第1階層 マテウス=ケルナーの場合③
当時軍人として、多くの戦功を立てていた父は内外で顔を知られており、軍部でも影響力を
持つ存在だった。全土統一の旗印の元、軍国主義を掲げ、民衆へもその思想を強要した国に
対し、これまでなかった体制に初めこそ彼らは戸惑いながらも恭順の意を示していたが、
強引な徴兵や増税で奪われるばかりの日々、果ては自分たちのささやかな暮らしすらいずれ
奪われるのだと悟った時、それぞれの自由を求め立ち上がった民衆の中でひとつの組織が
生まれた。
「救世群」軍という呼称を使わず、あくまでも志を同じくする同志として、旧体制を
打破すべく生まれた勢力は、力には力を、の思想を以て国へと反旗を翻した。
……だが、力と力がぶつかる時、起きるのは悲劇しかない。
父は確かに軍部の人間だったが、性急な国の動きに危惧を抱いていた。
民衆の感情を蔑ろにし、急速に列強への仲間入りを果たそうとする軍部の気運を憂い、
自身の中でも燻り続けるわだかまりを消せずにいた。だが逆にその影響力が故に
迂闊に己の考えを口にしたり、公に動くことができなかった。
相反する意思を持ちながらも、彼等の家が「救世群」の隠れ家とならぬよう、
反乱の芽を摘む、という名目の元、抜き打ちで取り締まり、それを妨げる者は
「救世群に与する者」と判じ有無を言わさず連行する。無遠慮な軍靴が部屋中
そこかしこを引っ掻き回し、ありもしない証拠を捜そうと躍起になる。
壊される平穏と奪われる家族。そして生活を踏み躙られた人々は父を、軍部を憎み
「救世群」の到来を心から希うようになる。
悪くなる一方の現状を歯痒く思いながらも、この状況を作り出す一端を担う立場と
なっている自身はどうすることもできない事実。誰にも理解されない葛藤。
同じ護るべき家族を持つ者として、彼等から奪うのではなく与えることは出来ないのか。
日に日に大きくなってゆく軍部と民衆の間の軋轢にいよいよ耐え兼ねた時――
そっと差し出されたのはあたたかなスープだった。
自身の思考に縛られ、身動きが取れなくなるような、真っ直ぐでいかにも軍人気質な
父とは違い、伸びやかで自由な精神と、それ以上の行動力で周りを巻き込む母は、
常に家族の中心だった。ともすれば自身の創り上げた規範で雁字搦めになる父を時に
宥め、時に叱咤し、陰日向となり明るく我が家を照らしていた存在。
そしてこの時も我が家の太陽はすぐさま動き――己の裡の葛藤で悩む夫にあたたかなスープを
差し出すと、その傍から今度は慣れた手つきでバスケットに食べ物を詰め始める。
ささやかな家族のぬくもりの象徴である食卓に欠かせないパン・ソーセージ、
そしてスープ。家に、家族に土足で踏み込まれて傷つかない者は居ない。
我が家を手酷く荒らされてしまった後では、食事ひとつまともに作ることもままならない
だろう。彼らに今必要なのは謝罪ではなく、今すぐ口にできる食べ物や人心地つける
ぬくもりだ。罪に溺れていないで、それを食べたら手伝ってちょうだい!
ほら、貴方たちも! 夜は冷えるのよ。あたたかなスープでも食べないと元気も出ないわ!
人手が増えたから、今夜は多く持てそうね、スープとパン・ソーセージを入れた籠を
テーブルへ置くと、他にも何か無かったかと地下へと降りてゆく足音。
今夜は、と母は口にした。それはひとえにこの夜の外出が初めてのものではないと
いうこと。確かに目を転じれば壁際にはやけに使い込まれた様子のバスケットや内側の煤が
すっかりこびりついたカンテラ、簡素だが仕立ての良い黒い外套が掛かっており。
――そういうことか。忙しなく動きながら、子供たちにも指示を出し、てきぱきと準備を
進めてゆく様子を、展開についてゆけず持たされたスプーンを手にしたままぼんやりと
目で追うばかりだった影が得心のいった様子で見遣る。
その鼻先を掠めているあたたかな優しさの匂い。口にする者たちのことを思いやり
ただ「与える為だけに」作られた、蕩けるほどに煮詰めたたっぷりのじゃがいもとベーコン、
玉ねぎをローリエ等のスパイスで風味づけをして仕上げた、身体の芯からあたたまるスープ。
どの家庭でも食べられている、気取らない素朴な味。四角四面で物事を額面通りにしか
見ることができないきらいのあった父には、自らが壊した家族の元へ妻や子が訪ねてゆこうと
動いていたさまはどのように映っていたのか。
何度も食卓に上った馴染みの匂いが、用意された隣のバスケットから僅かに漂う。
――と。スプーンの中にあった小さな塊が静かに、その口の中へと消える。
目を閉じたまま噛み締めるように、確かめるように幾度も、幾度も噛み締める。
そしてこのまま目が開かないのではないかと思われ始めた頃。ほう、息を吐く音と共に
届く、小さな声。
「……そうだな」
椅子を引き、立ち上がる音に混じって口にされた何か。……奪ったのなら、それ以上に
与えればいい。奪われた者たち全てでなくとも、この目の、手の届く範囲で差し出せばいい。
きっと何か難しいことを言っていたのだと思うけれど、顔を上げた眼差しはもう、自分の知る
強い父のそれに戻っていたから。
こうして小さなスプーンが届けるひと匙のぬくもりは、母からまた別の家族を持つ母親たち
へと伝わってゆき――時にそのひと匙は、幼い弟を連れた兄が労りの言葉と共に運ぶことも
あった。暗く辛い夜、仄かな灯りに照らされる小さな食卓。それは本当にささやかな、
贖罪とも呼べないものだったかもしれないけれど。それでも家族は常に民衆の傍に在ろうと
していた。ほんの僅かでも、彼等に安寧とぬくもりを。願ったのは、ただそれだけ。
だがその小さな行いを力でねじ伏せたのは正に、傍に在りたいと望んでいた筈の……民衆たちだった。
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