第1階層 マテウス=ケルナーの場合⑯終
――時に
「動くのではありませんか?」
私もこうして間近で見るのは初めてですが、紀律によると自身で発現させた羽根であれば、
属する長――西洋部であればルシファー様ですが、そちらの認可がなくとも己の意思で
天界への扉を開くことが出来ると聞いておりますが。
「動くって言ったって……」
宗教関係の書物等では見慣れている姿だが実際、大の男をたった2枚の羽根の力だけで
飛び立たせることなんて出来るのだろうか? ざああ、羽根特有のやや獣じみた臭いに
僅かに顔を顰めると、とりあえずやるだけやってみるかと思い切って振りぬく形でぶん、
と大きく羽ばたいてみる。すると――
しゅん、羽根より生じた風が地に真っ直ぐな道を刻み、5.6歩先の所で勢いを止めると
そのまま刻んだ線の先が浮き上がり、端と端が結ばれた中点よりアーチを象る。
これはいわゆる。
「……門、ですな」
羽根があるのに飛ばれないとは、また……変なツボにでも入ったのだろう、小さく肩を
震わせながら変わって、おられ、る、笑いを誤魔化そうとして無理に話そうとする
せいで妙な場所で息継ぎが入り逆効果だ。
「いいですよ」
別に笑っても、飛ぶよりこっちの方が早そうだし俺、これで行きますんで。
飛ぼうと歩こうと行き着く先が同じであるなら構わない。ある意味次こそは、
地に足の着いたまっとうな生を生き直すという願いを載せる点からも歩いて行くのは
存外悪くない選択かも知れない。自身の中ですとんと納まった答えに満足すると
曇天の空の下、ぼんやりと光る門に向け、いよいよ歩を踏み出そうと右足を動かし
踏み込もうとした眼前に。
「はいこれ」
入口の門番に渡しなさいって。不意に眼下に飛び込んで来たつむじがぬ、と
差し出したのは先程のスプーン。入場券なんでしょ? ちゃんと持って行かないと。
俯いたまま手だけこちらへ向けほら、再度促すようにスプーンを振る。
不思議に思い振り向くと、後ろではようやく笑いの波が引いたらしいベルフェゴール
さんが今度は別の意味での笑みを浮かべ、楽しそうにこちらを見ている。
そういうのじゃないんで、何か期待をしている様子の表情に肩を竦めると、何故か
こちらを見ようとしないつむじを見下ろしたまま、ありがとな、告げてスプーンを
受け取る……取る、取れない! なんでだ!?
「おい」
「何」
「手」
取れねえじゃん。渡してくれるんじゃねーの?
「取れないんだけど」
「取れるし」
「いやいや……」
お前ちょっと意味解らないんだけど、そう口にした途端。
(あ……)
雲間から射した光が瞬時、地に落ちる何かを弾いて煌めく。……そうだった、こいつは。
普段は触れ合うようで触れ合わない距離を保とうとする癖に、人の心の機微には聡く、
誰かに傍に居て欲しいと思うような時には決まって近くに居る。それなのに。
自分の気持ちを伝えることが驚く程下手で、それでいて――
「泣くなよ」
「泣いてない!」
……大事な所で素直じゃない。そんな所も好ましいと思っていた。
ここに来てから永く近くに居たせいで、それが恋情だったか友情だったかはもう解らなく
なってしまったけれど。自分より年上だというのに不思議とそうは思わせない純真さを
残した女。こいつにもきっと何らかの事情があって此処に居るのだろうが、復讐を糧に
命を繋いでいた自分とは魂の擦れ具合が違うのか、口調や態度が素っ気ないことは
あっても、醸し出す空気はどこか柔らかい。だからこそ。
「……見送ってくれよ」
お前が見ててくれたら、迷わず行ける気がする。こうして自分も、素直な想いを口に
することができる。が、小さく震え続ける肩は未だそれ以上の動きを見せず。
マテウス、やんわりと促す声が背に掛かる。門もあまり長くは保たないのだろう。
先程よりは輝きを失いつつある様子に、じゃあ行くわ、つむじ越しに声を掛けるも返る
答えはなく。
いよいよ顔を上げる気配のないさまに仕方がないと諦め、握る力を無くした手から
スプーンをそっと引き抜くと。
「ありがとな」
これまでの全ての想いを籠めて紡ぐ一言。同時にその指先へと軽く唇で触れれば、
予想外だったのだろう、声にならない声を上げて一気に合わさった目線からほろりと、
またしても小さな玉が零れ落ちる。……それでも地獄の住人かよ。
「変な顔」
「!っ……誰のせいよ!」
「俺」
にしてもさすがに免疫なさすぎじゃね?
この程度でいちいち赤くなるようなもんでもないだろ。からかいながら再び唇を寄せる
真似をすれば、馬鹿! 遠慮のない張り手が頬に綺麗に入り――
「痛え!」
「馬鹿!」
「でもまあ――」
折角顔を上げてくれたんなら、ついでに最後まで見ててくれよ。
他の奴らにはもう会えそうにねえからさ。頬を擦りながら重ねて願いを口にすると今度こそ、
わかった、そう小さく返す答えがあって。
次第に近づいてくる天界への入口と、遠ざかってゆくこれまでの思い出。
来生ではまた1からのスタートだから、今のこの感情もきっと忘れてしまうのだろうけど。
らしくもない感傷だと解っていても、衝動を抑えられずつい振り返りそうになった刹那――
「行きなさい!」
先程までの泣き顔が発したとはとても思えない、凛と張った声がこの背を押す。
「何だよ……」
最後の最後で初めて年上らしい所を見せるだなんて。
「狡いよな」
覚えずふ、と口の端が緩むのを感じる。そこで思い出す笑顔の記憶。
自身を嗤う時、誰かを嘲る時、そんな時にしか出来ずにいた筈の笑みが、ここにきて初めて
それ以外の想いから笑うことが出来た。それも恐らくきっと――
微かに誰かの名を呼んだように見えた唇は、門の先へと僅かな光を残して、消えた。
特赦課――午後5時過ぎ。もうひと頑張りの時間帯。
空席となった目の前のデスクには、いずれ獄卒の誰かが入ることになっている。
読んで字の如く「特別に赦された者たち」が在籍する特赦課で初めて経験した「別れ」
他のメンバーとも同じように突然の「別れ」があると思うと、何とも言えない心持ちに
なるけれど――
「アイ!」
日本人から来てるんだけど、これってどういう意味? 対角線上のデスクから呼び声が
掛かる。画面を指しながら尋ねてくるあたり、恐らく近代以前の言葉や用語が混じって
いるのだろう。大和言葉まで遡っていませんように、そう願いつつペン立ての羽根から
そっと視線を外すと、離れたデスクへと向かい始める。
特赦課:8名の内、1名が昇天。在籍者数:7名。……今日は残業かも知れません。
地獄のサポートセンター 于眞渓 未瀧 @yuma_mita
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