Chapter 1

1

「何だか,雲行きが怪しくなってきましたねぇ」

 フロントガラスの向こうに広がる曇天を見遣り,奏ちゃんは訝しげに口を「へ」の字に歪める。助手席に座る土井さんがスマホを取り出しながら応えた。

「運悪く台風が来ちゃったみたいだからねぇ。それに結構標高あるし,天気は変わりやすいのかも。ってうわ,ここ電波悪ぅ」

 わたしは家を出る前に確かめた天気予報の内容を思い出す。台風は非常に勢力が強く,発達しながらゆっくりとした速度で北上しているとのことだった。予報通りなら直撃は日付が変わる頃になるだろう。移動中は重ならないとはいえ,この状況での合宿開催は中々の強行突破だ。

「明日陽が昇る頃には台風も過ぎ去っているだろう」

 ステアリングを握る一ノ瀬さんは冗談めかして言った。

「コテージの造りは割としっかりしているし,一応食料品も多めに用意してある。何より推理物を書くには打って付けのシチュエーションじゃないか」

「嵐の山荘か……」

 3列シートの最後部に座った松本君が呟く。その声はわたし以外の耳には届かなかったようだ。土井さんは呆れ顔で一ノ瀬さんを見遣る。

「電話線も引いていないんだっけ? 携帯も繋がりにくいみたいだし,何もこんな辺鄙なところで合宿しなくても……」

「そうかな? 実際に具体的な状況に身を置いた方が話も作り易くないか? それに出来る限り外部との接触を断った方が執筆に集中できるだろ」

「でた,ミステリオタクの特有の発想。皆が皆,あなたのようなオタクってわけじゃないんだからさぁ。ごめんねー,この人に付き合せちゃって」

 土井さんはわたし達の方を振り返り両手を合わせる。言葉とは裏腹に,その口元には隠し切れない笑みが浮かんでいる。ショートボブの髪と綺麗なアーモンド型の目は少女を思わせる一方,イタズラを企んでいるような上目遣いや髪の合間から覗く三日月の形の耳は色っぽい。同性ではあるけれどその表情にどきっとした。

「いいえ全然! 普段できない体験ができそうでワクワクしてます。正直,わたし達も似たようなところはありますし」

「それなら安心。良かったね,濃い話ができそうで」

 そう言って一ノ瀬さんに笑いかける。どうやら,中々休みが合わなかった恋人と久しぶりにまとまった休暇を共に過ごすことができてはしゃいでいるらしい。ここまでの道すがら2人がいちゃつく様を見せつけられてきたわけだけれど,不思議と不快には感じなかった。共に人並み以上の容姿で,厭味のない性格をしているからだろうか。ペアルックというわけではないけれど,白いTシャツの上に淡い水色の半袖シャツを羽織った一ノ瀬さんと,土井さんのデニムシャツにドット柄のプリーツスカートという装いからはある程度合わせてきたことが伺い知れる。待ち合わせで出迎えられた時から爽やかな印象が続いているし,これまでの自然体なやり取りを聞いている限り却ってこちらがお邪魔なのではと居心地の悪さを覚えるくらいにはお似合いの2人だ。

 わたし達5人を乗せたミニバンは人気のない山道を駆けてゆく。一応塗装されているものの路面には所々亀裂が目立つし,道幅は何とか軽自動車が行き交える程度の広さしかない。時折曲がり道に現れるカーブミラーも随分うら寂し気だ。

 ちらり,と腕時計で時刻を確認する。16時42分。待ち合わせ場所である市中心部の駅を発ってから,既に2時間半は経過しているだろうか。夏真っ只中とはいえ,天候と相俟って車内から見える景色には影が目立つ。鬱蒼と生い茂る広葉樹も山奥へ分け入るにつれて密度を増している気がする。通り過ぎていく木立に目を向けていると気が滅入りそうだ。

