2

「はぁ……」

 神妙な面持ちの一ノ瀬さんに,わたしは曖昧に頷き返す。他サークルとの交流を目的とした合宿で会話を打ち切っていいなど奇妙な助言だ。それに松本君をはじめミス研にも変人・奇人はいる。多かれ少なかれ,ものを書く人間はどこか癖のある性格をしているだろうに,改めて断る必要があるのだろうか。

 同様に怪訝そうな顔の土井さんも首を傾げた。

「鳴海君のことを言っているの?」

「いいや。鳴海も確かに変わってはいるけれど,少なくともあいつは人を不快にさせるようなことは言わないよ。そもそも口数が少ないしね。僕が言っているのは――」

「おー,やっぱ一ノ瀬か」

 不意に一ノ瀬さんの言葉を遮って,調子外れの濁声が車寄せの方から聞こえた。見ると,痩せぎすな男が玄関から顔を覗かせている。その男は一ノ瀬さんに向かって軽く右手を挙げると,ぬるりと外へ抜け出てこちらへ歩み寄ってくる。

 うわぁ,酒クサ……。

 近寄ってくる男から漂うアルコール臭と赤ら顔に,反射的に顔を顰める。よくよく観察すると目の下には隈があり,頬には影が差している。加えて曇天の下黒のダメージジーンズに黒いTシャツという組み合わせは,余計に陰鬱な印象をかき立てた。素面なら間違いなく不養生を疑っただろうけれど,アルコールの助けを借りて良くなった血色がその印象を幾分緩和している。身長は一ノ瀬さんよりもやや低いものの成人男性の平均は上回っているように見えるし,何かスポーツでもやっていたのか恰幅は悪くない。顔つきの割にはしっかりした足取りもちぐはぐさに拍車をかけていた。

「そろそろ戻ってくる頃だと思ってたよ。で,ビール追加で買ってきたんだろうな?」

「買うには買ってきたが,また昼間から飲んでいるのか。さすがに飲み過ぎじゃないか」

「固いこと言うなよ! こんな辺鄙な山奥じゃヤれること限られているんだしさ」

 その男は怪しい呂律で喚くと,何がおかしいのかけらけらと笑った。その拍子に飛んできた唾液が危うく腕に付着しそうになり慌てて後退る。

「まさかお前達,もう一昨日買っておいた分空けてしまったんじゃないだろうな」

「いや,さすがに全員ずっと飲み通しだったわけじゃねえよ。菅は二日酔いで朝からずっと伸びているし,陽菜は早めに飽きて部屋に籠もってるわ」

「……飲み干したことは否定しないんだな。それじゃ,ほとんどお前1人で飲み空かしたのか?」

「まあな」

 いっそ誇らしげとも言える男の顔を一ノ瀬さんは呆れた様子で眺める。

「あれ一応合宿全日程分の予定で買っておいたんだがな。その調子じゃいつか体壊すぞ。というか,鳴海のやつはどうしているんだ?」

「さあね。ネタ考えるついでに散策してくるって今朝出て行ったきり見てないな。陰キャの考えることはよく分かんねーわ」

 ふと男はこの時初めて気づいたかのように,まじまじと順にわたし達の顔を凝視した。それから土井さんに目を留めると,その顔を吟味しつつにやにやと薄ら笑いを浮かべた。

「御曹司の玉の輿に乗ったのはおたくか?」

「なっ……!」

 突然の不躾な発言に場の空気が凍りつく。土井さんは絶句し,その顔には赤みが差した。

「おいっ,岡部!」

 すかさず一ノ瀬さんは鋭く叫び咎める。けれど悪びれる様子もなく,岡部と呼ばれた男は「乗ったのは玉の輿じゃなく,腰の玉の方か」とへらへら笑う。

「そう怒るなよ,少しからかっただけだろうが」

「僕には侮蔑しているようにしか聞こえなかったが?」

「おぉ怖っ。だがお前にとやかく言われる筋合いはないと思うがな。なぁ,一ノ瀬のお坊ちゃん?」

 しばらく岡部を睨みつけていた一ノ瀬さんは,聞えよがしに舌打ちするとボックスカーを指差した。

「……追加のビールならトランクに積んである。飲みたけりゃ勝手に運べ」

「そうこないとな」

 トランクには他にも食料品などの荷物があったのだけれど,それらには目もくれることなく岡部はビールケースを抱え上げた。通り過ぎ様一ノ瀬さんに「ま,お互い引き摺らず仲良くしようや」と言い残すとコテージの中へ戻っていった。

「何なんですか,あの人」

 一同が呆気にとられ立ち尽くす中,不快さを隠そうともせず真っ先に口を開いたのは奏ちゃんだ。険しい顔で玄関を見遣っていた一ノ瀬さんは,やがて諦めたように深く息を吐いた。

「……岡部は大学の頃文芸部で出会った同期でね。今の勤務地は他県なんだけれど,知人伝てに合宿の話を聞きつけたらしく,夏季休暇ってことで飛び入りで参加してきたんだ。さっき言いかけていたのも主にあいつのことだよ。ごめんね,不愉快な思いをさせて。びっくりしただろう?」

「ええ,まぁ」

 力なく詫びる一ノ瀬さんに,わたしは曖昧に頷く。もちろん岡部の粗野な態度にも驚いたが,それ以上に普段は温厚な一ノ瀬さんが棘のある接し方をしたことへ軽いショックを受けた。

