Chapter 2

1

「要するに,岡部と菅の部屋の扉に貼り付けてあったこの百合の花に誰も心当たりはないんだね?」

 一堂に会する食事の席。白い百合の花を手に全員の顔を見渡した一ノ瀬さんは,これまでの各人の話を聞き終えるとそう結論付けた。もっとも,思い当たる節がない以上どのように表現されたところで返答に困ることには変わりないのだが。

「改めて問い質されて名乗り出るくらいならそもそも最初からそうしているだろうよ。つまり白を切っているやつが最低でも1人,この中にいるわけだ」

 ホール側の,菅と高杉さんに挟まれた席に座る岡部は薄ら笑いを浮かべながら対面に座るわたし達を一瞥する。態々対立を煽るような態度に一ノ瀬さんが一瞬むっとした顔をするのが見えたけれど,岡部の真正面に座っている松本君は全く気に留める様子もなく,ガーリックライスを頬張りながら頭をかいた。

「誰がいつやったのかということよりも,何故それをやったのかという理由の方が僕は気になりますね。百合の花を貼り付けるというその行為はどういう意図でなされたのか,花の色そのものに意味はあるのか……。花が貼り付けてあったのは岡部さんと菅さんの部屋の扉だけだったんですよね? 何故2人の部屋なのか。個々人に対して何らかの意味を持つ? それとも部屋自体に何らかの共通する性質があって,その部屋に泊まっている人が誰であろうと関係ないのか」

「……なるほどね。百合の花自体には何か心当たりはないか?」

 高杉さん越しに,一ノ瀬さんは岡部と菅に問いかける。なお,こちら側の席順はキッチンから近い順に土井さん,奏ちゃん,わたし,松本君,鳴海さんという並びだ。

 一応は出されたハッシュドビーフを,しかしスプーンでかき混ぜるだけで一向に口へ運ぶ気配のない菅はぼんやりとした顔を横に振った。一方赤ら顔であるものの,平然と空いた皿にサラダを追加している岡部も否定する。

「特にないな。葬式を連想するくらいか」

 岡部は事も無げに応えた後「はんっ」とつまらなそうに鼻を鳴らした。

「差し詰め殺害予告ってところか。随分嫌われたもんだ」

 誰もが思いついたものの言い出すことを踏み止まったであろう考えを,逡巡する素振りすらなく岡部は口にする。それに対して一ノ瀬さんが何か言いかけるも,思い直したのか気まずそうに口を閉じた。

 合同誌作成のために集まったミステリサークルの面々に,大型の台風が接近する人里離れた歴史ある洋館。お誂え向きの状況で更にダメ押しの如く扉に貼り付けられた白い百合の花。これだけ”それっぽい”要素が出揃っているのに犯行予告という言葉を連想するなというのは,ミステリ好きには酷な要求だろう。

 もちろん,いくらそそるシチュエーションであるとはいえ,誰もこれが実際に何らかの事件の予告であるとは考えていまい。より現実的な可能性を考慮するなら執筆に根を詰め過ぎないよう用意されたレクリエーションか,自らのアイデアを試す意味で他の書き手に知恵比べを挑んでいるのか。とにかく,そうした類の「推理ゲーム」と捉えるのが妥当な見方だと思う。その場合取りまとめ役で宿泊場所も提供しているだけに,このお遊びを企画したのも一ノ瀬さんなのではという考えはそこまで強引な推論ではない。実際,岡部辺りはそう考えていそうだ。

