マクガフィンの行方

阿久井浮衛

Prologue

1

 滴る汗がぽつぽつとアスファルトに染みを作る,7月のとある午後のこと。わたしは学生食堂の裏を抜け,書籍部脇の通路を南西方向へ歩いていた。

 国道から大学構内へ伸びる車道を横断し,体育館とテニスコートに挟まれた駐車場を横切る。コート上では本日の課業から解放されたらしい学生達が硬球を打ち交わしていた。爽やかなラリーの音と清夏の日差しに追いやられるように,サークル棟へ急ぎ入る。

 サークル棟1階はエントランスだ。ここは全サークル共有のスペースで,入り口右手の管理人室の他にはサークル別にダイヤル錠の郵便受けが設けられている。部室の鍵はこの郵便受けで管理することになっているのだけれど,わたしはエントランスを素通りし,左手の通用口から外に出た。鍵の有無は確認するまでもない。

 屋外階段を一息に上がる。3階へ着くと,ぐるりに巡らされた開放廊下をテニスコート側へ進む。何気なく外の景色に目を向けると,澄み切った空を綿あめのような雲がぷかぷか泳いでいた。

 鮮やかなコントラストに目を細めつつ,動悸が落ち着くのを見計う。頬を伝う汗をハンカチで拭って廊下を奥へ歩く。目指すは順に数えて9つ目の扉だ。

 部室の前まで進むと,いつものように窓越しに中の様子を伺う。部屋の中央に置かれたテーブルの奥,ホワイトボード手前の指定席にて新書のページを捲っている彼の姿を確認し,ドアノブへ手を伸ばした。

「やっほー。今日は新書なんだね」

 わたしが声をかけると,やや間を置き松本君は顔を上げる。

「やあ。……君が来たということは,もう16時か」

 伸びをしながら,松本君は本棚脇の掛け時計に目を凝らす。元々高校の頃から視力は良くなかったそうだが,大学入学後は食事時にすら本を手放さない生活のせいで低下の一途を辿っているらしい。ただでさえ目付きが悪いのに,細められた目のせいで一層とっつきにくい顔付きになっている。

 それでも,さすがに1年も経つと慣れるもので,わたしは松本君が時計の文字盤を解読するのを待たず彼の右手の席に座る。首を振っている扇風機の温い風に眉を顰めつつ,テーブルの上に置かれた新書に視線を落とす。表紙には「エピジェネティクス」という文字が見えた。

「珍しいね,本格物を読んでいないなんて」

「ああ,これ? 専攻の関連でちょっとね。というか,小説だって本格派ばかり読んでいるわけじゃないよ」

 まるで人目でも気にするかのように,松本君は口元にだけ小さく笑みを浮かべた。苦笑したその拍子に,ぴょこんと立った前頭部の寝癖が揺れる。

 どんな大学にも研究に打ち込むあまり自身の容姿を顧みなくなった人種というのは存在するだろうし,特にここミステリ研究会というサークルにはそういった連中が多い。それでも幸いなことに,わたしはまだ彼ほど振り切った人物に出くわしたことはない。

 彼の服装の基本は,トップスが白シャツでボトムはデニム。冬場は流石に寒いのかその上にカーディガンやジャケットを羽織ることもあったけれど,夏はどんなに暑くともこれ以下の軽装になるつもりはないらしい。現に今も,腕まくりこそしているもののくたびれた長袖のシャツに袖を通している。そのくせ,エアコンのないこの部室においても涼しい顔をしているのだ。

 もちろん髪の脱色なんて想像したことすらもあるまい。若干癖のある重苦しい黒髪は,その日の湿度と寝相によって異なるうねり具合こそ見せるものの,野暮ったい印象を与える点だけは毎日代わり映えがない。下手すると髪を切るという概念すら時々見失っているかもしれない。顔立ちは目付きの悪さを除くと特に注意を引く特徴はないはずなのだけれど,線が細く青白い顔が病弱な印象を掻き立てている。あまり変化のない表情が掴み所のない印象に拍車をかけていた。間違っても人好きのする顔貌ではない。

