第1階層 マテウス=ケルナーの場合⑭

 共に、生きてゆきたい。口にされた望みに己の耳を疑った。そして飛び級を願う理由にも。

足枷になるばかりだと思っていた自分に確かにあった価値。復讐と兄の罪悪感を免罪符に、

前を見ようとしない事実に目を背け、向き合うことすら拒み続けていたあの頃。

そんな自分でも兄の生きる理由となっていた事実に酷く驚いたがそれ以上に驚いたのは、

復讐を遂げた後も兄がまだ自分と共に在ろうとしてくれていたこと。

どう好意的に解釈しても当時の自分は決して「仲の良い弟」ではなかった。

それなのに復讐を成し遂げた後もまだ自分の幸せを願い、見守ろうとしてくれていた。

顔へと集まり始める熱を堪えようと、無意識に握り込んでいた拳にぐ、と力が籠もる。


 命は有限だが、魂に果てはない。……命は、繰り返される。だがより多くの生き方を

刻むのが魂の目的である為、今生の繋がりが来生に引き継がれることは少ない。

ならばとうに互いの生が終わった時点で繋がりが無くなっても仕方がないのに、それでも

インカム越しの声は来生でも自分の兄になりたいと言う。


 「……人でなくとも、何だって構わない」

あいつと同じ生を過ごせるのなら、それ以上は望まない。

……今度こそ、俺があいつを護ってやるから。


 飛び級への意気込みとしては今一つ勢いに欠けるものなのに、キーを打つ指が止まり、

画面の中の顔がぐにゃりと歪む。復讐以外の事物への無関心、煮え切らない兄への反発、

そして暴走した挙句の死。あんたの弟だった頃の俺は何ひとつあんたの望む弟じゃ

なかったのに、それでも俺を弟として望んでくれるというのか。


 「……もう先に旅立ってたら?」

「見つかるさ」

俺の弟なんだ。見つけられないわけがないさ。

せめてもの意趣返しの質問も、根拠のない自信で返される。できればきちんと謝ってから

一緒に旅立ちたいんだがな。先程までの重苦しい空気とは打って変わって、全てを

吐き出したことで吹っ切れたのか、声の調子が昔、楽しそうに家族へカメラを

向けていた頃の明るさを載せたものへと戻りつつあるのが解る。2人きりになってから、

もうずっと聞くことのなかった希望を灯したあたたかな響きに懐かしさと、とうに

失くしていたと思っていた諸々の感情が一気に溢れ出す。


――そうだ、俺はずっと、待っていたんだ。兄さんと一緒に生まれ直せるように。

ペン立てに差された銀のスプーンがそうだ、と言わんばかりに仄かな光を放つ。


 あのスープを飲んだ瞬間、復讐は終わっていた。母と同じスープを作れる者が居るのなら、

それはきっと痛みを知り、立ち上がる力を分け与えることができる人間だ。

それこそ父や母が望んだもの。打ちひしがれた者たちが再び立ち上がる為の力となり、

生きる勇気を灯すきっかけとなるもの、それが母のスープの存在意義。

生きる理由を忘れぬよう作り続けた自分のスープはいつしか母の味とは離れてしまったけれど。


 だからすぐ解った。兄が踏み切れなかった理由が。

……このスープを作る人間を殺すことは、母を2度死なせることになる。

それが例え父母を殺した仇敵なのだとしても、引き継がれた意思ごと潰してしまえば

今度は自分達自身がその仇敵となってしまう。

 結果として2人とも地獄へ堕ちるという惨憺たる結末を迎えたが、逆にこれ以外の結末が

あったとしたらそれは、これまで過ごした8年よりもずっと苦しいものとなっただろう。

誰かの屍の上から立ち上がるのと、自分が手に掛けた屍を踏み越えて立ち上がるのとでは

意味が違う。父母の屍の上から立ち上がりながらも、新たな屍を築くことなく、自分達で

この憎しみの連鎖を断ち切ることができた。そう思えばこの結末も存外悪くなかったと

思えるから不思議だ。そこまでを思い出し、再び画面に対峙した時、頬に残る幾筋かの

痕は乾き始めていた。




 昼休憩以外に設けられた、適宜自由に取ることを許されている10分の休憩時間。

普段はデスクで菓子を頬張るか、寝て過ごすかのどちらかだけど。

「―――」

急に空が、見たくなった。作りものだが晴天だったり、所々で曇天だったりと日々微妙に

違う表情を見せる空。今はどこか泣きそうな曇天のさまを見せている。

このまま雨でも降りそうだな、そう思いながら持参したクッキーの袋を器用に歯で破る。

しゃく。口にしたそれがどこか湿っているような気がするのはこの空のせいか、それとも――


 「そう言えば君は――」

……少し、弟に話し方が似ているな。どこか投げやりな感じなのにその実、本当は相手の

ことをきちんと見て返す所とか。

「――そうかよ」

それは良かったな。終話間際、思いがけない形で自分の存在を口にされ、気の利いた

返しが出来ずにいれば、やっぱり似てるな、嬉しそうに弾む声にいよいよどう返せばいいかが

解らなくなる。するとインカムの向こうで笑う気配。何となく面白くなくて口を閉ざせば、

今度はあちらから呼び掛けられ。


 「ありがとう」

できれば今回で申し開きが通ると嬉しいんだが。……また君と話せるなら、それも悪く

ないのかもしれないな。それじゃこれで――

「マテウス」

「っ!」

……弟の名だ。君と話せて、本当に良かった。

それを最後に通話は切れ――再び訪れる、日常。


 本当は薄々自分の正体に勘付いていたのではないか? そう思わせる程に、この名を

口にしたタイミングは絶妙だった。謝りたい、護ってやりたい等とさんざん言っておいて、

別れ際に見せたほんの少しの茶目っ気も、思えば本来の兄の気質であったのかも知れない。


 「……ふふ」

それを機に、次第に思い起こされる幼い日の記憶。呆れるくらい生真面目な癖に、時折それが

信じられなくなる程の大胆さや茶目っ気を見せる。軍人の家の生まれであるにも関わらず、

その道のみに染まらず、カメラを片手に家族や自然を映していたのもそれ故。

周りが何と言おうとこうと決めたらその道を突き進む。地道に50年の天寿を全うすることを

良しとせず、飛び級を望み、申し開きの権利を勝ち取ったように。

思い出してしまえば、兄が自分と共に生きることを願ったのは、そうおかしなことでもない

気がしてくるから面白い。切り際のやり取りを独り思い出していると。


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