 でも,

「それがどういう意味であろうと,実行可能かどうかで言えば,少なくとも一ノ瀬さんには百合を貼り付けることはできないはずです」

 岡部に対して応えるというより,その場の全員に確認を取るように奏ちゃんは言った。どういうことかと怪訝そうな顔をする岡部に高杉さんが補足する。

「夕食の準備をしている間,一ノ瀬さんはずっとキッチンにいたから。いわゆるアリバイってやつ?」

 そう。約1時間半に及ぶ支度の間,一ノ瀬さんは一歩たりともキッチンの外には出ていないのだ。

「各々の部屋にいた僕らはともかく,調理組で他にアリバイのある人はいないの?」

 他にもいそうな気がするけれど,と問う松本君に,わたしが応えるよりも早く奏ちゃんが口を開いた。

「精々数分ですけれどわたしはお手洗いに立ちましたし,土井さんは途中,台風に備えて雨戸を閉じに向かったのでアリバイがあるとは言えないです。原口先輩と高杉さんも一応ずっとキッチンにいるにはいましたけれど……」

「うん。わたしは配膳のためにここへ出入りしたくらいで,基本的に準備中はキッチンから出てないよ。ただ,百合が貼り付けられたのが岡部さんが部屋に戻ってから高杉さんが呼びに行くまでの間だとすると,キッチンに入る前にできないことはないだろうね」

 部屋に荷物を運び入れた際,わたしは2階の様子を写真に収めようと歩き回ったから,1人で岡部達の部屋に近付いたことになる。もちろん自分が犯人でないことを知っているし,その時にいずれの部屋の扉にも百合の花が貼り付けられてなかったことも確かに記憶している(そもそも岡部と菅がどの部屋に寝泊まりしているか自体知らないが)。けれど百合の花はセロハンテープで留めてあっただけだそうだから,わたしが写真を撮っていたものの数分の間でも花を貼り付けることはできるだろう。第三者の目から見て確固たるアリバイがあるとは言い難い。

「そういうことならわたしも怪しくなるのか。第一発見者が犯人ってのはドラマとかでもよくある設定だし」

 岡部とは対照的に,高杉さんはそう言って楽し気に笑う。疎まれている人物がお遊びとはいえ殺害予告を受けるという,ただでさえ雰囲気がギスギスしそうな状況で,その上それが自分の恋人であるというのに企画自体は好意的に捉えているらしい。

「お二人は高杉さんが呼びに来るまで部屋を出ていないんですよね?」

 百合を貼り付けることができた時間帯を絞り込みたいのだろう,松本君は岡部と菅を見る。2人共黙したままただ首を横に振った。

「結局のところ,一ノ瀬さん以外なら誰でも百合を貼り付けることは可能だったということですか」

 端からアリバイだけで容疑者を絞り込めるとは考えていなかったのか,彼はそう言って肩を竦めた。

 無粋な見方を許すのであれば,仮想的ではあるものの被害者と加害者という対立構造が生まれるのだ,いざこざへ発展しかねない可能性を考えると主催者がこのゲームにノータッチであるとは考えにくい。現に,一ノ瀬さん自身にアリバイがあることがこの推測を裏付けていると言えよう。他にアリバイのある参加者が不在のせいで却って関与が裏付けられてしまったことは一ノ瀬さんにとっても想定外だろうけれど,容疑が分散しているこの状況は好都合のはずだ。わたし達参加者側からすると,用意されているだろうトリックに挑みもせず企画そのものを台無しにするのは興醒めだし,岡部もそれが分かっているから面白くないのだろう。

 ふと,視線を感じて顔を上げる。そうして見えたのは顰めっ面でトマトを咀嚼している岡部と考え込んでいる高杉さん,具合悪そうに組んだ両手で瞼を覆い仰け反っている菅の姿だけだ。

 だから一瞬,見られているように感じたのは気のせいだったかなと思ったのだけれど,菅の緩やかに組んである指に気付きゾッとした。指の下から覗く目つきの先では,ノースリーブのワンピースを纏った奏ちゃんが難しそうに腕を組んでいる。

