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「……それじゃあ,被害者が死ぬ間際何を考えていたのかは分からないんだね」

 幾分専門的な話に退屈そうな顔が並ぶ中,それまでほとんど口を閉じていた鳴海さんだけは興味深そうに口を開いた。

「少なくとも,第三者がそれを確かめることは現時点では不可能です。ただ,対象が遺体でなく今まさに息を引き取ろうとしている生体であれば,意識や思考を推定することは強ち夢物語とも言えないかもしれません」

「神経系の活動を測定できるから?」

「そうです。ニューロイメージングの発展に伴い,単純なニューロン活動のON・OFFからどのようにして意識が生まれるのかという問いに答えようとする理論が神経科学を中心に考え出されるようになりました。現在主要な理論ではいずれも,グローバルなニューラルネットワークが意識の成立に不可欠であると考えられています」

「φ理論だっけ? 似たような話をシステム情報科の人から聞いた記憶がある」

「そうですね。意識のφ理論こと統合情報理論は特に有名でしょう。噛み砕いて説明しておくと,人は通常様々な色,形,向き,対象の運動,速度などを知覚できますよね? 今挙げたのは視覚に関することばかりですが,当然ながら聴覚・触覚・嗅覚・味覚においても様々な知覚が成立します。加えて感情や気分,思考に至るまで日々刻々と我々の’意識’は変化する。神経系の活動からこうした心的活動が生まれているとすると,神経系はこれらの状態や表象に対応する様々な活動パターンを持っているということになる。これは神経系の全ニューロンの活動のON・OFFだけでは意識は到底成立しえないことを意味しています。それでは個々のニューロンの活動1つ1つが心的活動の各々に対応していると考えるべきか? これも少し考えれば否定できます。何故なら,個々のニューロンが独立して活動しているのだとすると,1秒前に赤く見えていたリンゴが今は青く見えるなんてことが起こりうるからです。知覚の安定性を欠くことと,個々のニューロンの活動数よりもそれらの組み合わせ数の方が膨大であることを踏まえると,ニューロン活動は完全には独立していない。かなり乱暴な説明ですが,以上が神経系におけるグローバルネットワークが意識の成立に不可欠であると考えられている理由です。現に,こうした理論に基づく研究では最小意識状態の患者の回復を予測することにも成功しています」

「なるほど,グローバルな神経ネットワークの崩壊過程というのは興味深い話だね。現実に研究テーマとして扱おうとする場合,数理的なシミュレーションからのアプローチを取ることはできそう?」

「十分にあり得るでしょうね,意識自体を表現する数理モデルは盛んに検討されていますから。ただ,今のところ睡眠時や意識障害の患者を対象にデータを取るのが主流ですね。過去にはもっと直接的に,絶命直後の遺体を対象に意識がどの程度成立し得るのか研究した学者もいたにはいたようです」

「えっ,どういうこと?」

 難しそうな顔で話を聞いていた土井さんが,不意に出てきた物騒な言葉にぎょっと表情を一変させる。ちょうどその時引き裂くような風音が走り,窓ガラスがガタガタと震えた。

 松本君はウィスキーを含み少し間を作る。

「今言った言葉の通りです。斬首刑に処された死刑囚の頭部を用いて意識があるか否か確かめようとした人がいたんですよ。リニエールやポーリオという名前を聞いたことはありませんか? 記録によれば切断後の数分間頭部に死刑囚の名で呼びかけると,目を開閉するなどの反応を示したそうです」

 気味の悪い話だ。わたしはその情景を想像して眉を顰めた。

「あー,何かで聞いたことがあるかも」

「でもそれって,死亡直後は意識が保たれていることになるの?」

「いえ,このエピソードの信憑性は薄く,科学的には死亡直後意識が成立しうるかどうかは分かっていません。それにこれが事実だとしても反応自体がただの反射のようなものだった可能性も考えられますし,どの程度意識が成立し得るのかは依然不明のままです」

 松本君は「興味深い話ではあるのですが」と言ってこの話題を締めた。それと同時に,終始不機嫌な顔をしていた岡部が乱暴に栓の空いていないワインボトルを3本掴んで立ち上がった。

「どうしたの?」

「つまんねぇ話聞かされながら不味い酒飲んだせいで酔いが醒めた。部屋で飲みなおす」

 そう言い残すとどすどすと荒く足音を立てながら応接間を出て行った。

「もう,言い方!」

 松本君に気を遣ってだろう,高杉さんは咎めるように言った。ただこれまでの言動で大体岡部という男の為人はわたし達にも掴めるくらいなので,松本君は気にする様子もなくグラスを呷った。