 息苦しさに耐えかね口を開く。

「あの,今向かっているコテージって結構歴史のある建物なんですよね」

「ああ。元は江戸末期から大正期にかけて通商で成功を収めた,関西のとある実業家の別荘だったらしい。ただその家系は大戦の動乱で凋落してしまってね,管理しきれなくなった後裔から買い取ったのが僕の祖父ってわけ。親子連れや学生をターゲットにしたキャンプ場開発の計画も立ち上がったらしいんだけれど,コテージ近辺の傾斜が急でね。バンガローやロッジを立てるのには向いていないし,アクセスを考えると開発費の回収すら難しそうってことで結局お蔵入りになったという風に聞いているよ」

「へぇ,一ノ瀬さんはそのコテージで過ごされたことはあるんですか?」

「もちろん。子供の頃は夏休みの自由研究のために,泊まり込んで天体観測したり昆虫採集したりしていたよ。大学の時には男だけで昼間から酒盛りする生活を過ごしてみたり,今回みたいな缶詰合宿を開催したりしてね。確かに辺鄙でアクセスは良くないけれど,空気が澄んでいるから星空は綺麗だし,川釣りやバードウォッチングも楽しめる。夏場でも夜は半袖だと肌寒いくらいだ,少人数でのんびり過ごす避暑地としては悪くないと思うよ」

「星空が見られるのは素敵ですね。望遠鏡があればより楽しめるんでしょうけれど」

「あ,型が古くてもいいなら,一応望遠鏡はまだ置いてあったはず。レジャーなら他にも釣り道具が一式あるし,花火も買ってあるから暇することはないんじゃないかな。ま,今夜は天候が荒れるから無理だけれど。楽しみは後にとっておくってことで」

「何だか,執筆作業が全然進まない未来が見える気がしますね」

 おかしそうに奏ちゃんは相槌を打つ。彼女は今回の合宿最年少で,ミス研の学部1年生では唯一の参加者だ。そのため外部の人と打ち解けられるのか密かに気を揉んでいたのだけれど,幸いそれは杞憂だったらしい。一ノ瀬さんと土井さんは同意するように笑みを浮かべた。

「だねー,お酒だけじゃなくてしっかり遊ぶ用意までしちゃって。執筆の妨げになることは予想できたでしょうに」

「久々の休暇でついテンション上がっちゃって。色々遊ぶ準備した手前僕が言っても説得力ないかもしれないけれど,皆作品の方もしっかりね。今回作成する合同誌は文フリで販売する予定だし,ミス研の方は学祭でも販売するんだよね? だから内容がお粗末だったりページ数が貧相だったりすると恥ずかしい思いをすることになるので,人目に晒されることを意識して書いてちょーだい。でもまあ,Q大ミス研のエースが来てくれているんだから,その点は心配ないのかな」

 ルームミラーを通して一ノ瀬さんは後部座席を見遣る。外の風景を眺めていた松本君は,少し遅れて気怠そうに応じる。

「……プロット自体は事前に組んできたので,合宿中に書き上げること自体は割と容易だと思います。問題は構想を練った分却って字数が嵩みそうなので,どうやってコンパクトにまとめようかと今悩んでいるところです」

「頼もしいねぇ! 松本君の作品は他サークルでも楽しみにしている人もいるし,どうせなら字数を気にせずに思う存分長編を書いてよ」

「それは實市さんも同じですよ,最近長編出されてないですよね? それに1人だけ気合入れた長編出して浮いてしまうのはごめんです」

 この切り返しを予想していなかったのか,一ノ瀬さんは一瞬虚を衝かれたように言葉を失った。

「……参ったね,長編用のプロット考えてこなかったんだけれど。こりゃ遊んでいる暇はないかな」

「ちょっと,主催者が書かなかったら企画倒れになっちゃうわよ。それにわたしも久しぶりに『實市先生』の長編読みたいかも」

 茶化す土井さんの言葉に,一ノ瀬さんは黙ったまま肩を竦めてみせた。

 ミニバンは渓流に架かる小さなアーチ橋を通り過ぎる。架けられて長いのか両端は半ば地中に埋もれており,要石のすぐ下に川面が見えた。橋を渡ると車はやや角度のついた勾配を登る。それから10分ほど走った辺りでとうとう塗装された車道も途切れ,砂利が剥き出しの路面が忙しなく車体を揺らした。