 ぼんやりと寝癖の動きを目で追っていたわたしは,ふと頭に浮かんだ思いつきを口にした。

「本格派以外も読む松本君に,おすすめのイベントがあるのですが」

「メーリスで回していた例の合宿の話? 確か,社会人サークルと合同で缶詰やるんだっけ」

 予想通り,松本君は微かに渋い顔をする。けれど,どうせ駄目で元々のつもりで振った話だ。気付かないふりをして話を続ける。

「一応合同誌作成のためって銘打っているけれど,堅苦しい感じじゃなくて,メインは他サークルとの交流ね。ほら,10月に文フリがあるでしょ? それに先立って顔見知りになったり刺激を受けたりしてより良い作品の執筆を目指しましょう,って主旨。渉外の身としては学祭に向けての宣伝と外部との交流促進を図りたいんだけれど,まだうちのサークルからはわたしを除くと1人しか参加者がいなくってね」

「書くだけなら基本的に個人作業だからね。缶詰なら内輪の合宿があるし,態々学外の人と交流したいと思う人は多くないだろう」

 そして僕もそんな内気な人間の1人だ。

 そう嘯いて松本君は席を立つ。部室に常設のコーヒーメーカーをセットしている後姿を眺めながら,わたしは小さく肩を落とした。

 意外なことに,我がミステリ研究会は1世紀近い歴史を誇るQ大学の中でも1,2を争う古株のサークルの1つだ。といっても,ミス研にはこれといって外部に誇れる実績がないので,どうにかして箔をつけるため細々とした沿革を無理に辿った結果に過ぎない。

 沿革というのもそうご大層なものではなく,設立当初文学・演劇・古典芸能などに関心のある学生が集まった文化系の複合サークルが,戦後の学制改革を機に文芸・演劇・落語の派閥に分かれ,時代を下るとともに更なる細分化が進んでいった,という程度のものらしい。

 空々しい権威づけが功を奏したわけではないだろうけれど,派手さのないサークルの割にミス研の部員数は多い。ミステリに関心のある学生が一定数おり,兼部しやすいことがその主な理由だろう。正確な統計を取ったわけではないが,私見だと部員の7割弱は兼部している印象がある。加えて県内外の社会人サークルと合同誌を作成したり文学作品限定の即売会に参加したりしていて,人脈と活動の裾野は広い。片手で数えられる程度だが一応プロも輩出しており,歴史に恥じないだけの規模を維持していると言えるだろう。

 少なくない部員を擁し,作品が外部の目に晒されることもある我が研究会において,入学当初から高い評価を勝ち得ている書き手が松本君だ。

 昨今の出版業界の流行を反映してか,部誌に投稿される作品にはラノベ調のものやミステリ要素を加えた青春小説も多い。そんな部員を尻目に,松本君は一貫して緻密なトリックと厳格な論理性を重視する本格派推理小説を書き続けている。それも年4回発行される部誌全てに,水準を維持しながら毎回10万字以上の作品を投稿しているのだ。

 部外にも作品を密かに楽しみにしている学生がいるらしく,それを想定して部誌は多めに刷るほど。このためまだ学部2年生ではあるものの,部内では冗談交じりに彼のことをエースと呼ぶ声もある。

「そう言わずにちょっと考えてみてくれないかな。うちの研究会随一の書き手である松本君に参加してもらえると凄く助かるんだけれど」

「別に,サークル随一ってほどじゃないよ。……僕が初対面の人と話すのはあまり好きじゃないことは君も知っているだろう。それに合宿なら,技巧の良し悪しよりも上手くコミュニケーションを取れる人材の方が需要はあるんじゃないか?」

 松本君はふと何かを思い出したかのように口を閉ざすと,じろりと眼鏡越しに冷たい視線をこちらへ送ってきた。

「まさかとは思うけれど,あの事件の客寄せパンダとして僕を利用しようって腹積もりじゃないだろうね?」

 瞳に疑念を湛えながら,松本君は眉間を右手で掻く。心底不快に感じている時にだけ見せる彼の癖だ。

 わたしは慌てて首を横に振った。

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