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「何からもなにも,まだ事件が終わっていないってどういう意味?」

「そのままの意味だよ,まだ何か被害が生じる可能性がある」

「どうして? 一ノ瀬さんは逃げたでしょう?」

「台風一過で足元が悪くなった山道を徒歩で? 車が残っている時点でまだ近くに潜んでいる可能性を危惧すべきだよ」

 ぐっと言葉に詰まる。言われてみればその通りだ。どうしてこんな簡単なことにも頭が回らなかったのだろう。

「正直僕はこの車の鍵を手にするまで,最悪歩いて下山しなければならないと考えていたくらいだ。鳴海さんや土井さんがどうかは知らないけれど,僕らは入学して1,2年の大学生だ。一般論からすると,免許を持っていたとしてもその所持期間は長くても2年未満。その上身分証明書としての側面が強いならAT限定で運転経験も乏しいと予測されるし,小回りの利かない車両の運転経験があるかも怪しい。それならこの車で逃げてミニバンの方を残していたら,鳴海さん達の運転事情によっては僕達の移動手段を徒歩に限定することができる。一ノ瀬さんなら少なくとも鳴海さんと土井さんのそのあたりの事情については知っていただろうしね。ただでさえ車でも時間がかかるのに徒歩で移動してからの通報となったら,いくら人里離れた山奥からの逃走といっても時間は十分さ。場合によっては高飛びも可能だろう。本当に逃げる気であれば車を使わない理由が見えない」

「......逃亡しているなら車が残っていることが不自然であることは分かりました。ただ,可能性としては限りなく低そうですが,何らかの都合で使えなかったということも考えられるのではないですか? 例えば一ノ瀬さんは初め車で逃げるつもりだったけど,何か予想外の事態に見舞われ止む無く徒歩での下山を選んだ,みたいな。ぱっと思いつくのは川の氾濫で車が使えなかったからとか,Nシステムを警戒したからとかですけど」

「考えられなくはないけれど,それも否定していいと思う。何故なら一ノ瀬さんが逃亡したなら,首を切断する必要がないからだ」

 松本君のこの発言を,しばらく考えてみたものの意味が良く分からなかった。それは奏ちゃんも同様らしい。

「逆じゃないですか? 遺体が誰だか分からないようにするため自分の服を着せて首を切断したんですよね? だから岡部さんの遺体も動かす必要があった」

「厳密に言えば『一ノ瀬さんが逃亡しているなら首だけを切断する理由が分からない』だ。遺体の身元を伏せておきたいなら,どうして自身の身体的特徴の中でも顕著である左腕の手術痕を隠蔽しなかった? 首と同じように切断して持ち去れば良かったじゃないか。貴重な逃亡時間を消費して岡部さんの遺体を動かし菅さんの部屋の遺体の首を切り落としたのに,どうして身元判別の手掛かりとなり得る左腕を残したのか。現にそのせいで遺体が一ノ瀬さんでないことが確定し,物理的にあり得る可能性としては①一ノ瀬さんが菅さんを殺害し逃走②菅さんが過剰防衛の後遺体の身元が分からないよう状況に細工し逃亡③一ノ瀬さんと菅さんが岡部さんの遺体から頭部を切断し逃亡,という3つが残っているけれど①以外の可能性は考慮する必要がないくらいだろう? また遺体の胸ポケットに合鍵を残した理由が分からない。折角分からなかった密室のトリックを自らバラすことになる。わたしが犯人ですと自白しているのと同じだよ。やることなすことがちぐはぐだ」

「......高杉さんには②と③の可能性も残されているような口振りでしたけど」

「そりゃあね。これから身元の確認をお願いしようとしている時に,態々険悪な空気にしたくはないさ。下手すれば虚偽の証言をされて遺体を誤認しかねない」

 飄々と応える松本君に,奏ちゃんはジトッとした目を向ける。もっともらしく本人も否定的な考えを話されたと分かり猜疑心が擡げたらしい。わたしも似たような思いはあったが,それ以上に松本君の推理が意識が向いた。

 一ノ瀬さんが本気で逃走するつもりなら,車をはじめ状況に説明がつかないことが多々ある。それは分かった。ただ一方で実際に首が切断された遺体が1つあり,移動している遺体が最低1つある。問題は何故そんなことになっているのか。どんな意図,どんな目的の下こんな状況が作られたのか。

