第1階層 マテウス=ケルナーの場合①

 最後の1枚をかじりつつ、だらしなく椅子に凭れた姿勢のまま、仄かに明滅する

デスクトップの蓮の花へと目を向ける。今日もまた地獄のレースを勝ち上がった者たち

からの入電が入る。随分と内容が緩くなったとはいえ、そこはやはり地獄。

朝から夕方まで続く、きっかり8時間の耐久レースを勝ち上がるのは容易ではない。

だが1つ解らないのは――地獄へ堕ちるくらいの奴らだ。それなりに言えない過去の

ひとつやふたつを抱えているのだろうが、そこから再び天を目指そうとする神経が

理解できない。


 「地獄の罪人だぞ……」

いくら悔い改めたと言われても、生まれついての素養はそうすぐに消えるものではない。

そんな者たちを最早アスレチックの類にまで落ちた苦行をパスするだけですんなり

飛び級させるのは、あまりにも雑すぎるのではないか。

 とは言え天界逝きを拒む程、地獄に想いを残した自分がここに居られるくらいだ、

個人の感情や思想には存外重きを置いているのかもしれない。


 それにしても自分は一体何に縛られ、何を望んでいるのか。今こうしてここに居る記憶は

地獄の門をくぐる所からの始まりであり、地獄へ至るまでの記憶――つまり前生の記憶が

ない。前生で強い執着を残した者にたまに起き得ることだ、罪状が無いなら早く昇天すれば

いいものを。仕事を増やすな、引き立てられた審判の間の中心に座した片翼の魔王は、

一方の膝を玉座の上に立て、だらりと傍らの腕を下げて身体を傾けるという、明らかに

やる気のなさそうな体勢のまま、大仰に溜息をつくと面倒臭そうに「不可」の印を大理石の

卓へと置かれた書類へ押し、傍らに控える紳士然とした男に放って寄越す。


 やれやれ……屈んで拾い上げながら堕天されたのは貴方の意思でしょう、聞き取れるか

どうかの微妙な声音でついた悪態を、ベルフェゴール! 耳聡く捉えたのだろう、

先程より一際大きく響く声にもまるで動じた様子を見せず、はいはい、もう今日は

これで終わりに致しましょう、やれこれでは西洋部の昇天率は下がる一方ですな、

愚痴とも皮肉とも取れる呟きを残して参りましょうか、そうして審判の間より促されて

やって来た先がここ――特赦課だ。


 貴方は地獄の罪人ではないので苦行を行う必要はありませんが、いつ昇天するかも

解らないなら……お暇でしょう? ならば是非お願いしたい仕事があります。

それで頼まれたのが、この仕事だった。

 簡単に言えば、8層それぞれの苦行で優秀な結果を出した者たちを所謂「昇天の意志が

強い者」とし、そいつらからの申し開きを聞き、更生の見込みがあれば飛び級させる、

という仕組みらしい。意志が強いのと更生の見込みがあるのは意味が全然違うと思うが、

上の奴らが決めたことなら仕方がない。


 (面倒臭え……)

どこかの魔王のようなわざとらしい溜息をつくと、先程まで顔を強張らせたり、名札を

睨んだりと軽く挙動不審だった目の前の同僚へと視線を移す。

穏やかな物腰で話を進めつつ、小気味良くキーボードを鳴らすさまは普段と変わらないように

見えるが――後で声掛けてみるか、さすがにいい加減自分も仕事をする振りくらいはした方が

良いかと、とりあえずデスクのゴミを片付け始めたその矢先。


 端に置かれたペン立てに紛れて佇む銀のスプーンが蓮の花の明滅を受け、ちかりと

光る。業務には不要な筈の場違いなそれは、自分がここに来た時に持っていた物だ。

死者は最期の記憶に刻まれた物を持ってこちらの世界に入ると言うが。


 「……だりい」

今日は特にテンションが上がらない。再び天を目指そうとする罪人たちも、未だ

存在意義を見出せないこのスプーンも。何も解らないし、解る気もしない。

もう終わりにするか。勝手に本日の業務終了を宣言し、残り時間は外でもぶらつくかと

ステータスを「待機中」から「離席」へ変えるべくボタンに指を伸ばした瞬間。


 「!っ……」

揺らぐシタールの音色と共に現れた人物に、これ以上ないくらいの勢いで己の目が開かれた。


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