともな答えは返らず。
きっと自分には言えないようなことに、手を染めることもあったのだろう。
お前には解らない、重ねて口にされた言葉には、それ以上の追及を受け付けない重さが
あった。子供だった自分に言えなかったことがあるのと同様、兄にも同じく口にできない
何かが確かにあった。
大人になった今ならもう、あの頃のようなただの重荷ではなく、力になることも
できるのに。
「……すまない」
沈黙を傷つけたと捉えたのだろう、謝罪の声と共にそっと離される手に残る、僅かな指の痕。
いつだって家族や周りの人間を1番に考えている筈の、普段感情が露わになることのない
兄が見せた、強い感情。まだ自分が知らない何かをどれほど隠しているのか。
遠ざかる背中に掛ける言葉が見つからないまま、次第に消えてゆく痕をぼんやりと
眺めていれば、支えを失いテーブルへと落ちた手ががしゃんと、冷め始めたスープの皿を
瞬時揺らした。
それからは顔を合わせても以前のように話すことが出来なくなり、会話は必要最低限の
ものへと変わってゆき。同時に救世群へと入り込むことに成功した兄は家を空けることが
増え、二人の距離は加速度的に離れていった。
目標が近いことで熱が入っているのか、それともあの日から安らぎの場でなく、
息が詰まる場所へと変わり始めた我が家に居ることを無意識下で拒んでいるのか、時には
1週間以上戻らないようなこともあった。もう子供じゃない。だからこそ昔のように頻繁に
自宅へ戻ることがなくなっただけなのだと頭では理解していても、心がついて行かない。
もう戻って来ないのではないか、とうとう見限られたのではないか。常に帰りを待ち続けた
ことで膨らんでいった不安は知らず、そのまますべての元凶となった女への憎悪へと
すり替わってゆく。不安や寂しさは次第に、壁に貼られた標的への明確な殺意として
静かに研がれるナイフや、胸や額等の急所で顕著になったダーツの穴の数として現れ始める。
そんな中――
「……人を的にするな」
違えることなく、狙い通りの位置にバレルが突き立つようになった頃。
久しぶりに戻った影が口を開いたかと思えば、耳に飛び込んできた信じられない言葉。
何の為にここまでやって来たかを忘れたわけじゃない筈なのに。
復讐のことはあの日から1日たりとも頭から離れたことはない。亡骸の中から立ち上がり、
弔いながら静かに暮らす道を敢えて選ばず、思い入れのある名を捨ててまで必死にその後を
追ったのは、ひとえに復讐の為。
奪った命は同じくその命で贖ってもらう。幼心でも容易に理解できた、絶対的理由。
2は1では贖いきれないが、その1が1以上の存在となった今なら? 自分にとって2は実際の
意味よりずっと大きなものではあるが、1の中にある様々な要素は同時にそれ以上の重さを
持つ。
「――何それ」
本気で言ってるわけ? 自分達のやろうとしていることを棚に上げて何を言うのか。
呆れながら的からバレルを引き抜こうと掛けた手に瞬時感じる視線。
「それとも……」
優しい兄さんはもう復讐なんてどうでもいいと思ってる?
ひょっとして救世群に飼い慣らされた? 自身でも驚く程の辛辣な台詞にさすがに
怒らせたかとちらと目線を上げると。
「―――」
刹那、気色ばんだようにも見えた眼差しはしかし、そのまま色を失い。
何かを言おうとしたように見えた唇も、終に開くことはなく。何も言わず離れてゆく気配に、
バレルを握り込む指に覚えず、ぎりと力が籠められた。
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