「......一ノ瀬さんは,遺体の入れ替わりトリックにわたし達の意識を向けさせたかったってこと?」

 そう呟くと,松本君はルームミラー越しにちらりとこちらへ目を向けた。

「そうだと思う。首が切断された遺体と聞いて,ミステリ好きに入れ替わりを考えるなというのは無理な話だろう? 一方で身元不明の遺体となれば,警察は最終的にはDNA鑑定で身元を特定しようとするだろう。これは言い換えれば,警察が到着するまでの間僕達には遺体が誰なのか特定する術を持たないということだ。厳密には岡部さんの遺体は高杉さんが,一ノ瀬さんの遺体は土井さんか鳴海さんが判別可能だけれど,一ノ瀬さんが姿をくらました段階で岡部さんの殺害に関与したことが濃厚になる。そうなれば残っている面々が親しい方の肩を持つことは想像に難くないし,身元確認自体に協力してもらえない公算が高い。つまり一ノ瀬さんの格好をした首なし遺体を皆で発見してしまった時点で,入れ替わりに考えるリソースを割かせるという目論見をほぼ達成させてしまったんだ」

「なるほどね......」

 これでようやく松本君が呟いた「まずい」という発言に納得がいった。今朝首のない遺体を発見した時には既に,少なくとも高杉さんと土井さん両者による身元確認が望めないと踏んでいたのだ。その達見に舌を巻くと同時に,その思考を更に辿ろうと考えを巡らす。一ノ瀬さんが最終的に見抜かれても構わないと考えているなら,今現在入れ替わりトリックに意識を向けさせたい理由は......

「......逃亡したと油断させておいて,何かの犯行を企てているということですか?」

 奏ちゃんも理解が追い付いたらしい。松本君は「それが必ずしも法に触れるものとは限らないかもしれないけれどね」といいつつ頷く。

「正直,ここから先は僕も全くの手探りだ。もし一ノ瀬さんが犯行予告通りに2人の殺害を企てていて,目的達成後逃亡するつもりなら入れ替わりなんてせずにさっさと車で逃げてしまえばいい。さっきも言ったように僕らが徒歩での下山後の通報を余儀なくされる見込みが低くなく,逃亡に費やせる時間を稼げるのだから。それにも関わらず,どころか貴重な時間を割いて遺体の服を着せ替え首を切断し,同異不明だが遺体を1つ部屋から運び出している。一見すると死亡した岡部さん,生死不明の菅さん,逃亡していると思われる一ノ瀬さんの3者間で入れ替わりが起きていると思えるけれど,一ノ瀬さん以外が誰かと入れ替わるメリットは薄い。......橋は渡れるみたいだね」

 言われて顔を上げると,行きに通ったアーチ橋が前方に見えた。台風の影響で水位は上がっており流れも昨日より急になっている。一方で周りに流木や落石の類はなく,土砂により地形が変わっているわけでもない。明確に氾濫したことを示す痕跡は確認できず,結局昨晩氾濫したという一ノ瀬さんの発言がわたし達を足止めするための嘘だったのか事実だったのかは分からなかった。橋を通り過ぎ松本君は話を続ける。

「医療従事者はいないから,数時間程度の死後硬直の違いなんて分かりゃしない。実際首なし遺体の腕を持ち上げた時死後硬直が始まっているようだったけれど,岡部さんの後に殺害された遺体だとしても時間差が短く素人には判断できないレベルだった。ただ,これも対照的な事実として切断された首元周辺の床には切断時のものと思われる刃物の跡が残っていたし,岡部さんの遺体の出血量と比較しても首なし遺体の出血量は遜色ないことを僕は確認している。これは首が菅さんの部屋で切り落とされたことと,岡部さんの遺体を移して首を切断したにしては出血が多過ぎることを意味する。つまり残された状況が一ノ瀬さん以外に入れ替わった人はなく,逃亡のための工作としてはお粗末であることを告げている。以上の推論から導かれるのは,僕らが入れ替わりトリックに夢中になっている間更なる犯行を企てている可能性だけれど,僕はこれも疑わしいと思う」

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