5
一ノ瀬さんの指示に従い支度すること1時間半。キッチンにはハッシュドビーフの芳しい香りが満ちていた。作業台の上には色鮮やかに盛り付けられたフレッシュチーズとトマトのサラダやスペアリブの皿が並ぶ。フライパンでガーリックライスを炒めていた一ノ瀬さんは「もういいかな」と火を止める。
「後はアヒージョが煮立つのを待つだけだ。そろそろ他の男連中を呼んできてもらえる?」
「え,全員呼ぶの?」
食器棚から取り皿を出していた高杉さんは驚いた様子で振り返った。眉間に寄せられた切れ長の眉が雄弁にその懸念を物語っている。恋人であるのにこうした反応を見せること自体本来なら奇妙な話なのだけれど,相手が岡部だと知っていれば違和感は全くない。高杉さんにとってもあの男は御しやすくはないということなのだろう。
「迷ったんだけれどね。一応同じ冊子に作品を載せるわけだし,菅はずっと潰れっ放しだろう? どうせ皆原稿進める時には部屋に籠もるだろうから,せめて最初の晩くらいは顔を揃える機会を設けてもいいだろうと思って」
「……一応見張っておくけれど,期待はしないでよ」
一ノ瀬さんも決して乗り気なわけではないことが分かっているからだろう。高杉さんはそれ以上ごねることはせず,しかしいかにも不承不承といった様子で頷いた。一ノ瀬さんはそれから,わたしと奏ちゃんを交互に見遣る。
「鳴海と,松本君も呼んできてもらえる?」
「あ,じゃあわたし呼んできます」
「ありがと。鳴海は多分自分の部屋にいると思う。応接間から見てホール向かいの,3つ並んだ部屋の一番左手の部屋ね」
「わかりました」
そう言うと,奏ちゃんは先に出た高杉さんと同じくホール側の扉からキッチンを出て行く。わたしは高杉さんが作業台の上に置いたお皿を手に取った。
「食器類出しますか?」
「そうだね。先にその取り皿とスプーンをお願い。沙也香はグラスとスープボウル軽く洗っといて。久しぶりに使うから,一応」
「はーい」
土井さんの返事を背に食堂へ出る。調理中は気にならなったけれど,食堂のベイウィンドウは特に大きいせいか風に煽られ叩き付ける雨音に少し驚いた。この天候も手伝って,夏真っただ中だというのにもうシャンデリアが反射して外の様子は見通せない。
食堂には2台縦長のテーブルがあり,どちらもキッチンに対し垂直で両側にそれぞれ椅子が7脚ずつ並べられている。そのためどのようにお皿を配置すべきか迷ったのだけれど,結局ホール側のテーブル中央付近,両側の人数がなるべく等しくなるよう並べることにした。
9人分のカトラリーを置き終えた頃,ホール側の扉が開き高杉さんが食堂へ入ってきた。その後ろには赤ら顔で何故か左手に白い百合の花を握っている岡部と,右手で頭を押さえながら顰め面を浮かべる男の姿が見えた。初めて見るその男は線が細く,けれどそれは岡部とは違い管理されたもののように思えた。パリッとしたオックスフォードシャツにサイズ感の合ったテーパードパンツと綺麗目な格好で,かなりラフな格好の岡部と対照的だ。背格好に相貌も含め,一ノ瀬さん比べてもと引けを取らない水準だろう。ただ,ともすると同世代の平均的な女性よりも肌触りが良いかもしれないその顔は二日酔いのせいか赤く歪み,充血した目が第一印象を台無しにしていた。
「あ,ごめんね。給仕手伝うよ」
高杉さんがそう言って初めてわたしに気付いたらしく,顰め面の男は億劫そうにこちらへ目を向けた。
「っていうか,誰?」
「Q大ミス研の原口です。よろしくお願いします」
「ふぅん」
返事こそ気のなさそうな調子だけれど,男はじぃっと粘着そうな眼差しをこちらに向けた。その舐めるような目線に怖気を覚え,わたしはそれとなく右手で左腕を握る。男は一度足元に視線を落とし,それからゆっくりと顔の方へ視点をわたしの体の上に這わせた。そうして目を合わせると,気怠そうな顔つきながらもへらへらした口調で言った。
「思ってたよりかわいいじゃん」
その一言で,ぞわっと全身のうぶ毛が総毛立つのを感じた。
別に何か,人格を貶めるような直接的な言葉を言われたわけではない。どちらかというと中性的な顔立ちにモデルのような体型で,平素であれば好印象を持ったかもしれない。ただものの数秒,初対面ながら下卑た目で品定めされただけ。でもそれだけで,こいつが岡部の同類であると悟るには十分だった。
岡部よりも嫌いだ。
嫌悪感が顔に表れないよう気を付けながら,わたしはこの男からできるだけ距離を置くことを固く誓った。
「ちょっと,飲みすぎでしょ。変な絡み方されて困ってるじゃん」
わたしが返答に窮しているとでも思ったのか,高杉さんはからかいつつ2人の背中を押して席に座らせた。
「どーせ配膳させてもお皿割るだけでしょうから,せめて邪魔にならないよう大人しく座っときなさい」
「俺は手伝えるぞ」
岡部は百合の花を振り回しながら酩酊を否定する。そうは言うけれどさすがに酔いが回ってきたのかその大げさな身振りは酔っ払いのそれだし,呂律も回っていない。手慣れたもので高杉さんは「はいはい」と軽くあしらい百合を振り回す腕を下ろさせる。
「先に潰れた菅さんもまだ完全には復活してないんだからさ,下手に動き回るより酔いを醒ますのに専念してくれる? 食事中に戻すのだけはマジで止めてよね」
「へいへい」
へらへらと薄ら笑いを浮かべながら岡部は返事をする。一方菅と呼ばれた男は言葉を発する気力すらないようで,押し黙ったまま半ば仰向けのような姿勢で背もたれに体重を預けた。こうして目を閉じているところだけを見ると絵になる顔つきをしていると思うのだけれど,一度抱いた気持ち悪い印象はすぐには拭えそうにない。
「ちゃんと下りて来れたみたいだな」
話し声が聞こえたのか,サラダを盛り付けた大皿を手に食堂へと出てくる。それをテーブルの上に置くと,見かねたように菅の顔を見下ろした。
「その様子じゃ夕食は無理そうだな。水持ってこようか?」
「いや,いらない。今胃に何か入れたら間違いなく吐く」
「そう。顔合わせが済んだら部屋に戻って構わないから」
「その部屋のことなんだがよ」
岡部は百合の花をいじりながら,不意に一ノ瀬さんと菅の会話に割って入った。
「これ,貼り付けたのお前か?」
「……何の話だ?」
示された百合の花を,一ノ瀬さんは不思議そうに眺める。一方この返答は想定していなかったのか,岡部の方も片眉を上げ一ノ瀬さんを見返した。見ると岡部だけではなく,高杉さんも菅も不思議そうな目を一ノ瀬さんに向けている。事情が分からないわたしはもちろん,何かを言うべくもない。
沈黙の中,鳴り止まない雨音だけが奇妙に耳に残った。
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