第1階層 マテウス=ケルナーの場合⑫

 「―…し、もしもし?」

「っ!……ああ悪い」

情報確認中だ、もう少し待ってくれ。既に口が覚えてしまった時間稼ぎの常套句を

諳んじると、不意に途絶えた思考の先、残っている記憶を必死にかき集めてゆく。

……そうだ、ここは地獄で、確か仕事中に着信があってそれから……

それから? 画面に映る忘れもしない顔を見つめながら、止まってしまった時間を

繋ぎ直そうと考えを巡らせる。


 一体どのくらい呆けていたのか。インカム越しでも感じられた、気遣わしげに

此方の様子を窺う懐かしい声。穏やかに諭すようでいて、こうと決めたことは絶対に

曲げない強さを持つその声の主と最後に話したのはいつだっただろう。

画面上の通話時間がまだ1分も経っていないことに密かに安堵すると、未だ

ぼんやりと夢から醒めたばかりのように余韻の残る頭を何度か振ると、目の前の

モニターへ再度目を向ける。左右並んだ画面左側には罪人の享年時の顔や略歴、

右側は細かな生年表が並ぶ。

「ノルベルト・ケルナー。11月7日没。23歳。死因:自殺」


 (!何で……っ)

瞬間、思わず上がりそうになる声をすんでの所で堪え、先程まで見ていた

夢にしては鮮やかすぎる記憶を辿る。11月7日は自分が死んだ日だ。

邪魔も入らなかった筈のあの状況で復讐が果たされなかったとは考え難い。

それに――最終的に復讐を望まなかったのだとしても、自殺する理由が解らない。

 外の世界を見、復讐以外に大事だと思える何かを見つけていたかも知れなかった兄と、

かたや8年もの間、復讐以外の事物から目や耳を塞ぎ、暗く長い夢の中で微睡み続けた

挙句、銃の暴発であっけなく死んでしまった自分。ここに居る理由を思い出せずに

いたのは、死んだ事実を認められずにいたからだ。ペン立ての場違いなスプーンも

恐らくそういうことだろう。だとすれば最期に刻まれた記憶はきっと――


 「……ええと、まだかな」

控えめながらもやんわりと催促を掛ける声音にやっぱり兄だと妙に納得してしまう。

悪かった、短く詫びると氏名・享年月日等、一通りの本人確認を終え、本題へ移る

ことにする。

 元々ここは早抜けした罪人が自身の罪について悔い改め、申し開きを行う為の

場所であり、申し開きを承認された者へは罪状を問わず、天界への飛び級が赦される。

しかしそもそも何故飛び級を望むのか、そして何故。


 (自殺なんて、したんだよ……) 

