第1階層 マテウス=ケルナーの場合⑩
小さな腕には少し重いバスケット。中にはパンとスープ、それから僅かな果物。
1つは食べてもいいと言われたのを思い出しつつ、目指す扉の前に立つ。
――おつかいを、頼まれてくれないか? ほら、あの家だ。
ちょっと俺は用事があってね。兄さんの所に行かないといけないんだ。
そう言って屈んだ影がそっと握り込んでいたこの手を離した時には既に手の中に
あった重さ。
「これ……」
「お願い、できるかい?」
手の中の数枚の銅貨とにこやかに微笑みかける男を見比べながら、幼い頭で懸命に
考える。誰かは知らないけれど、優しそうな男からの「おつかい」のお願いと
手の中の銅貨。あの家なら父親も時折行く場所だから知っている。
でもあの場所のことは誰にも言ってはいけないと言われた筈で、でもこの人は
何故かそれを知っていて――父親とのやり取りを思い起こしていると。
「1つなら果物も、食べていいよ」
……決定打は、あまりにも単純なもので。
「うん!」
巡らせていた筈の思考は、いとも容易く打ち消され、いい子だ。お母さんに
持たされた、って言うんだよ、念には念をと、更なる入れ知恵を与えながら
満足そうに口の端を上げて笑う男の癖のある髪がきらりと、陽の光を弾いて
揺れ――スープが冷めない内に頼むよ、背に掛かる声に見送られ、父たちの居る
隠れ家へと歩き始めた。
「思ったよりずっと簡単だったよ」
仲間を疑いもしないなんて、さすが救世群だな。わざわざ兄さんが潜り
込まなくても良かったんじゃないのか? 酷く愉しそうに笑うと、まあ待ちなよ
――素早くテーブルを立ち、距離を取ろうと後ずさる影にポケットから取り出した
何かを放つ。――たん。狙い違わず、真っ直ぐにその頬を掠めた軌跡が、羽根の
小刻みな揺れを載せたまま後ろの壁へと突き刺さる。正確無比な「掠めるだけの」
一投に自宅の無数の壁の穴が思い出され、きりりと胸が痛む。程なく、その赤毛
よりやや暗めの赤が頬に一筋の線を作るのを認めると、満足そうに口の端を上げる
あの笑みを見せたのち。
「動くなよ?」
次は外せる自信がない。これでも大分抑えてるんだ。
ずっとあんたに会いたかったからな。寄越した眼差しをふっと眇めるとなあ兄さん、
此方へ向き直りずっと待ってたよな、と同意を求めてくる。
「……兄さん?」
「え、まだ気づいてない?」
何で俺がすんなりここを見つけられたか。心底嬉しそうに紡がれてゆく真実に
弟の感情の昂ぶりが見えるようで恐ろしい。この状況で嬉々とした表情を見せる
理由が理解できず、ついに押し黙ってしまう女に興味を削がれたのか、ちょっと
足りないか、手の中のナイフを見て呟くと腰に巻いたベルトをぱちんと外す音がして。
しゃ、しゃ、手にした刃をベルト代わりに巻いた革砥で研ぐ規則的な音が場に
重く沈む。暫く続け、満足のゆく具合になったことを認めると、そんなの簡単さ――
思い出したように言葉を繋ぎ。
「身内が居たからだよ」
あんたの傍に居るその男。……ああ、まだ話の途中だったか。思いの外あっさり事が
運んだせいで早く出過ぎたな。こいつらにはもうちょっと警戒心ってもんを教えて
やった方がいいんじゃないか? 余計な世話かも知れないが、言いつつきい、と
開かれる扉の奥――開け放たれた扉の先に見えたのはテーブルに伏したまま動かない
様子の3人の男たちと手前のソファで寄り添って眠る父娘。
「!お前、何を!?」
「眠って貰っただけだ」
俺だって誰でも彼でも殺したいわけじゃない。寄り添って眠る父娘に瞬時目を
遣ると、あの子におつかいを頼んだんだ、お母さんからの差し入れだ、ってな。
ただの差し入れじゃ怪しまれるだろうから子供に、と思ったんだが――
足元に転がる食べかけのりんごを見つけると、やっぱり子供は、疑わないよな、
どちらの意味かを図りかねる呟きが、先程よりもほんの少し柔らかな色を帯びて
どこか哀しげに響く。
「……懐かしいな」
俺たちもやってたっけ。結局どれも届いてなくて、母さんたちは殺されたけど。
母と自分たちが届けた夜の食卓のことを言っているのだろう。自嘲気味な笑みを
見せる傍らの影にそれは違うと口にしようとして、開きかけた口を反射的に噤む。
……言えばどうなる? 自分よりも強い憎しみと、自責の念を持ってはいるが、
本質は素直で優しい弟のことだ。未だ生き続ける標的が母の作る味と同じスープを
自身の「家族」へ振る舞っていると知ったら?