「文芸部ぅ!? あれが??」

 奏ちゃんはそもそも岡部が合宿へ乗り込んできたことに納得がいかないらしい。あからさまに唇を尖らせて不満を表明した。

「文芸部といっても,数ある掛け持ちの1つってだけだよ。あれは意外と多才で,在学当時は気が向くままに籍を置いているサークルの活動にちょっと参加してみてはすぐ別のところに顔を出すなんてことを繰り返していた。どのサークルも熱心に参加していたわけじゃなさそうだけれどね。部誌に作品を投稿した数も片手で事足りる程度だったはず」

「じゃあ,尚更何でそんな人が……」

「腕は確かなんだよ。気が向くまま書いていたから割と感覚は鈍るはずなのに,部誌に載せた作品はどれもある程度の出来を維持していた。その上何度か有名な文学賞の最終選考に残ってプロデビュー目前まで行ったこともあるから,文句を付け辛くてね。言動を注意した先輩がただの僻みじゃないかってあげつらわれたこともあった。それに編集の立場から見ると,さすがに部内一とまでは言わないにしても抜きん出ていることは確かなわけだから,特に頭数が足りない時なんかは戦力として数えたくもなる。社会経験を積めば多少言動も良くなるだろうと期待していたんだけれど」

 それできっぱり断り切れないままなあなあに,というわけか。

 奏ちゃんはまだ溜飲が下がらないようだけれど,一応渉外を担当している身としては一ノ瀬さんの立場も分からなくはなかった。

 合同誌と銘打ち人目に晒す以上,主催者としてはある程度のクオリティのものを作りたいだろう。その確率を上げられる書き手は是非もなく確保しておきたいところだ。それに人の集まりの悪さにも対応しなければならない。個人での作業が中心のサークルの性質上,イベントを企画しても中々集まりが悪いのが常だ。今回事前に一ノ瀬さんから同人F含めたミス研外部の参加者のリストを受け取っているけれど,想像していたよりもずっと少なかった。うちのサークルからの参加人数の少なさを気にかけていただけに拍子抜けしたくらいだ。反面,幹事ならそうした懸念もひとしおだろうとも思う。

「元々そういうやつだから,あいつの言うことを気にする必要はないよ」

 そう言って一ノ瀬さんは土井さんの背中に優しく手を添える。それを見た奏ちゃんは言葉なく意気を落とした。

「……そんな顔しないでよ。漠然と似たようなことは今までにも言われたことがあるから。まあ,面と向かってあんなにはっきり言われたことはなかったけれど」

 奏ちゃんのしゅんとした顔に目を留めたのだろう,土井さんは諭すように微笑みを浮かべる。その心配をかけさせまいとする表情に余計やるせなさを感じ,わたしは気付けば唇を噛んでいた。

 一ノ瀬グループはF県に拠点を置く株式会社「一ノ瀬」が統括する企業グループだ。その沿革は大正期に実業家一ノ瀬大典が地元で始めた炭鉱業にまで遡ることができる。グループにとって大きな転機となったのは,大典の後を継いだ長子大和が戦後の動乱期に不動産業に着手したことである。これが高度経済成長期の地価上昇の時流に乗り,また石油中心のエネルギー事業への転換も乗り越えた結果,大和は盤石な財政基盤を一ノ瀬にもたらした。大和からその長兄大仁の代にかけて潤沢な資金源を背景に企業買収が進み,大仁が「一ノ瀬」を設立したことでほぼ現在のグループ体制が整った。Q大からも,少なくない数の卒業生が毎年入社している。

 その大グループの創業者から数えて5代目と目されているのが,この合宿を取りまとめている一ノ瀬大悟さんというわけだ。

 一ノ瀬さんはK大卒業後「一ノ瀬」に幹部候補として入社しており,近々役職を持つことになると噂されている。もちろん実現すれば同期で一番早い昇格となる。

 地元企業の沿革はともかく何故わたしが現在の「一ノ瀬」の社内事情にこうも明るいのかというと,その5代目の恋人である土井さんから直接伺ったからだ。既に一ノ瀬さんの両親並びに現グループ会長である祖父大仁氏への挨拶も済ませているとのこと。婚約・結婚が秒読みであることも,ひょっとすると昇格の噂に影響があるのかもしれない。

 失礼ながら少し意外だったのは,土井さんがごく一般的な家庭の出身であることだ。2人の出会いも同人Fでのことらしい。今日日手垢のついた偏見かもしれないが,一ノ瀬のような良家の子息というのは結婚相手も自由にできないものだと思っていた。だからわたしはこのちょっとした現代版のシンデレラ・ストーリーを聞いた時には驚いたし感動も覚えた。それだけに,意地の悪い嘲笑を気に留めまいと努める土井さんがいじらしく見える。

「『主に』ということは,彼1人ではないということですか?」

 これまでの道中,自分からはほとんど口を開かなかった松本君の声にはッとした。確かに,一ノ瀬さんや岡部の話しぶりでは他にも面倒な連中がいるような……。

「直に分かるよ」

 一ノ瀬さんは自嘲するように溜め息を吐くと,こちらの反応を伺うこともせず重い足取りで玄関の方へ向かう。発言の真意は測り損ねたものの,わたし達もその後に続いて玄関を潜った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る