「……何か,いつにも増して当たりがキツイね」

 岡部の足音が聞こえなくなると,一ノ瀬さんは訝しげにホール側の扉を見遣った。

「特に松本君に噛みついている気がするんだけれど,何かあった? あいつが個人に粘着するのってそんなにないよね」

 と,高杉さんに尋ねる。今日初めて顔を合わせたわたし達からするとそういう性根としか思えないけれど,近しい一ノ瀬さんから見ると松本君は不運にも特にその被害を被っているらしい。

「あー。多分,この合宿前に貰ったミス研さんの部誌読んだせいだと思う」

「ミス研の部誌?」

「そ。読んだ後妙に機嫌悪くなってて。何でかなーって探り入れてみたら,どうもその中の作者の1人とのセンスの差に嫉妬してたみたい。それが松本君だったらしいね」

「嫉妬ぉ? あいつが?」

 酷く驚いた風に一ノ瀬さんは声を上げる。それとは対照的に,高杉さんはまるで釈明でもするかのように話す。

「基本見栄っ張りだからあまりそういう面を見せたがらないんだけれど,実はあいつ結構コンプレックス抱えているんですよね。ほら,練習しなくても色々そつなくこなせるでしょ? なまじ器用なだけに何でもそこそこのレベルまではいけるんだけれど,別に好きでやっているわけじゃないからどれも長続きしない。だから当然,本当に好きでセンスもあり日々努力を続けている人には結局適わないわけですよ。大学時代にも久しぶりに顔を覗かせたサークルで,自分より実力が下だと思ってた人に追い抜かされたりセンスも意欲もある下級生が入ってきたりすると面白くないから益々長くは腰を落ち着けなくなるようなことが何度もあったらしいです。だからイメージないかもしれないけれど,あいつの当たりがきついのは半分以上やっかみが原因なんです。今回は,多分それが久しぶりに来たのと今までで一番差を感じたから酷いのかなと」

「へぇ,あいつがねぇ。多分大学時代のあいつを知るやつら全員そんな風には捉えてないだろうな,それくらいイメージがない。……あ,ごめん。巻き添えくらわせちゃって」

 岡部の代わりに謝る一ノ瀬さんと高杉さんに対し興味がなさそうに,ややもするとそのやりとり自体面倒そうに松本君は「いえ」と片手を上げ謝罪不要の意を示した。

「……一段落したようだし,僕は戻って執筆作業に入るよ」

 岡部の発言で微妙に白けた空気を嫌ってか,鳴海さんはそう言って立ち上がる。それを見て一ノ瀬さんが慌てて声をかけた。

「人数多いから,できれば早めに入浴済ませてくれると助かる」

「じゃあ先にシャワー浴びるよ。精々20分程度だと思うけれど,上がったら声かけた方がいいか?」

「あー,どうしようかな。あの2人は酔い覚めるまでは入らないだろうし……松本君鳴海の後入ってもらえる?」

「いいですよ」

「ありがとう。鳴海は直接松本君に声かけてもらえる?」

「分かった。ここにいる?」

「ええ」  松本君とそう言葉を交わすと,鳴海さんは岡部と同じくホール側の扉から応接間を後にした。一ノ瀬さんも,ほとんど口をつけていないグラスを持って立ち上がる。

「僕も部屋に戻ろうかな。いい加減書き始めないと」

「あ,それならわたしも」

 土井さんもグラスを持って立ち上がった。一ノ瀬さんは,わたし達の方に目を向ける。

「原口さん達はどうする?」

「わたしはもう少しここにいようかなと」

「わたしもそうします」

「そう。冷蔵庫とか好きに使っていいから。あ,申し訳ないけれどグラスの片付け任せてもいい?」

「もちろんです,お構いなく」

 気を遣い過ぎではと思うような一ノ瀬さんの言葉に恐縮しながら掌を上げる。それを見た一ノ瀬さんは土井さんと共に食堂側の扉から応接間を出て行った。

「僕もノートパソコン取ってこようかな」

「えっ,飲みながら書けるの?」

 高杉さんは驚いて松本君のグラスを見る。グラスに残る琥珀色の液体は3割を切っているだろうか。

「飲み始めてしばらくは大丈夫です。さすがに酔いが回ってくると無理ですが」

「へぇー,凄ぉい」

「一応言っときますけれど,松本君が特殊なだけですからね。わたしなんて人がいる時点でもう書けなくなりますもん」

「しゃべりながらでも書けるので,わたしもパソコン取ってきまーす」

 からかうように言って奏ちゃんは松本君の後を追って応接間を出る。残されたわたしが肩を竦めると,高杉さんはクスクスと綺麗に笑った。

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