申し開きを聴取するという性質上、オペレーターには聴取内容についての制限は

設けられていない。その為、彼らが天界への飛び級を果たすには洗いざらいを

話さなければならないとされている。だがそれでも――いざ自分の兄のこととなると、

他の罪人たちの時のように気軽に話を進めることが出来ない。

死因について・飛び級を希望する理由・来世への意気込み。最低でもこの3つを

押さえなければ報告書自体が成り立たないのに、そのどれも聞くことを恐ろしいと

感じてしまう。


 なお、今回のように知人や肉親からの着信の場合、オペレーターの心理的負担を

考え、最悪別のオペレーターに交替することが許可されている。

――瞬時そのルールが頭を過るも、それ以上に別の誰かが兄の告解を聞くと思うと、

やはり耐えられない気持ちになり、無意識に挙げかけた手をそのまま下ろすと、

覚悟を決めるべく深く息を吐き、すっかり重くなってしまった唇を何とか動かしてゆく。



 「……じゃあ、死因から話してくれる?」

どうして地獄に堕ちることになったか。これは罪人が自身の罪についてどの程度の

認識を抱いているかを知る上で避けられない質問だ。あの後どうなったかを知るのは

正直怖い。復讐を誓い生きるも、不慮の事故とは言えそのまま死ぬことになった自分と

違い、ここに堕ちてきたということは何かしら、自身でも自覚している罪があると

いうことだ。

 知る限り、復讐以外に罪という言葉とはかけ離れた存在だった兄から己の罪について

問い質すというのは居心地が悪いものを感じるが、触れないわけにもいかず、どうにか

問いを口にする。


 「死因は……銃、かな」

弟を撃った銃でそのまま自分を撃ったんだ。俺が……殺してしまったから。

「っ!」

全ての最悪の予想を上回る答えに、瞬時言葉に詰まる。あの事故はあんたのせい

なんかじゃない。いつだって兄さんは俺を助けようとしてくれた。あの時だってそうだ。

あの女から銃を取り上げようとして暴発した先にたまたま俺が居ただけで。


 「あんたが死ぬことはなかったんじゃ――」

「違う」

俺は、あいつに全部背負わせたまま、変わるきっかけすら取り上げて、逝かせて

しまった。……それだけじゃない。


 「意味が、無くなったんだ」

俺の、生きる意味が。そう口にすると、先を継ぐ言葉から不意に感情が抜け落ち、

長い告解が始まる。救世群に両親を殺されてから8年。

ずっと2人であの女を追い続けてきた。けれどその中で俺は弟の未来を暗く覆い、

他の道すら示せないままに逝かせてしまった。10歳で自分の道さえ決めるのも

難しかったあいつに復讐の道を教えたのは他の誰でもない俺だ。

 

 独りを恐れるあまり、離れることを拒むばかりに、最も避けなければいけなかった道を

是だと示した。だから――変わっていくあいつを見ても、何も言えなかったし、

出来なかった。……俺がそうさせてしまったのだから。


 「――」

「……それに」

この8年を終わらせて、拗れてしまった二人の関係を修復するにはきっかけが必要だった。

復讐を果たすことが出来たなら、俺たちもきっと変われる。俺が捻じ曲げた、あいつが

掴む筈だった未来。

 家からろくに出ることも叶わず、ひたすら生きる理由を忘れぬようスープを作り、

手の中の刃を愛でるだけの日々ではなく、俺が外の世界で見た、ただ自分の喜びの為に

生きる同じ年頃の子供たちのように、己の幸せを求めて生きる。

そんな当たり前の生き方をさせてやりたかった。でも――


 「俺が殺した」

俺が最後に躊躇ったばかりに、あの女ではなくあいつが死んだ。

それまであいつが築きあげてきた命を繋ぐ理由すら壊してまで飲ませたスープのせいで。

だから。

「意味が、なくなったんだ」

あの女を撃つ意味も、俺の存在する意義も。……後はもう、見ての通りさ。

生きる為に後ろ暗いことにも散々手を染めた挙句、弟を死なせ、自分も殺すような人間だ。

天界になど昇れる筈がない。そう言ってどこか諦めたように笑う気配。

……その笑い方には覚えがあった。

 

 まだ自分が幼かった頃、地下の蓄えも減り、止む無く外に出るようになった兄が

いつからか見せるようになっていた笑み。それが己の望みを捨て、意思に反する道を

選んだ時のものなのだと気付いたのは、そうして笑って見せた夜に限って寄り添い

眠るこの背にきつく顔を押し当てる重みを感じたから。

 背中で気休め程度の慰めしか与えられない、兄の重荷にしかなれない自分が嫌いだった。

早く大人になり、復讐を果たし、その笑みを見なくて済むようになりたかった。

結局それは果たすことは出来ずに終わってしまったけれど。だがそれならば――

生きる意味さえ失い自身の命を絶つに至った兄が、再び飛び級を望むのは一体何故か。

地獄に堕ちた今でも未だ自身を責め、赦せずにいるのはこれまでのやり取りで痛い程に

感じている。大体兄の性格ならば飛び級ではなく、己の罪を苛み続ける道を選ぶ筈だ。

そこが腑に落ちない。一体どうして。

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