奪われた命は奪った者の命で贖ってもらう。幼い心が挫けぬよう、そう教えたのは
自分だ。だがそう教えた筈の自身の心は、あのスープで再びぬくもりを思い出して
しまった。
「……」
届いていなければまだ良かった。想いがぶれることもなかったのだから。
だが実際は。昨日見たばかりのテーブルを囲む「家族」の中心にあったぬくもりを
思い出し、目の奥が熱くなる。――と。
「――っこの!」
思いに沈んだ一瞬の、間。流れについてゆけず、立ち尽くすばかりだった赤毛が
一転、身を翻しテーブルのスプーンを握り込むと一気にナイフを持つ影へと肉薄する。
「……ああそう」
呆れたような呟きが終わるか終らないかの瀬戸際――冷えた笑みを浮かべるとすっと
手の中の刃を持ち替えるさまに、急所ばかりを何度も貫かれたポスターが思い出される。
当然、外すつもりはないだろう。決意、気合、力。それらが上回っている方が勝つ。
そしてそれは恐らく――脳裏に浮かぶ血の海に横たわる存在を思い、慌てて猛進する
女を押さえ込む。怒りに燃える瞳が射殺さんばかりの勢いで鋭く睨みつけてくるが、
それでもこの手を離すわけにはいかない。
「ノル!あなた本当に――」
「頼むから」
どうか大人しくしてくれ。必死の思いで何とか言い聞かせながら、先程座っていた
椅子へ無理矢理掛けさせると、スプーンを取り上げ再度暴れ出さないよう後ろ手に
縛ってゆく。その間も裏切り者、恥ずかしくないの、等と多くの怒りや侮蔑の言葉が
投げつけられるが、答えることはせずスプーンを戻し、後ろ手の戒めに緩みがないかを
確認すると、両者のちょうど間の位置に立つ。……どちらがおかしな動きをしてもすぐ
動けるように。その意図を知ってか知らずか、煮えきらねえな、殊更大きく響く声音に
あからさまな苛立ちが滲む。
――当然だ。こうして対峙した今もまだ腹を括れず、どちらも失いたくないと思っている。
思い悩む段階はとうに過ぎているのに、未だ覚悟が決まらずにいるのは自身の甘さの
せいだというのは、不満そうに鼻を鳴らす弟に言われずとも自分が良く知っている。
だがそれでも、積年の恨みだけで手を下すには、自分は多くを知りすぎてしまった。
追う者、追われる者。どちらの立場も傍で見てきたからこそ、逆に身動きが
取れなくなった。一体どうすれば良いのか、何が最上なのかも解らず、ただ両者が
再びおかしな動きをしないよう、交互に見張るしかできずにいると。
からん。固い何かが転がる乾いた音に、俯く赤毛を注視していた目線をゆるりと上げる。
その先にはすっかり冷めたスープを不快そうに見つめる眼差し。
「……なにこれ」
先程の音はテーブルを覗きこんだ時にスプーンが転がった音らしい。
一気に距離を詰め、皿の中身を改めると一層不快さを増した様子で舌打ちをする
さまにどう告げるべきかと途方に暮れる。見た目・匂い共に母のスープと同じ
それを目にしただけでこの反応だ。それを作ったのが目の前の仇敵だと知れば――
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