 揺れに耐えること30分,ようやく陰鬱な樹木の影を抜け出て,開けた場所へミニバンは乗り上げた。

 テニスコート4面分より更に一回り大きいくらいの広さだろうか,楕円形に切り開かれたの空間のほぼ中央の位置に,2階建ての白亜の洋館が聳え立っていた。正面玄関を中心にシンメトリーの造りで,ムラも剥げ後もない塗装は背の高い広葉樹の中にあっては輝いて見える。改装したとはいえ長い年月を感じさせないところを見るに,まめまめしく手が加えられているのだろう。広い部屋なのか大きなベイウィンドウが1階の左右にそれぞれ2つずつ見えた。1階の他の多くの窓は鎧戸付きの上げ下げ窓で,2階は各部屋の大窓からバルコニーへ出られるようになっている。バルコニーは2階正面側に通してあるのだけれど,玄関上部にはちょうど左右のバルコニーを区切った風に車寄せが設けられていた。物置か何かだろうか,左手にはご丁寧に小さな真屋まで付属している。玄関右手に停められているシルバーのSUVだけが唯一現代らしいけれど,殊格調高い雰囲気にあっては場違いに思えた。

 事前に室内の写真こそ送ってもらっていたものの,外観を目にするのはこれが初めてだったので思わず息を呑む。塔屋こそなく見た目は山小屋風ではあるものの,街中で目にしてもかなり大きな部類の建物だ。正直コテージや別荘といった範疇を完全に超えていると思ったし,一ノ瀬さんが言っていた建築史上の価値というものにようやく実感が湧いた。だけどそれ以上に,これをコテージと呼べる一ノ瀬グループの財力を思うと目が眩む。

 一ノ瀬さんはSUVの隣にミニバンを寄せ,エンジンを切ると大きく伸びをした。

「道中お疲れさまでした。ここが今回泊まってもらうコテージだよ」

「一ノ瀬さんこそ長時間運転してお疲れでしょう。同乗させていただきありがとうございました」 

「いいよいいよ。それより,さっさと荷物を運んじゃおうか」

 わたし達は順繰りに車から降りる。外へ出た途端湿った空気の匂いが鼻腔をくすぐり,今夜の大雨を予感させた。この湿度のせいだろう,気温自体は都心より低いはずなのに,じっとしていても肌がべたつく。一ノ瀬さんや松本くんがキャリーバッグを運び出している間,改めて周囲を見渡す。

 砂利道はここで行き止まりらしく,辺りはすっかり雑木林に囲われている。おそらくこのコテージを建てる時に一帯を伐採したのだろう。一ノ瀬さんの話では明治期頃の建築らしいが,人や資材の移動も楽ではなかっただろうに,何故元の持ち主はわざわざこんな辺境の地に別荘を建てようと思ったのだろうか。少し不思議に思いつつ頭上に目を向けると,素早く流れていく厚い灰色の雲が望めた。なるほど,これだけ拓かれているのなら,晴れの日の夜はベランダからでも直接天体観測ができるかもしれない。

「……凄すぎますね」

 奏ちゃんは感心したようにコテージを見上げた。

「一ノ瀬さんがここに来る途中言っていましたけれど,コテージというより本当に別荘といった感じなんですね」

「本当にね。正直想像していたより全然凄いね。いくら大きくても貸別荘みたいな感じだと思ってた」

「わたしもです。これ,結構広いですし部屋数も多そうですよね」

「1階は応接間などの共用スペースを除くと3部屋,2階は8部屋だ。1人1部屋使ってもらって構わないよ」

 わたし達の方へ車を迂回しながら,一ノ瀬さんはその後を続ける。

「部屋割りは特に決めていないから,開いているところをどこでも好きに使って。鍵は各部屋の机の引き出しに入れてある。代えはないから紛失しないように気をつけて。それと……」

 車寄せの方へ向かいかけて足を止め何かを言いかけた一ノ瀬さんは,それでも逡巡した後口を開いた。

「他の合宿の参加者は先に到着して,一昨日からもう宿泊しているんだけれど……ちょっと癖のある連中でね。話していて嫌な思いをすることもあるかもしれない。そういう時は無理に話を続けようとしなくてもいいから」

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