第1階層 マテウス=ケルナーの場合⑮

 「ご機嫌じゃない」

少し前まで向かいの席で頭を抱え、画面を睨みつけながら斜めに傾いていた同僚が

ベルフェゴールさんから、と別の差し入れの菓子を差し出してくる。


「……何これ、タルト?」

「みたいね」

香港で№1のお店らしいわよ、名前は忘れたけど。話題の店や行列の出来る店、

という言葉には無条件に興味を持つことが多いと言われる日本人であると伝え聞くのに、

そういった触れ込みには特に興味を抱いた節もなく、とろとろのカスタードクリームが

たっぷり詰まった繊細なタルト生地を、何故か匂いを確認した後、短めの黒髪を軽く

揺らしながら崩れないよう注意深く、もそもそと食べ進める様子が目に入る。


 「―…で?」

大丈夫? 何が、とも誰が、とも言わない、確認のみのそれ。

無駄な会話を嫌う彼女らしい、けれど今の自分には最も思いやりのある言葉に思える

問いに、首を縦に振って返す。ほろりとした食感の後、口の中に焼きたてタルト生地の

塩味と、あたたかさを残した濃厚なカスタードクリームが広がり、覚えず頬が緩む。

 昔、とある調査で人間界に降りた際、たまたま口にした菓子の虜となり、以降世界の

スイーツを時折お忍びで食べ歩くようになったという噂を耳にしたことがあったが、

どうやら本当だったらしい――今回はアジア圏に降りたみたいだ。

そう結論付け、最後の一片を飲み込みながら、指先についた生地の欠片を舐め取っていると。


 「そう」

これもまた短く返すと気が済んだのかもう行くね、告げてくるりと踵を返す。

触れ合うようでいて触れ合わない不思議な距離感。1人で居ることを尊重しつつも、

こうしてどこか様子のおかしい誰かが居れば、そっと独りではないのだとも伝えてくれる。

その押しつけがましくない優しさが心地良く、いつも甘えていたけれど――




 「アイ」

思わず呼び止めていたのは、自身でも何か感じるものがあったからかもしれない。

「?何、……ってちょっと!?」

どうしたのそれ!? 振り返った黒髪がこちらを見た瞬間、酷く驚いた様子で声を上げる。

「?それって……ええ!?」

驚きで固まったままの影が指差した先にあったのは――白い羽根。

左右均等にこの背から外側へ向かって伸びているのは紛れもなく、天界逝きを約束された

証である天使の羽根だ。


「ここ地獄だよ!」

「解ってる!」

だったら何で――こっちも解んねーよ、そう口にしようとしたその時。


 「おやおや……」

これはまた珍しい。何処かへの手土産用か自分用か、小さな香港№1の袋と現地の暑さで

脱いだのだろうジャケットを腕に掛け、昨今トレンドとなりつつある英国伝統の

スリーピースの袖を捲った普段よりは随分とラフなスタイルのやや大柄の男性が、

口調の穏やかさとは裏腹の興味津々な眼差しと共に音もなく現れる。

見た目年齢としてはやや渋めの部類に入るだろうその人は――


 「ベルフェゴールさん!!」

見事に重なる声におやおや……再度笑みを漏らすと、愉しそうに目を細めたまま胸ポケット

から小さな手帳を取り出し、後でエンマ様に時間外手当を頂きませんと、そう唇が

動いたように見えたと思うや否や。


 「マテウス=ケルナー」

「っ……へあ?」

不意に高らかに名を呼ばれ、妙な声が出てしまう。

昇天おめでとう。……チケットはお持ちかな? 常の紳士的な口調にどこか威厳の加わった

声が静かに問い掛ける。

 昇天? チケット? 何のことだ。突然生えた羽根の理由も解っていないというのに。

どう返したらよいか解らず言葉に詰まり立ち尽くしていると、急すぎる展開に驚きながらも

気にはなるのか、こちらも音もなく横に来るとねえそれ本物? 尋ねつつ羽根を1本抜こうと

する白い手。痛えよ、髪を引っ張られた時のような感覚を背に覚え軽く睨むと、うわ本物!?

更に驚いた様子を見せるも遠慮のない力がつん、と1本羽根を抜く。


 「っ痛え!」

……こうと決めたら結局はやってしまう女だった。呆れと痛みを逃す為の溜息を吐くと、

再度目の前の紳士に対峙する。その間にもベルフェゴールさんは何事かを手帳に書き

付けていたようでああ失礼。……で、ありましたかな?


「チケットは」

「チケットって言われても……」

そんなのはないです。なるべく失礼にならないよう返したつもりだが、生前兄以外の

人間と話すことが殆どなかったものだから、これが正しい返し方かどうかの自信が持てない。

が、隣で即座に言葉遣い! と突っ込みが入ったあたり、恐らく間違っている可能性の方が

高そうだ。その証拠に。


 「――」

「!!」

向けられた眼差しに瞬時鋭さが増したような……気がしてやや怯むも、その目線は次第に

顔から下へと移動すると、ある一点で止まり。どうやら気に障ったという意味では

なかったらしい。というのも。



 「お持ちではないですか」

独特の目力に圧倒され、棒立ちのまま動けずにいた自分の目の前まで歩み寄ると、シャツの

胸ポケットあたりに手を伸ばし、すっと引き抜く仕草を見せる。

途端、ポケットに掛かる重さと同時にそれが離れてゆく気配。

「……なんで」

「言い方が悪かったようですな」

チケットと言っても紙で出来ているとは限らないのですよ。先が淡く光るスプーンを

示しながら、これもまた面白い。さすが特赦課の方は地獄の罪人たちとはひと味

違いますな、褒め言葉とも何とも捉え辛い感想を述べると、またしても手帳へと何事かを

書き足してゆく。


 「他人には価値がなくとも」

天界へ向かう筈の魂をここへ繋ぎ留める楔となり得るものならば、それは天界逝きのチケット

でもあるのですよ。エンマ様やルシファー様の御手より生み出されるものではなく、初めから

自身でお持ちなのは恐らく特赦課の方々ぐらいでしょう。

「とは言え――」

羽根の発現まであるのはかなり珍しい。チケットはともかく、ご自身で強く天界逝きを

望まねば羽根までは発現されませんからな。


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