「それにしても,百合を貼り付けた人はどうするつもりなんだろうね」

 バゲットにアヒージョのエビを乗せつつ高杉さんは誰に対してというわけでもなく呟く。やや間を置いて一ノ瀬さんは俯き加減の顔を上げた。

「うん? どういう意味?」

「えっ……だって,殺害予告だとは限らないんですよね?」

 慎重に言葉を選ぶ高杉さんの疑問に遅ればせながら理解が追いつく。岡部は殺害予告と断定したけれど,何も殺人以外予告してはならないというわけでもあるまい。例えば窃盗,放火,フィクションだと爆破予告というのも珍しくはないか。いずれにせよ百合の花を何らかの予告と解釈したところで,起こりうる事件のバリエーション自体は種々に考えられる。

 問題は推理ゲームである以上実際に被害を齎すわけではなく別の形でなぞらえる必要があるわけだけれど,被害の’見立て方’には現実的な制約が加わることになる。具体的には何かを盗んだ場合譬え後で返品するとしても禍根を残す恐れがあるし,況や放火や爆破においてをや,だ。殺人にしたところでコーヒーやミネラルウォーターに過剰な量の砂糖なり塩なりを溶かして毒殺を模することはできるかもしれないが,殺害方法が1つだけというのはエンタメとしては味気ないし,一方で刺殺や扼殺の見立ては難しい気がする。そう考えると確かに,単なる謎解きという意味以上にどう犯人役が行動を起こすのか気になる。

「そうですね……身動きの取りやすさを考えると,執筆なり就寝なり,他の人達が1人で過ごすタイミングを伺うんじゃないんですか」

 続く奏ちゃんの言葉にふと思いついた。殺人であろうとなかろうと,百合の花が特定の人物を標的にしていると素直に解釈することができて,また奏ちゃんの言う通り他の人のアリバイがない状況で事を起こすつもりだとするなら,確かに各々が1人でいる機会を狙うのが合理的だろう。そうだとすると,確認すべきは合鍵の有無だ。

「各部屋のマスターキーのようなものはありますか?」

 同じ思考回路を辿っていたらしい,松本君が一ノ瀬さんに問いかける。尋ねられた一ノ瀬さんは緩やかに首を横に振った。

「いや,昼間にも言ったけれど各部屋の鍵は1つずつしかない。合鍵やマスターキーの類はないよ」

 となると犯人役は鍵を使わずに部屋へ侵入する手段を持っているということだろうか。いやでも,いくら見立ての犯行と理解していても就寝中に部屋へ勝手に入られるのは単純に怖過ぎる。やはり食堂や応接間など誰にでもアクセスできる場所で犯行を見立てる可能性が高いか。それを仮定すると犯人当てというか,フーダニットの要素が強いゲームとなるかもしれない。

「そんなに気になるなら聞いてみりゃいいじゃねぇか」

 しびれを切らしたのか岡部は舌打ちする。直接一ノ瀬さんを問い詰めようとしているのかと一瞬肝を冷やしたけれど,岡部が顎をしゃくったのは対面の松本君だった。

「犯人が何を考えているのか,’メンタリスト’になら分かるだろう?」

 一ノ瀬さんや高杉さんは多少なりとも岡部の言葉に同意する部分があるのだろう,興味深そうな目で松本君の反応を伺う。松本君は向けられる視線に大きく溜息を吐いて,右手で眉間を掻いた。

「……心理学を専門に学べば人の心が読めるなんてことはないです。例えば医学科の学生は問診だけであらゆる疾患を治せるわけではありませんよね。心理学も対象が心というだけでやっていることはこうした学問でなされていることと同じで,観測道具がなければ人の心の状態を把握することはできません。それに心は実体があるわけではないから――」

「長ぇわ。要は役立たずってことだろ」

 岡部は松本君の話を遮り鼻で笑う。さすがにこの露骨な言い草に「ちょっと」と高杉さんは眉根を寄せたが,幸い松本君は「否定はできませんね」と肩を竦めるだけで取り合おうとはしなかった。

 その後も犯人役の今後の動向や犯行方法についてあれこれ推測が述べられたのだけれど,いかんせんまだ予告段階で情報が限られている以上議論に進展の余地はなかった。

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